第15編 責任と諸解釈(下)
第4章 裏切者バゼーヌ
第1節 告発
「汝バゼーヌよ、汝は怖じ気づき、メッスの前でわれわれすべてを裏切った!」この俗悪な歌謡は民衆感情を要約している。臆病風と裏切り、これがバゼーヌの2つの罪である。ガンベッタが復讐戦の決意宣言のなかでこの言葉を発して以来、数ヵ月前に「光栄あるバゼーヌ」であった人物は「恥知らずのバゼーヌ」に成り変わった。たとえこの素早い判断が多くの者に共通する見解であったとしても、他の者は留保する。正統王党派の新聞『ガゼット・ド・フランス』は書く。
「われわれは、怒りに駆られた宣言によってバゼーヌ元帥に対する有罪判決を異常と見なした最初の者である。しかし、このことは、元帥が無罪であることを意味しないし、また、他の理由から、われわれは彼が有罪であるとは考えない。」
メッスの悲劇を経験したアルベール・ド・マンは1870年11月に抑留地でこう書いている。
「私はどうかと言うと、私は彼を無為、怠惰、不用意、終わらせるための誤った計算の能力をもつと思った。彼は多すぎる政策こそ実行したが、廉直さが少ないけれども、しかし、私は彼が裏切りをやったとは思わない。」
バゼーヌはどうかと言うと、彼は罪過を犯したとの自覚をもたなかった。カッセルでの捕虜生活を送ったとき、彼は書簡でガンベッタに反駁する。それはリールで11月2日に新聞『ノール』紙に発表された。次いで彼は1870年12月にブリュッセルで自己正当化のための小冊子を公刊した。彼はナポレオン三世および他の将軍たちから離れて生活した。だれも彼を弁護しようとしなかったし、彼の副官たちのだれも彼に与しなかった。ボナパルト派の将軍たちでさえ彼を非難した。
フランクフルト条約の批准票決が終わると、ある無名の議員が「メッスの投降と、これに参画した将軍ら」に関して査問するよう要求した。籠城戦を経験し、開城交渉をおこなったシャンガルニエ将軍がメッス軍を褒めたたえるため登壇したが、その長についてはひと言も発しなかった。非常に慎重な態度をもつティエールは議会の意見に反対しなかった。このとき、ムーズ県選出の議員で、レイモン・ポワンカレーの母方の叔父ポーラン・ジロンが登壇し、「メッス事件の奥底にある政治的神秘性」を明らかにせよと迫る。
ドイツ軍から釈放された後、バゼーヌは世論が静まるまでスイスで過ごすほうが賢明と判断した。ところが、実際に生起したことはその逆であった。辛辣な内容の幾つかの著書が彼を告発した。その中にライン軍高級士官によって書かれた『メッス、戦争、和平交渉』があった。著者はアンドロー将軍である。バゼーヌは弁明のためにパリに戻った(1871年9月)。ティエールと陸軍大臣のシセーは、工兵将軍セレ・ド・リヴィエールを長とする査問委員会の設置を決定した。同委員会は非常に厳しい内容の報告書を作成した。陸相はバゼーヌに署名をおこなうよう、かつ、認証なしに非難を受け入れるよう要求した。非難される所以がないという立場のバゼーヌは軍事法廷に立つことを告げた。
新聞の論調は一段と高くなった。パリ市民は憤激した。バゼーヌは脅威を感じ、彼を守るためにティエールはヴェルサイユに拘禁した(1872年5月)。シセーはバゼーヌの有罪を信じなかった。ティエールと同じく、彼は公式裁判に不利であった。彼は他の将軍たちを丸裸にしたり、逃避させたりすることを恐れた。世論はさらに圧力を増す。ティエールは危険を脱するために犠牲をはらう必要を感じた。多くの県知事の報告はそのことを示唆していた。だからこそ、個人的には憤慨しながらも彼は1873年5月5日シセー陸相に対して軍法会議の召集と開会を命じた。ティエールの失脚(1873年5月23日)は裁判継続の障害とはならなかった。マク=マオン、ブロジル、そして新陸相デュ・バライユはもはや後戻りすることができなくなった。死後出版された『回想録』のなかでデュ・バライユは「必要な裁判」という表現を使っている。陸相は、被告が外国に逃亡し、欠席裁判になることを望んでいたふしがある。彼は世論の圧力に抗しきれず裁判に踏みきった。というのは、バゼーヌは逃亡を望まなかったからだ。彼は無罪放免になる希望をいだきつづけていた。
