matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

第20編 新国境の思い出(下)

 

第3章 国境の狭間で

第1節 シュネーブレ事件

 フランスとドイツ連邦の間の1815年から1870年までの国境と同じように、1871年の国境は開かれた国境であった。わが同胞はしばしば監視され、有刺鉄線の張り巡らされた軍事的障壁のようなイメージとしてもち、勇敢な英雄が生命の危険を賭してそこを越えてくるのを想像しがちである。実際はまったく違う。たしかに、帝国の鷲を戴いた国境柱は新たな主権者の苛立たせる象徴であった。しかし、国境付近の住民は何の障害もなく自由に隣接の畑や村落に出かけることができた。列車の乗客は税関吏と憲兵のコントロールを受けねばならなかった。それから列車は国境駅で長い間停車した。それまで国境駅はなかったのだ。ナンシー=メッス線のパニー=シュル=モーゼル駅とノヴェアン駅、ナンシー= ストラスブール線のアヴリクール駅、ブリー=メッス線のバティイ駅、アマンヴィリエ駅がそれらである。フランスとドイツの警官が旅行客の移動を監視した。彼らのうちのひとりギヨーム・シュネーブレが、あわや開戦の瀬戸際にまで発展した大事件のゆえに歴史上に名をとどめることになった。アルザス出身のシュネーブレはもと教授だったが、ティオンヴィルで特任監督官になり、ドイツ語に堪能であったために、エムスでベネデッティ大使に付き添った経歴をもっていた。1870年以後、彼はドイツ側の申出を断り、その地位に就いたのであった。彼はまずムルト=エ=モーゼル県ブリーで任に就き、次いでメッス= ナンシー線のパニー=シュル=モーゼルで任に就いた。

 『東部年報』の記事において、ギ・カブルダンはムルト=エ= モーゼル古文書館に保存さているシュネーブレの398件の報告を分析した。この県の知事は彼の部下を自慢にしていた。

 

 「シュネーブレ氏はわが特任監督官の中で傑出しており、もっとも確実な情報を提供してくれる。彼は現役の官吏にして、当地で高い評価を受けている」、と。

 

 旅客の身分を確かめたのちに、これらの特任監督官たちは情報を集めた。フランス人と同様、ドイツ人も通信網を維持していた。彼の前歴と人的関係によりシュネーブレは併合地のアンテナの役割を果たした。彼の同僚もそうであっが、人々はスパイという名を口にするのを憚ったが、当時はスパイがうようよしていたことを忘れてはならない。それの大部分がまだ保存されている報告を読めば、経済生活や商業取引に関する情報を得ることができる。それらのことは会話や新聞の切抜きでわかる。これらの文書は当時の雰囲気や感受性をとらえるのに格好の資料である。それらは人や産物の往来について国境が平穏であったことを示している。アマンヴィリエの監督官はピエールポン地方の労働者の季節的移動について記す。

 

 「失業のためにメッス要塞の土木工と同じようにやってきた、大変恥ずかしいことだがそのことを口にする。しかし彼らは家族を扶養しなければならないのだ」

 

 イタリアの最初の移民労働者が現れる。「メッスとヴェルダンの間を往来したのは土木工である。彼らは受入れ先で腕力を提供するのだった。」重要人物でさえ名を秘して旅行した。1879年、ティエール夫人は夫の栄誉を称えて立てられた立像除幕式のためにナンシーに招かれたが、彼女はフレデリク・ド・カルシーによりレオポルト宮廷の美邸に招じ入れられた。彼女に与えられた助言にもかかわらずティエール夫人は何が何でもメッスに行くと言い張った!

 

 「われわれは彼女を思いとどまらせることができなかった。政友、姉、私はこの旅行が不都合であると見ていた。彼女は住民の側からのデモを誘発しかねなかった。もしそうなればドイツ人の不興をかう可能性もあったし、またプロイセン当局による慇懃な扱いやサービスの提供を招じさせる可能性もあった。その申し出を受け入れるのも癪にさわり、また拒絶するのも微妙な問題を招じた。そこでお忍びとなったこの旅行に私はお供をした!午前八時に出発し、われわれはナンシーに4時に戻った。」

 

 国境交易は以前と変わらず継続する。ブリーの住民がメッスの店舗に買物に出かけたり、ナンシーに行ったりする習慣をやめたのはきわめて徐々にあった。フランス人は穀物、ぶどう、葡萄酒、ウェーヴルとブリー地方の豚肉をメッスに運んだ。馬の売却についてはそれが軍事的意味を有していたために重用事と見なされる取引であった。移住選択をし、エタンに住み着いたウッカンゲの馬商人レヴィ某はドイツ軍に売られるべき数頭の馬を保有していた。この断言は確証されなければならない、監督官シュネーブレは1875年に記している。重量産物に関してはフランス人は1870年代にドイツに金属製品や鋳造物を売った。ザールのナンシー向け石炭販売の伝統的な流れは今や仏独関係によってよりもベルギーと北仏の競争相手の出現によって影響を受けるようになった。ナンシー盆地の鉱石のザールへの移送はそれが高価すぎるゆえに途絶した。

