matsui michiakiのブログ

matsui michiakiのブログ

横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

第18編  ヨーロッパの新たな均衡

 

 ヨーロッパの均衡にかかわる3列強(ロシア、オーストリア、イギリス)は仏独戦争、その帰結たるフランクフルト条約に不干渉の立場をとりつづけた。ヨーロッパにおいてこの事件とこうした結果はどのように受けとめられたであろうか。フランス人にとって、それは大地震、類いまれなる動乱、人類史の大事件の中で最も大きなもののひとつであった。ドイツ人にとってそれは国民の再生であった。その日常生活が何ら影響を受けなかった他のヨーロッパ人は、ドイツ帝国の誕生がヨーロッパの中心部において、国際関係の中軸として存在する一大軍事国家を樹立せしめたことを理解した。事件とすれすれの関係において、すぐれた情報通と洞察力ある者は手探りの観測を始めた。新たな力関係から生まれる潜在性は次第に像を結びつつあった。

 

 

第1章   ヨーロッパの安定

 1815年に生起したことや、もっと後代の20世紀に(1919年と1945年)生起したこととは異なり、このたびはヨーロッパの地図は大変動を遂げなかった。かつてはウィーン会議のヨーロッパが存在したし、将来にはヴェルサイユ条約のヨーロッパがあるだろう。フランクフルト条約によって形づくられたヨーロッパというのは存在しない。アルザス=ロレーヌのドイツへの併合は局限された領土的変更である。それは中立国にとっては容認できることだった。他の領土的変更を挙げれば、教皇権の失墜である。イタリア王国は、宿願としてのローマ占領とこの永遠の都市への首都遷都のために、このフランスの麻痺状態を利用したのであった。彼が犠牲になったところの暴力に抗してピウス九世は抗議行動をつづけたが徒労に終わった。いかなる国も救援にかけつけなかった。フランスとベルギーのカトリック教徒の一部のみがいつか、この略奪行為に干渉しなければならないと悟ったのみである。彼らは、もし自国政府がその大義に与するならば、教皇庁に世俗権を取り戻すためにピエモンテと戦うつもりであった。

 オーストリア、ロシア、グレート=ブリテンは国際的強調において同一歩調をとった。ベルギーとスイスは仏独両交戦国によって尊重された中立政策を実現した。その存在がフランスの野心によって、次いでプロイセンの圧力に脅かされてきた小国のルクセンブルクは危ういところで難を逃れた。数ヵ月の危機の後に、その国際的協約がその地歩を固めた。ルクセンブルクは独立の非武装中立国となった。その鉄道線はドイツ所有となり、同国の関税同盟への加入は後におけるドイツの経済的利害の浸透に便宜を与えることになる。王位が紛争の口実となってきたスペインについていえば、同国はずっと完全に不干渉の立場を貫いた。1856年以降、沈静化傾向にあった「東方問題」は再発の兆しを見せなかった。ロシアは列強の承認を得た黒海の再武装化に満足した。同国は、クリミア戦争とパリ条約のためにナポレオン三世によって構築された脆い障壁を弱めることによって将来の行動の基礎を築くにいたったのだ。

 仏独戦争の最中と後になっても、静寂がずっとヨーロッパを支配しつづける。ポーランド人は叛乱を起こさなかったし、チェコ人はオーストリア権力から交渉をとりつけほどなく妥結に向かった。なぜなら彼らは依然として服従することになったからである。フランスのみが敗戦後に時間と空間こそ局限されたとはいえ、内紛を味わった。パリ=コミューンの直接の影響はすぐに除去された。なぜというに、それが他のヨーロッパの国々に与えた反響は大きくなかったからである。ロンドンのマルクスとエンゲルスによって指導されたインターナショナルは無力の苦しみのうちにコミューンの壊滅に立ち会ったのだった。インターナショナルの支部は保守政府を不安に陥れたが、警察は通信員とシンパを逮捕した。幾つかは陰謀を企てることによって諸国の平穏を掻き乱した。ソヴィエト、ドイツ、フランスのマルクス主義者の歴史家によって起草され、20世紀に針小棒大に誇張された文書の影響力を過大視してはならない。フリードリヒ・エンゲルスとカール・マルクスの著作――そのうちで最も知られているものが『フランスの内乱』であるが――は当時はほとんど知られていなかった。それらは30年、40年、50年後に読まれ注釈がつけられたのである。レーニンによってなされた引用とソヴィエトとフランスの共産主義者の典礼書がなかったら、2人の著作は、われわれが調べ引用したところの、同時代人の何百という証言や記録と同じように完全に忘却の彼方に消えてしまった公算が高い。

 経済・金融の分野においても混乱は極小であった。大洋航行は阻害されなかったし、合衆国はそれほど困難なしに南北戦争時の在庫の武器を送りつづけることができた。ベルギーおよびイギリスの武器製造人および武器商人に関して、そして、ガンベッタ軍を装備させるのに利益の多い市場を往来したフランス人と外国人の製造人や商人に関してももっと細かな研究がなされねばならないだろう。国際貿易はむしろ紛争によって刺激を受けた。1869年に開かれたスエズ運河は優れた業績を残した。

