matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

第16編  講和条約とパリ・コミューン

 

 仮条約は本質的な外交行為である。本条約の交渉はブリュッセルで始まり、次いでフランクフルトでの条約の調印でもって1871年5月10日に達成された。これと平行して仏独両政府は動員解除の手続きに移る。思いがけない事件があらゆることを混乱に陥れた。それは1871年3月18日のパリにおける革命とコミューンの宣言である。内乱は、謀反のパリとヴェルサイユに戻ったティエールの政府とを敵対させた。2ヵ月間、雰囲気は奇妙である。すなわち、一方で、ティエールはドイツとの和平交渉に没頭し、他方ではパリを陥れるために彼は軍隊の再動員をなし、敵からの好意を獲得しなければならなかった。外戦に引き続き、ドイツ軍の不安気であるとともに厳しい監視のもとでの内戦が始まったのである。

 

 

第1章    戦争状態の終結

 ビスマルクは4~6週間で本条約に行き着くつもりでいた。フランス滞在を延期する理由が何もなくなったため、ドイツ首脳部はベルリンに急いで戻った。占領地での状況がドイツ人官僚の帰国を急がせたのだ。ティエールはティエールで、フランス全土における彼の権威を速やかに回復することを欲した。ドイツ軍が撤収するやいなや、内務大臣はすでに、代わって役目を果たすべき知事や郡長の指名作業にとりかった。

 3月7日、ヴィルヘルム一世、ビスマルク、参謀本部長はヴェルサイユを離れ、フェリエールに移動した。13日、彼らはラニーで列車に乗る。3月15日、新皇帝は45分間ほどメッス駅に停車する。彼は101発の祝砲で迎え入れられた。ヴィルヘルム一世が8ヵ月に及ぶ不在ののち首都ベルリンに帰還したのは3月17日のことである。

 占領軍(およそ50万人がフランスの領土に残っていた)の総司令官はフォン・ファブリスというザクセン人の将軍に委ねられた。フランスの閣僚たちと仮条約の実行交渉を担当したのは彼である。かくてフェリエールとルーアンでの2つの協定の調印にいたる(3月16日)。フォン・ファブリスと大蔵大臣プイエ=ケルティエの交渉で妥結した後のほうの協定は50万のドイツ兵の駐留費用を定めた。フランス政府はそれを引き受け、1人当り1.75フラン、馬1頭当り2.50フランを払うことになった。この合意がなったため、ドイツ人官僚、税負担、金銭または現物での徴発という占領体制はすぐに終わった。ドイツの総督は食料調達の責任を帯びたが、兵士はなお住民の住居に寝泊まりした。なぜなら、公共的場所は彼らを受け入れるにあまりに狭かったからだ。郵便・電信・鉄道は占領軍の必要に優先権を与えるという条件でフランス当局に渡された。総督統治は破棄され、『官報』は発行を停止し、ドイツ人の知事は退去する。

 ドイツ軍はロワール地域とパリ盆地南部から撤収した。同軍は3月7日、モン=ヴァレリアンを含むパリの南部に位置する要塞から撤退したが、首都を監視するため東部と北部の要塞には残った。サンスにおいてドイツ軍は病院と倉庫を撤収した。フランスの鉄道は3月15日に回復。サンスの町は133日間の占領を受けたことになる。フランスの民事行政は、ドイツ軍が引き揚げたのち3月の後半に(郵便については3月24日)戻されることになった。セーヌ北方に位置する地方の「後備軍」は撤退し、正規軍と交替することになった。マルヌ県ではヴュルテンベルク軍が駐留した。いたるところでドイツ軍は電信利用を監視するという権利を保持した。マルヌ県で知事および郡長が本来の職務を履行できるようになったのは4月中のことである。

 首都への往来は自由となる。議会と政府はボルドーからの撤収を決めた。国民衛兵が起こす永続的な扇動に危険を感じたのだ。人心が鎮まるまで議会と政府は、ドイツ軍が明け渡したばかりのヴェルサイユを臨時の公権力本拠地にすることにした。この決定はパリ市民には一種の挑戦と受けとめられた。

 正常の行政再建は、占領地域はいうに及ばず、少なくとも被占領諸県にも必要だった。保守派の議員は、ガンベッタが指名した知事と郡長と保守派議員が排除された市委員会を敵視した。保守派議員は彼らの全員更迭を要求する。だが、ティエールは非常に慎重に対処した。彼は旧帝政派およびオルレアン派の官吏の中から、名こそ知られていないが融和的な人物を登用し、和平派の穏健な共和主義者を留任させた。

 

 

第2章    動員解除

 次に問題となったのは遊動兵と国民衛兵の復員であり、これは緊急を要した。これは事態の沈静化と通常活動の回帰の鍵を握る措置となった。緊張の中心はパリである。ここに動員兵の集中が見出だされた。

 最初の微妙な作戦は成功をおさめた。それというのは、ガリバルディ軍の外国人大隊を解散することだった。パリ選出の議員となっていたガリバルディはボルドー議会によって議員就任を拒絶され、2月14日にイタリアに帰った。大臣はこの作戦をうまく展開させるため、シャロン=シュル=ソーヌにプノー提督を派遣した。1871年2月末に、ほとんどのイタリア人とスペイン人は何らの問題を起こすことなくそれぞれの国境方向へ送り返された。

 1871年3月の初め、地域の訓練所の解散に着手された(3月7日)。各軍において軍団長は国民衛兵を各家庭に戻すよう命じられた。西部、北部、リヨン周辺ではこの作戦は何ら障害なく迅速にとりおこなわれた。ベルフォールの守備隊はグルノーブルで3月9日に解散させられた。

 1870年9月以来、北部軍に属していたガール県の遊動兵ルイ・ジャンスールはダンケルクを2月19日に出港し、21日にシェルブールに到着。彼の連隊は3月17日にバイユーで解散された。その翌日数人の友人とともに彼は歩いてニームに向けて出発。37日間の宿泊ののち彼は4月28日に無事そこに到着した。彼は9月11日にユゼを後にしたのだ。パリでは地方出身の遊動兵は除隊、武装解除され、街路に溢れ、故郷に帰ることのみを要求した。鉄道線がまだ不正常にしか機能していなかったため、軍団は首都を歩いて離れ、遠くで列車に乗り継ぎ、解散地点に到達した。たとえば、ピカルディの遊動兵(大隊1,200人のうち壮健な750人)は3月7日にパリを離れた。彼らは3月11日、ポン=レミーに到着し、ここで大隊は解散した。9月12日にパリに到着したフィニステールの遊動隊は3月10日に「故郷に帰るために」首都を離れた。シャルトル、オルレアン、エヴルーを目指した3個の縦隊はパリを3月15日に出発した。こうした出発にもかかわらず、首都の状況は爆発寸前の状態を迎えていた。もしセーヌと隣接諸県の遊動兵が簡単に解雇されていたならば、政府は30万の国民衛兵を編成させたであろう。謀反傾向があり不服従の集団は武器、特に一度として用いられることのなかった大砲を保持していた。軍は20区中央委員会のもとで組織された。議会と政府に対峙する事実上のこの権力はプロイセン軍と戦わなかったことをいたく残念がっていた。