 最終的に、通商を妨げたのは関税率の引上げを伴うところの保護主義の回帰であった。この事はメッスの住民がナンシーにやってきてフランスの製品を購入する妨げとはならなかった。メッスのドイツ人についていえば、こっそりという条件でスタニラス広場の見物に彼らが来るのは観光客としてであった。1887年から1891年の間だけが緊張ゆえに往来が困難な唯一の時期であった。フランスとあまりに密接な関係を弱めるためにビスマルクは彼が長い間躊躇してきた方策をとる決意を固めた。躊躇してきたわけは、その当時それが異常なことと見なされていたからだ。その方策とは併合地に入るのにパスポートの提示を求めるということだった。パリ駐在のドイツ大使に要求すべきこの資料は値段が高く、獲得するのに時間がかかったし、しばしば拒絶に遭った。探求された目的はフランスに身を落ち着けた選択者と併合地に残留した家族および知人の間の接触を減じることであった。この目的はほとんど攻撃的ではなかった。なぜならば、コントロールは今日ほど厳しくなかったからである。いくばくかの巧妙さと共謀があれば、網目を潜ることはできた。ナンシーで医学を修めたメッス人のポール・ジャンドリーズがわれわれに語るところでは、メッスの伯父のアンリのところに行くのにパスポートは不要だったという。彼はアルナヴィルとノヴェアンの間のブドウ畑を通って国境を肥えた。ついでメッスに到着すると、彼は市の民警の目に留まるのを避けた。ほとんどの村落にはドイツ人はまったく存在しなかった。匿名の非難という危険を排除してはならなかったとはいえ、この懸念はまったくの杞憂だった。最悪でも数日間の拘留ののちの追放が待っているだけだった。非常に不人気であったパスポート制度は一時的な苛めであった。それは4年間つづいた。1891年、ビスマルクが退任したのち、ヴィルヘルム二世は現役兵士のみを除きこれを廃止した。

 ドイツ側からもフランス側からも国境は心理的ないし軍事的な意味をもっていた。フランス人にとって、それは切断と敗北の国境であった。「陰気な鷲」の章と「ドイツ帝国」を刻む国境の柱はたえずこのことを思いださせた。ブリーでの生活を思い出す小説「ジャン・ペルバル」において、ルイ・ベルトランは国境で愛国心の幾多の兆候を想起する。1882年ナンシー市長に任命されたサヴォワ人のテュリナス猊下は国境の司教となったとき、かれの教区民と一心同体の感情にとらわれた。彼らは大衆に向かって話すのを好んだので、彼はマルス= ラ= トゥールの記念式典に参列を求められた。彼はここで「愛国的誓約」を発したが、それを聞いたフランス政府は事件の発生を恐れて、いくたびか繰り返して参列自重を勧めた。今日、その文を読み返すと、それらが非常に古びて、思い出の力が失われているのに気づくだろう。それらは 同時代人の願望と感受性に与えられたものである。「国境は不変ではありえない」、「フランスは20年以上も前から思い出し、準備し、希望している」と述べること、「国民の生き生きとしたイメージたる軍隊は…決して結合していないし、あらゆる犠牲に差し出されてもいない」と繰り返すことは、たしかに直接的に報復を呼び掛けてはいない。しかし、それはビスマルクの言うように「灰塵の下に残るおき火を維持すること」にほかならなかった。またそれは「愛国的願望」を蘇生させること、すなわち1870年の国境が不正であること、この不正はいつの日か終りになるだろうこと」を思い出させることだった。この点に関して、当時、ナンシー大学で歴史学を学んでいたルイ・マドランによって語られた挿話と。彼の師クリスティアン・プフィステル教授について語ることにしよう。中世史学者で共和派のアルザス系のこの学者は口述の合間に弟子の教授候補者たちと気晴らしの時間を過ごすのを常とした。この年、彼は彼らをブラン、つまりその当時国境となっていたセイユ川左岸の小さな村落に連れて行った。

 

 「われわれは昼食をとろう。暑いので、メッスでモーゼル川の水が合流するところの小さな小川の岸に座ろう。プフィステルは静かな対岸を見つめ、彼の側にいた私は明らかに彼の考えていることが分かった。彼はとつぜん口を開いた。『マドラン君、ごらんよ。君はどきどきこの臨時の国境の前に立ち戻らなければならないよ。そしてしばし心臓に短刀を突き刺す必要がある。こちら側で大地を耕すこの勇気ある人々がフランス人でないことを考えてみたまえ。にもかかわらず、若者たちは一本角兜をかぶっているのだ。なぜならモルトケ氏がそれを欲したからである。恥ずかしいと思わないかね。しかし、この歴史はいつか終わるだろう。きっと!』」

 

 ドイツ側ではこうした言葉は聞き届けられなかった。ドイツは国際的には尊敬された。フランクフルト条約はフランス国民議会で批准され、新しい国境は完全に合法的なものだったからだ。1871年の既成事実は覆し難いものだった。彼らは何であれ交渉に応じることができなかった。

 完全に両立し難いこれらの2つの立場はこの国境が開かれた国境にとどまることを妨げなかった。1914年まで、民間人は何らの形式もなく、両方向に国境を超えたし、重大な事件が発生するのもきわめてまれなことであった。

 

第2節 国境の防御施設

 ドイツと同様、フランスでもフランクフルト条約の基礎が脆弱であることが知られていた。それがどれぐらいの間尊重されるかを断言できる人は皆無だった。すべてが力と状況の均衡に依存していた。国境の防衛は全体的な軍事作戦と戦略計画には書き込まれてはいたが。

 敗戦直後に孤立したフランス政府は専守防衛の立場に身を置く。再侵入が起きたばあい、防衛施設のないパリへのルートに通じる「開いた傷口」即時閉鎖する必要があった。もちろん、ドイツが主敵であり、ドイツ側からの電撃攻撃が恐れられた。この仮説に対抗するため、3つの塹壕兵営をなす“盾”の設営に着手された。それらは数多くの抵抗拠点として残り、敵をヴェルダンの北のストゥネー方向と、シャルム地方のナンシーとエピナルのあいだの2つの狭間で会戦を余儀なくさせるはずであった。セレ・ド・リヴィエール将軍が自分の名をつけたこの防衛作戦は3つの防波堤に基礎をおいていた。すなわち、ヴェルダン、トゥール、エピナルの要塞地帯がこれだ。その役割はフランス軍を迅速にラングル~ショーモン~シャロン=シュル=マルヌの軸の南に集中するのを容易ならしめるため、敵の進軍を遅らせることだった。こうした防御布陣の選択はナンシーを故意に犠牲に差しだすものだった。宣戦布告がなされた際にはナンシーは開かれた町を宣言する手はずになっていた。