交戦国に隣接する諸国、つまりスイス、ベルギー、イギリスは巧妙にこの機会を利用した。パリ籠城と軍事的、政治的な不安定によりパリ株式取引所は数ヵ月の間、その伝統的役割を行使できなかった。イギリス人は、フランス銀行と株式取引所が破壊を免れたのを喜んだ。この間、操作の中心はロンドンに移った。戦争借款に応じたのはベアリング社とモルガン商会であった。戦後の資金移転の交渉を一部分担ったのはロンドンである。金融家、企業家たちは豪奢な年を過ごした。1870年、1871年、1872年の強力な需要と物価上昇は繁栄のレバーとなった。ドイツにおいては戦勝は少々人為的な夢心地と抑制の利かない投機をもたらした。1873年の金融危機、それにつづくところの工業不況は脆弱な基盤の銀行と企業を困難に陥れた。フランが1870~72年の突風状態を耐え抜いたこと、紙幣の強制流通はかなり迅速に償還しえたこと、それはヨーロッパの他の主要通貨と交換可能性を維持したことがつけ加えられねばならない。1870年以後、フランスもヨーロッパも、1918年と1945年の後に貨幣が紙屑同然となり、悲劇的な大インフレーションを将来し、結果として社会的、政治的荒廃をもたらしたのと対照的に比較的に静穏にすぎた。こうしたすべての理由により、普仏戦争はヨーロッパを壊乱せず、その結果はそれほど深刻ではなかった。

 フランスとドイツ間の力関係の変質、即時のしかも持続的な変化の問題が残っている。以後は、国際関係が繰りひろげられるのはドイツをめぐってのものとなった。

 1870年の夏と1871年の夏の1年間に諸政府と世論の態度は変わった。ドイツはもはやイギリス、スイス、ベルギーから共感を得ることはなくなった。そうした変化がもっともはっきり感じられたのはイギリスにおいてである。占領の残酷さ、パリ砲撃、ビスマルクの財政的要求は多くのイギリス人の不興を買った。グラッドストーン政府の消極性が批判された。ここかしこで表明される不安は、イギリスの不干渉主義からの脱却を促すのに不十分であった。スイスにおいてもストラスブールとアルザスの不幸、ブルバキ軍の苦難は多くの市民の同情を喚起した。それまでプロイセン側を支持していた幾人かは共和主義のフランス支持に変わった。ドイツ語圏の自由主義者と急進主義者はプロイセンによる南ドイツの併合を憂え、ビスマルクに不審の目を向けるようになった。

  文化的関係は影響を受けなかった。なぜというに、ドイツ系スイス人はドイツでの大学教育を受けつづけたからである。ロシアでは外見上は何らの変化も見られなかった。宮廷間の関係は依然として懇ろであったが、しかし、ドイツの新勢力はすべてのスラブ人を不安がらせた。ドイツにとってもっとも微妙な位置におかされたのはオーストリア=ハンガリーである。貴族と宮廷に多くの怨恨が残っていたが、オーストリアとベーメンのドイツ人はドイツの勝利に感動し、指導者たちはそれを考慮に入れなければならなかった。

 1871年、ビスマルクはヨーロッパの政治舞台を独占した。今や56歳となった帝国宰相は途方もない威信を帯びた。彼は3つの戦争を切り抜けた。彼は軍事的勝利を外交的成功に結びつけた。プラハ条約、フランクフルト条約は彼の外交面での腕の冴えを余すとところなく見せつけた。ナポレオン三世を操り、次いで廃位させ、ボイストとティエールを翻弄するやり方は彼について、あるときは柔らかに、あるときは残酷に、しかもつねに冷静かつ巧妙な恐るべき外交家という強い印象を残した。彼に敢えて刃向かう者はまれであった。彼は尊敬され、恐れられ、嫌悪される存在となった。彼が外国にいるときでさえ、彼のイニシアティブ、彼の術策、彼の「突撃」が警戒されるような始末だった。フランスにおいて1ダースもの首相の交替が、そしてそれと同数の外務大臣の交替がなされたときでさえ、ビスマルクは1890年まで同じ職務についていた。この長さ、この安定度、彼がとった行動の自由の裁量権は彼に例外的な権力を与えた。人々はしばしば比喩や度の過ぎたあてつけによってビスマルクの人物像を歪めたり、戯画化したりする。たしかに、彼が常用した矛盾した態度とか、軽蔑的な膨れっ面とかが仕事を円滑にさせなかったかもしれない。しかし、ビスマルクはそうした概念がないときの汎ゲルマン主義者でもなければ、ヒトラーの先駆者でもなかった。認めねばならないことは、彼は帝国に賢明な領土的限界をあてがったという事実である。彼の目から見ると、ドイツの2国家は、彼がそのように描いていたところのヨーロッパの均衡――つまり、ドイツ帝国とオーストリア帝国――にとって欠くべからざるものであった。両国ともに以後は互いに支持しあうために、己の不満を漏らしてはならなかった。単に尊敬しあう役割が逆流した。一者はヨーロッパ関係の懸け橋の鍵となったし、他者はこの卓越に満足しなければならなくなった。オーストリア=ハンガリーがこのことを承認し、そこから結果を引き出すためには、なお10年以上を要するであろう。

 ヨーロッパの中心において強力な大陸帝国が誕生したことはドイツ人にとって飛躍と誇りを、そして自分らの未来の運命への信頼感を与えた。指導層は他のヨーロッパ諸国を安心させるのに躍起となった。彼らは3つの戦争を勝利のうちに迎え、マルス神の神殿をこれ以後は長い間封印するにいたった。なぜならば、新国家は内部を固めるのに長期間の平和を必要としたからである。フランス人が自分らの「惨禍」の原因を顧み、自分らの「退廃」について悲鳴をあげているのと同じ程度に、ドイツ人はついに共に連れ立って生きることに満足感を覚えているようだった。分娩は骨折り仕事であった。ドイツ人は失われた時間と取り戻したい、新国家を平和的に建設したいという印象を放った。

