第17編 戦争の費用
第1章 戦争の費用
あらゆる戦争は人的損失、破壊、例外的な出費を引き摺るものである。これらの直接の損失を数値で表すのはできない。さらに経済活動の弛緩ないし停止をそれに追加しなければならない。あらゆる種の損失はフランス側においてはるかに大きかった。なぜというに、戦闘はドイツ内ではなくて徹頭徹尾、フランスの領内でおこなわれたからである。
第1節 人的損失
20世紀の戦争の数値と比較すると1870年の戦争の数値は僅少であるようだ。民間人と軍人の2つのカテゴリーの犠牲者に関していえば、最も犠牲を払ったのはフランスである。すなわち、戦争に起因する死傷者と1870~71年の冬の過剰死に起因する間接的な死者(窮乏、移動、伝染病)とがそれである。もっとも被害の大きかった部門は、砲撃と軍事作戦行動の集中した要塞とパリ近辺である。一方、孤立した民間人はゲリラに対する戦いに関係する弾圧の犠牲者であった。最多の数値が出たのは要塞都市である。262人がベルフォールで殺害された。ここでは町が73日間も砲撃に晒された。パリのセーヌ左岸で275人の死者が出た。メジエールで53人、ストラスブールで400人の死者と1,600~1,700人に負傷者が出た。
1870~71年の過剰死はチフス、チフス熱、赤痢などの疫病に因る。それは、軍隊の移動と包囲の激しかった北仏と東仏に集中している。それは若者の召集に由来する出生率の低下と結合する。これら2つの現象の重なりあいは1871年の統計調査を特徴づける人口学的低下に帰結する。1866年から71年の間にフランス人口は38,192,064人から36,102,921人に、つまり2,089,123人の減となっている。うち15,972,288はアルザスとロレーヌの失陥に起因し、差引で約60万人が戦争に因る人口減になる。野戦軍によって被った損失は、徴兵が統計的正確さをもって作成されたドイツ側ではよく知られている。フランス領内で戦った887,876人の総数のうち、損失分は127,883人で、実数の14.4パーセントに相当する。これは戦闘と病気による死者を含む。
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戦闘での被害 死者 負傷者 行方不明 将校・下士官 1,534 3,114 106 兵卒 22,497 86,114 14,032 合 計 24,031 89,228 14,138 |
死者に、病死の28,596人の軍人(268,968の兵卒と1,700人の下士官)を加えなければならない。死者の合計は50,927にのぼるが、そのうち半分以上が戦闘で死んだのではなかった。この事実は特筆に値する。チフス熱、赤痢、チフスまたは他の伝染病が弾丸、砲弾破裂、剣撃ないし銃剣撃によるよりは多くの兵士を死に追いやったのである。
固有の意味での戦争を通じて、損失は戦争の初期のほうが残りの時期全体よりも遥かに大きかった。ドイツの勝利は高くついた。つまり73,000人が8~9月の間に戦闘不能に陥った。その数値自体が雄弁である、20、557人がグラヴロット~サン=プリヴァで、10、530人(死者は1、628人)がウェルトで、9,032人(同1,137人)がスダンで斃れた。これらの数字はナポレオン戦争の損失よりも大きい。ジャック・ウダイユによれば、戦いに参加した13,000人のうち11、000人(つまり8.5パーセント)がワーテルローで戦闘不能に陥った。それと比較すると、ル・マンの戦闘の3日間(1871年1月11~13日)で2,325人が戦闘不能に陥り、うち454人が戦死した。8月にドイツ首脳部がなぜ憂慮したかがよくわかる。サン=プリヴァで衛兵連隊は理論上の数字15、000人のうち4,300人が失われた。戦勝はこの流血の惨事を覆い隠す。しかし、新聞が控え目の発表をしているにもかかわらず、後に発表された戦争の兵士の回顧録や手紙はいかに多くのドイツ兵が失われたかを物語る。つづく4ヵ月間に損失はより堪えうるものになった。すなわち57,000人が戦闘不能になったのだ。
