京都の東山!
戦国の世が終わりに近づいていた頃、京都に大仏を造る計画を立てた時の権力者がいた。その名は豊臣秀吉!
なぜ秀吉は京都に大仏を造ろうとしたのか?
天正13(1585)年、畿内を大地震が襲いました。世にいう「天正地震」
東日本大震災規模に匹敵する地震でした。秀吉は大仏を建立する事で人々に心の平穏を祈ろうとしました。
しかし慶長元(1596)年に「慶長伏見地震」が起こります。建造中の大仏殿はもちろん、伏見城や天龍寺、東寺も倒壊。
大仏は再び建立されますが、2年後完成を見ることなく太閤秀吉は死にます。
豊臣家を継いだ豊臣秀頼は父・秀吉の意志を受け継ぎ、京都大仏殿の再建や出雲大社、熊野本宮大社、東寺、南禅寺、北野天満宮、醍醐寺など日本全国の神社仏閣の再建、修復を推し進めます。
いまこうして神社仏閣にお参りできるのも秀頼様のおかげかもしれないですね。
慶長19(1614)年、方広寺に念願の大仏殿が完成。しかし徳川家康がイチャモンをつけてきました。
方広寺の鐘に刻まれた文言「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌」が「家康の名を割き、豊臣家が子々孫々に繁栄を楽しむもの」と徳川将軍家を呪ったものだというのです。
これはただの言いがかり。
しかしこれをきっかけに大坂冬の陣・夏の陣が起こり豊臣家は滅亡してしまいます。
その後、京都の大仏は様々な天災があるたびに再建され、昭和28(1953)年まで京都東山にありました。