 

 

第2章   フランスの敗北の真実と限界

 1870年以前は、フランスはヨーロッパの均衡の「潜在的な破壊者」(アンドレ・マルテル)でありつづけた。ナポレオン三世はその人物において大帝国時代のナポレオンの夢を追いつづける。彼はつねにそのことを公然と口にするのを慎んだ。しかし、だれもその平和主義にだまされなかった。人々は彼の隠された意図を見抜いていたのだ。サドヴァの直後、彼は領土的野心をあまりに露骨に出したため、彼は完全に孤立してしまった。

 ナポレオン三世は自分の力を過信していた。そして、彼は戦争の賭けをおこない、破れ、帝位を去った。1871年のフランス人は、けっして自分らが準備したのではない、筆舌にあらわしがたい大変動を味わったとの印象を強くもった。しかし、敗北を自分らの責任として受け止めた。彼らはナポレオンの絶頂期における栄光の思い出――ソルフェリーノ、マジェンタによって維持され、体制により自己満足的に維持されたが――に耽ったからだ。

 ナポレオン三世の戦争野心に対し皮肉を飛ばした共和派は本来的に平和主義であった。彼らはクーデタの道具としての常備軍を槍玉に挙げ、侵入の際には市民が敵を撃退するために1792年のときと同じように一斉蜂起すればよいと考えていた。歴史家が1814年と1815年の惨禍を思い起こしたのは、フランスがヨーロッパ全体の同盟のもとに屈したことを思い起こすためであった。そのときはロシア人、イギリス人、オーストリア人、プロイセン人が束になってかかってきたのだ。フランスと他国との戦争を想定するとき、何人も自国領土が侵入されることを、パリが包囲されることを、そして、いかなる援軍も首都の周囲に張り巡らされた鉄の鎖を断ち切る能力をもたなかったことを想起しなかった。いっぽう、想像を超えたことが生じた。なんという迅速!連続的にして圧倒的な敗北、大破局の降伏、領土割譲、財政的穿針、プロイセン軍の眼前での内戦の勃発など。多くのフランス人は地獄を見た思いがし、完全に打ちのめされた。1871年4月、ギュスターヴ・フロベールは書いている。「プロイセン戦争は私にとって大異変であり、六千年ごとに生じるところの大変動である印象を残した」、と。このような印象を覚える者はいろいろな分野に数知れずいた。こうした悲痛な叫び声をまともに受けとるべきであろうか。明らかに「ノン」である。

 最大の悪意をもつ外国の観察者ですら、このように悲観的ではなかった。アルザス=ロレーヌの失陥は明らかに痛ましい切断であったが、忍耐しうる範囲にとどまるものだった。3,600万の住民とともにフランスは生命力の根源まで侵されたのでなければ、また生産能力も、また知的、文化的活力も失ったわけではなかった。フランスはアルジェリアを含むすべての植民地を保持しつづけた。1914~18年の大殺戮と比較すれば人的損失は些少であった。第一次大戦ではその12倍から15倍もの死者を出すのだ!物質的破壊は地理的にも局限され、財政的な穴は国民の世襲財産を枯渇させたわけでもなかった。フランスは富国であったし、戦後もそうありつづけたのだ。フランは外貨に対して価値を維持し、フランスの信用は無傷のままに残った。数年間で物的プランについてはすべてが片づき、フランス軍は再建され、ぽかんと口を開いた国境には防備を施された。

 このように1870~71年は大破局ではなく、ひとつの決壊であった。戦前もなければ戦後もなかった。変化があったとすれば、それは単に共和政が緩慢ながら確立化したということだけであり、修正があったとすれば、それはフランス人の精神状態ならびに彼らがヨーロッパで保持していた光輝の認識においてであった。以後、フランスは六角形の中に閉じ込められた。もはやイタリアへ、ドイツへの進出の冒険行は問題でなくなり、また「自然国境」の夢は消え去った。ベルギー王国、ルクセンブルク大公国それぞれ独立を確実なものとした。幾人かのフランス人がドイツ的性格とは思わなかったライン左岸は今まで以上にプロイセンとドイツ国家の完全な一部となってしまった。ナポレオン民法典の慣行がドイツ国民の感情と両立しないと信じる者を不愉快に思ってはならない。

 ある者は普仏(仏独)戦争の再発を懸念した。1871年秋にイタリアを旅行したエルネスト・ルナンもそうした者のひとりである。ドイツは「フランスの民主主義が頭を擡げるやいなや、それを潰してしまうだろう」。きわめて悲観主義的な彼は「1870~71年の惨禍など霞んでしまうほどの恐るべき大惨禍」の再発を予言した。若き歴史家エルネスト・ラヴィスはもっと洞察力に富んでいた。彼は近い将来の戦争の再発を否定したが、さりとて「修復の日」が近いというのではなかった。彼は1871年9月にこう書いている。すなわち、「われわれの願望の実現するまでに長い年月がかかるだろう」、と。