「人々は、自分が有罪判決になるのを望まないであろうし、また敢えてそうしないであろうし、さらにそうできないであろう、と彼は考えていた。」(デュ・バライユ)
審査委員の構成は困難だった。多くの将軍らは刑事被告人の直接命令下にあったがゆえに席を占めることができなかった。他の将軍らも断わった。裁判長に就任することを受け入れたドマール公爵を除き、他の裁判官は第2級の人物である。予審は工兵将軍セレ・ド・リヴィエールに委託された。彼は国境防衛の新防御施設の計画を立案した人物である。グラン・トリアノンで展開された公式裁判は 1873年9月25日から12月10日までつづく。諸新聞は陳述を詳細に再生し、世論は情熱をもってこれを追跡した。「論争は貪欲な眼でもって読まれ、人々はどこでも元帥の有罪性を示すことに躍起となった」と、ブリエーの郡長は記している(1873年11月27日)。バゼーヌは必死に頑強に防戦につとめたが、裁判官の敵意に満ちた、聞く耳をもたない態度、彼の同僚の諦め、新聞の党派的な厳しさによって頭が混乱し、矛盾のある発言をし、押し潰されたように見えた。彼は全くの孤立者であり、完全に武装解除され、その知性と能力は凡庸であるように思われ、彼が帯びるべき宿命によって乗り越えられたかのようだった。ほとんどの陳述は批判された。1870年10月20日の軍法会議に出廷した将軍連 ー 彼らはフリードリヒ=カールとの交渉申し入れに賛成投票を投じたことがあるが ー でさえ、彼に責任があると証言する始末だった。
中心論争は軍事的次元のものではなかった。たしかにバゼーヌはこれこれを決定したことにより、あるいはまた、これこれの意思決定をしなかったがゆえに非難されたが、賭金は政治的、精神的なものであった。バゼーヌは敵と交渉に入る権限をもっていたか? 回答は軍事交渉に関してはイエスである。反対に政治的交渉に関して、彼は当事者ではありえず、彼は政府の受託者であるはずである。どんな政府か? 問題はすべてそこに集中した。バゼーヌは9月4日の革命的にして非合法的な(彼の眼から見て)政府を承認していなかった。唯一の合法的な権力はイギリスのヘースティングスに避難しているユジェニー皇后であった。この混乱した状況下で、彼はフランスの稼働中の最強軍隊を不動のま放置し、国民の利益に代えて個人的な賭けをしたかどで非難された。国民的利益とは何か? 小事件の真直中での回答は不確かである。すべての事が終わってから回答を明らかにするのは歴史である。
ところが、バゼーヌにとってその歴史が残酷なものであった。彼の悲劇は、軍事、政治、外交などあらゆる分野において劣ったということにあった。それらのどの分野においても彼は国民の超越する利害にいたるまで自らを高めることができなかったのである。元帥の困惑した説明に対して、ドマール公は長い間後世に残るところの、鋭く突き刺さるような反論をおこなった。「しかし、元帥殿、フランスがあったのですぞ!」と。情熱と臆病風がごたまぜになったこの種の裁判においては、唯一つの評決のみが可能であった。死刑判決がそれだ。ただちにドマールは、恐ろしくも妻と弟を除きたった一人に孤立した、この可愛そうな人物に、敗北の全責任を被せることはどんなにか不当であるかを認識した。さらに彼の階級を奪う必要があった。いかなる軍人が、この儀式的な辱めに取りかかるのを受け入れるのだろうか? だからこそ、ドマールは前もって裁判官たちから、もし判決が下されるやいなや、共和国大統領マク=マオンに対する特赦請願の登録の原則を受け入れさせていた。
12月8日、裁判官はバゼーヌに死刑判決を下した。刑事被告人は勇気をもって判決を受け入れた。彼は準備をしており、恩赦請願は何であれ署名する用意はなかった。マク=マオンにそれを要求するはめになったのは裁判官自身であった。直ちに刑罰は、階級剥奪は免除の上、要塞牢獄への20年間の拘禁に減刑された。被告人の年齢(73才)に鑑みれば、それは永久拘禁と同じことだった。彼はカンヌの沖合のサント=マルグリット島に移送された。妻と数人の忠実な友人の連携により、彼は看守の警戒の隙を突いた。1874年8月9日の夜、太ったバゼーヌは縄の瘤を伝って滑り降り、要塞を離れ、待ち受けた船に乗船した。この信じられないような脱獄は成功裡に終わった。彼はスペインに逃亡する。
第2節 スキャンダル比較