「東部フランスの大通り」「アルザスの断片」たるベルフォールは特権的待機を享受した。「いかなる召喚もしないことが必要であり、それがベルフォールの隘路の防御の要であった。」

 石づくりの要塞は1874~75年に建造された。エピナル~リュール鉄道線が急いで敷設された。ソーヌ川渓谷とラングルまでのフランシュ= コンテでは、1870年の侵入と同じタイプのそれの再発を防ぐ目的で防御陣地が敷設された。

 この盾の後ろで、第2ラインがシャンパーニュ側に設置された。第2ラインは東はシャロン、ラングル、ディジョンで、西はランス、ラン、ソンム川で支えられる。現役軍の全体の動員がなされるまで20万の強力な軍の集中が準備されるのはシャンパーニュの側である。この布陣ではシャロンに設置された第6軍事地帯の総本部が枢要の役割を演じるはずであった。第2ラインの盾と要塞化はかなり迅速に実行された。債券が発行され、1870年代の末には石造工事は完了した。かなりの兵力がフランスに振り向けられる可能性のあるベルギーを牽制するため、メジエールとシャルルヴィルに陣地が築かれた。だが、それは弱体だった。なぜならこの当時、ドイツ軍がベルギー領を通過する可能性を無視できなかったからだ。援護部隊(歩兵と騎兵)は最良の現役軍のなかから選抜された。同軍は敵の進軍を妨害し、予想される軍のラングル~ショーモンへの集中をかなり南方で保護することだった。鉄道網は軍用鉄道で補強された。こうすれば、軍隊が戦闘配置につく場所に集中するのが容易になるはずであった。1870年の誤りと義務欠怠が克服され修正された。アンリ・コンタミーヌは著書『報復』の中で、集中の継続的計画を検討している。彼の示すところによれば、作戦の基本は1880年代の末まで防御的なままであったという。ヨーロッパのコンテクストにおいて東部国境はフランス政府の唯一の関心事ではなかった。フランス政府は、ドイツの同盟国たるイタリアの脅威を受けたアルプス国境を防御しなければならなかった。政府はこの目的でタランテーズ、モーリエンヌ、オート=デュランスの渓谷を要塞化した。ブリアンソンを見下ろす頂上に位置する数多くの要塞は一世紀後もなお、こうした配慮があったことを物語る光景である。

 新ドイツ帝国にとってアルザス=ロレーヌは防御斜堤のようなものだった。ビスマルクとプロイセン諸将はこのことを繰り返し述べていた。ドイツの戦略的利害のためにこの空間をどのように組織化すべきか。ドイツ軍参謀本部は恒久的な要塞化よりも進撃のほうに重点をおいていた。参謀本部が遺産として受け取った要塞を整理し、同本部は財産目録をつくった。周辺部のマルサルとフアールスブールは防備を外され、ストラスブールも砲台を取り除かれた。ティオンヴィルは、その軍事的価値がいかに薄れたとはいえ、防備はそのままに残された。反対に、フランス軍当局によって着手されたメッスの4つの外部要塞は完成され、1870年の勝利者の名をとって、マンシュタイン、アルヴァンスレーベン、フリードリヒ=カールと命名された。それは以後、ヴェルダンとトゥールを仮想敵とし、抑止力と防御の機能をもつことになった。ヴォージュの線は要塞化されなかったし、ベルフォールに面するアルザス南部も同様だった。ヴォージュとライン川の間の空間はあまりに狭いため、フランス軍は攻撃できないものと見られていた。ヴォージュ渓谷のみが、フランス軍がアルザスへの侵入を妨害する目的で抑止要塞によって閂をかけられた。いずれにせよ進撃の優位を確信するドイツ参謀本部は軍事的道具をこの意味で完成させた。アルザス=ロレーヌは援護兵力で支配され、その目的は防御におかれた。ストラスブールを司令本部とする第5軍団は5万を超えなかった。メッスの守備隊はもともと弱体で、フランス支配下におけるのと同じく7~8千しか配備されなかった。明らかにドイツ参謀本部はフランスの急襲を想定していない。1874年、1881年、1887年の7年兵役制は同本部に均衡兵力ないしおそらく優越兵力を維持するための物材と人材を提供した。もし軍事的優越が評価の対象となり、論争ができることならば、外交的優越は必要なかった。たしかに1871年以来、参謀本部は西部で対フランス、東部で対ロシアという2正面での同時戦争の想定に直面した。ロシアがドイツとの友好関係を維持し、そしてビスマルクが成功裡に事をすすめることができるかぎり、このタイプの紛争は考えられないことだった。ドイツの優勢はデュプリス条約の締結(1881年)によってさらに固いものとなった。この条約はオーストリア=ハンガリーとの同盟であり、この結果、3国同盟(ドイツ=オーストリア=イタリア)によってフランスはアルプス国境に防御陣地を築かなくてはならなくなった。

 技術と外交という2つの与件は相互に入り交わりながら国境の軍事的様相を変えていく。技術進歩はメリナイト爆薬の砲弾の発明物である。これは恒久的要塞の構想の変更を迫る。石造砲塁はもはや非常に脆い防備となった。それを砂層または鉄筋コンクリートで保護しなければならなくなった。セレ・ド・リヴィエール計画のすべてが達成されるか、されないうちにそれはもはや古すぎるものとなり、メッスの分離要塞も同じ運命に遭った。未来は地下要塞に向かった。敵味方双方ともに防備体系について考えなおす必要があった。二番目の与件は外交術であり、それはドイツ帝国とロシア間の関係の悪化に起因した。ビスマルクはこの国との友好関係の維持が不可欠と考えたが、ヴィルヘルム二世は反対の意見をもっていた。ビスマルクと皇帝間の齟齬という複雑な根をもちつつ、ロシアに対してとるべき態度の差が老宰相の辞任を早まらせた(1890年)。