 ティエールの保守的共和政は地味な執政に甘んじる。それは「いかなる計画も立案しなければ、いかなる現実の同盟も主張で きないであろう」(レミュザ)。これこそ、人がつつましく「内省」の政策と呼ぶところのものである。フランスはもはや国際政治の主導権を発揮できなくなった。これは戦敗とその政治的土台の頼りなさがもたらした哀れな必然性であった。ティエールを囲む評価と評判がどうであれ、フランスは孤立したままに残った。他の国々にとってこうした状況は平和への最良の保証となった。

 1873年、ティエールから権力を奪い取った王党派はオーストリアとの同盟を夢見た。もし、25年間オーストリアで過ごしたシャンボール伯が王座に就いていたら、彼はカトリック的保守的な同盟の名において帝国政府を元の位置に復帰させることができたであろう。王政復古は失敗したため、この仮定は理論的なものに終わった。

 ビスマルクはそのことを軽視しなかったし、それこそ、王党派とマク=マオン政府への彼の敵意の理由であった。他の国から見ると、危険は小さかった。イギリスの政治家たちはティエールの賢明さを評価し、ド・ブログリー大使と合意しなかった。イタリアは統一への敵意のゆえにティエールに恨みをもっており、王党派が一時的な権力復帰を要求する司教に耳を傾けはしないかを気遣っていた。ロシアに関していえば、彼らは非常に好意的で慇懃であったが、それ以上のことを望むことができなかった。この不利な状況が続く見通しであることを察知したティエールは条約を破棄する意向を完全に捨て去った。

 

 「彼は平和を欲し、そう公言した。少なくとも一時的にはそうであった」(レミュザ)。ティエールの位置は次の短い評言に要約される。すなわち、「私の決心は50億フランを支払い、平和を忠実かつ誠実に維持し、フランスを諦めの状態に導くことである」

 

 彼が1872年に可決させた軍事法は2国間の軍事的均衡を回復し、再度の侵入を撃退するに相応しい軍隊をつくることを目的としていた。1875年以来、専門家たちは、フランスとドイツの間で軍事的均衡は回復されるか、あるいは回復過程にあると評した。国境のぽっかり口の開いた傷はセレ・ド・リヴィエールの要塞体系によって塞がれた。

 ビスマルクは心配を装い、「戦争が切迫しているか?」のテーマについて有名な威嚇キャンペーンを張った。時はスダンから5年にもなっていなかった。ドイツ宰相はジャーナリスト、パンフレット作者、歌手、作家が口にするところの「報復」という言葉をしばしば使うことによって神経を苛立たせた。いかなる責任ある地位にある政治家も王党派や共和派の別なくそうした言葉を出したことはなかった。ガンベッタもデルレードの「出発の歌」を歌う同時代人の多くと同じく、それを確実に望んでいた。報復の念は世論に普及し、かつ広範囲に広まった願望であったが、それは政治計画でもなければ、軍事計画でもなかった。フランスのあらゆる軍事計画は防御的なものであった。ビスマルクはフランス人の、とくにパリ市民の集団的感情から一つの単純なヴィジョンを引き出した。つまり、かれらは気の変わりやすい国民である。省察もなく最悪のデマゴーグに従うことにもなりかねない虚偽のかつ危険な思想のために燃え上がりやすい。ビスマルクの懸念の中心は、政治家が反ドイツ感情をもちはしまいか、あるいはナポレオン三世のようにそれを放任させはしないかということだった。数週間で万事急を告げる可能性があった。

 2国間においてすべてが一変した。分裂、躊躇、矛盾を超えて、フランス人は1870年にアルザス= ロレーヌに関して共通の態度を持していた。2州の失陥はフランスとドイツの間に解き難い敵愾心をつくった。1814~15年にはライン左岸諸県のドイツ連邦への復帰は厳しい憤激の因となった。フランスは「自然国境」を失った。にもかかわらず、これらの領土はフランスのものではないことを認めなければならなかった。それとは対照的にアルザスとロレーヌは昔からフランスの領土であった。住民は自らをフランス人として自覚し、その儘であり続けることを欲していた。大義名分においてビスマルクは彼らの意見を聞くことを拒絶した。彼は両州を、ヘッセンとハノーファに4年ほど先んじて併合した。ヨーロッパのいかなる国も、フランス人を心底から怒らせたこの武力解決に抗議しなかった。以後は両国間においてアルザス= ロレーヌ問題はあらゆる接近を排除するところとなった。両国は正確な関係を結びなおし、通商をし、「和解手段」を受け入れたにもかかわらず、いかなる和解も不可能であった。