これらの損失の本質部分は、損失実数の3分の2以上を占めたプロイセン軍が被った。バイエルンは戦場に赴いた134,744人のうち15,548人が失われた。バーデンは30,772人のうち3,418人、ヴュルテンベルクは13,324人のうち2,712人にのぼった。
フランス側では、大量の戦争捕虜をだしたがゆえに損失ははるかに甚大であった。スダン、メッス、ストラスブール、他の幾つかの要塞都市の落城の後、ドイツ軍は約37万人を捕虜とした。未曾有の巨大な数であり、これは勝利者側を大いに当惑させた。死傷者と行方不明の合計は139,000人の戦死、一43,000の負傷と見積もられる。マルティニアンによってなされた計算のおかげで、将校団についてのみは議論の余地がない。しかし、兵卒については数値の確かさはおぼつかない。
ドイツ軍にとってと同様に損失は緒戦において激しかった。メッス周辺の戦闘と籠城中の傷と病気を原因とする死者は42,463人の死者、負傷者、行方不明者を出した。スダンではフランス軍は2万から2万1千の死者、負傷者、行方不明者を出したうえ、8万が捕虜となった。すなわち少なく見積もっても10万である。ドイツ軍の損失の3倍以上にものぼる。損失は階級に比例する。すなわち12人の将軍が戦死した。スダンでは2人の将軍が戦死、20人以上が負傷し、その中にマク=マオンが含まれる。
戦争が後半に入ると、仏独間の均衡は失われる。メッス軍の降伏は約18万を戦闘不能に陥らせた。ロワール川河畔と東部では、フランス側の損失はドイツ軍のそれを上まわった。ドイツ軍が秒魚陣地の塹壕を築いたパリ周辺では、シャンピニー、ビュザンヴァル、モントルトゥーなどフランス側の出撃戦の試みはことごとく死者の山を築いた。また、ヴェルサイユ軍の損失を考慮しなければならない。それは以下のとおり。
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死 者 負傷者 行方不明 将校・下士官 83 430 兵卒 794 6,024 183 合計 887 6,454 183 |
戦闘死に加え、捕虜生活のなかでドイツ兵営で死去した者を付け加えねばならない。大雑把な数字で17,000人で、うちライン軍が11,000人にのぼる。
最終決算における不確かさにもかかわらず、数値は両陣営ともに、人的損失はドラマティックな性格を帯びていなかったことを示す。死者よりずっと多い不具者と廃失者がいたのである。戦火を経験した世代、すなわち1840年から1852年に出生した若者たちは掃射されたのではなかった。両国の戦力は完全に打撃を受けたのではなかった。第一次世界大戦の恐るべき血みどろの惨事からはほど遠かったのである。
第2節 物的損失
それは専らフランスとアルザス=ロレーヌに関わる。まず最初に戦闘、砲撃、各種の戦争行為に起因する破壊の一覧表を作らねばならない。もっとも被害の大きかった都市はストラスブール、ティオンヴィル、ファールスブール、セレスタ、トゥール(Toul),ヴェルダン、ロンウィー、モンメディ、メジエール、ソワソン、ペロンヌの町である。
最も長期にわたり、しかも最も集中的な砲火を浴びたのはストラスブールとベルフォールである。多くの家屋が火災に晒されたベルフォールと付近の小郡(カントン)にとって各種の破壊は五〇億フラン以上にものぼり、うち27億フランが家具と不動産である。要塞都市のほかに、防備を施され、砲撃を受け、宿所割当てにより破損された近隣の村落があった。破壊がことのほか大きかったのはメッス周辺、1月の砲撃が破壊を生じせしめたパリの周辺、火災で消滅したサンクルーとサン=ドニ、そして南部郊外である。
