平成の思い出13
今回は自分が就職したての20代前半の頃、平成初期の思い出を。
車を手に入れたこともあって、とにかくあちらこちらへ出掛けまくりで。
休みともなれば学生時代の友人の住む街へパチンコ遠征に行くのが一つの楽しみでありました。
仙台市、郡山市が主な出撃先でしたが、今回は郡山へ特攻していた時の話を。
以前このブログでも書いたことのある友人「K」が住んでいた街です。
Kは博才には恵まれていたがそれ故に学業の方が疎かになり、前年に学校を辞めて先輩の紹介で郡山にある会社で働いていた。
郡山市は福島県のほぼ中央に位置し、西には猪苗代湖、東には阿武隈山地を擁しており市の中心を阿武隈川が流れる。
いわきに比べ気候的に暑いも寒いも多少厳しいところですが、雪国育ちのKにとっては生活に関しては何の苦労も感じることは無かったと思う。
一応仕事は真面目にやっているようで、アフターファイブは勿論パチンコ。
学生時代から磨いてきた腕は未だ健在といったところでした。
彼が縄張りにしていたのは羽根物のオロチョンパ、OL娘などが優秀な北部のJ店や2号機ベンハーが設置してあった南部のB店など。
その他に郡山と言えばお膝元であるニラク(当時は大輪)、県内最大の健康センターも経営していたトーヨー(東洋)などが郊外にあって、駅前のアーケード街にも名古屋ホールをはじめ設置台数が100台前後の店が軒を連ねていた。
企業は違えどいわき市の勢力図に非常に良く似ており、全国に名の通ったメガチェーン店などはまだ進出してきていません。
どちらかと言うと小さい店の方が妙に落ち着くものがあって、自分の性には合っていたのですが。
一度ドンスペシャルBやアレジンなど爆裂機で郡山一の出玉を誇ると言われた繁盛店を覗きに行った時には軽く目眩を起こしそうになりました。
それでもおそらく350台位の規模だったと思いますが、当時はやけに大きな店に感じられたものです。
Kのアパートから歩いて3分のF店は羽根物が三共の「道路工事」、デジパチは平和の「ブラボークイーン」(ラッキーナンバー制)など、権利物は三洋の「ニューヨーク」(一回交換)、パチスロは瑞穂製作所の1.5号機「ファイアーバード7U」が無制限というラインナップでした。
Kに連れられて見て回った店の中ではここが一番客が少なく釘も渋い。
デジパチは無制限でも足りないくらいの回りをラッキーナンバーという、●ったくり営業もいいところ。
無制限のファイアーという一見勝負になりそうなパチスロコーナーは極悪の9枚交換。
しかも誰も座っていない台までおしぼりで常にキープされているなど、とても快適に打てるような状態ではありませんでした。
程なく3号機の「ミラクル」(尚球社)に入れ替えられたと記憶しています。
ミラクル(尚球社)
ここは近いと言う理由だけでちょっとした時間に打ちに行っては毎回きっちりやられて帰ってきた。
本気で勝ちに行くなら、少し遠くても羽根物の強いJ店で地元の常連と優秀台を奪い合うか、パチスロの状況が良好なB店で勝負になる台を探すかとなります。
勝てば「萬寿園」に行って祝杯をあげるのがお決まりのコース。
その後Kが結婚して県南地区に所帯を構えても付き合いは続き、お陰様でそんな事でもなければ行くことのなかったであろうパチンコ店にも足を踏み入れることが出来ました。
どちらかが遊びに来た時には、自分の地元でとっておきの優良店に連れて行く。
これこそがお互い客人に対する最高のおもてなしだったのです。
今はパチンコ遠征に行くことも出掛けた先で打ちたいと思うことも少なくなりました。
全国どこの店でどんな機種を打とうが大して変わらない。
温泉街の駅前にある浴衣で行けるお店でもあれば喜んで行きますが、残念ながらその様な光景はすっかり失われています。
現在の若いユーザーにはパチンコで遠征する楽しさは分からないでしょう。
見知らぬ土地で希少な台に出会った時のワクワク感は堪らないものがあったんですよねえ。