 フランス人は世界における自らの位置を自問するよう導かれた。すべてが高みから落ちた。彼らは自らの運命に関し、国の広がりについて省察した。テーヌ、ルナン、フュステル・ド・クーランジュその他の知識人たちは政治問題と混濁した論争を始めた。彼らは退廃の危険を混乱して感じる。この危険の認識は返答を用意する。正道に戻すことが必要だ、と。なぜなら、フランスは諦めてはならず、そうすることは歴史的使命を外れることになるからだ。慎ましやかに「わが惨禍」と呼ばれるところの敗北の辱めにもかかわらず、たいていのフランス人は、国が目立たなくなることは一時的なものにすぎないことを自覚するにいたる。フランスはプロイセンがイエーナの後に、ロシアがティルジットの後にそれぞれそうなったように、立ち直るだろう。楽観的展望をもって共和派は、フランスが普遍的使命をもたねばならないと考えた。人権の祖国は人類のガイドとしてとどまらなくてはならない。王国が大勢をしめ、軍国的で反動的なプロイセンによって支配されたヨーロッパにおいて、フランスは代役のいない役割を担っているのだ。ジュール・ミシュレは 『ヨーロッパの前のフランス』(1871年)の著書の中でこの思想を弁護した。プロイセンの危険の意識をもっていた者エドガー・キネーは『共和国』(1871年)の中でフランスの安寧について考察する。カトリックは他の観念をもっていた。カトリックは依然として教皇に忠実であるばかりか、「カトリック教会の長女」が真実の使命と市民的機能を再発見すべき教皇の救出を欲していた。フランスはあらゆる手段の資源を保持している。フランス語は文化の言語であり、ドイツ語はこの優越性を奪うことはできない。パリは依然として卓越した都市である。パリは「バビロン」、堕落した町、「赤の町」、革命の温床は最近の試練を克服しなければならず、中傷者を欺き、世界に誇るその光輝を取り戻さねばならない。フランスは富国として残り、解放のための借入への応募が即時におこなわれた事実が示すように、ヨーロッパはその信用に信任をおいている。1871~73年において、フランス人は躊躇し分裂した。暗い嘆きの、時の不幸とプロイセン人の過酷さ、フランス人の信じられないほどの軽さ(いつも国論分裂に戻る)への嘆息の詞華集を引用することは簡単である。1870年以前に根をもつところのこうした悲観論は国民的デカダンスに対する考察を育んだ。反対に大多数の者は、フランスがヨーロッパにおいてまもなくその正当な地位に復帰することを疑わなかった。

 

 

第3章   大陸における新ドイツのヘゲモニー

第1節 勝者は敗者を怖れる

 ドイツ帝国は中部ヨーロッパの中心における特権的な地位を占めていた。人口3,800万の小国ドイツは全ドイツ人を集結させるにほど遠かった。これは不完全な国家であった。なぜなら、オーストリアとベーメンのドイツ人は招かれなかったからである。ドイツの潜在的力は汲み尽くされなかった。この意味で国家統一は成就されなかったことになる。これはビスマルクと自由主義者の計画ではなかった。併合の時代は幕を閉じたという意味深い、彼の有名な公式発言が知られている。つまり「帝国は飽和している」と。

 1864年から1871年に生起した諸事件はそれ自体においてドイツ的宇宙の作りなおしであった。プロイセンの首都ベルリンは帝国の首都となった。法規上のこの変化の結果は異なる。そうしたものが実を結ぶためには一世代を要するであろう。1870年、およそ80万の住民をかかえるベルリンはパリの3分の1でしかなかった。20世紀の初め、大ベルリンの人口はプロイセン、シレジア、ザクセンなどの諸州から来た住民で400万に達した。町は活動、富者と貧民でつねにざわついていた。町は公権力、大新聞、主要銀行の所在地であった。町は、新ドイツのエネルギーの一部を表わしていた。その近辺は工業化され、プロレタリアートの住む場末は年々、アトリエ、工場、レンガ造りの住宅街を拡大しつつあった。たしかにベルリンは完全に没収されるにほど遠かった。南ドイツ、ライン河畔のドイツもその固有の性格を維持しつつ発展した。ドイツの重心はほとんどの領域でベルリンの方へ移動することは妨げえなかった。この町は政治の中心であるとともに、ドイツに色調を与える前衛、刷新者の町であったのだ。

 1871年、この潜在的性質はようやく輪郭をあらわしたところだった。すこぶる洞察力の才に富んだ者のみがこの動きを見通すことができた。その代わり、フランスと帝政ロシアの間の例外的な地理的地位を理解することは容易である。ドイツに戻るや否や、モルトケは勝利をおさめたばかりの戦争に関して、あるいは若き新制ドイツ帝国が将来において突入を強いられるかもしれない未来の戦争に関して考察する。ドイツ帝国は2つの潜在的な敵としての東のロシアと西のフランスに挟まれた位置を占める。モルトケはこう考える。すなわち、遅かれ早かれフランスは報復行動に出るだろう、ドイツの法律の変化のゆえにロシアの長期に亘る盟友関係は終わりを告げるだろう、と。彼が丹精込めて作成した戦略計画は明瞭に2つの戦線を想定している。1871年4月、フランスで6ヵ月過ごした後にモルトケはフランスに対する勝利に繋がる電撃戦は不可能になるであろうと考えた。次の戦争は長期のものに、7年の戦争、三十年戦争に、大衆の戦争に、ゲリラ戦になるだろう。こうした仮定に基づいて、ドイツは東と西の2正面戦争を強いられ、最初は東部に立ち向かわねばならないだろう。独露関係は公式的にはきわめて良好であった。いかなる重大な論争もまだ両国には発生していなかった。しかし、いずれこうした係争が生じるだろう、と軍人たちは考える。彼らの役割はこの事態に備えることだった。たしかに、巧妙な外交はそうした期日の遅延をもたらし、ビスマルクは長い間そのようにつとめ、首尾上々の成果をあげるだろう。プロイセンの軍人の間に広く行き渡ったこうした精神傾向は独露関係がどの程度感じられるか、そして仏独関係よりも予測をつけがたいことを示すものである。すでに、2正面戦争のシェーマは参謀本部の主要な関心であった。