 1834年の「トランスノナン街の虐殺者」という異名をもつティエールは、国防政府の「3人のジュール」と並ぶ嫌われ者だった。だが、ここでの主題は新たにパリ=コミューンについて論じることではない。われわれはそれについてウィリアム・セルマンの名著に譲りたいと思う。普仏の紛争がコミューンの発生と展開にどの程度の役割を果たしたかを検討することがここでの主題である。

 国民衛兵の武装解除はパリに対する政府権威が回復する前提条件であった。そのため、なんとしてもモンマルトルの大砲の接収が必要だった。これらの大砲は籠城期に鋳造され、その費用は市民の募金でもって賄われた。よって、これらは正規軍に帰属しないため、プロイセン軍に引き渡されなかったのだ。何度か繰り返してヴィノワ将軍の軍隊はこれを接収しようとしたが、そのつど失敗に終わる。急襲を恐れた国民衛兵は大砲をモンマルトルとビュット=ショーモンの丘上に引き揚げ、厳重な監視下におく。虚勢を張る彼らは、プロイセン軍が占拠する北部要塞に向けてこの大砲を並べおいた。重大事件が発生する危険はあったのだろうか。予めそれを否認することはできない。何も生じなかったことは後で示されることになろう。ティエールはこの大砲の存在に怒り狂っていた。これを取り戻すことはパリに対しての決定的要素となるだろう、と。

 状況は依然として不確実であり、日常生活は困難であり、町はいつもの活気を取り戻していなかった。捕虜生活から復帰したバライユ将軍は17日の夕方、北駅に到着した。彼は2日間旅行をし、次いでブリュッセル~パリ間を移動するのに13時間かかった。

 

 「列車を降りると、ひとっ子一人、一台の馬車もなかった。ああ何ということだ! わが往年のパリ、陽気でキラキラ輝いた、活気に満ちたパリはどこへ行ったのか! 凍りつく夜の真直中を横切るとき、パリは死の町に似ている。街灯は20基に1基にも足りない割合でしか点灯していない。数まれな通行人は足早に歩くが、みな、腰に刀を差している。彼らが籠城中ずっと携帯していたすべてがこれである。」

 

 動員解除は戦争捕虜の交換と帰国を意味した。スイスとの交渉は迅速だった。なぜなら、スイスは国と住民にのしかかる重い負荷から免れることを希望していたからだ。3月13日から27日にかけて拘禁されていた9万の兵がヴェリエール、ジュネーヴ、トノン、エヴィアン、ディヴォンヌを経由して帰国した。傷病者のみが残った。彼らは遅れて帰還することになる。フランスはスイス当局に1,200万フランを支払った。武器と大砲は夏の間に返還された。

 重要なことは、ドイツに勾留されていた大量の捕虜が帰還したことである。将校は自由の身であり、望みさえすれば自費でフランスに帰国することができた。第一団は3月10日ごろに到着。兵卒に対しては帰国の計画を立てること、護送団を組織することが必要だった。それは、数週間はかかる長期の計画となった。

 

 

第3章    3月18日の事件

 国民議会はヴェルサイユで初会合を3月20日にもつ予定でいた。議員に権威を示そうと欲したティエールはパリに対し何らか勝利をおさめる必要を感じた。少し前に国民衛兵の最高司令官に指名されたヴィノワとドーレル将軍に対し、問題の大砲を接収するための作戦行動をとるよう指示したのはティエール自身である。両将軍は気が進まなかった。なぜなら、確実な軍隊と牽引道具をもっていなかったからである。にもかかわらず、彼らは従うことにした。

 3月18日の払暁、正規軍はモンマルトルとビュット=ショーモンの丘に登り、大砲の移動に着手した。やがて街区でニュースが流れはじめる。自然発生的に国民衛兵が集まり、将校を脅し、丘への登り口を封鎖し兵卒と交歓しようとした。正規軍は包囲された。失敗に終わった。オルセー河岸に陣取ったティエールは、すでに数の足りなくなっていた兵力ではむりと判断する。午後、彼はパリの放棄を決定し、ヴェルサイユへ向けての撤退を命令した。ジュール・フェリーは市役所に居残ることを希望した。ルーヴルにいたヴィノワ将軍も同意見だった。国民衛兵の忠実な部分でもって1870年10月31日の作戦行動を取りえた可能性があったであろうか。彼らの意見に耳を貸さないティエールは決定を翻さなかった。同じころ、それまで何ら役割を演じなかった国民衛兵20区中央委員会は会合を開き、運動を調整しようとする。市役所でジュール・フェリーは、謀反が津波のように押し寄せているにもかかわらず、そして、東部出身の国民衛兵がパリの主役であったにもかかわらず、区長らと協議していた。国民衛兵は降伏派の将校と将軍に対して反抗した。午前中のうちにモンマルトルの衛兵らは、大砲接収の責任者の一人ルコント将軍を逮捕した。臨時の牢獄において彼は国民衛兵の元司令官クレマン・トマといっしょになった。彼は街路でそうと認められたのである。その日の夕方、憎悪にたぎる群衆に取り囲まれた「人民法廷」は彼に死刑判決を下す。出来事を予測していたモンマルトル区長ジョルジュ・クレマンソーは現場に急行し、これを防止しようとする。到着が遅かった。2将軍は壁に括られ銃殺された。パリの他街区ではボルドーから戻ったシャンジー将軍は事件について知らないまま列車から降りたところを副官とともに逮捕された。彼らは群衆に揉みくちゃになり、叩かれ、侮辱され、投獄された。獄吏がルコントとトマの死去を知らせたとき、自分らも最期の時期が来たと観念した。

 以前のパリの諸事件すなわち大革命の事件 ― その思い出はなおまだ強烈に残っていた ― と比較すると、3月18日の諸事件は二重の意味で特異だった。つまり、3月の事件は政府の2つの決定―軍事的なものと財政的なものとの―の直接の帰結であったことだ。