バゼーヌ事件はすべての歴史的証拠の曝けだした。同時代人がすでにつかんでいたところの人物の凡庸さはもはや疑う余地がなかった。彼の書簡を読めばこのことはよくわかる。残るは裏切りの中身である。
もし人が裏切りによって、大革命時のラ・ファイエット、デュムーリエ、あるいはナポレオン一世の敵 ー ロシア軍ないしオーストリア軍のために尽くした ー のように、自発的で敵と通じたものと理解するならば、バゼーヌは裏切っていないし、バゼーヌは敵のもとに行かなかったし、ましてや敵に情報ないしは秘密を漏らしていない。
もし人が裏切りを、配下の潜在的武力を行使しなかったと理解するならば、バゼーヌだけが不活動のまま閉じこもった唯一の人物ではない。多くの要塞司令官たちはこの根拠ある苦情に晒されねばならない。ある者は非難され、またある者は承認されたが、そのうちだれひとりとして裏切りとして非難されたことはなかった。バゼーヌの場合においてスキャンダルとなり、なおスキャンダルでありつづけることは、彼が配下に置いて失うに任せた軍隊の重要性のゆえである。ド・ゴールが「無為の意思と腹黒い無能力」と呼ぶところのものがそれである。ライン軍総司令官の2つの欠陥とは以上のとおりである。「裏切り」という言葉に関していえば、それに政治的意味合い、つまり「徹底的に戦うことが義務であるときに、敵を訪問した」(1871年9月、ガンベッタ)の意味合いを与えるべきである。受託状のない一介の軍人の長が敵と政治的交渉をなす資格はなかったはずである。もしバゼーヌがこの交渉を成功裡におさめていたならば、諸事件は別の展開を示したはずである。しかし、交渉は暗礁に乗りあげたし、乗りあげるしかなかった。なぜというに、ビスマルクは交渉がもたらすものに何らの関心をもたなかったからである。レオン・ガンベッタの透徹した言葉を示そう。
「ビスマルク氏は談判をしたのではなく、交渉をし、事件を長引かせ、バゼーヌに最後の小麦の穂まで消尽させたのであった。」
ビスマルク、モルトケ、ドイツの将軍らはバゼーヌが裏切るとはまったく考えていなかった。フランス人はいつも、ドイツ人は嘘をつくと考えていた。責任者は根こそぎにできない偏見に逆らっていくことを警戒するものである。デュ・バライユはその日誌の中でこう述べている。
「身代わりの山羊が必要であったし、われわれの不幸の重荷を背負い、傲慢にも重荷を下ろすことを可能にする生け贄を必要としたのだ。」
バゼーヌ裁判は無能な司令官の裁判、たった一人の男の裁判であって、けっして軍隊の裁判ではなかった。それとは正反対に、圧倒的多数の勇敢な兵士と勇気ある士官の罪深い長を乖離させることは容易なことであっただろう。だからこそ、バゼーヌはいわば全部の責任を被ってすべての人々から見放されたのだった。彼はとりわけ裏切者であった。マルグリット、シャンジー、フェデルブ、ドーレル、ソニスは名誉を救われた。共和派の眼には、バゼーヌのアンティテーゼの兵士はダンフェール= ロシュローと映った。保守派は彼の傑出した功績を認めなかった。彼はいったん得た将軍の階級を獲得しなかったし、議員になるために軍隊を捨てた。彼の葬儀に際し、共和派の議員ヴィエットは帝国の召使の残虐行為と裏切り行為を、共和国の兵士の忠誠と精勤ぶりとを対置する。
バゼーヌは無実であると言い張った。判決が確定すると、彼は名誉回復を願った。彼の生前中にそのチャンスは巡ってこなかった。
彼は1888年9月、マドリードにて死去した。彼の妻は最後に彼を見捨て、メキシコで生活するために戻った。新聞の記事はことのほか厳しい非難の大合唱となった。ナンシーで公刊された『クーリエ・ド・ムルト= エ= モーゼル』紙において、31才の若きジャーナリストのレオン・グーレット(後の『レスト・レピュブリカン』の創刊者)は次のような弔辞を書いている。
「バゼーヌは戦うために任命されたのに、交渉した。そこに罪、許し難い罪が宿る。これぞ彼の恥辱のもととなり、後世の人々に彼を卑賤に引き渡すもととなるものである。彼は死んだ。彼の遺体を墓穴に投じよ。彼の記憶のために、それは晒し台に永遠に繋がれる。」(1888年9月26日)
アシーユが埋葬されるや否や、弟のアドルフは名誉回復の企図を引き継いだ。彼は懐疑主義と軽蔑にぶつかった。
