matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

普仏戦争と現代 ― はしがきとあとがき ―

 

はしがき

 

 以下は拙著『普仏戦争 ― 籠城のパリ132日 ―』(春風社、2013年刊)の「あとがき」に予定していた論考である。だが、刊行時にこの部分の分量が多すぎて収録できなかったため、全文を削らざるをえなかった。結果的に普仏戦争の現代的意義を説かないまま終わることなり、私は結論なしの著書という思いをかかえることになった。

 そこで、改めてこれをどこかの学術機関「紀要」の場を借りて発表するつもりでいる。中身の基調は削除した論考とほぼ同じだが、旧稿執筆時から時を隔てているため、文章を全面的書きなおした。著書の現代的意義を説くため、体裁は論点摘出して問題提起のかたちをとらせていただいた。現代との絡みにおいて私が本著を通じて本当に主張したかったことが示されているはずである。元原稿執筆は十年以上も前のことで、もはや取りあげても意味ない事がらは削除した。「現代」についていえば、あまりに直近のことで客観的な立場で論じるのはまだ難しいと思われる事がらは避け、第二次大戦および直後までに限定した。

 そもそも、『普仏戦争』は一般読者を想定し、専門書でなく教養書のつもりで書き、難解な表現は極力控えた。その証拠に仏語と独語はほとんど表記していない。しかし、史料および参考文献のほとんどは仏語・独語である。「ノンフィクション」というと、なにかしら歴史小説と歴史の中間的な意味あいを生じるため、ジャンルとしてこの呼称は避けたい。敢えていえば、歴史評論と解していただけるだろうか。しかし、つくり話はゼロで公平な立場を一貫させ、「歴史こぼれ話」の類として読んでいただければ幸いに思う。

 本稿は150年前の過去の戦争をとり扱っているが、現在の東アジアを強く意識して執筆したつもりである。「あらゆる歴史は現代史なり」を私なりに検証してみた次第である。

 記述は極力細部に拘らないよう務めた。遠い過去、しかも外国の事件を書くゆえに、あまりに細部に拘ると論筋が不鮮明になることを考慮し、概史に重点を置いた。したがって、登場人物や地名もよく知られたものに限った。細部を切り落としたため、歴史の機微やリアリティ失ったかもしれない。しかし、過去の諸事実から現代に通用する何からかの要素を導きだし、改めて現在を眺めなおすというのが本稿の目的である。こうして時間軸を長めにとったうえ、史実の骨太の筋立てや論点の洗い出しのほうが歴史の現代的意義を浮き立たせるのに役立つのではないか、と私は信じている。史実の細部に関しては著書のほうをお読みいただければ幸いである。

 

 

 

あとがき

 

 普仏戦争およびパリ・コミューン研究をライフワークにするつもりで単行論文を執筆するかたわら、渡仏(合計13回)のたびに当該研究に関連する場所を査察してきた。図書館や古文書館が休館する日曜日は専らパリ市内の街路探索に費やした。かくて、最終的にガイドブックなしで随意に歩きまわれるようになった。そのかたわら、鉄道、サイクリング車、そして最後はレンタカ―を借りて、仏独激突の戦場を踏査した。普仏戦争では戦場が限られていたため、大部分の戦場を訪れることができ、当初目的を達成できたのではないかと思う。主戦場としてのスダンにいたっては、そのつもりはなかったが、道に迷って結果的に4度も訪れることになった。「怪我の功名」とはよく言ったもので、そのおかげで近辺の地理に明るくなった。

 戦場となったところには必ずといっていいほど近くに墓地と博物館がある。そこにはフランス兵だけでなくドイツ兵の墓標が含まれる。さすがに独仏戦士の区画割りはなされている。悲しいかな! その墓標の林立は壮観そのものである。ヴェルダンを訪れたとき、一面見渡すかぎり拡がる広大な墓標群を目撃した。この町は普仏戦争および二度の世界大戦で攻防戦の舞台となった。高速道路の高みから観望したとき、墓標の鮮やかな白色が嫌がうえにも目に付く。百万を超す石柱がそれこそ整然と幾何学模様に配列されているのである。同じタイプの墓標は文字どおりの「死の前の平等」を表わしている。これは例外であり、普仏戦争のアルザス=ロレーヌ戦線の戦没者の墓地はおしなべて規模は小さく、石柱も雑然としている。

 戦地で斃れても、戦闘の大混乱の最中に遺体を故郷に搬送する手立てがなかったのであろう。不謹慎な言い方になって恐縮だが、戦傷を受けて故地に送還され、そこで家族に看取られながら死にいたった戦士はまだ恵まれていると言ってよいのかもしれない。このような戦士の名は故郷の町や村の教会堂の石柱に刻まれている。教会堂における犠牲者の刻印はどこでも同じである。ひるがえって日本のことを考えると、外地での犠牲者の詳細は未だわからないまま放置されているのだ。これは残忍としか言いようがないのではないか! これは日本人に特有の歴史健忘症の顕れのひとつではなかろうか。

 博物館は規模の大小差はあるが、必ず管理者が常駐している。そこに設置されたパノラマ戦場図に出くわした。そのパノラマ図は戦闘のもようにリアリティを与え、訪問者の戦史理解の扶けとなる。しかし、小さな博物館には必ず昼休み2時間が挟まり、閉館の時間が午後4時と早く、私のような旅路を急がねばならない訪問者にとっては不つごう極まりないものだった。スダンやストラスブールなどの大規模な博物館を例外として、そこを訪れる者はほとんどいない。時折、子弟を連れ立った家族に出くわすこともあった。一家の主が熱心に息子や娘に展示物の解説をする。さすがに、歴史好きのヨーロッパ人のことはある。

 こうした臨場感は他の何ものにも代えがたい収穫となった。私はその代償も避けえなかった。巡察途中で自動車事故により街道沿いのレストランに突っ込んだり(自動車全壊するも、被害者側の損害軽微ですべて保険で賄う)、パリ近郊要塞16か所を撮影していたとき官憲に咎められ、要塞内部に半日も捕らわれの身となったり、環状高速道路に自転車で突っ走って、対向するトラックから警報を食らったり、挙句の果てに、慣れ親しんだゆえに日本に送ろうと思っていたサイクリング車の盗難に遭ったりもした。現地踏査で得た感覚は貴重である。険阻な山坂のくり返し、飲料水不足による喉の渇き、雨中行進の辛さ、寒天下の移動の難儀など、往時の戦士たちの飢えと苛立ちを共有できたものと信じている。

 本稿を通じて軍事史の一部は解明できたが、経済史、社会史、政治史、文化史の面はそれほど深く考察できなかったのが悔やまれる。それらの連関の解明の重要性を提起する目的を懐きながら、中途半端な記述に終わったことが心残りである。だが、老齢の極みにきた今、その課題に取り組むには筆者にはもはや無理な注文であり、後進に任せるより致し方あるまい。

 しかし、軍事史一辺倒の戦争史のカベを少しとはいえ飛び越えることができたのではなかろうか。これが後進への一助となれば幸いの極みである。