 ティエールはかの大砲の接収を、次いで国民衛兵の武装解除を決めていた。この必要措置は平和的に遂行しえたのであろうか? 成功するためには、憤慨を和らげることを優先しなければならなかった。しかし、実際に取られた措置は逆行するものとなり、国民衛兵を合法政府への反抗に向かわせることになった。2つの大きな原則は手形支払猶予令と家賃支払猶予令の失効と国民衛兵への給金支給の廃止である。この給与こそ、雇用が回復しない状況下で労働者世帯の唯一の収入源だったのだ。いくつかの補助的な出費を犠牲にしてまでも戦争の社会保証を継続しなければならないことを理解しなかったため、ティエールと議会は予測せざる、常軌を逸した反応を招いたのである。厳格さと無理解が叛乱を招いたといえる。

 反抗が暴動にいたったのはなぜか? ティエールのパリ放棄に発するとの解釈がなされてきた。3月18日は1870年10月31日または1871年1月22日とは異なり、合法政府はもはや首都に武力をもたなかった。正規軍は弱体で、その一部は指揮官を失っていた。ジュール・フェリーが10月31日に市役所内に引き入れた、連盟に属さない国民衛兵、つまり西部出身の衛兵はもはや干渉できなかった。大隊は作戦を展開する能力をもたなかった。兵士らは動員解除されたか、または戦う気をもたなかったのどちらかだった。権力は丸裸だった。予測せざる反抗は政治的な広がりをもったため、フェリーが脅威の圧力を感じ最後の段階で撤収した市役所を除き、権力には本拠地がなかった。一方、多くのパリ市民には諸事件の重大さの自覚がない。西部街区と左岸街区は平穏なままであり、列車は運行し、新聞はその翌日も発行された。一方、ヴェルサイユとパリの間の談判は続く。ティエールがいかなる妥協も排する決意でいたことはまったく疑う余地はない。彼の目には2人の将軍の殺害者は暗殺者と映る。彼らといかなる妥協も不可能と見なした。パリ選出の代議士およびクレマンソーに代表される区長らのあらゆる試みは彼の不退転の決意を翻意させることだった。ティエールの友人があらゆる手段を尽くして救おうとしたシャンジー将軍の不幸でさえ、ティエールの堅い意志を変えるにはいたらなかった。「わたしはティエール氏からも閣僚からも何も得ることできない」と、ティエールの義姉は絶望的な気持ちで心境を書きとめている。

 叛乱の国民衛兵は反軍国主義者ではない。将軍らに対する彼らの憎悪には理由があった。つまり、旧軍将士たちが「降伏派」であったからだ。この理由のゆえに幾人かの士官はコミューンに味方した。そのなかに、ブルゴーニュとフランシュ=コンテで戦った臨時将軍の肩書きをもつカミーユ・クレメールがいる。彼はヴェルサイユへの撤退命令にもかかわらずパリに数日間残り、同僚のシャンジー将軍の救出のために尽力したが、やがて自分が出口のない悲劇の入口に迷い込んでいることを知る。

 もうひとつのケースはルイ・ロッセルだ。われわれはこの人物にメッスの悲劇の真直中で会ったことがある。ガンベッタは彼を北部に派遣し、次いでネヴェール兵営の工兵隊長に任命した。彼が敗北の冬を経験したのはそこにおいてである。むろん彼は戦いのために全力を尽くし、セヴェンヌ城への撤退を夢見た。「われわれセヴェンヌ人は組織再編をおこない、国を再征服するために最上の城である。」ティエールの政権掌握、議会による仮条約の批准は破局の連続だった。彼は途方に暮れる。「私は和平条約でもって精神的な立ちなおりをしようと試みたが、ついにそれに成功しなかった」、と彼は3月18日に姉に宛て書く。3月19日、彼は軍を辞職する。「かくも臆病にもフランスを引き渡してしまったこの集団を恐れた。」これは純粋で愛国心に満ちた、絶望的な態度である。ルイ・ロッセルは3月21日にパリに到着し、コミューンに奉仕しはじめる。

 3月18日の事件は戦争の直接の結果である。その奥深い起源はもっと以前に溯る。ひとつの渇望がその起源を要約する。6ヵ月前からしばしば人の口にのぼったのが「コミューン」という言葉である。このマジックのような言葉は、フランス人を苦しめるあらゆる災難に対する万能薬の響きをもった。それは、過去のいろいろな歴史的思い出に根源をもつ。1871年3月、それは指導階級の権力の拒絶を意味する。共和主義的な雑多な政治的含意をもつ。それはまた自治原則に基づく民主主義の組織化――そこから国民の再構成が始まる――の意思をも含意する。フランスはコミューンの自由な連邦にならねばならないというのである。

 コミューン宣言は底辺の運動、自由と解放――籠城期にパリ市民の一部から奪われた――へのメシア的希求に由来する。1870年9月と1871年2月のあいだ、住民は待機・無為・窮乏・無力感を実体験してきた。戦いを希望する国民衛兵はほとんどか、あるいはまったく戦闘を経験しなかった。彼らはプロイセン軍の撃退を欲したが、政府は彼らを戦闘から遠ざけた。これこそ、彼らの政治家たちと士官団に対する憤激の根源をなす。彼らは恥辱の和平を味わう。正規軍を利することにつながる武装解除を命じられた。パリ民衆に対するあらゆる弾圧の道具たる正規軍の士官たちに対し軽蔑をもっているにもかかわらず、である。今まで見てきたような困難な状況のもとで権力と国家威信の弱体化が進んだことは、党派的にして無政府的で計画もなく混乱に満ちた叛乱を、コミューン評議会の選挙による普通選挙への訴えといたる政治運動に変容させるのに十分な理由となった。

 パリの蜂起とコミューン宣言は中部および南部フランスで反響を呼んだ。この地域は12月2日のクーデタに反抗したことがあり、また1870年9月4日の革命後にも動きを示した地域であった。ジャンヌ・ガイヤールが示したように、コミューンはパリの現象であるどころではなかった。3月18日に続く日々、クルーゾ、グルノーブル、リモージュ、ニーム、ペリグー、ペルピニャン、ボルドーで左翼は蜂起するか、またはパリへの連帯を表明する。無秩序状態がいっそう深刻になったのはリヨン、ナルボンヌ、マルセーユ、サン=テチェンヌ、トゥールーズである。トゥールーズでティエールが知事を更迭したが、状況は数日の間、彼の思惑を外れた。リヨンで叛徒によって交替させられたのは知事であり、赤旗が街に溢れた。2日間で軍隊が街を制圧した。1871年4月30日と5月1日にもバリケードが築かれた。