25年後、有名な軍事史家のパラ将軍は『ル・タン』紙の1913年12月2日号でバゼーヌ事件を取り上げる。彼はこの人物を残酷な肖像として描く。
「止むに止まれぬ肉欲に溺れ、物欲と…[中略]…冷酷な弱さに囚われた奴」。彼は正当にも『彼はかれの能力を超えた義務を課された』と述べる。
そして、結論はこうである。
「バゼーヌはメッスを売ったのではない。彼はまた、国の高級な利益を裏切ったのではなかった。」
各世代にわたって随筆家、しばしば未発表の資料で武装した素人歴史家たちが攻撃の陣を張り、器用さにおいて程度の差こそあれ、バゼーヌの無実を示そうとつとめる。ドマール公の所有するシャンティイ城に保存された資料の助けにより、モーリス・ボーモンはその資料を2つの著書『メッスの詰め将棋とバゼーヌは犠牲者か、それとも罪人か?』として刊行した。長い間、裏切りの非難は感情的な力を保持しており、それを扱う者は物凄い嵐にぶつかった。アルフレッド・ドレフュスは裏切者と信じられたばかりに、不当にも有罪となったのではなかったか。大戦中、裏切りとして非難された政治家たちがいる。その中にジャン・ルイマルヴィ、ジョゼフ・カイヨーらが含まれる。次いで1940年~1944年の戦争において裏切りはもうひとつの顔つまり「対独協力者」をもつに至った。この文脈において共産主義者たちがペタンとバゼーヌを同列視するのは驚くに当たらない。1870年の思い出がかなり朧になったときでも、バゼーヌの名は裏切りの同意語として民衆の記憶のなかに長く残ったのである。
第5章 軍と国民
戦争は国民と軍の関係を修正または屈折させる。過去において軍隊が1870年以後ほど尊敬されたことは一度もなかった。敗戦が批判と疑念を撒き散らしたのではない。反軍国主義と平和主義は一時的に面目を失った。そうした反転は共和派において最も劇的であった。国防政府の失敗に懲りて、国防に関する彼らの見解のユートピア性が暴かれた。共和派は新兵徴募に反対することの危険性を悟り、以後、軍事的教練の擁護の立場にまわった。「常備軍の廃止」または将校の選出を唱える者はいなくなった。
役に立たない国民衛兵制度は廃止される(1871年8月24日法)。国民衛兵は二度と徴募されないだろう。もはや非正規の軍役はもはや要望されない。国民総動員の神話や数の優越性は敗北の諸事実によって完全に否定された。かつて「軍カースト」を批判していたアンリ・ブリソン、ジャン・マセのような進歩派の共和主義者さえも国防努力を支持する側にまわった。軍隊の再建はティエールの主要な関心のひとつだった。それは法律条文で明文化されるまえに事実的に実現されていた。フランス軍はコミューンに敵対して編成され、次いでドイツ軍の撤退に応じて国土の回復を促した。立法措置(兵役、国土組織、カードル、要塞化)のすべては1872~75年の間に達成された。再建は非常に急速であった。軍事問題に関してもっとも能力があり、先見の明ありと自認するアドルフ・ティエールはむしろ古典的な見方をもっていた。彼は将軍たちとの技術的問題を心配しなかったし、議会との論争もそうであった。
1872年7月27日の軍事法が世論の批判を巻き起こしたとしても、それは否認ではない。同法は以下のような根本原則に従っていた。すなわち、徴兵は国民の義務のひとつである。すべての国民は20才から40才まで軍役に従わなければならない、と。職業軍の優越を信じて疑わないティエールは5年の現役、以後4年の予備役、11年の郷土兵役を採用した。このような期間は割当定員の召集を排除した。4分の1ずつ抽選で決められた割当定員は僅か6か月であった。徴兵免除は数多かった(聖職者、教授、家族扶養者など)。1年兵役のプロイセン志願兵を真似た規程もあった。つまり、バカロレア資格をもつ若者は1,500フランを支払うことによって僅か1年に短縮することができた。もし彼らの訓練が十分と判断されたときは、彼らは予備役士官から外された。1879~80年、若き日のレイモン・ポワンカレーは法学士の資格をもっていたが、ナンシーのサント=カトリーヌ兵舎の狙撃部隊で兵役をつとめ、予備役将校となった。勤勉な彼は規程に則り兵役期間をつとめあげるだろう。ブルジョア階級に軍事教練を免除した不公正な交替制度は全廃された。