 プロイセン軍は新ドイツ国家の中心であった。6年間にプロイセン軍は3度の戦争を勝利に導き、1873年にその思い出を永遠にするためベルリンに戦勝記念塔が建てられた。公権力、聖職者、牧師、教員、旧軍人会らが想起してやまない、誇り、傲慢、優越感情が巻き起こった。兵士であること、祖国のために死ぬこと、カイザーは名誉であり、栄光であった。ほとんどの高級将校団は限られた階層、つまりプロイセンの数千家族の土地所有者の階層の出身であった。高級官僚とルター派教会においても彼らの代表を見いだすことができる。ユンカーのカーストの影響力はしばしば社会イデオロギー的考察を使って非難される。彼らの地位は状況の年金ではない。1866年と1870年の戦場で血のかたちで税を支払ったこれらの家族はしばしば戯画化された。彼らは粗野で野蛮な田舎紳士、強い酒飲み、その特権にしがみつく偏狭な防御者でしかなかった。各世代において、有能な軍将校と、公共サービス、教養精神に富んだ感情をもつ官僚がそこから出ていることを忘れられているのだ。

 軍事権力すなわち参謀本部は新帝国の脊骨であり、力の源泉であった。それは連邦議会の審理も宰相の眼も免れ、将校団が宣誓をおこなう皇帝に対してのみ依存した。軍事権力はいかなる行政上のコントロールも、また議会のコントロールも免れた。宰相は議会の奉仕者であらねばならず、軍事債券を一まとまりで(しばしば7年間)可決させねばならなかった。ビスマルクは自分の権威を陸軍大臣にも、参謀本部長にも押しつけることができなかった。確固たる意思をもつと同時に控え目なモルトケ元帥は明らかにビスマルクより大衆に人気があった。完全に年老いてしまうまで彼は現職のままであった。参謀総長として31年間つとめた後に、彼は高齢のゆえに1888年に辞去し、後継者に地位を譲った。彼はそのとき88歳であった。参謀本部長は国家のなかで最も力の強い機関であった。本部長は自らの機能の範囲を定義し、非常に複雑な内部選考の手続きを経て己自身を再生産し、政治的分野への干渉権を自らに禁じた。1870年の勝利をおさめた将軍たち、すなわちカメッケ、ブルメンタール、ヴェルディ、デュ・ヴェルノワ、ブロンザール・フォン・シュレンドルフ、ヴァルダーゼーらは1890年ころまで現職の地位にあった。かつての大尉と大佐らが彼らにとって代わって将軍となり、この原理に被れた。軍隊が帝国を築き、その永続性を保証した。その権限へのちょっとした批判は国家への脅威を見なされた。その使命は敵を遠ざけることだった。外部の敵と同様に内部の敵をも。ドイツ軍国主義の本質は軍事的審理の絶対的独立性に、そして、そのように明言する原理にあった。最後の手段として国家を具現するのは軍隊である。皇帝、宰相、大臣、諸侯、議員、住民はそれを受け入れそれに服従しなければならない。ドイツにとって、ヨーロッパにとって、世界にとってこの権力はかなりな危険であったが、有限の危険であった。

 1871年、勝利をおさめた帝国は平和となった。帝国派もはや征服に直面せず、既得権を保持するのを欲し、既成秩序の保守者となった。将軍たちとビスマルクの数限りない平和の声明はもはやまともに受け止められなかった。彼らはおそらくは心中からそう感じていたにもかかわらず、そうであった。ドイツは、ドイツが支配的地位をおさめたところのヨーロッパの秩序が脅威を受けるときにのみ戦争に訴えるであろう。ヨーロッパにおいて有利な力関係を維持するため、そしてフランスに報復戦を断念させ、もしフランスがこの説諭を超えるときにのみ戦うために、軍隊は強くなければならない。

 ビスマルクのすべての外交政策はこのシェーマに基礎をおいている。列強間の戦争の危険を少なくするためにはフランスの孤立化を維持しなければならない。高校生の世代が学んだ「ビスマルク体制」はその鋭敏な変動においてこの根本的な目的をもっていた。

 大英帝国は同盟網に入る必然性を感じなかった。同国は同盟する理由をもたなかった。同国は大陸においてはフランスよりはドイツのヘゲモニーを歓迎した。ティエールはイギリスに対しては厳しかった。すなわち「英国人はヨーロッパ問題に無関心であることによって重大な過ちを犯した。[…]それはエゴイズム、冷淡、無気力の政策にほかならない。」次いで、「道徳秩序」の保守派の教権主義もフランスへの接近を図らなかった。いくらかの貴族たちのフランス贔屓、ウェールズ侯のパリ風生活への情熱はその利害関係の認識をほとんど変更しなかった。古き疑心と古き怨恨が潜伏し、彼らの愛想よさの後ろにイギリスの政治家たちは、フランスがヨーロッパで再び大きな役割を演じるのを希望しなかった。ビスマルクは巧妙にこうした傾向を操った。にもかかわらず、彼はセイント=ジェームズの宮殿でも、彼がきわめて巧妙に操作したロンドンの新聞においてもいつも良き評判をとるというわけにはいかなかった。ビスマルクは、ドイツ帝国が大英帝国にとってのライヴァルではないこと、彼の野心はつねに大陸の範囲に止まること、その大陸自体においてもドイツはベルギーの独立のようなイギリスの権益を尊重することを心得ていることなどをつねに強調して止まなかった。ヨーロッパの外では、ひじょうに限られたドイツの計画はどんな場合にも大英帝国の計画と衝突してはならなかった。植民地問題はフランスと大英帝国の間の利害対立を維持するための使い古された手段であった。東地中海においてドイツは懸命に、ロシアの野心に対抗する英国の権益の擁護につとめた。ドイツは大英帝国との紛争に巻き込まれるよりも、ロシアとの一時的な仲違いの道を選んだ。ビスマルクがもっとも強い関係を維持したのはディズレーリおよびソールズベリの保守政権である。彼は自由主義のグラッドストーンを警戒した。後者の精神的理想主義が彼の気にいらず、また、ヴィクトリア女王の娘と結婚したフリートリヒ皇太子の取り巻き連の自由主義派のライヴァルのビスマルクへの陰謀を助長する恐れがあったからである。