ひどい損失を被った第二の領域は鉄道であり、通信手段と工芸作品(橋梁、トンネルなど)であった。鉄道は大きな被害を被った。つまり駅舎、給水栓、プラットホームとレール、車両そしてとくに芸術作品である。多くの橋が爆破された。東部鉄道のうち59、北部鉄道の45、PLMの15、オルレアン鉄道の9、西部鉄道の9(うち3つはセーヌの水道橋)がそれである。被害の責任はフランス軍とドイツ軍の両方にある。たった一つの鉄道網の被害でさえ1200万フラン以上にものぼる。最も甚大な被害を出したのはその鉄道網の46パーセントが失われた東部鉄道会社とその支線のルクセンブルク大公国のヴィルヘルム~ルクセンブルク鉄道網であった。ビスマルクが戦争賠償金から差し引くことに同意した3万1500フランは公的権力によって東部会社に支給されなかった。それは年額2050万ずつ貸与される国家による貸与金となった。
その他電信網、運河、道路と橋梁が被った被害を付け加える必要がある。これら246件は部分的にか全体的に破壊された。
通信方法の部分的再生が東部の課題となった。メッスとティオンヴィルによってドイツを横切るのを避けるために、フランスの領土を通ってブリー~ロンウィ地方にサービス提供するために鉄道路の建設が必要となった。マルヌ川からライン川への運河が以後は併合地を通り抜けるために、新たな水路を切り開く必要が生じた。国家は1876年から1886年の間に東部運河を実現したが、可航化されたムーズ川を借りる北部支線はナンシーに達した。そして南部支線はエピナルとグレーを通ってモーゼル川とソーヌ川を結んだ。当時としては非常に高くつく総額は約6500万フランに達した。これは重要な公共投資であった。
第2章 フランスの財政
第1節 戦費捻出のための借款
1870年7~8月、ナポレオン三世の政府は速やかに特別の財源を見出ださねばならなかった。クリミア戦争やイタリア戦争のときと同じように、政府は借金で賄った。大蔵大臣マーニュは3つの古典的な手法に依存した。すなわち、フランス銀行から国庫への前貸金の上限のアップ(16億フランから24億フランヘ)、国庫債券の発行(100万フラン)7億5千万フランの借金であり、これらは容易に隠すことができた。政府は用心のため紙幣の強制流通を命令した。なぜなら、紙幣は隠される傾向にあったからである。マーニュは総額で約25億フランを手にしたが、この額は1870年の経常予算を上まわり、将来への転化となる巨大なものであった。
スダン陥落の直後、国防政府の新大蔵大臣エルネスト・ピカールは財政状態が健全であるのを見出だした。彼は戦争遂行によって必要となった出費を賄うために必要な財源を処理した。エルネスト・ピカールは正直にも、前任者の巧妙な資金捻出策を褒めたたえた。このことは当時の非難がましい雰囲気のなかでの勇気ある行動であった。1870年9月、大蔵大臣とフランス銀行総裁はパリにとどまることを決意した。
トゥールへの最初の派遣者はルシーであり、2番目は副総裁のキュヴィエであり、後者は1億5千万フランの紙幣を持参した。派遣部で財政問題を処理したのは彼ら2人である。周知のように、軍事作戦行動に刺激を与えるためにガンベッタが到着したのちは財政的必要は急速に増大した。キュヴィエは法に定められた上限まで借金をなすことを承認した。一方、武器購買のために外国に支払うべき財源が必要となる。1870年10月、派遣部はロンドンにクレマン・ローリエを派遣し、モルガン商会からの借款の交渉をおこなった。これがフランスの2度目の借款であり、2億5千万フラン(利子を除くと2億200万フラン)にのぼった。これは非常にわりの悪い条件で約定された(実質利子率は8.75~9パーセント!)であった。それはイギリスおよびアメリカの供給者に支払うことができた。秋以降となると、派遣部は紙幣の不足に直面する。取引を容易化するために、町と県は5~10フランの小額紙幣を発行するのを許可された。1870年12月、派遣部の財政状態はさらに悪化。日に最低でも1千万フランを出費するようになった。東部への遠征軍を派遣しようとしたガンベッタは、新たな財源を見出ださねばならなくなった。税は無理であり、貯蓄銀行はほとんど空っぽの状態だった。遊動隊を装備しなければならない市町村は投資を引き揚げた。恒常的な財政流通は解体された。新たな国際的な借款はもはや不可能であった。「すべての大銀行家は門を閉めた」のである。