 これは構造的変化にほかならない。なぜなら、社会の上層から下層にいたるまでプロイセンとロシアの同盟はナポレオン一世以来ずっと安定していたからだ。この意図的な放棄はロシアの指導層に行動の自由を与えることになった。彼らはフランスに接近し、1893年に同国との間に攻守同盟を結んだ。同盟は脆かった。それはドイツをして2正面戦争の仮定を前面に押し出させることになった。2対となったこうした2つの与件のためにドイツ参謀本部は戦略計画と兵力の分割配置を修正せざるをえなくなった。

 これら2つの相互に絡まった与件のためドイツ参謀本部は戦略計画を修正し、軍の再分割を余儀なくされた。国境を要塞化するか、少なくとも重要地点の要塞化が不可欠となった。メッスに塹壕野営陣地の新たな構築がなされたのはこの目的に沿ってである。20年以上を費やしたこの工事はフェストの構築に達した。これはコンクリート製の装甲を施された広大な地下要塞である。ティオンヴィルを含め、この要塞の周辺は約70キロメートルにも達した。これは世界最大最強の要塞構築物であった。平行してこの軍事地域には第16軍団が配備された(メッス)。ビッチュ、サールブール、デューズ、モルアンジュはメッスとヴォージュの間の空間を維持した。このことは軍事用語で人は「ロレーヌ隘路」と呼ぶ。西方に向かってドイツ軍はもはや攻撃に直面しない。この急襲はヴェーヴルにおいてメッスの全軍を挙げてヴェルダンに進撃すればよくなった。ドイツ軍は敵軍の進撃断念を願ったのであった。

 フランス側では1887年に危機到来の場合、幾つかの警戒措置を取らざるをえなくなった。ビスマルクの引退、国際関係の変化はフランスにとって有利な要素だった。このときシャルル・ド・フレシネが陸軍大臣の地位にあり、彼は以後5年間(1888~93年)留任した。初代の文官の陸軍大臣は、彼がトゥール派遣部で職務について以来描いていた意向の幾つかを実行することができたが、その業績はかなりのものだった。そのひとつに大臣局の中に参謀本部の設置が挙げられる。東部国境に関していえば、エピナル、トゥール、ヴェルダンのセレ・ド・リヴィエール式要塞の近代化に着手した。それらの幾つかは鉄筋コンクリートの保護を施され、装甲砲台が設置された。ヴォー、ドゥオーモンのような新要塞は新たな要求に対応したものだった。要塞の前の野営陣地の防備に重点が置かれ、掩護部隊の増員がはかられた。第20新軍団はトゥールとナンシー師団に創設された。守備隊はトゥール、サン= ミエル、モンメディ、ナンシー、エピナルで増強された。集中計画は国境近辺において、シャロン以北、トゥールとヌフシャトーのあいだ、エピナルとベルフォールのあいだに作成された。戦時において大軍をもってのロレーヌでの攻勢に対処するため、防御態勢の構築案は放棄された。かくて、1870年の25年後、国境付近は双方ともに防備を施されたが、平和のうちに時が流れる。大演習中の独仏両軍はともに国境付近で写真を撮りあった。トーチカも有刺鉄線も見当たらなかったが、畑地と森には静寂が広がるだけであった。

 

 

第4章 失われた2州のイメージ

第1節 メッスとストラスブール

 フランス人は奪われた2州ついてどのようなイメージをもっていたのだろうか。このイメージは時とともに変わったのであろうか。それは国土全体において同質のものだったろうか。

 フランス人のうち失われた2州について直接的知識をもつ者はごく少数だったことを想起する必要がある。守備隊で過ごすか、または参戦した(この点に関してメッスはストラスブールよりもずっと馴染みが深かった)ことのある兵士らと、われわれが今まで考察してきたところのフランスの各地に散った亡命者とを区別する必要もある。他方、これら2つのカテゴリーは同じ認識も、また同じ利害ももっていない。だからこそ、多くのフランス人はしばしば現実からかけ離れ、新聞・歌謡・学校により流布されたステレオタイプに基づいて生きてきたのだ。政治家の儀式的な宣言、記念日の演説ないし記念式典が絶えず想起させるところの、そして、その主要な特徴が戦争直後に形作られたところのアルザス=ロレーヌの神話である。

 しばしば2州は相互に連携され、最もよくあることだが個性化された。不幸と希望において両者を接近させるイメージ、最も人気があり、最も広がったもののひとつであり、かつ最も感動的なもののひとつでもあるイメージというのは宗教的な衣装をまとったアルザス娘とロレーヌ娘の2人の女性のイメージである。背景に、失われた2州の地図とアルザスの村のシルエット、ヴォージュの松またはストラスブールの大聖堂の塔が描かれている。

 尊重される愛国的なあらゆる儀式において、子どもらは参列し、ときには息子や娘たちも軍民当局の側に並ぶ。彼らの存在は、失われた2人の姉妹の国民的共同体に属する、生きた象徴であった。

 ロレーヌの代表はおそらくはアルザスのそれよりも混乱していただろう。敗戦直後、メッスとナンシー間の以前の紛争をもみ消そうとする地域的な自覚があった。人々は、ロレーヌ州は一つの州であることを見いだす。これは1870年以前にはほとんど考えられないことだった。忌まわしい国境によって分かれた両州は、ドイツ軍が紐帯を断ち切ろうと欲した、単一の人的および精神的な共同体を見た。こうしたテーマを発展させ、ロレーヌの「統一」の象徴的場所のシオンの丘への巡礼の際に表明したのは保守的かつカトリック的勢力であった。1873年、ロレーヌの司教らは聖母マリアの祭壇から、方言で「これはいつもというわけではない」と銘うたれたロレーヌ十字章を追放した。象徴的に壊されたこのロレーヌ十字章はたとえばエミール・ガレの陶器にしばしば利用される装飾的な要素となった。