新フランス軍は平時で理論上は46万4千人にのぼる。この数字は1870年7月と比較して14万の増である。戦時にはそれは70万に増加した。これはドイツ軍と均衡をとることをめざしている。戦争を仮定して1875年3月13日の法律つまり指揮官法は士官と下士官団の形成を備えた。この指揮官団は、宣戦布告がなされるやいなや自動的に歩兵連隊となる第4大隊を指揮することになった。それでもまだ兵役免除があった。つまり、再編された軍隊はなおまだ市民軍ではなかった。共和派はこの不平等条項を批判する。彼らはもっと短く、かつもっと広範な現役徴兵制を好んだ。1877年に兵役期間は4年に短縮された。1889年、フレシネはすべての免除規程を廃止し、3年制の国民皆兵の兵役制を採用した。
次いで、指揮官が注視の的となった。彼らの質と士気の点でプロイセンと同等か、またはそれ以上であったかもしれない。戦後数年でその実数は2万を超えた。ついで1880年の末にはその数値は2万7千人を超えた。指揮官の大多数は歩兵団と騎兵団についてはサン=シール士官学校から、高度の武器を扱う兵団についてはエコール=ポリテクニクから来た。これは高位階に到達するための王道であった。バゼーヌが享受したような直接の昇進方法が完全消滅したわけではないが、それはしだいに、1874年に創設された特別学校による下士官の形成にとって代わるようになった。下士官学校すなわち騎兵のソミュール、工兵と砲兵のヴェルサイユ、歩兵のサン=メキサン卒の候補者は軍隊の指揮官となった。彼らは1890年ころ全体の3分の1以上を占めるようになる。
社会的募集の形成の見地から見ると、士官は均質な階層出身からほど遠い状態にあった。大多数は中流階級の出身であり、戦功と教育によって昇進した。農民は子弟のなかで最良の部分を送りつづけた。リヴサルトの樽職人の息子であり、ポリテクニシアンのジョッフルはパリ籠城期に1大隊を率いていた。他の多くの例を挙げることができる。少数派となった貴族出身者は騎兵と海兵においてはかなり残った。彼らはおそらくは簡単に昇進できたと思われる。なぜというに、パリにおいて自らの地位を支えるべき手段をもたねばならなかったからである。
敗北に関する省察は作戦計画の百家争鳴を引き起こした。砲兵、工兵、主計、衛生兵は再組織され、より効率的なものとなった。動員戦略は真面目に考究されたが、その証拠は兵の集中計画に認められる。しかし、慣行、規則無視(表面上は尊重しつつも)、駐屯生活への埋没などは永続的な危険であり、その背徳的な結果は動員時にあらわれるはずである。ポリテクニク出身の将校団を除き、知識層はかなり低水準のままに残った。たしかに、サン=シール出身者は大学入学資格をもっていたし、それは当時の社会においてはかなり例外的な状況だったが、学校で修めた教科は好奇心と省察を発展させなかった。駐屯生活への安住はそうしたものへの渇望を掻き立てた。この傾向とたたかうために、1876年に陸軍大学が設立された。同校は中尉と大尉を集め、職業教育ならびに一般教育を提供。陸軍大学は1870年のときのような無能な高級指揮官の編成を避けるためのものである。その卒業証明はしだいに高級軍人を占めるようになり、責任と決意の機能に接近した。創設の数年間、熱狂は大きかった。次いでそれは醒め批判があらわれるようになった。それは真っ先に軍人階級から出た。陸軍大学は「軍官僚」を生み出したがゆえに非難された。また生徒をナポレオン一世に、スダンに固定したがゆえに、あらゆる技術と科学の進歩への省察に導くのではなく、アウステルリッツとサン=プリヴァを再現するのに費やしたため非難された。戦史研究は戦略も戦術を刷新するのではなく、一つの刺激にすぎず、もっとも勤勉でもっとも有能な要素を選び出し、政治的賞賛と影響力の役割に矮小化された。
戦争に続く数年間、他のすべての考察にも増して中心となったのは国土の防衛、新たな侵入の撃退という主題であった。セレ・ド・リヴィエールの要塞化された体系の構築、動員計画などがこうしたものである。たしかに、ほとんどの者の脳裏を占めたのは、失われた諸州の奪還である。多くの士官団は併合されたアルザスとロレーヌの出身であった。メッスとストラスブールの思い出は多くの者の脳裏に残っていた。1914年戦役の前夜に陸軍大学校長のフェリー将軍の例がジャン=シャルル・ジョフレの『フランス将校の歴史』に引用されているが、これは最も象徴的である。