通常の財政に害を与えることなく、また国家の債券に害を与えることなく財源をどのように見出だそうとするのか? アッシニャの経験の再現を恐れた派遣部は2つの解決法をとる。すなわち、派遣部はそれらを併用した。第一は法的制限を超えているにもかかわらず、フランス銀行から新たな借金をすることである。派遣部は副総裁キュヴィエの拒絶に遭う。彼は限界を超えることに強硬に反対した。激しく抵抗したあげく、彼は署名するよりもむしろ辞任の道を選んだ。つづく後継者は国有林を担保とする新たな借金を承認した。もっと悪質な2番めの解決法は、フランスの物資供給者に支払うのに国家債券を発行することだった。この方法は12月、1月、2月に広範に利用された。
パリでは蔵相エルネスト・ピカールはトゥールやボルドーより恵まれた状況にあった。資金はそれほど必要ではなかったからだ。彼はフランス銀行から2つの借金を得た。休戦協定の締結時、利子率は非常に低く、フランス銀行の決算表は割引債券の膨脹状態にあった。交換市場でフランの低下はかなり限定された。それはコミューン騒動にもかかわらず一時的なものであり、次いで戦争賠償金のドイツへの支払いと関連して財政行動が取られた。
全体としてフランスの信用は良好であり、外国は、フランスの富はほとんど失われていない、その国はそれが経験した休止符にもかかわらずすぐに国力を回復するだろうという印象をいだいた。
戦費についてはいろいろな値踏みがなされてきた。直後にティエールは概算80億フランを挙げている。議会の報告とくに大臣レオン・セーの報告は90億フランを超えたとしている。それはすべて計算方法如何による。コミューンに関連する軍事ないし民事の負荷を計上するべきか否か? 論理的には間違いである。しかし、同時代の人々はほとんどこうしている。民事・軍事の年金と東部国境の要塞化体系の構築を入れるべきか? その回答は議論の余地なくそうと言える。1875年、エルネスト・アンドレは130~140億フランの数値を挙げている。1925年、ガブリエル・アノトーは153億6千万フランに上昇させている。第一次大戦を経験したギ・ペリエ・ド・フェラールは1870~76年の予算と議会報告書を精細に分析している。彼はそこから162億7500万フラン(うち146億8500万フランは国家負担)という数字を弾き出す。この額は1870年の経常予算額の10倍に相当し、また当時1700億と評価されるフランスの資本総額の10分の1に当たる。比較すると、普仏戦争はクリミア戦争、イタリア戦争、メキシコ戦争の3つの戦争の4倍に相当する負担を国民に課したことになる。後者の3戦争への出費は40億フランを超えていない。
ギ・ペリエ・ドゥ・フェラールの挙げる数値を以下に示す。
戦争に起因する臨時の支出(単位:百万フラン)
1 戦争臨時支出 2,247,794,564.08
2 条約履行 5,684,338,035.70
3 戦争被害 563,551,877.00
4 再建費用 2,140,945,666.00
5 借款 326,624,377.28
6 負債認知 1,697,836,031.46
7 1870~71年借款の減価 286,269,816.68
8 国家負担の総額 14,685,925,057.20
9 県・市町村・個人の負担額 1,589,012,000.00
計 16,275,045,330.00
最も重くかつ時間のかかる部門は条約の履行に起因する部門である。すなわち、戦争賠償金、占領費、アルザス= ロレーヌに関連する訴訟費の総額で56億8,400万フランであり、総支出の38パーセントを占める。占領費を含むもう一つの要約確認は総額で上記より僅かに上回る59億2,900万フランになる。
ドイツに支払われた要約確認(単位:100万フラン)
戦争の期間中に徴収された負担金 251
戦争負担金 5,000
利子(30億フランに対して) 315
パリの特別負担金 200
占領費 340
小計 6,106
東部鉄道会社への還元金 1,325
計 5,781
