前回のブログでは成田山新勝寺様の参拝と周辺の紅葉の様子を記させていただきました。
その当日の成田駅から新勝寺様までの往復。
一般的な参道では無く路地裏の道のりをまとめてみました。
参拝へのスタートは京成成田駅。
駅を背にしてバスロータリー出口の通りを右手に進むと新勝寺様の参道商店街なのですが
今回は手前の線路沿いの路地を進みます。
飲食店や雑居ビルの並ぶ緩やかなカーブのある路地。
狭い路地ながらバスも頻繁に通行。歩道に停められた自転車にも気を付けながら先に進みます。
台地にある成田駅前。その周辺は谷の様に高低差があるのですが
この道筋は緩やかなカーブと緩やかな坂道。鰻の名店などが並ぶ参道の急坂とは異なります。
この道の名は「電車道」
そう。明治後期に開業した「成宗(せいそう)電気軌道」。千葉県最初の電気鉄道。
成田山新勝寺様から成田駅を経由し、郊外の宗吾霊堂様を結んだ路面電車の線路跡なのです。
緩やかな坂道を下り、道なりに進む。
通り沿いには桜が植わり、春には桜のトンネルの様な光景になる事でしょう。
冬季の今は道路工事中…いや。保線作業と言うべきだったかな??
しばらく進むと煉瓦造りのトンネルが口を開けています。
成宗電車の開業と同時に貫通した1910(明治43)年からこの地にある「イギリス積み」といわれる技法のアーチ型のトンネルです。
明治期のトンネルにしては大きく掘られ、非電化路線と比べて架線を頭上に張る分、高さがあることに気付かされます。
ここには昔「電車」が走っていたのです。
トンネルは2本あり、駅側の第二トンネルは全長40.8m。新勝寺様側の第一トンネルは12.2m。
当時の土木技術としては高い水準であったことと、成田と宗吾詣という観光要素が高い鉄道であったと想像できます。
2つのトンネルを抜け、鰻を焼く香りを感じ始めると「成田山前」のバス停。
車道が少し広くなっているこの辺りに成宗電車の駅があったとされています。
成田詣で賑わいを見せていた光景を想像が出来ます。
その「観光要素」という路線から、戦時中の物資不足もあり「不要不急路線」に指定され1944(昭和19)年に廃止となりました。
新勝寺様を参拝をした後の成田駅までの経路
鰻屋さんを越え、羊羹の老舗を越えて参道を暫く進むと手焼き煎餅店。その少し先の右へと別れる細い路地。
30年位前までは、ここに「国鉄成田駅近道」と記された看板が掲げられていた記憶です。
「新道(しんみち)通り」といわれる、スナックやバーの多い狭い路地。
夜になれば明るくなりそうな郊外都市の歓楽街と言った佇まいでしょうか?
実はこの地域。
昭和の高度成長期の頃までは「赤線」などの遊廓地であったとされています。
今ではその様な店舗は皆無なのでしょうが、昭和の雰囲気を残す一角です。
江戸時代から盛んであったとされる成田詣。
参拝前は酒などを絶ち、参拝後は精進落とし。そのようなこともあり歓楽街として賑わったとされています。
諸説はありますが、成田以外でも大きなお寺様のある地域では、その様な歓楽街が形成されたとのこと。
「浅草と吉原」「川崎と堀ノ内」「天王寺と飛田(難波)」といった位置関係もそうなのかもしれませんね。
駅近くの寺院跡の敷地にある玉垣。お布施や寄贈をした名が刻まれます。
その中にいくつか「〇〇楼」と刻まれた石版。
これは「妓楼」。つまり当時の遊廓関係の店舗が寄贈をしていたとされます。
お寺があるから遊廓がある。遊廓があるからお寺がある。
偏りのある発言になってしまいますが「持ちつ持たれつ」の街の形成であったのかもしれません。
今ではNGなのでしょうが、この路地裏から、ごく近代の社会構図というものを感じ取れた気がします。
この画像はJR成田駅前の新道方面への近道看板。
今の時代で違法営業をする店舗があったとしても経営は厳しいことでしょう。
何故なら左側のフェンスは警察の派出所。門番のごとく目を光らせています。
今回は成田駅から新勝寺様までの往復散策記。
近代から現代にかけての栄枯盛衰の歴史を学べたと感じます。
国際都市である成田。訪日観光の賑わいが戻りつつある現代。
飛躍ある令和の成田として歴史に刻むことでしょう。
ブログの閲覧をいただきありがとうございました。