 同じ傾向ではあるけれども、10年のずれのある方向において、ジャンヌ=ダルクの祭式の驚くべき躍進を置かねばならない。多くの僧侶はこの神話の同化と流布において一定の役割を果たす。なぜ民衆の反応がかくも熱情的で、長つづきするものだったのだろうか。提案されたジャンヌのイメージは態度と感受性に一致することは疑いない。ドンレミの巡礼は多数の参加者を数え、詰めかける大衆を受け入れるために新しい礼拝堂を建造しなければならないほどだった。ジャンヌ=ダルクの祭式は本質的に宗教的な次元のものであり、それに基づいて愛国的な暗示の意味が込められる。ジャンヌは大義、すなわち国土の解放のために神から遣わされた人民の娘であった。よきロレーヌの娘はその眼差しと剣を忌むべき国境の方に向ける。彼女の栄誉を称え人々が歌う聖歌と賛美歌は反ドイツ一色であった。ジャンヌ=ダルク像を立てることは宗教的であると同時に愛国的な行為となった。ドイツ人はそれに思い違いをしなかったし、併合地におけるジャンヌ=ダルク信仰の流布は彼らの見るところ、ドイツ主義(ドイチェトゥム)に対する敵対行為にほかならなかったのである。

 ジャンヌ=ダルク信仰はロレーヌに広がった。それは他の所縁の地たるオルレアンやルーアンでも再生した。そこでは信仰の表現はジャンヌの他の所業について強調する。ロレーヌのジャンヌ、フランスの娘ジャンヌ、人民の娘ジャンヌはもはや単にカトリックの遺産ではなくなる。それは一部の共和派にとってさえも国民的シンボルとなった。このジャンヌ=ダルク信仰の蘇生は1870年の諸事件の予期せざる、異なった結果であった。それは国境の愛国心に彩りを与え、ロレーヌに国民共同体における特殊な位置を与えた。

 記憶のもう一つの極はメッスである。この町がロレーヌに属していることは二の次の問題であった。ここでは人々はフランスの、かつ軍事的な過去の歴史とメッス人の愛国心が強調された。パンフレット作者や将士らはメッスの戦いの模様を伝える。1555年以来、この町はちょうど1814年と15年の2度の籠城のときそうであったのと同じように、つねに勇敢に抵抗してきた。「乙女メッス」はバゼーヌの裏切りによって汚された。当時の詩人たちはその独特のやり方で憤慨し、あるいは憤慨を共有した。彼らのうちの一人のアルザス人のエドゥアール・シベッカーは「メッス」と題する長文の詩を発表した。…以下の3行の詩にその色調を見ることができる。

  

   汝は黙って涙を流す。おぉ、メッスよ、乙女のメッスよ!

   汝は、汝の恐るべき城壁になされた侮辱に涙を流す

   メッスは崇高な叫びであり、崇高な希望である!

 

 メッスに生まれること、あるいはメッスに居住することは勇気と愛国心の象徴であった。1885年、ある教師は生徒たちに向かって次のような作文を言って聞かせた。

 

 「トゥーロンの病院で、ある若き軍曹はトンキンで被った怪我がもとで切断の憂き目にあった。この負傷者は目を覚まし、傷口を眺めた。『プロイセン人なることよりは、これに我慢するほうがましだ』と、彼は言った。軍曹はメッスの出身だった。」

 

 小さな少年ルイ・マランは思い出す。彼の父が彼をサント=ジュヌヴィエーヴの丘の頂上に上らせ、そこで晴れわたったなかで、メッスの大聖堂の塔を望むことができた日のことを。リュネヴィルの若き将校であったマクシム・ウェーガンはしばしば友達といっしょにポン=タ=ムッソンを訪れた。「メッスの鐘楼を眺めることはわれわれにとって失楽園への窓のようなものだった」と、彼は1931年に述懐している。『神の石臼』の中で、ジャン・ドゥ・パンジュは熱情と恥辱を込めて「私が育った籠城戦の思い出」を思い起こす。メッスで幼少時代を過ごしたポール・ヴェルレーヌは、失われた町のノスタルジーを表現するところの今日では忘れ去られた微妙な詩を残した。モーリス・バーレスが『コレット・ボドーシュ』で思い浮かべ、編曲したのはメッスの思い出であった。この著書は次の象徴的なフレーズで始まる。すなわち、「私はこの転属させられた町の入口を通るたびごとに、この町は私をわが遮られた感情に導くのだ」、と。われわれは40年後の1908年まで来ているのだ。

 アルザスは牧歌的にして軍事的な二重のイメージを引きずっている。ここはまず素晴らしい田園であり、「森が、陽光の差さない平和な村落の上に、緑の巨大なカーテンのように立ち上がる。そこに人は山の曲がり角に鐘楼、小川に跨がる工場、仕事場、水車小屋、見知らぬ衣装の生き生きとした調べを見ることができる。…」(A・ドーデ)。木骨造りの家屋、コウノトリの巣、ブドウ園、ホップ畑をもつアルザスの陽気な村落はところどころに美しい繁栄した国と、後景にヴォージュを従える美しい庭園をちりばめる。ストラスブールはとりわけアルザスの町である。その大聖堂、その古びた街区は、メッスがとうてい及ぶべくもない刻印である。アルザスの歴史を紐解けば、それはつねに同じエピソードの連続である。つまり、テュレンヌの戦い、ルージェ・ドゥ・リスルが「ラ・マルセイエーズ」を歌ったディートリヒ市長のサロン、クレベール将軍または大革命と帝国のアルザス兵の模範的にして英雄的な生活が息づく。もし人がアルザスのドイツ的過去を黙って過ごすことができないにしても、人々は、アルザスの自発的なフランスへの統合――連盟祭のときのフランス国家への加盟――を主張するのがつねである。このアルザスの歴史に固有の見方はまた偏見に染まったものであったため、ドイツの歴史家たちによって皮肉を込めて思い出されないわけにはいかなかった。共和主義の小学校がアルザスに関して運んだすべてのイメージは2つのテーマに結びつくのは避けられないことだった。