 独軍占領地と西部フランスでは叛乱の企てこそあったが、愚行として退けられた。パリの叛乱はティエールの努力を妨げ、フランスの信用を失わせ、ビスマルクに弾圧手段を与え、国土解放を遅らせることになった。

 ヴェルサイユへ逃げ帰ったヴィノワ軍は再編成と増強を要した。同軍は1万弱にすぎなかった。連盟兵のほうは勝利に驚き、南部の要塞を占領した。モン=ヴァレリアン要塞は奇跡的に彼らの占拠を免れた。連盟兵は籠城期の習慣を取りもどす。彼らは衛兵を城砦に配置し、訓練を施し、弾薬・武器・制服の製造にとりかかる。今度は、正規軍の保護はまったく期待できない。正規軍は攻撃準備を急いでいた。ルイ・ロッセルのような反乱側についた職業的軍人の幾人かはこれを警戒した。まとまった集団の指揮官を集めたり、訓練の真似事をしたりすることは不可能であった。国民衛兵は籠城の間にいだいた幻想に固執していた。彼らはビュザンヴァルの殺戮から何の教訓も引きださず、ヴェルサイユへの進撃を試みた(4月2日)ものの、たちどころに敗走を強いられる。

 このとき交渉は断絶した。いかなる和解の試みも不可能と思われた。ティエールがそれを突っぱねたからだ。彼は叛徒に対する軍事的勝利を願い、捕虜生活から帰ったばかりのマク=マオンをヴェルサイユ軍総司令官に就けた。この元帥の就任は保守派を安心させたが、彼らは積年の経験から、文官に対する元帥の忠誠を知っていたのだ。マク=マオンの指揮のもとにティエールは正規軍を再集結させた。士官団の政治的立場は多様であったが、コミューンが指し示す事柄に根本的な敵意をもっていた。ティエールはその背後に政治家たち、なかんずく1870年の8月~9月にあまりにも軽はずみにパリの国民衛兵を武装化させた者たちも従えていた。サン=セバスティアンに滞在していたガンベッタのようにティエールを認めないか、または反対した者たちは沈黙ないし無力感に閉じ籠った。他の文脈においてティエールは作戦行動を展開しはじめる。つまり、バゼーヌが1870年9月におこなったように帝政のためにではなく、保守主義の共和政のための作戦行動を、である。コミューンのあらゆる要求を退けるために、ティエールは4月30日に市議会選挙を組織する。投票は平穏のうちに実施され、選出された市の権威にとって代わる。全体としてみると、2月の投票よりも共和派の退潮が特徴的である。しかし、リヨンでは36の議席のうち共和派が28を占めた。

 コミューンに対するこの選挙と、その後に続く戦闘は新聞と世論の関心を仏独紛争から反らせる結果となった。あらゆる捕虜が帰還したとき、戦争に割かれていたページは占領されざるフランスに振り向けられることになる。

 

 

第4章   コミューンを前にしてのドイツ

 右岸の要塞からプロイセン軍は嘲笑しつつも、一方で不安気な面持ちで事件を見守っていた。ベルリンから戻ったビスマルクはパリの叛乱に驚かなかった。彼はパリ市民のデマゴギー、幻想、錯乱に憤慨する。それと同時に、中央集権化の行きすぎに対するいくつかの要求に理解を示した。むろん彼は叛徒の敗北を願っていたが、これをティエールに対する圧力としてりようしようとつとめた。2・3日の間、ドイツ首脳部は状況を憂慮し、干渉を唱える者も現われる。皮肉ないし軽蔑を込めた言葉が流布する。じっさい、ドイツ軍が干渉するのは問題外であり、これは断念せざるをえない。つまり、血みどろの、しかも勝利の便益も不確かな市街戦に巻き込まれることはばかげていた。モルトケはパリ市民との市街戦を避けることに賛成であり、今や相手とすべきはティエールであると考えた。

 ただちにティエールの政府は麻痺し、権力は弱体化し、利子率は最低にまで落ち込む。仮条約がなった時点では短期ですむと見込まれた交渉は長引くことになった。ビスマルクは批判、脅威、圧力を交互に絡ませながらもティエールの政府を支えることに賛成であった。ティエールはティエールで、最も控えめなかたちのドイツ軍の支持を必要とした。ビスマルクは、ロワール川以北に駐留するフランス軍の軍勢について仮条約条文が4万としていたにもかかわらず6~8万に、のちに10万に増やすことに同意し、さらに捕虜将兵の返還を急いだ。これは、コミューンの即興の国民衛兵に対峙しうる軍隊である。

 3月末、約8万の軍隊がヴェルサイユ周辺に集まり、サトリーの兵営で訓練を受けた。北部要塞を占拠していたドイツ軍は内戦の観戦者となった。コミューン派のクリュズレ将軍はホルシュタインとフォン・ファブリス将軍と連絡をとり、連盟兵と占領軍で起こりうるあらゆる不測の事態の回避に成功した。

 主要な前線は南部であった。北部と東部でドイツ軍がパリへの食糧の持ち込みを認めたのに対し、いくつかの小競り合いが生じたのはこの南部である。パリは今度は飢えに苦しまない。4月中旬、最後通牒はもはや発令されなかった。しかし、ティエールは躊躇し、逃げ口上を使って総攻撃は時期尚早と見なす。ビスマルクは、フランス政府がドイツ軍の援助がなければパリ住民に打ち勝つことができないことを認めたがらないティエールを見ておもしろがった。モルトケはモルトケで、フランスの混乱と軽はずみをつねづね軽蔑していたが、あらゆる事に手を出すフランス政府の首領の軍事的能力を皮肉の目で見つめていた。彼はマク=マオンが叛徒に簡単に勝利をおさめることを妨げるつもりでいた。そうではあってもドイツ軍の利害はティエールとヴェルサイユ軍を支えることにあった。コミューンはフランスの国内問題であって、ドイツ軍は巻き込まれてはならない事件である。彼らの見るところ、絶対的に必要な弾圧でさえフランス人に任せねばならない。そうなれば望外の圧力手段を手にすることになる。このときのティエールの地位低下を利用しないのはまったくの愚挙としか言いようがなかったのだ。