 

第2節 戦後における国際関係―1914年への道―

 ロシア帝国は特権的な同盟者であり、小プロイセンの、少々懇切丁寧な保護者であった。支配王朝の間の姻戚関係は諸困難を調整してきた。政権に就いて以来ビスマルクはロシアとの同盟関係の養成につとめ、ロシアの好意的中立がドイツの勝利に大いに貢献した。帝国の結成とともに、新たな1ページが捲られた。いつもの炯眼をもってカール・マルクスはこう記している。

 

 「時の大騒動によって完全に肝を潰さなかった者は…[中略]…ちょうど1866年の戦争が1870年の戦争の原因となったのと同じように、1870年の戦争が、ドイツとロシアの戦争の原因となることを悟るだろう。それが必然的とも、不可避的であるとも、私は言っておこう…。」(1870年8月末)

 

 ドイツとロシアの関係はナポレオン戦争の末期以降、概してねんごろであった。しかし、以前と様子のが変わる兆しは出はじめた。ドイツの軍人たちのあいだに反ロシア・グループが出現した。ゴルチャコフはじめとするロシア外交官らはビスマルクの成功を妬んだ。1875年以来ゴルチャコフは機会をとらえて同盟者に、ロシアはヨーロッパ問題にいうべき言葉を保持していると告げた。優れた観察者であり、情報通でもあったガンベッタはジュリエット・アダムへの手紙の中でこう書いた。

 

 「ロシア人の間で怨恨の感情が生まれております。それを広げるべきです。いずれにせよドイツはもはや、1864年、1866年、1870~71年のときのように良き位置を占めるわけにはいかなくなっています。」

 

 ドイツとロシアの関係はただ相互的とは限らなかった。オーストリア帝国は両国にとって敵であると同時に潜在的なパートナーであった。ビスマルクの考え方はドイツのイニシアティヴのもとにこれら3国を連携させることである。その前提としてドイツとオーストリア=ハンガリーの間に友好関係を樹立することが急務であった。サドヴァの戦いの後、ビスマルクは歴史的必然としてオーストリア帝国と和解しようと意向をもっていた。しかし、敵対関係が醒めるまでに時の経過が必要であり、かつオーストリア人が新たな事態を受け入れる必要があった。ドイツの電撃的な勝利、ガリチアに対するロシアの脅威はオーストリアを中立維持の方向に差し向ける。今や新たな状況に適応し、かつ国際問題に関してのオーストリアの目的を修正する必要があった。ドイツにおける復讐戦は今後、なんとしても排除しなければならない。フランツ=ヨゼフの説得につとめた宰相ボイストの信念はこれであった。それはまたベルリン駐在オーストリア大使ヴィンフェンの意向でもあり、彼はボイストにこう書いた。

 

 「私の心底考えることは次のようなものです。つまり、プロイセンとロシアの関係を犠牲にしてのわが国とドイツとの貴重な関係を育て利用する日が来るのは遠くないことでしょう。そして永続的な接近の利益においてビスマルク侯をただちに戦火の試練に晒さないことが望ましいと考えます。」(1871年4月1日)

 

 こうした方向性は、皇帝フランツ=ヨゼフを新たな武力同盟の考え方に誘うボイストのきわめて現実主義的な覚書において取り戻される。(1871年5月18日)イシュクルにおけるフランツ=ヨゼフとブィルヘルム一世の会見は2人の君主の関係を修復した。ボイスト自身、ガシュタインで(1871年8月)協議し、両国の「協調の復元」について語りあい、ドイツは、「オーストリア= ハンガリーとロシアの協調を確保するために」犬馬の労をとることを予期した。

 1871年10月にボイストに代わって外務大臣に就任したハンガリー人のアンドラシーは、新生ドイツはロシアの要求を緩和させるのに、そして、いわばオーストリア=ハンガリーのバルカンでの権益を考慮するのにオーストリアへの援助を期待しうると考えた。オーストリアとロシアの接近はドイツの仲介のもとで実現され、そして歴史上、三帝協調として名高い同盟に結実した。中部ヨーロッパとバルカンを安定させることを目途するこうした外交上の協調関係は保守派と反革命派の再統合を仄めかす。それは、もしフランスの王党派が君主制を再興するのに成功したとしても、彼らと協調することを排除するものであった。三帝協調は強固な同盟ではなかった。それは単なる利害の調整にすぎず、バルカン危機が高じれば分解する可能性があった。ビスマルクの意図はオーストリア=ハンガリーを手懐けることであり、同国に新生ドイツ以上に有用な隣国にして、その利害を気遣っている国はドイツ以外にないことを示すことであった。もし多くのオーストリア人がなおまだ不審の眼を拭い去ることがなかったとしても、ハンガリー人のアンドラシーはこの言葉をよく理解し、もっと積極的な内容を与える機会を待ち受けた。同盟の雰囲気が醸成された。ガンベッタはそれを見抜いている。私信においてガンベッタはアンドラシーに皮肉を浴びせる。