「私が他の職業ではなく軍隊を選んだのは、私の家族と私がナンシーで生活し、われわれが侵入の厳しい苦難を味わったからであり、いま一度戦争が起きたとき、対ドイツ戦争で重要な役割を演じることを心に決めたからである。」
士官においてはドイツへの敵愾心はモルトケ、ビスマルク、ヴィルヘルム一世に奥深く定められた。その大多数は復讐の無分別な冒険行動に駆り立てられることはなかった。つまり、しかるべき時が来たときに、備えなければならないという決意がそれだ。“スダン”、ナポレオン三世の無能ぶりが締め言葉となった。彼らは政治体制や王朝にもはや有機的に結びついていなかった。軍隊はもはや国家元首の所有物ではなくなり、国民に奉仕するものとなった。王党派の保守派と共和派の間の分裂は軍隊でも国民の間でも見られた。それは指名と昇進に関して影響を与えた。「道徳秩序」の時代には国家首長のマク= マオン元帥は兵士であり、保守派の将軍連は責任あるポストを占めた。共和派は、衝動的な連中がクーデタを起しはしないかと恐れた。ガンベッタは心配し、シャンジー、フェデルブ、トゥマス、ボレルのような共和派の将軍連はいかなる誘惑にも乗るまいと警戒した。1879年1月、マク=マオンを共和派に対置したのは軍隊における権力であった。その古い仲間を犠牲にする代わりに、マク=マオンは引退し、共和国大統領を自認する道を選んだ。勝利をおさめた共和派は賢明にも粛正を引退組に限定した。宗教団体への対抗措置につづき、カトリック派に起きた辞職の動きは軍隊への義務を容易化した。なお現役に止まった王党派の将校団はたいていの場合、責任ある地位から外れた。緊張と紛争は絶え間なかったし、軍隊を麻痺させることもありえた。この危険はしばしば起きたが、それは回避されえた。なぜならば、すべての士官団は同じ理想を共有していたからだ。つまり、軍隊の最高の使命は国土をドイツの危険から防護し、防衛することであるという理想を。重大な政治的不一致のゆえに、あるいは良心の理由により将校は軍隊を辞職することもありえた。とはいえ、何であれ冒険行動は回避された。フランス軍はもはやクーデタの軍隊ではなくなった。軍は共和派により国家の征服がなされたときでもそのことを示したし、1877年5月16日にもそれを示した。軍は1887~89年にも同じことを示した。このときジョルジュ・ブーランジェ将軍が復讐の観念でもって体制に対して謀反を起そうとしたのであったが。
ほとんどのフランス人は強力で数が多く、尊敬される軍隊を熱望した。軍隊は1870年の敗北から偉大となった。勇気あるフランスの兵士は自分の生命までも投げ出すことを承認した。エピナルのペルラン社によって出版された戦争絵の伝説は飽きもせずこの主題を取り扱う。大革命と第一帝政の兵士の相続人あることを、それらの反対派すらも武勲の前にひれ伏す。政治家や将校、司教や僧侶たちの演説はこの汲み尽くせない主題を扱った。兵士の社会的イメージは非常に肯定的なものになった。作戦で生まれた破片は収集の対象となった。トゥール、ヴェルダン、エピナル、ベルフォール、ラングルの要塞化のための土地収用は喜んで迎え入れられた。兵士は自慢の対象となり、人々は彼らを取り巻き、行進やパレード、演習の見物が好まれようになった。共和国の7月14日は民間の祭典というよりは軍事的な祭典となった。兵役に就くということは名誉であり義務となった。いかなる者も忌避しようとはしなくなる。サラン・サンティネル・ド・ジュフ射撃協会の競技会がおこなわれるときは、郡のある議員は次のような月並の言葉を残した。すなわち、
「わが国における愛国心は特別の水準に達した。各人が兵士になろうと欲したに止まらず、すべての者が兵士の義務を理解するにいたる」、と。
これまでになく、人々は階級に憧れるようになった。民衆の世界では、下級将校ないし下士官は尊敬される人物となった。栄誉を挙げての引退後は、人々は協会を活気づけるために彼らの方を振り向いた。ドイツ軍役を免れるために併合地を脱走し、フランス軍に参加したすべての若者については特別の言及がなされねばならないだろう。