ヴェルサイユ軍が集結している間、仏独交渉は中立国ベルギーのブリュッセルで再開された。なおまだ懸案となっていたのは次の2つの重要事項の処理であり、これにより本講和条約を整えることができた。すなわち、戦争賠償金支払に関する条項と国境の確定がそれだ。フランス側の交渉官(外交官と軍の代表)は自由裁量の余地をもたないだけでなく、ほとんど指示を受けていなかった。なぜなら、ティエールはパリ再征服の準備に忙殺されていたからだ。交渉官は手探り状態で交渉を始めた。ドイツ代表は彼らを焦らせ、フランスがおかれた不利な地位を利用して利益を引き出そうとつとめる。ロレーヌにおいて与えるべき領土はベルフォール要塞の周囲だったが、その範囲が未定であって、それを確定しなければならない。当初、ドイツ側は要塞の5キロメートル圏を提案する。フランス側はこのばかげた提案を拒絶。なぜというに、もしそうなれば要塞はドイツ軍の大砲の射程範囲にとどまることになるからだ。フランス側はライン川とローヌ川を結ぶ線、つまりフランス語住民とドイツ語住民間の地域の境界線を含むもっと広い地域を要求した。このような境界線のみが受諾できる最低線であった。ベルフォール周辺の領土の拡大はロレーヌ州の譲渡を仮想させた。そのことは、重要な経済的権益つまり、鉄と金属鉱山の権益、言い換えれば、その他の条項のもとでの1世紀間も続くことになる権益に抵触した。フランスはその鉱山と金属の潜在力の明らかな切除を受け入れることができるだろうか?

 新ドイツ国家に関して言えば、そのライヴァルを無一文にし、自国の領土内に、固有の産業のための困難の原因となりうるところの工場を含ませるのは利益に適うことだろうか? 所与の条件を想起してみよう。ドイツはフランス側と何ら協議することなく、当時認められていた鉄鉱山の鉱脈と主要な金属工場(アルス、モユーヴル、エヤンジュ)の大部分を獲得した。ドイツはいまやその利得を、ルクセンブルクの国境を閉鎖することによりペイ・オの西部に拡げようとする。ドイツの主要な専門家は鉱山主のヴィルヘルム・アウヘコルネだった。1870年9月以来、彼は鉱山と金属工業問題に関し、確実な資料を作成していた。フランス側の軍事委員ロセダとドゥトルレーヌはベルフォールの解決案に反対であり、ペイ・オの村を一つずつ守った。2人の相手をしたハウヘコルネは頑固であるとともに、事情によく通じた人物である。相談を受け、舞台裏から干渉してきたザールの実業家たちは曖昧な態度に終始する。彼らは、鉱山の譲渡を削減しようとするフランスから代替物を取ることを望み、それと同時に、ゾルヴェラインつまりヴェンデルの樹立における未来の完成が彼らにもたらすであろう競争関係を憂慮した。この競争の懸念がザールの金属業者シュトゥムンに、ゾルヴェラインのヘヤンジュとモユーヴルの除外を要求させるにいたる。この方向での覚書は1871年3月20日にデルブリュックに手渡された。こうした躊躇を知らされたヴェンデル一族は好機をつかむ。彼の代理人ガルガン男爵はビスマルクに一通の覚書を送った。それによって彼は、2つの工場(1869年時点でゾルヴェラインの鋳鉄の10パーセントを占める)の併合は結果として不吉な過剰生産と価格の崩落をもたらすであろうことを示した。フランス側の交渉官は明らかに有利となり、ドゥトルレーヌは会合で権利の返還要求を提示した。ドイツ側は答えて曰く。あらゆる権利返還は鉱脈に関する補償を要求する、と。ビスマルクは一枚のカードを求め、内容こそいまだ分からないが、あるいくつかの指示を与えた。ドイツ側の態度硬化に直面してドゥトルレーヌはヘヤンジュを諦め、全力を挙げてモユーヴルの保持につとめた。ブリュッセルから戻ってきたばかりのガルガンは自分の所論を力説した。

 もう一つの経済的な事柄が交渉の焦点となった。彼らドイツ人は、ドイツ市場において穴埋めとなる同等のものを見いだすことなく、かつての供給者とフランス市場から残忍にも切断されることを恐れた。ビスマルクは彼らの要求についてかなり気を配った。というのは、ビスマルクはこれらの実業家たちに計算づくの厚情を示したからである。フランス側ではまだ引き渡されない注文品への開放はいうまでもなく、他の残りの注文品にとっても傾向は非妥協的であった。最初の兆候がアルザス人に急を告げた。保護主義者のプイエ=ケルティエとティエールは1871年3月28日に税関通達を発令し、フランス市場の事実上の閉鎖を告げた。すなわち、アルザスはもはやフランス領ではなく、国内産業にとって最も有利な結果をそこから引き出さねばならない、と。これを知ったベルリンはすぐに抗議し、本文の削除を要求。フランス政府は通達を回収しなければならなかった。だが、それは、政府がアルザス人に特権的な市場を与えることになる過渡期への敵意を示したことを妨げるものではなかった。これらの突発事にビスマルクは不満であり、彼は態度を硬化させる。彼は4月25日以前に相当額の賠償金の支払いと、50億フランの賠償金を現金で支払うよう要求した。彼は商業的プランに基づいて、ドイツが最恵国待遇を受けるべきことを欲したのである。ドイツからの厚意(なおまだドイツの支配下にある鉄道を使っての軍隊移動を確保すること)を必要としたティエール政府はあらゆる面で譲歩を余儀なくされた。

 

 

第5章   フランクフルト条約

 1871年5月初旬、決着を急ぐビスマルクはフランクフルトで首脳部会談をもちかけた。ティエールはこれに同意した。にもかかわらず、彼はヴェルサイユでの仕事を理由に単身でのドイツ行きを断念し、全権大使としてジュール・ファーヴルを、補佐官としてプリエ=ケルティエを派遣した。ファーヴルにとってビスマルクとの会見はこれで4度目である。ドイツ宰相は妥結かさもなければ決裂かの決意で、事を一挙に解決しようとした。ファーヴルは決裂を望まず、交渉を成功裡に終わらせることに同意した。4日間ですべてが終わった。条約は5月10日に調印された。

 大胆であるとともに偉大な政治家たるビスマルクはベルフォールの範囲についていくらか譲歩し、ジロマニー渓谷とバロン・ダルザスへの接近路の確保に同意した。ロレーヌの領地についても要求を少なめた。プイエ=ケルティエの懇願に対し、ビスマルクはルクセンブルク国境を半ば開き、クリュスヌ、ティエルスレ、ティル、ユシニー、ヴィレリュプトの各コミューンをフランスに残した。その代わり、モユーヴルの製鉄所はドイツに渡された。領土的にそして人口的にみて、この交換はフランスにとって有利だった。マルス=ラ=トゥールを除く12の市町村がロレーヌに残ったが、ヴィルヘルム一世はこれに大いに不満だった。10928ヘクタール、7850人の住民と、31105ヘクタールと26936人の住民が未来のベルフォール領に含まれることになった。