戦争の臨時支出は考慮されるべき期間の長短によって評価は異なる。1870年7月18日から1871年2月20日までの期間についてギ・ド・フェラールは22億470万と見積もっているが、他の計算によれば23億フランとなっており、数値は近い。
1870年9月4日から1871年2月20日までの期間についての計算は約10億フランの出費である。つまり9億5900万の債券が政令により振り出され、そのうち3億9200万がパリで、5億6600万がトゥールとボルドーで振り出された。戦争の全期(1870年7月18日から71年2月20日まで)23億フランの債券が発行されたが、それに4億フランの税損失を付け加えねばならないため、つごう27億フランとなる。およそ15億7300万ぶんが臨時の財源(借金、フランス銀行の前貸金、国庫債券)から捻出された。
第2節 国家再建のための支出
武装化、装備、セレ・ド・リヴィエール計画による要塞化など軍事力を再建するためにあてられるべき資金は戦費とほぼ同額の負担となった。なぜならば、それは20億フランを超えていたからである。各種の借款と国庫債券に関連する財政負担の大きさに注目すべきである。財政負担(起債応募者と銀行に対して与えられた便宜、移転費用などなど)は20億フランを超えた。この額はほぼ戦費に等しく、まちがいなく巨額である。もし応募者がよき利得を得たとしても、借金は国家にとっては重い負担であった。この20億フランに、1879年までつづくフランス銀行への償還金をつけ加えねばならない。
借金の年賦払いは1870年代で4億フランに達する。レオン・セーは1875年にモルガン商会の利率引下げに成功した。そのため、毎年の価額は17年間で1,730万に低下した。1883年以降、利率引き下げは5パーセント(1871年~73年)さらなる軽減につながった。負債返済は非常に重かった。1869年にそれは5億5,400万フランであったが、1873年には年予算が27億8,700フランに対して11億3,200万に跳ね上がったのである。それは全支出中の最大費目を占めるにいたった。
2番めに来る軍事支出は4億8,100万フランであり、負債償還以外の他の予算と両立した。また戦争に関連する民事および軍事の年金(年額で2,500万)を考慮にいれねばならない。
10番めの損失費目はアルザス= ロレーヌの失陥を金銭換算したものである。出費の大部分と比較すると、国家が負担した戦争被害は5億6,300万フラン、つまり6パーセント強という比較的軽微な額に相当する。
この出費の全体は借款と国庫経常収入という2種の財源によって賄われた。以下に借款の全リストを掲げる。
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期 日 名目価額 実質価額 実質割合 マーニュ借款 1870年8月23日 750 4.99 モルガン借款 1870年10月25日 250,768 7.42 領土解放借款 1871年6月20日 2,000 2,225 6.29 領土解放借款 1873年7月15日 3,000 3,498 6.17 計 6,000 6,491 |
実質価額は64億9100万フランにのぼる。これにフランス銀行からの前貸金15億10フラン(14億8,500万)と20億フランの国庫債券とがつけ加わる。総額で100億フラン以上が国家によりいろいろな形で借金された。その残りは通常予算のなかから、そして増税の少ない割合(主として間接税)によって支払われた。
臨時支出は次のようなやり方で命じられた。1870年度についてルイ・ド・フォンヴィエルは13億3,600万の支出に達したと計算する。つまり、国家予算の47パーセント、国内総生産(250億フランと見積もられる)の5.3パーセントに相当する。調査委員会の論議においてもほぼ同額の数値が引用されている。すなわち、13億7,300万の臨時債務、2億2,000万の税減、合計で15億9,300万フラン。1871年で出費は上昇。14億2,400万の臨時債務プラス1億7,200万の税減の合計15億9,600万。両年度の合計で32億フランになり、支出の半分はフランス銀行の前貸金で賄われ、残りの半分は借款、国庫債券、譲渡、売却、新税に拠った。