 「ビスマルク政策のこの熱心なお先棒担ぎ」と評し、オーストリアに対しては「アンドラシーによって指揮されたビスマルクの郡庁」と呼んだ。オーストリア=ハンガリーをドイツの航跡の後ろに従わせることになるドゥプリス条約を準備し、調印するのに好機とビスマルクが判断するためには、1879年を待たねばならなかった。

 普仏戦争直後において逆の状態にあったのは独仏の力関係であった。ヨーロッパ列強はフランスの勢力減退と中部ヨーロッパにおける新生ドイツのヘゲモニーを既成事実として受け止める。いかなる国ももはや既成事実を問題にしようとは思わなかった。また、いかなる国もアルザス=ロレーヌを訴権として支える意図をもたなかった。さらにまた、いかなる国も教皇のローマ復帰を支援する意図をもたなかった。扇動的な教皇教書はビスマルクとガンベッタの軽蔑的な皮肉を残したほか、何らの反応ももたらさなかった。フランスではそれは共和派を刺激し「道徳秩序」への反撃を招来し、かえって教権主義の危機を助長した。教皇はヴァチカンの虜囚と見なされた。純粋なるイタリア国内問題として残ったローマ問題はその事件から59年後の1929年ムッソリーニの時代に解決を見るだろう! ヨーロッパ諸国でいかなる国もフランスに接近することができなかった。大英帝国はその必要を感じなかったし、イタリアはもはや親和と利害をもたなかった。それどころかイタリアは要塞を固めフランス国境に9個のアルプス中隊を配置した。ロシアとオーストリア=ハンガリーはドイツ帝国の公式の同盟国であった。この状況は覆し難いものだろうか?フランス、ドイツ、ヨーロッパでそのように考える者は非常にまれであった。両国はほぼ均衡のとれた人口をかかえ、ドイツの工業経済はまだ,財政上の優位をもつフランスを凌ぐほどにはなっていなかった。そのことを十分に承知していたビスマルクは外交的方策において報復をやめさせねばならないと思っていた。彼の巧妙な術策のおかげで彼はフランスを20年間孤立させることに成功した。フランスの指導層が策略の可能性を再発見するためには、ロシアとドイツの間に見解の齟齬が生じる必要があった。フランスが孤立を打ち砕くためには20年以上の時の経過が必要であったのだ。

 1893年に調印された仏露条約はビスマルク体制の終焉を意味した。1870~71年をほとんど無関心のうちに過ごしたイギリス人に関して言えば、フランクフルト条約が彼らを不安に感じさせ、己のスタンスの変更の修正を感じさせたのは30年、35年後のことだった。フランスの外交的位置の正常化は財政的ないし軍事的な正常化よりずっと遅かったのである。

 仏独両国の外交官と政治家にとって1870~71年は1914年まで続くところとなった。国際関係も外交関係の枠もずっとそのままであったのである。1870年8月以来、マルクスとエンゲルスは変化の度合いを測っている。「現下の戦争は、ドイツがなしうることを示したという意味において世界史の新時代を切り開くものである」、と。帝国は完成し、ドイツは腰を落ちつけ、ライン連邦、ドイツ連邦、北ドイツ連邦は過去のものとなった。

 ドイツは今後、他の国々の干渉が及ばざる列強の一翼に属すことになった。ドイツはもはや国際関係の僕であることをやめ、主役に躍り出たのである。他の国々を調整するのはドイツの態度、ドイツの行為、ドイツの提案ということになった。他の国々は揉みくちゃにされなければ、ひっくり返されることもなかった。相互の間に新しい力関係が出現するときにのみその可能性はあった。だからこそレーモン・アロンはこう考えるのだ。つまり「ヨーロッパが生じせしめた最後の政治家の一人としての」ビスマルクは「一種の傑作」を残すことができたのだ、と。1866年のときと同じように、彼は「ヨーロッパの均衡の抑制」を軽視することなしに敵の「軍事力の無力化」を勝ち得たのだった。

 じっさい、仏独戦争時に中立国にとどまった国々が操作された変化に気づくのは20年、30年後のことである。外交政策の修正は1870年の諸事件について異なった理解に発している。それらの国々がドイツをして大国に叙するのを手助けしたドイツは以後、ひとつの危険としてたち現れることになった。フランスはロシア帝国との同盟を模索しそれを実現した(1893年)。フランスはイギリスとの間に協調体制を樹立し(1910年)、ドイツを抑制するための3国を協調させたのは、フランスが三国協商構築の立役者となった(1907年)ことである。国際関係の新地図の再編成に直面したビスマルクの後継者たちはビスマルクのもつところの現実主義の眼を、彼のもつところの力関係に対する地道な透徹した分析力をもたなかった。彼らは創立の英雄の祭式において、その印象的な成功を、その残忍さを、その皮肉なマキアヴェリスムを拡大した。偶然にも戦争の危険が生じた場合でも、勝利は世界で最強の軍隊を免れることはないであろう。武力の夢に浮かれたビスマルクの継承者は、老宰相が保持し得た手心という美徳を失った。この意味において1870~71年の勝利は、帝国建設という幸福感において拡大させた世代に不吉な影響を残したのである。