ドイツの危険の自覚は余りに強かったので、反軍国主義はすべての世代に亘って面目を失った。だが、その思潮は1890年代に、知識人、無政府主義者、社会主義者の間に様々なかたちをとって再発した。とはいえ、それは、民衆世界にほとんど影響を与えることのない、周辺的な現象にとどまった。その流れを決定的に曲げ、軍隊の行動に関して一大変化を引き摺ったのはドレフュス事件であった。以後は軍隊の行為は論議の対象となった。1871年に始まる賞揚と尊敬の時代は幕を閉じたのであった。
第6章 共和政の安定
1870年代の終り、共和派は王党派を打ち破った。すべての選挙において共和派が勝利をおさめた。1879年、マク=マオン元帥は辞職する。ジュール・グレヴィが共和国大統領に選ばれた。フランスの政治史において1ページが捲られたことになる。ここではその輪郭を描いたり、それに対する説明解釈をしたりすることがわれわれの課題ではない。次のことを想起するだけで十分だろう。すなわち、フランス人の多数派は躊躇の時期を経て1870~71年の諸事件から共和主義の解釈に従ったこと、彼らが保守的な解決法を退けたということである。レオン・ガンベッタ、シャルル・ド・フレシネ、ジュール・フェリーなど国防政府の閣僚たちが復職した。共和派の楽天主義は右翼の悲観主義にうち勝ったのだ。彼らは国を再生し、フランスに安寧をもたらす権限をもつにいたった。彼らは、自分らこそが、「国民と軍隊」を結合せしめる協約を絶対的なものにしうる唯一の存在であると自認した。
1889年についに法制化された平等かつ義務的な兵役をもってこの軍隊は市民の軍隊となった。系統はヴァルミー(つまり共和国2年の兵士)、ナポレオンの元帥たちというよりは、有能な大革命の将星たちの直系のものとなった。共和政こそが「軍隊を強力なものとする、その独立性を確保することを」可能ならしめる唯一の体制となった。彼らは「わが国の辱め、わが国の敗北からたち直った共和政フランスの活力」を強調した。学校と同じように、軍隊は将来の市民にとって偉大な教育者となったのだ。「諸君の子弟を諸君の軍旗のもとで必要な期間を過ごさせたえ。これぞ、1870年の大悲劇から引き出された教訓である」と、ある将軍は25年後に説明した。祖国再生の道具、国土を侵入から守る要塞としての軍隊は、事情さえ許せば復讐の道具ともなりうるのだ。この「復讐」という言葉は公式には決して宣せられないであろう。長い間、それがすべての者の口から出たことはまちがいない事実である。この形式のひとつにおいて、ガンベッタは失われた諸州について次のように語る。「つねにそれを考えよう。だが、決して口には出すまい!」、と。
この点に関して共和派は均質なブロックを形成したのではない。年齢、出身地、教養程度、戦争の経験の有無によって行動の差異があった。ガンベッタの古き協力者にして将来のインドシナ総領事となるポール・ベール――彼は1870年にオクセール、ボルドー、リールで過ごした――のような人物は復讐精神において傑出している。彼の公教育との接触は「学校大隊」の経験によって刻印される。政治的にポール・ベールに近いルネ・ワルデック=ルソーはまったく異なった地平に立つ。将来の内務大臣(1883~85年)にして大統領(1899~1902年)となる彼はナントで戦争を経験した。ここで彼の父が市長をつとめていたのだ。彼は遅れ馳せながら1870年11月に入隊したが、サン=ナゼールの兵営を離れなかった。彼の略歴をまとめたピエール・ソルランによると、彼はアルザス=ロレーヌの併合の悲劇によってほとんど影響を受けていないという。彼は軍隊の宗教も、愛国心の宗教も経験しなかった。彼の目には、フランスの再生はひとえに「国内問題」であった。ワルデック=ルソーはこの点で沈着な人物であった。
共和主義的解釈の政治的勝利は論争にケリをつけたのではない。カトリック派は、共和派が愛国主義の専売特許ではないこと、彼らの愛国心もまた政敵のそれと同じように価値があり尊敬に値することを宣言した。ガンベッタに対する批判は彼の死後もつづき、アクシオン・フランセーズの作家たちは彼に反対するため松明を再びとりあげた。40年後、年老いて辛辣となったエミール・オリヴィエは1910年に『戦争の哲学』と題する新たにして最後の正当化を発表した。