 もうひとつの不一致点はアルザスの工業家たちの要求に関してである。ビスマルクは考慮することに同意した。フランス側の故意の言い落としを前にして1871年9月1日をもって自由往来が承認された。この微妙な問題に関して論争が始まる。

 ドイツでは条約の調印は大いなる満足をもって迎え入れられた。官報、官吏その他はビスマルクの外交手腕を祝福する。いかなる将軍も戦場で獲得した賭博台を失ったことを理由に彼を非難しない。ヴィルヘルム一世は彼に君侯の資格を与え、多額の年金と、エルベ河畔のフリードリヒスルーエの領地とザクセンの森(ザクセンヴァルト)の一部を贈呈した。モルトケとフリードリヒ=カールの軍首脳は最高の叙勲、すなわちフェルトマーシャルの爵位を受けた。遅れてプロイセンのローン、マントイフェル、アルブレヒトらも同じような栄誉に浴した。

 ヨーロッパで、フランクフルト条約の調印は新帝国とその宰相の卓越した地位の叙階として受けとめられた。フランスでは本質的な点は仮条約ですでに決められていたため、非常な控えめな態度で受けとめられた。地方の新聞を検討すると、それらはコミューンの諸事件と国内政治の論争のほうに関心が集まっていたことがわかる。講和条約の妥結はただちに占領軍との関係を緩める。5月11日以来、マク=マオンとボレルはフォン・ファブリス将軍と会見し、北方からのパリ攻撃の計画を取りやめた。

 最後の仕事が残った。すなわち、国民議会による批准である。仮条約に賛成票を投じた多数派は最後まで進まねばならないことを承知していた。5月18日以来、討議が始まった。数時間で批准は完了。答弁を引き受け、承認を要求したティエールは二段階の投票に取りかかる。第一段階はベルフォールとロレーヌの交換であり、第二段階は本文全体である。モー子爵による報告書朗読ののち討議はロレーヌとベルフォールの交換に移る。ティエールはベルフォールのために演説し、ダンフェール=ロシュロー中佐の時宜を得た檄に支えながらその理由を力説する。彼の精神のなかで戦略的条件が決定的だった。侵入に対してブルゴーニュの門を閉める必要がある。ロレーヌの金属工業の貴重な利害関係はこの必要性の前に譲らねばならない、と。いく人かがそれを放棄したがゆえに彼を非難するロレーヌの鉄の擁護者に対して、ティエールは次の銘言を投げ返す。

 

 「諸君の自由意思に任されている交換に関していえば、諸君、われわれがそこにもつ工業的利益は大して価値がない。…[中略]…鉄はフランスのどこにでもある。スウェーデンにもある。東部における金属産業の繁栄は永遠に続くことのない単なる幻想である。」

 

 交換は440票対98票で可決された。このことは、純粋に経済的な動機が、すなわち、人があまりにも頻繁にそれに与えがちな決定的な影響力をもたなかったことを示している。当時は、だれも20年後に発見されるロレーヌの地下資源について疑いをもたなかったことを想起する必要がある。経済的賭金を熟知していたビスマルクはビスマルクで、絶対的な優先権をそれに与えたとは思えない。ヘイヤンジュ、モユーヴル、アルスは仮条約ですでに獲得されていたことは事実である。条約本文に関する第二段階の投票は最初のものと似た結果になった。つまり、433票の賛成に対して98票が反対である。反対票のなかにシャンジー将軍が含まれる。ヴォージュの議員たちと、割譲される諸県の議員らは投票を棄権した。

 フランクフルト条約は仮条約の諸条項を確認し、細目化し、あるいはしばしば悪化させた。

 領土条項がもっとも厳しかった。ドイツ帝国に編入されたのは面積で144万7千クタール、1694市町村、159万7千人にのぼる。バ=ラン県とオ=ラン県(ベルフォールを除く)、サールグミヌ、メッス、ティオンヴィル、サールブール(9市町村を除く)の諸郡、シャトー=サンリス(10市町村を除く)、ブリエー郡の11市町村とザールとシルメックのヴォージュのカントン。

失われた領土において工業的と並んで農業的潜在力があった。そのぶんだけドイツを富ますことになる。フランスはロレーヌの小炭田を失ったが、当時にあってはその鉱山潜在力の20パーセントでしかなかった。そして、ヴォージュ渓谷とミュールーズに設置された繊維工業と化学工業も失った。株式会社のような私企業は略奪されなかった。フランス国籍のままにいたい者は、併合された領土内の動産と不動産の所有を認められた。

 条約の調印は仏独交渉を終わらせるどころではなかった。戦争賠償金の条項、領土の漸次的撤退、選択権の実行、アルザス=ロレーヌとフランス間の通商問題は解決するに極めて厄介な問題として残った。

 条約批准後、ヴェツィン=アウルノワとヴェンデル会社のような私企業は後衛戦を展開する。ヴェンデル会社はモユーヴルの返還希望に固執した。ガルガン男爵はモユーヴルとジャマイユの工場と600ヘクタールの森林(鉱山資源に富む)の交換を提案する覚書を準備する。彼はデルブリュックにその理由を説明しにベルリンに赴いた。デルブリュックは国境確定についてフォン・シュトランツ将軍とハウヘコルヌ将軍の意見を聴取した。後者はこの新提案はドイツにとって不利であると返答した。提案のようにすれば、「モユーヴルの工業的複合の様々な部分間の自然的関係を破壊するという。フランスへの復帰はヴェンデル一族の個人的な利益にのみ奉仕するだろう。」この理由により、あらゆる議論は集結した。数ヵ月後のライヒスタークでの討論においてビスマルクはモユーヴル返還の拒絶について以下のように答弁した。

 

 「この大鉱脈の2つの部分は同じ主鉱脈に見いだされる。地下に関税線を引かねばならないし、また、鉱夫のランプの助けを借りてのみコントロールしなければならないだろう。」

 

 アルザスの実業家たちは、フランスへの産物の自由持ち込みのために1871年9月1日の柵の設定は受入れ難いとみた。彼らは時間的猶予を求めた。彼らはビスマルクに対し理由を述べ、文書の再検討の約束をとりつけた。