臨時の予算負担は1872年、1873年、1874年にも拡大された。この3年で60億フランが借金の減債に、失われた武装の再建に、セレ・ド・リヴィエール計画に基づく要塞化工事に、個人・企業・地方公共団体への各種補償支出に、それぞれ引き当てられた。したがって、狭く予算的見地から見るとき、1874年において90億を超える額に到達する。さらに、フランス銀行への15億300万の償還金があった。1874年以後は予算超過は2億ないしは1億,5000万単位での償還が可能であった。1879年、すべての償還が達成された。この年、普仏戦争の予算的措置は解消したと見なすことができる。残るは負債償還と年金だけであった。
ギ・ド・フェラールが13億1,000万と見積もる戦争に関連する負担の一部は県や市町村の地方公共団体、会社、個人の帰属するものであった。じっさい、現行のフランス立法は戦争によって被った損害を完全に償うことを想定していない。それは単に補助金とか手当てとかを与えるのみである。1815年の後、侵入の犠牲は非常に僅かしか補償されず、補助金支払いは数年にわたって分割された。今回も同様だった。にもかかわらず、侵入を受けた諸県の議員の名においてムルト県の議員クロードは国民議会に対し、損害額の全額補償を要求する法案を提出した。これには公然と反対することはしないで、旧立法に賛成のティエール――なぜというに彼は公的金庫の利害を守ることを欲していたから――は「戦争という偶発事」と彼が呼ぶところのものを排撃した。彼は言う。
「国家は戦争の偶発事には決して補償しないだろう。国家が補償するのは、国家が当事者であるところの自発的で、意志に基づき、熟考された損害に対してのみである」、と。
この精神においては評価が定まるまで、フランス軍が原因で生じた損害を完全に補償するため、そして、最も重い負担を受けた市町村への援助を与えるため、1億フラン(損害総額の8分の1)の額が票決された。ついで討論は、損害の信頼できる評価に達するまでペースを刻んだ。この操作は1871~72年におこなわれた。要求は第一段階では市町村長によっておこなわれ、次いで小郡委員会の検討に付され、最後に県委員会によって検討された。要求者は徴発手形その他の証明書をもち込むことによって被った損害を正当化しなければならなかったが、こうしたことはいつも不可能なことであった。
第三段階でインタビューをおこなった県委員会は、誇張された要求を明らかにしたり減額したりした。全部ないし部分的に占領された34県について、8億2,100万フランの損害額に達したが、それは6億5,700万に減額され、次いで6億8,700万に直された。こうした数字の変動は、多様な文書においてかなり異なった数字を見出だしうること、それは評価対象の水準と計算の様式の差に依存することを説明する。セーヌ=エ=オワーズ県、セーヌ県、セーヌ=エ=マルヌ県、アルデンヌ県は1億5千万から7千万フランで先頭に位置する。マルヌ県は最も多くの税を支払った県である。以下に例示する。
諸県によって評価された負担
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Aisne Eure SartheSeine-et-Marne Seine-et-Oise Total France |
税・上納金 8 404 532 2 638 262 1 873 860 3 081 946 5 721 431 79 558 282 |
徴発 5 734 909 2 568 180 2 824 929 12 658 452 11 932 462 134 154 491 |
宿泊 5 497 988 955 455 2 014 199 6 206 600 12 289 484 101 455 323 |