 第一のテーマは愛着と忠誠である。この点に関してアルフォンス・ドーデの、『月曜物語』において1873年に発表された「最後の授業、アルザスの少年の物語」のテクストは小学校の教科書の選集の一部となった。その感情的な力は強烈であったため、多くの者の脳裏に焼きつけられることになった。

 第二のテーマは住民による運命の自由選択のそれである。アルザス人はその文化的属性によるのではなく、その自由な選択によってフランス人となった。法的に選出された議員が1871年のボルドーで、また1874年にベルリンで確証したこの選択はドイツによって足蹴にされたのだ。いつの日か、権利が力に勝利するだろう。

 もっとも頻繁に思い出されるシーンは住民の併合地からの流出のシーンである。ここから併合地は生きた力を奪われたかのような印象が残り、人は絶えずビシュヴィリエの織物業者を引用する。同社はアルザスを去って遠隔の地スダンに、ルーヴィエに、ル・アーヴルに移設した。また人々は、一本角兜を拒絶し、外国人部隊ないしフランス軍に入るために国境を越えた若者の名を引用する。この永続的な移住したアルザス=ロレーヌ人は117人にのぼる。一方、ドイツで陸軍大臣になったのは僅か1人のみである!)は不動のフランスへの愛着の紛れもない証拠である。あらゆる文学はこうしたテーマを普及させ維持する。アルザス=ロレーヌの連続環は戦後すぐに始まった。そして忘れさられ、そして最後に1905年に蘇生した。それはまず、エアックマン=シャトリアンの作品によって代表される。そのなかで「国民主義的、民衆的物語と小説」は非常に広範に普及した。テェオフィル・シュレルの挿絵入りのヘッツェル版はヴォージュの景色と森を、アルザスとロレーヌの村落を、そしてその住民を思い出させる。それらは愛国的にして共和主義的な民衆の血管の中に刻み込まれた。

 

第2節   アルザス=ロレーヌとナショナリスト

 G.ブルーノの「2人の子どものフランス一周旅行」は真っ先に学校の朗読本となった。2人の英雄アンドレとジュリアン・ヴォルダンはファールスブール出身の若者である。彼らは父の臨終の床で、フランス人として残るためにこの町を去る約束をする。この本はアンドレとジュリアンの出発によって始まる。

 

 「9月の深い靄を突いて、2人の子ども、2人の兄弟はロレーヌのファールスブールの町を脱出する。彼らは通称フランス門と呼ばれる防御装置のついた巨大な門を潜り抜けたところである。」

 

この物語に沿って、1870年の恐るべき試練が示される。たとえファールスブールが忌まわしい国境によってフランスから切断されたとしても、故郷の町は保証人であり、比較の対象として残った。初版は1877年に発行された。その後の25年間で800万部が売却され、当時のベストセラーとなった。『フランス一周旅行』は当時、最も読まれ、最も愛好された本であった。一例を挙げよう。のちにアカデミー・フランセーズ会員となる若き日のピエール・ガクゾットはレヴィニー=シュル= オルナン(ムーズ県)の小学生であった。彼は、『フランス一周旅行』は彼の先生が最も愛好した本であったと語る。それはあらゆることに奉仕した。ピエール・ガクゾットの注釈は、失われた地方の思い出の存続、歴史の教訓、朗読書において共和主義的小学校の特権的役割を示している。アルザス=ロレーヌはしっかりと脳裏に刻まれることになったのだ。若いフランス人が目にする掛地図は、不具者となったフランス、東から両州がもぎ取られたフランスの地図である。この単純な理由により、忘却は不可能であり、人々は1914年の時点でもなおそれを見ることになる。しかし、それはブルトンの漁師、ランドの農民、プロヴァンスのブドウ園主、コマントリの鉱夫の日常的な観念であったのだろうか。 ―まちがいなく否である。1世代のちにその奥底においてフランスはそれを忘れなかった。

 しかし、フランスはアルザス=ロレーヌの運命にそれほど動かされいようになっていく。失われた両州は控えめなノスタルジーに包まれていく。多くの併合地住民は1890年代になっても併合を怒っていた。だが、フランスは彼らを見捨てた。彼らは半ば強制された状態でドイツの制度のなかに組み込まれるのに甘んじた。なぜならば、そうするより術がなかったからだ。人々が不幸なアルザス=ロレーヌの運命を思い出すやいなや、無関心は一時的には一掃されたが―。たしかに、国境に近い地方では亡命者が多く、非常に明確なかたちで関係が維持されていた。ナンシーのような町は非常に象徴的である。フランスの東部、中央部のように戦場となりドイツ軍の占領を受けた地域では、失われた両州への思い入れを維持し、あらゆる階層を通してほとんどすべての政治的感受性においてこの特徴は残った。