50億フランの賠償金の支払条項は細目が規定された。ドイツは紙幣ないし大蔵省の債券のかたちではなく、金貨ないし確実な商業手形のかたちでの支払いを受けるだろう。なぜというに、ビスマルクはフランの減価を警戒したからである。「たとえわれわれが現在、銀行券の流通をしっていたとしても、その価値は将来はどうなるかわからない」、と。支払期日は以下のように定められた。

 パリの秩序が回復してから30日後………………………… 5億フラン

 1871年内に…………………………………………………… 10億フラン

 1872年5月1日………………………………………………   5億フラン

 1874年3月2日……………………………………………… 30億フラン

 

 最後の30億フランには5パーセントの利子が付加された。抵当として差し押さえられた北東諸県は完全な支払いが完了後に引き渡されることになった。いく人かのドイツ人は、フランスが最後まで支払わないだろう、そのために戦争を再開しなければならないだろうと考えた。ビスマルクは、その鉄道網のおよそ半分を失う東部鉄道会社のために唯一の譲歩をおこなった。彼はその補償として3億2500万フランの額を減額することに同意した。

 今や、フランス政府が必要な資金調達のために国内ないし国際的な金融市場を見いだす課題だけが残った。なぜなら、賠償金支払は仏独の枠組を超える出来事だったからである。

 通商問題に関してビスマルクは最恵国待遇の条項を受け入れさせた。彼は、ティエールとプイエ=ケルティエが保護主義への回帰を望んでいることを知っており、不慮の事件の突発に備えることを欲した。だからこそ、双方の一方が第三国に関税で譲歩をしたならば、他方も自動的にその便益に浴するように仕向けたのである。後になって結果が感じられるようになったとき、いく人かのフランスの実業家はこの条項に関して、誇張ではなしに「商業的スダン」だと語ることになろう。この条項は1914年まで効力をもっていた。

 併合地区の住民はこの交渉の無力な傍観者であった。ビスマルクは、彼らの運命について相談を受けることを拒絶した。なぜなら、その回答は火を見るより明らかであったからだ。その代わりビスマルクは、彼らが国籍を選ぶ選択権をもつことを承認した。フランス人としてとどまりたい者は1872年10月1日までにその旨を宣言しなければならない。この猶予機関が過ぎると、占領地区の住民は自動的にドイツ人となった。フランスを選ぶ者はその財産を保持しうるが、併合地にとどまることは保証されなかった。選択権の実行は条約には明記されてなかった。そのため、これを細かく定めるためいくつかの補助的な条文が必要となった。

 

 

第6章   捕虜と監禁者の釈放

 ドイツの新聞と民衆デモは捕虜にパリの開城と休戦協定の調印を知らせた。この恐るべきニュースは彼らの運命の改善と釈放を確かなものとした。手紙は確実に到着するようになった。デヴォー将軍はパリからの第一報を2月9日に受け取った。だれも戦闘が再発しないことを願う。2月27日、デヴォーは仮条約の調印を知った。

 

 「万事休すだ。軍旗、爆薬、砲兵隊の祝砲、国歌、柘植の枝が私にフランスが負けたことを告げた。私は苦しみで胸が掻きむしられる思いでいる。」

 

 兵卒の多くも将軍と同じような心境でいる。しかし、それは喜びと矛盾はしなかった。仮条約第6条は捕虜の運命を規定しており、それによれば、捕虜は自費でフランスへの帰国を許されるとある。国境近くにいた士官のみがそれに浴した。デヴォーは3月3日にデュッセルドルフを出発しようと決める。彼は「一刻も早くプロイセンの土地を離れたい」と書きとめている。ジョルジュ・ド・ムサックはウルムを3月7日に発ち、コンスタンス湖を横切ってスイスに到達し、次いでリヨンに到着した。故郷のポワティエには3月10日の夜10時に着く。バライユ将軍と妻はボンを3月15日に出発し、ブリュッセル経由でパリに17日に到着。アンリ・ショパンはル・ローラン号に空席を見つけ、ル・アーヴルに向け3月16日に出港した。自費で帰国した彼は総額100フランを使った。しかし、こうした帰還は特権者のものである。

 いろいろな理由で拘禁された民間人の捕虜もまた釈放された。10月22日シュテッティンに上陸したブリシー(ロワレ県)の住民たちは3月1日に釈放された。要塞司令官はこの日、彼らに向かって「諸君は解放された」と告げた。彼らは死亡した13人の仲間を残し、ケルンとメッス経由で帰国した。彼らは3月7日にオルレアンに到着。ヴェルノンの1住民は12月9日に捕虜となってミュンヘンに拘禁されていたが、3月13日に釈放された。旅費をもたない大多数の者は、3月11日に調印されるフェリエール協定を待たねばならなかった。この協定は帰国の組織化を規定する。兵士の帰還は時間と資金を要した。フランス政府は船をブレーメンとハンブルクに回航し、海路で捕虜の一部を帰国させた。これらの者はダンケルク、シェルブール、ル・ア-ヴル、ブレストに寄港した。圧倒的多数は鉄道で帰国した。ドイツ政府はこの作戦の実行のために車両を貸し出したが、シャルルヴィル、ヴズール、ブザンソン、リュネヴィル駅が、3月末に始まる帰還捕虜でごった返した。4月24日まで27万の兵士が集団で、2万5千がバラバラに送り返された。この24日、ビスマルクは交渉難航への不満から帰還を一時停止したのである。デヴォーは途次ケルンとエクス=ラ=シャペルに立ち寄る。彼はヴェルヴィエ、ブリュッセル、リール経由で帰国した。ヴェルサイユに到着したのは4月3日で、4月4日にレゼルヴォワールのレストランで食事をとった。ここは1ヵ月ほど前までプロイセンの将軍や君候たちがフランス料理を愉しんだ食堂である。メッスで捕虜となり、シュテッティンに交流されていた「フルアールの義勇兵たち」は1871年4月に帰国した。イジドール・メネストレルは4月15日にハンブルクに向けシュテッティンを発ち、ハンブルクで乗船する。ヴォージュの懐かしい村に戻ったのは5月18日のことである。彼は1870年の正月にこの村を発ったのだ。

 フランクフルト条約の発効後は帰還が再開された。5月10日ごろ、なお13万5千が捕虜として残っていた。すべての兵営で待遇は改善された。居住条件は緩和され、食事の質も向上。ポメラニアつまりバルト海の凍りつくような海岸では雪は溶け、春の温暖日和となった。兵士らは少しばかりのお金を受け取った。彼らは町に出かけることもできるようになった。住民との関係ができあがりつつあった。彼らは恋人と写真を撮りあい、ドイツ人家庭が彼らを招待することさえあった。しかし、これを誇張し叙情的描写ですますことはできない。厳冬下での囚われの思い出は消しがたい。彼らはいつまでもそれを忘れないであろう。