1918年の勝利はニュアンスこそあるが、共和主義の解釈を力づけた。レイモン・ポワンカレーとジョルジュ・クレマンソーはガンベッタの遺産を豊かにした。神聖同盟を可能ならしめ国を救ったのは共和政であった。
時の流れとともに、歴史家と軍事作家たちはより高い見地から見つめるようになる。彼らは帝政の戦争と国防政府の時代を批判する。ジェルマン・バストは皇帝が病気であったことを強調する。苦しみに導かれナポレオン三世は1866年に彼の軍事計画案を実現すべく「執拗に食い下がらなかったし、十分に強い圧力を行使しなかった」。これはシャルル・ド・ゴールの見解でもあった。『フランスとその軍隊』のなかで、彼はナポレオン三世を、世論・議会・技術者の抵抗を潰すことによって自己の思想を押しつけなかったゆえに非難した。敗北の原因について彼は、流れに敢えて逆らおうとしなかったナポレオン三世の気力の欠如を指摘している。国防政府時代についてド・ゴールはその弱さを軽視しなかった。つまり弱さとは、パリ政府の権威の欠如、「無経験から来る過誤、イデオロギー的偏見」、「予測不能事の続発」、しばしば躊躇しない政治的顧客の貪欲さなどである。パリではトロシュ将軍はマク=マオン、フロサール、ファイイ、ウェンファンと同じように当てにならなかった。「国民的な偉大な役割」を演じることができたはずだとし、トロシュには「企図の大胆さ、我慢の執拗さ」が欠けていたという。ジェルマン・バストと同じように軍事作家の作品を考察したシャルル・ド・ゴールは国防政府に利ありと見なした。ガンベッタとフレシネは国民的意思の化身として戦争を指導し、「集団的エネルギー」を解放しようとつとめた。1870年夏の大敗北の後、冬の戦いは名誉を救い、国民に「士気の便益」を与えた。
われわれはいかなる証拠ももたないけれども、こうした省察は1940年6月18日の歴史的決断に関する背景に傾いていると考えることができよう。第二次世界大戦後、関心は1870年の戦争に向けられた。軍事的諸事件はそれ自体としてもはや切迫したものではなくなり、それらはコミューンを準備した程度において把握されるようになった。アンリ・ギユマンによって書かれた3巻の『コミューンの起源』は「1870年の奇妙な戦争」「パリの英雄的な防衛」、「開城」という副題を掲げている。論争家の情熱を込めて彼はナポレオン三世と彼の体制を圧倒し、ブルジョワ共和主義を激しく攻撃する。曰く。「ジュール一族」すなわち「ジュール・ファーヴル、ジュール・シモン、ジュール・フェリー」、と。ギユマンは彼らを国防政府をボルドー政府(ジュール・グレヴィ、アドルフ・ティエール)との共謀のゆえに非難する。
敗戦と講和という恥ずべきこれらの支持者たちの隠された動機はフランスのブルジョアジーの経済的財政的利害を保護することであった。その理由のゆえに彼らはパリ市民のアルザス=ロレーヌ人の名誉を喜んで犠牲に差し出したというのだ。多くのブルジョアたちは、彼らがどのような政治的見解をもっていたかは別にして、軍役につくことに憤慨したのは明瞭である。彼らは過去においてニエル計画案を要求していた。しかし、この同じ人間たちが1870年に参戦し、たいていの場合、勇敢に戦った。遊動隊の将校の中には、重大な過失は例外的なものにとどまった。敗北は非常に多様な階級の行為によって説明され得ない。1871年2月の講和の妥結は軍事的国際的な状況の現実的な分析と、フランス人圧倒的多数の願望とに由来する。第二帝政を襲ったオストラシスムは恒久的なものであった。それは歴史教育によって維持され、極左の演説に維持されるところの共和派の演説によって維持された。1870~71年の大破局が比較的に正しく理解されるためには、フランスは他の惨劇と他の大破局を経験しなければならなかった。第二帝政についてもっと緩やかな解釈が提案されるためには、歴史は経済的、金融的な分野を切りひらかねばならなかった。ごく最近に発表されたナポレオン三世の伝記、すなわちルイ・ジラール氏の伝記は、「12月2日の男」とスダンの男に関して、ニュアンスを設けながら率直に、かつ一切のへつらいなしに一陣の光を当てている。