 全体としてみると、アルザス=ロレーヌへの思い入れはナショナリストの専売特許となる。ポール・デルレードの愛国者同盟がその例である。彼らは共和制反対のためにアルザス=ロレーヌのテーマを利用するのをやめない。彼は非常に強く要求したため、人々はそれのみを耳にし、歴史家は他のことを忘れた。アルザス=ロレーヌの協会によって維持されたアルザス=ロレーヌへの共和主義者の愛着が存在したことを忘れてはならない。レーモン・ポワンカレーのような政治家は、ジョルジュ・クレマンソーがちょうどそうであったように、彼らの願望を共有した。たしかに彼は報復戦争のばかげた冒険行動をなす準備はなかった。しかし、彼らはけっして忘れてはいないことを示した。

 パリはおそらく、失われた両州の思い出がもっとも強烈に生き残っている町であっただろう。この特殊な感受性は幾つかの理由によって示される。つまり、新聞と著書の出版活動、愛国的結社の存在、程度の差こそあれ軍隊と関係のある活動のゆえに。アルザス=ロレーヌ協会は、そうしたテーマが敬意をもって保持される中心、アルザス=ロレーヌ文学が読者を維持する中心を構成した。しばしば回想録・随筆・小説の類は著者の名のゆえに、また全体の雰囲気ないしは時代の雰囲気のせいで、比較的狭い環境を抜け出て有名になった。

 20世紀の初め、アルザスとロレーヌがもはや世論で第一級の関心事ではなくなったとき、そして、ドイツ化がアルザスとロレーヌでかなり進行したとき、炎のような愛国熱を維持したのはナショナリストたちである。共和制によって犯された罪のなかで、シャルル・モーラスは不幸なアルザス=ロレーヌの放棄を非難する。愛国者同盟は炎熱の維持に腐心する。毎年、そのメンバーはストラスブールのヴェールを被った立像の足元での行列を繰り返す。

 メッスまたはストラスブールへの巡礼がジャーナリストや作家たちのあいだで流行する。モーリス・バーレスがしばしば引き合いに出される。彼は最初の人物でもなければ唯一の者でもなかったが。1896年8月末、すなわち、記念像の足元に置かれた花輪が萎れたとき、ポールとヴィクトル・マルグリットは戦場を訪れ、警報の記事を書き、それをエルネスト・ラヴィス主宰の『ルヴュ・ド・パリ』誌に発表した。「われわれは八時にマイヨー門を出てメッスの門に達した。」彼らはフランス領のバティイで列車を降りた。なぜなら、彼らは新しい国境の両側を比較しようと欲したからだ。「この国は、いたるところに墓と十字架の林立する広大な墓場でしかなかった。」彼らはマルス= ラ=トゥールに到達し、ルグラン将軍の墓前に立つ。それから国境を越えてアマンヴィリエを通ってサン=プリヴァに行く。彼らは2本の柱に行く手を遮られる。「2番目はより強大で背丈があった。それは大きな紋章で飾られていた。刻銘にドイツ帝国とあった。」2人の旅行者は併合地住民と会話を交わす。彼らは確証する。「この土地はフランスのものであり、その心情はフランスのものである。」にもかかわらず、彼らは時差(すでにドイツ時間なのだ)とドイツ国旗に堪えねばならないのだ。

 彼らは4半世紀程前にライン軍が辿ったロゼリュール街道を通ってメッスに行く。城壁(メッスは1902年以後になってようやく、砲台を撤去されることになるが)と、サン=カンタンの陰気な群衆を目撃したとき、心臓の締め付けられる思いに駆られた。ちょっと見たところではメッスはほとんど変わっていなかった。昔と同じように、哨舎・監視団・兵舎・練兵場など軍事で一色だった。しかし、制服が異なっていた。「ドイツ兵がうようよしており、…[中略]…一本角兜と平たい兜の林であった。」カフェと酒場には、兵卒と将校しかいなかった。並木道では彼らは顎鬚をたくわえ、「伝説の馬に跨がり、町を見下ろす」カイザー(皇帝)の立像に驚かされた。人々は彼らに騎兵のシルエットを見せた。それはフォン・ハエスラー将軍であった。彼は、2人の副官を帯同した第16軍団の司令官であった。この人物はけっして眠らず、じっと監視をつづけていた。すでにこのルポルタージュにおいて、のちにモーリス・バーレスが数年後にその溢れる才能でもって発展させることになるテーマのいくつかが存在した。失われた栄光の町メッス、その魂を奪われた町メッス、にもかかわらず、古きフランスの面持ちを修正せんとドイツのものとなってもなお忠実なメッス…というテーマがそこにあるのだ。

 

第3節   失望から諦めへ

 1905年、ヴィルヘルム二世のタンジール演説すなわち第一次モロッコ事件は一部の世論を覚醒させ、失われた諸州を再発見させるにいたった。アルザスまたはロレーヌの小説は数多くの熱心な読者を見出だす。バーレスのメッスに関する小説「コレット・ボドーシュ」(1908年)はこの事態の急変に恵まれて多くの読者を獲得した。ジョルジュ・デュクロクの「変わらざる諸州」の発表、『マルシュ・ドゥ・レスト』誌の周囲に引かれた小グループも同じ方向に作用した。しかし、バーレスのような成功はもたらさなかったが。いわばナショナリストによる思い出の没収のようなものが存在した。まり、メッスの元反抗的な代議士老ドミニク・アントワーヌ――ビスマルクによってアルザス= ロレーヌから1887年に追放された――が傾斜を示したのは彼らに対してである。共和派に属する友人らは彼を丁重に扱った。エドゥアール・テューチュと同じように、彼は財務長官に任命された。彼は1911年、ナンシーで快適な老後を過ごしていた。66才であったが気難しさは続いた。彼は以下のような遺言を残した。

 

 「不幸なアルザス=ロレーヌよ! 多年、私はフランスの放棄、正当な語法によれば臆病風にほかならぬ放棄によって絶望的気分にとらわれてきた。私は、破壊とはいわないまでも陸軍・海軍・外交・良心を弱めたわが国の内政に憤りを覚える。わが忠実、わが戦い、わが苦悩と比べ、われわれに模範を示すのは正しくこの国なのだ。」(1911年)。