損害 8 555 543 4 335 301 10 897 339 51 106 207 121 912 662 303 658 496 |
物的損害を最も被った市町村はパリ地方のそれであった。ナンシー、シャロン=シュル=マルヌ、エペルネー、エピナルなどの宿営都市は軍隊が常駐し、重い負担金を支払った。バル=ル=デュク(1万5千の住民)は10,433,0782フランを、ブリエー(2,300の住民)は505,638フランをそれぞれ支払った。僅か2か月間だけ占領されたトゥールの損害額は190万フランと見積もられた。1870年11月12日から1871年3月26日まで占領されたサンスはあらゆる種の負担84万2千を支払った。この小さな宿営都市は2,507人の将校と、79,592人の兵卒、8,130両の車両、77,873頭の馬を宿営させねばならなかった。3万の兵士は宿泊券なしに通過したのだった。
第4章 ドイツの戦費
ドイツ側の分析については共通予算が存在しないためもっと複雑である。最初のものは1871年に立てられたものである。戦費はドイツ諸州への負担として割り当てられた。計算は共通の貨幣の不在によって複雑となっている。プロイセンのターレル(3.75フラン)と南ドイツ諸国のフローリン(2.25フラン)は、金に基礎をおく貨幣としてのライヒスマルク(1.25フラン)の創設された1873年7月1日までドイツの空間でともに流通した。そうであるがゆえ、比較を容易にするためにわれわれはフラン価値で換算する方法を採った。
最も大きな負担をしたのは北ドイツ連邦、とくにその中心としての人口も多く、最強国のプロイセンであった。プロイセンの軍金庫(1億1,200万フラン)は動員費を負担。ついて1866年(普墺戦争)と同じように、プロイセン大蔵大臣のカンプハウゼンが4億5千万フランの借金をし、国庫債券を発行した。プロイセンの信用は低く、貯蓄家はけちであった。8月初めに2億2500万フランの応募があった。対照的にフランス側ではマーニュによる借金がこれより遥かに多額にのぼった。
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北ドイツ連邦の財源(単位:百万フラン) プロイセン金庫 115 4億5五千万の借金(5パーセント) 225 国庫債券(A) 165 国庫債券(B) 375 国庫債券(C) 115 パリの賠償金支払い 110 1871年2月末の財源 1,102 |
軍事的勝利は連邦の借金を改善した。ロンドンとベルリンで10月におこなわれた新たな募集は大成功をおさめた。新たな国庫債券が11月と2月に振り出され、約10億フランと見積もられている。戦費はそれより遥かに多額についた。ヴェルサイユではビスマルクは戦費を20億フランと見積もっている。この大まかな数値はコイデルによって管理された秘密の資金を除外しているが。これらの出費は1866年の戦争に続いて公衆に重い負担をさらに膨脹させた。年間あたり、それは3億7,800万ターレル(14億フラン)から1871年の6億6千万ターレル(24億7,500フラン)に増えた。他のすべてのドイツ国家は公共的負債を増やした。ルドルフ・レンツの体系的な研究によれば、南ドイツ諸国の出費について正確な情報を提供する。それは次の額となる。バーデンは1,434万8千フローリン、ヴュルテンベルクは1,667万7千フローリン、バイエルンは5,618万7千フローリン。全ドイツの合計で、モーリス・フェーヴルとルイ・フォンヴィエルはフランスよりもかなり下まわる数字を挙げているが、それは34億4千万マルク(国家歳入の6パーセント)であるという。