 なおドイツには右翼と目される捕虜が残留していた。なぜなら、彼らはドイツ人から威嚇され、攻撃され、傷つけられたからである。彼らが解放を勝ち取るためには、なおまだ長期の交渉が必要だった。ドイツでの強制労働および拘禁の刑罰を受けたゲリラ兵がこの部類に含まれる。正規兵のなかでゲリラ兵と見なされた者もいる。20才の伍長でスダンから脱走したレオポルトもこの例である。彼はアランシー(ムルト県)で捕縛され、ゲリラ兵として10年の懲役刑を科された(1870年10月30日)。彼は最初、サールルイの地下牢に閉じ込められ、次いでヴェルデン=アム=ルールに移された。彼はドイツの囚人服を着せられ強制労働に服した。この施設で彼は他のフランス人つまりマルヌ県のゲリラ兵と一緒にされた。彼は1872年7月25日に釈放された。拘留期間は、ある者は2、3ヵ月、他の者は10ヵ月というぐあいにまちまちだった。刑期はその拘留地いかんで違いが出た。ドイツ人が物資不足を悪化させたのは看守の過酷のせいというより、その冬の例外的な厳寒であった。多くの者が不帰の客となる。ドイツで拘留中に死んだ捕虜は1万8千ほどいる。彼らの墳墓には「墓標」が記されている。

 多くの者が、ポメラニアからプロイセンまでの森を一色に彩る真っ白な冬を見た。彼らは農村的で粗野で貧しいドイツ人を目撃した。彼らはドイツ語のいくつかを覚えた。たとえば、 Weg, Raus, Nicht, Grochen, Kaput などである。彼らは麦粥と黒パンを嫌った。ザクセン、ラインラント、バイエルンで過ごした者は他の印象を持ち帰った。デヴォーは記している。すなわち「他の多くの事柄と同じようにプロイセンのベッドとドイツ風の夕食に慣れる必要がある」、と。しかし、比較の点では、

「何と、ドイツ人は清潔好きだろう!」というぐあいに、しばしばドイツの勝ちとなった。全体としてみれば、ドイツ生活の現実は認識されなかった。単なる兵卒はほとんど民間人と接触することがなかったし、単に看守だけを知ったにとどまる。将校についていえば、彼らは街中で暮らした。彼らは多くのドイツ人と知り合った。彼らは愛国心から指導階級との接触は避けた。すべての者を驚かしたのは、ドイツ特にバーデン、バイエルン、ザクセンにおける国民主義の爆発である。彼らはプロイセンではなるほどそうだとの自覚をもっていたが、彼らの目にはフランスとフランス人への敵対意識が形成されつつあると映った。

 捕虜は多くの者が体験録を書いた。ある者は日誌を書き、そのうちのいくつかは死後出版されたが、いくつかは公刊されなかった。最も貴重な資料はいかなる修正も受けなかったものである。反対に戦後20年、30年、40年経ってから歴史は丹念に記述され組織化された。メモと体験談は選別され、事実と感情を解釈した。だからこそ、それが精神状態についていかに貴重であるとはいえ、慎重さと無限の注意力でもって利用されなければならないのである。

 1871年6月末のティエールはおそらく、人気とはまではいかないにしても権威の絶頂にあった。彼はドイツとの講和をやり遂げ、コミューンを打ち負かし、フランクフルト条約を批准した。すべては彼の活動に依存した。国と金融界の信頼は、1871年6月27日になされた20億フランの起債の達成によって証明される。2日後、12万の兵がティエールとマク=マオンの前を行進した。これはドイツを負かした軍隊ではなかったが、コミューンを平定した軍隊であった。それでも軍隊であることに変わりない。

 この痛ましくもあり悲劇的な諸事件の連続はフランス人を、彼らが味わった事柄の保存方向に導く。1871年7月初旬、補欠選挙はこの傾向を明瞭に示す。国民議会では辞職と重複立候補のゆえに百余の議席が空席となっていた。7月2日、3分の2の諸県で共和派が勝利する。2月に王党派を圧勝させたノール県では彼らは傾向を逆転させた。2月選挙で王党派が全議席をさらったガール県では決戦投票において、ガンベッタの協力者ジュール・カゾーと国防政府期の知事ルイ・ジェルの2人の共和派が大差で当選した。にもかかわらず、いくつかの例外はあった。ベルフォールではエミール・ケレルがダンフェール=ロシュローを打ち破った。後者は代わりにロワール=アンフェリユール県を選んだ。大事件は、セーヌ県選出議員としてレオン・ガンベッタが返り咲いたことであった。これらの新当選議員はもともと少数派の共和派を増強し、多数派の王党派を不安に追いやる。王党派は、いくつかの譲歩をせざるをえなかったティエールに対して警戒しはじめた。ジュール・ファーヴルは外務大臣を、ル・フロは陸軍大臣をそれぞれ辞任した。だが、議会はティエールを解任できなかった。彼は地方の多数派の支持と、そして国際政界の信頼を得ていた。彼にはまだ戦争賠償金の支払いと領土解放について交渉する仕事が残っていた。

 フランクフルト条約は、以後の仏独関係の枠組を規定した本質的な外交活動であった。効力はどれくらいの期間か? 条約発効期間はつねにはっきりしない。多くのドイツ人たちはフランス側の早計な非難を恐れた。だが、この悲観的見地は裏切られた。というのは、フランスがこれを遵守したからである。条文はそのままでは国際社会に承認しがたいとは見なされなかった。この暗黙の賛同は「既成事実」に形式上の合法性を超越する支援を与えた。フランス人2世代に非難され、法の侵犯だと見なされたにもかかわらず、この条約は19世紀の人々に気に入られたと解したほうがよい。フランスは壊滅したのではなかったし、国家組織においても国民的完結性においても傷つけられたのではなかった。

 アルザス=ロレーヌの併合は強奪ではなく、精神的な傷であった。住民の同意を得ずに処理されたことが問題である。そこにこそ、ビスマルクの業績における真実の弱点があった。アルザス=ロレーヌはフランクフルト、ヘッセン=ナッサウ、ハノーファのいずれにも属さないドイツ帝国の領土となった。アルザス人とロレーヌ人はフランス人であり、その位置にとどまることを欲した。ビスマルクはこの点で不正を犯したことになるが、事後のいかなる厚意をもってもけっしてそれを癒すことはできない。それは、ビスマルクが他のドイツの指導者たちと分有し、歴史に対して責任を帯びるべき過ちであったのである。