 

 この老いた抗議者はすでに諦め、希望を失っていることを示す。彼は他のところで書いている。「不可避のことは諦めねばならない」、と。「既成事実」の暗黙の受容は愛情深いノスタルジーと両立しないわけではなかった。

 ナンシーで1909年の夏に万国博覧会が開催された。その主要なアトラクションは――見物人がもっとも多かったが――民俗衣装をまとう住民をもつアルザスの村であった。公式の開会式がおこなわれたとき、市長のルドヴィク・ボーシェはルイ・バルトゥー大臣を伴って、「わが愛情の変わりなき永続」を思い出し、次のように結論づける。

 

 「この村は単に興味深いアトラクションであるにとどまらず、姉妹たる両州の間に親しみ深い、愛情の籠った統一の残存を確証するためにここに展示されたのである」、と。

 

 大臣は「民俗衣装を纏った少女」を抱きしめる。報復の精神とはいわないまでも、多くのノスタルジーと感情の発露が見られた。それはストラスブール像の前のデルレードの演説ではなかった!

 アルザスとの絆が1870年以前に溯るエルネスト・ラヴィスは4半世紀前から大学人となり、知識人世界に属していた。彼は1911年にストラスブールに行き、友人と会い、若い学生の前で私的会話を交わした。『パリ雑誌』の記事の中で、彼はアルザス、フランス、ドイツの運命に考察をめぐらす。両国間の戦争は、1870年以後つねにありうることである。

「今なお戦争に常時備える必要があるだろうか。私はそれを知らないし、だれもそれを知らないだろう!」 

この歴史家はドイツへの憎悪と軽蔑を拒絶する。

 

 「われわれはドイツの天才が何であり、何に値するかを知っている。…両国間に共感は可能である。この共感は協力に変わりうるだろう。」

 

ラヴィスの精神のなかで、若きアルザス人たちは「この平和的で和解的な使命」を果たすことができただろう。そして彼は結論づける。「フランスとドイツを和解させることは夢であろう! 私はいくたびもそれを夢見たが。」69才になる老歴史家はその心中で「既成事実」を認容しなかったのだ。「わが麗しきアルザスの無限の魅力にとっては」、彼はフランスに戻ることを欲しているように思える。しかし、その一方で平和の維持と両国間の困難な協調とを切望する。

 マルク・ブロックの証言を引き合いに出そう。彼はラヴィスとは異なるゼネレーションに属する歴史家だが、彼はラヴィスと同じようにドイツ旅行をおこなった。アルザスのユダヤ人の息子であり、甥である彼は1870年ののちに自発的にアルザスを離れた。マルク・ブロックはパリで知的世界に身をおいて育った。その知的世界は、アルザスから亡命したユダヤ人がつねにもっとも熱情的維持者であったこの愛国的伝統の信仰を保持したのであった。1940年の大敗北の直後で、彼が抵抗運動に没入する前に書かれた『奇妙なる戦争』のなかで、この中世史家は2つの戦前派を大雑把に比較している。かれの考察は他の者のそれとだいたいにおいて一致する。殉教者となった州のイメージは控えめな影のなかに包まれている…。「それは再生するが、最初の戦闘ののちにふたたび姿を現す。」そして、彼は次のような回想的で、真実を突いた文句を発する。すなわち、

「平和の間、家族の安全こそが肝心とする世論に対して、リトグラフィーのアルザス人の美しい眼は、涙を乾かすようなたった一度の試みがあっても、人々が心の陽気さを装っても、この地方がもっと残虐極まりない危険に向かっていることを自分に受け入れさせるには十分なインパクトをもたなかった」、と。

 パリのインテリの愛国的な世界はどうか。アルザス=ロレーヌは人目につかないハレーションと、感傷的なノスタルジーに包まれる。人々は涙を流し、ハンジ叔父の獰猛な風刺画に笑い転げる。大多数のフランス人にとってアルザス=ロレーヌは精々のところで学校時代の淡い記憶でしかなくなったのである。

 この分析を終わるにあたり、2つの結論が出てくる。まず、1871年の国境はフランス人に受け入れられなかったことである。にもかかわらず、それは人の往来を妨げることもなく、また資本の移動や交易を妨げない平和的な国境であった。同時にそれは、双方の国が根本的な防御体制を敷いたところの軍事化された国境でもあった。強化された軍事施設は仏独の敵対関係の結果であった。しかし、堪えず修正された武力均衡こそが平和の有力な要素であり、国境付近の巨大な製鉄産業の発展と両立するものではなかった。

 第二の結論はこうだ。すなわち、たとえアルザス=ロレーヌがドイツ帝国の指導者たちにとって懸念の中心であったとしても、それは決して主要な心配事ではなくなったことである。ヨーロッパ列強は併合を承認し、フランスは条約を修正させるべきいかなる手段ももっていなかった。併合地においても多くの突発事・宣言・抗議・厳格と自由主義的な交互の措置はドイツの存在を再問題視することにはならなかった。ドイツ世界の完成は多くの困難に衝突した。その事業は緩やかになされたが、20世紀の初頭において統一事業は1911年における自治の付与によってすべての分野において前進していた。ウェッテルレ僧正に代表されるような生粋の民族主義に染まったアルザス人においてすら、ドイツの枠内にとどまる国の将来に直面したのだった。メッスでは教会参事会員でフランス贔屓のロレーヌ会会長のコランもほかのことを考えなかった。ドイツ反対派はドイツ主義に対抗してアルザス=ロレーヌの自治主義の擁護に方針を転回した。

 仏独関係においてアルザス=ロレーヌは戦争の原因ではなかった。それは依然として和解に向かっての障害の一つを成したにすぎなかった。