フランスとは対照的に、ドイツの工業活動は何らの操業停止を経験しなかった。武器、装備、鉄道資材、食料、衣料を提供しなければならなかったのだ。動員に起因する人手不足にもかかわらず、産業はフル操業をおこなった。経済的ならびに財政的繁栄は、会社設立、建設、新企業など、しばしばより健全な活動を覆い隠すところの投機とか投機売買を伴った。ドイツ人は1870~73年をグルンダーヤーレ(泡沫会社設立時代)と呼んでいる。1871年の秋の併合地域すらも繁栄に浴したところの、このいくぶん人工的な繁栄は数多くの銀行の破産につづく1873年中に終わりを告げた。多くの同時代人はこれを戦争賠償金の譲渡に関連する過剰流動性のせいにしている。1873年に始まる経済恐慌は、投機の動きとか銀行破綻によって生じせしめられたとするにはあまりに長く、あまりに奥深かった。これはドイツ空間を遠く飛び越えてヨーロッパ規模の現象と考えるべきだろう。
フランスが財政的赤字に苦しんでいるというのに、ドイツ帝国は戦争から幾つかの財政的利得すら引き出した。50億フランの譲渡は積極的な特売を与え、様々な活動に影響を与えた。すなわち戦費負債の償却、負傷者と廃疾者のための生涯年金や、戦争犠牲者の遺族に対する補償の授与となった。実質的部分は要塞化工事と武器製造に当てられた。このための出費は重工業、土木事業、公共土木工事に好影響を与えた。それは、一部の皮相的なジャーナリストたちが投機活動にまわされたと喧伝しているような方向には活用されなかった。ドイツが受け取った51億4200万フランのうち、割当ては以下のとおりである。
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12億5千万……廃疾者に(7億) シュパンダウの戦争金庫の再建のために(1億5千万) 戦略鉄道の建設に(5億5千万) ライヒスターク(帝国国会議事堂)の建設に(5千万) 12億5千万…借金の減債に 15億5千万… 武器と要塞化費用に アルザス= ロレーヌに生じた戦災復旧に 戦争に起因する損害を受けたドイツ人への補償 8億…………………ドイツの新貨幣の鋳造に 6億2,500万……連邦国家への分配金に プロイセンに4億5千万 バイエルンに9千万 ヴュルテンベルクに2,800万 バーデンに2千万 1,500万……ビスマルクと諸将への褒章金 |
こうした分配に際しアルザス=ロレーヌは忘れられなかった。コルマールに設立されたある委員会は破壊と占領費用を計上している。部分的に被災したティオンヴィル、セレスタ、ヌフ=ブリザックは補償され、メッス地方の市町村も同じ措置を受けた。161万3千フランの占領費を払ったストラスブールは117万8千フランの補償金を受けたが、残りの43万5千フランは不払いとなった。
フランスから巻き上げられた額の一部はドイツ国家によって出費される。このことは各種の活動に刺激を与え、流通貨幣の潤沢さに貢献したが、これは戦争に続く数年間ドイツにおいて確証されるところである。この資金調達、利潤、投機を簡単に行いうるという雰囲気は50億フランの譲渡の機械的な結果ではなかった。それは他のところにも原因がある。とくに意気揚々とした雰囲気、共同の勝利に起因する未来への信頼感、偉大な国家を建築した心意気といった心理的な要素がそれである。
この分析の終わりとしての貸借対照表はあらゆる点でフランスにとって不利であった。人的、物的なドイツの損害は新領土の併合、新住民の編入、50億フランの賠償金によって埋め合わせられた。勝利者は戦争の費用を敗者に負担させることに成功したのである。
フランスは大きな損失を被った。すなわち領土的、人的、財政的喪失を受けたのだ。じっさい外戦、次いでは内戦の蓄積された総額は約180億フラン金貨の流出をもたらした。国は小さくなったが、心臓部分までは打撃を受けなかった。フランスは依然として富める国として残る。50億フランの支払いはフランスを貧しくはしなかった。フランスの貯蓄家たちは外国の証券の一部をフランス国債の購入に振り替えた。負債償還のための年々の予算負担は1870年代においておよそ4億フランにのぼった。これは、フランスの生産能力が貯蓄能力はもはやそうでないかもしれないが、打撃を受けなかっただけに、フランにとって十分堪えうるものだった。物質的計画に基づいて、戦争後遺症はすぐに癒された。その代わり、国際的地位の弱体化と心理的精神的傷痕はまったく別の問題である。