プロフィールをまとめてみました(大工編) | いぇい☆AYA工房☆

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おばちゃん大工、家事/二児育児 時々 木工/大工仕事・日記.その他一人ごと・
できるだけがんばるブログ

おはこんばんちは〜。
 
4人家族から家出中の方が、『似顔絵と心の棚おろしワークで奥さんや子どもたちから信頼度が−100から10くらいまで回復した』というのを見て、
どんなスゴイ棚おろしワークなのか若干興味があり受けてみたいと思っているAYA工房AYAです‼️
 
計算早いぴぃちゃんが110も回復したって事⁉️と
突っ込んでI.TA.YO‼️
 
今日は今週末にまちづくり協議会の『男女共同参画』というテーマで大工となった経緯をお話させてもらうという事で、
 
当日は絶対緊張して脱線もしまくると思うので、約30分ほどのお話しをカンニングペーパーで経緯とやらをまとめております。
 
ちょうど、ブログにプロフィール的なものを書かなきゃと思っていたので、
丁度よきタイミングでかかれたので、
お時間やご興味がある方、お付き合い頂けたらと思いますm(_ _)m
 
 
 
AYA工房AYAと言います。よろしくお願いします。
今回、男女共同参画のテーマで大工となった経緯のお話をさせて頂くという事ですが、
 
今まで「直観で思うままにしたい事をしたい時にしたい量をしてきた」という感じなので
 
こうやってまとめてみると、「親族が大工だったから」とかそんな感じでなくて
説明が長くなってしまい、脱線しないようにカンニングペーパーiPad?を見ながら
 
ざざざっとお話させて頂き、
『ん?どういう事?」「家出中の旦那って?」
とかって疑問などがでてくるかと思いますが、
少しお付き合い頂けたらありがたいです。
 

 

 

 
私は大阪の天神祭りの花火がクライマックスを迎える頃、大阪城が見える病院で生まれました。
 
多分3歳頃から母子家庭で、兄と弟の間で長女として育ちますが、「母を守らねば」とか「男に生まれたかった」願望と反抗期がチラチラと出てきたのは10代半ば頃でした。
 

 

 

 
勉強嫌いな私が中学を卒業する前に 高校へ行くより色んな仕事をしてみたいと訴えましたが、
 
母から「高校だけは行きなさい」と(行かされた)高等技術専門校では色々とありまして…
 
約1ケ月で無期停学 → 学校側から自主退学の勧め → 高校中退として経歴を残します。
 
 
15歳にてハローワークで紹介された 新車のワックスがけをする板金会社に入社。
社長に車でバス停まで送ってもらったり、まわりの人から『おチビちゃん』と呼ばれていました。
 
1年半ほどで飽きて その後はガソリンスタンドへ入社。
 
当時なりたかった整備士の第一歩として乙種第4類危険物取扱免状を取得。
きっと生まれて初めて自分の意志からの勉強。
 

 

 

 
オイル交換もタイヤ交換も楽しかったけれど、
整備士願望を伝えると「そんな稼げるわけじゃない」と聞き、
「稼ぐとは?」という疑問と願望が出てきて「稼ぐ為に働く」という事をしてみた。
 
パチンコ屋さんで働いたり、
高額な布団クリーニングの訪問アポ取りや、
通信会社の営業などをしたが、
やはりすぐ飽きてやめての繰り返し。
友人のすすめで北新地で最短一週間だけ働いた事もあったなー😅
 
親友が18歳で結婚した時の引き出物カタログから 「踏み台にもなる6角レンチフルセット」を選んだ私が 次に興味がでてきていたのが大工さん。
 
1人親方で工務店をされている大工さんを紹介してもらい、 半住み込みをして約1年務めた。
当時のNHKの女子大工見習いの朝ドラの影響で近所の子どもに「うららちゃん」と呼ばれていた。
 
京都宇治の新築現場での事。 
電気屋さんから「電線をこっちから通すのを手伝って欲しい」と言われ、 ハイハーイって気軽に手伝った事に 
「家を建てる時に大工は一番エライんやから、他の業者の手伝いしたらアカン!」と親方にめっちゃ怒られる😵
 
エラそうにするのが大工ならもうならなくてもいいとふてくされ、
朝の4時半起き、5時出発も、月10万円の給料も不満で 1回目の大工見習いの幕を閉じたのは20歳頃。
 
その後も「こんな事ができるのは若い内だけだから」 と
喫茶店やアルバム制作やライン工場でいろんな所で気が済むまで働いてきて、
22歳「もう一度したい」と思った仕事が大工さんでした。
 
ただあの時は 親方との価値観が合わなかっただけで、
大工仕事は楽しくて飽きなかったし 
奥が深くて 自分の今後住む家を自分で建てたり、
自由にできるって楽しすぎる!と
ワクワクして大阪守口市にある職業訓練校の建築科に入校。
 
鬼みたいな顔の先生が二人いて、雨の日は実習室で筋トレだったが、
基本的には毎朝 淀川沿いを掛け声を出しながらランニングをする。 
 
負けず嫌いの私は 前を走る先生の背中から離れるもんかと必死だったが、
現在家出中の旦那は、すぐに列から遅れ始め、
折り返し地点で通りすがる時は いつも最後尾の一位か二位を争っていた。
 

 

 

 
ここで出てきた現在家出中の旦那についてですが、 「なぜ結婚したのか」とか「家出したタイミング」は後で経緯を説明しますが、
 
この職業訓練中に出会い、「あぁ、この人自分に弱そうで絶対大工になられへんな」と
当時は上から思っていたのに、7年後に結婚したのだから人生は本当によくわかりません。
 
職業訓練修了後は、自然素材や自然の力を利用したOMソーラーで有名で、
若い大工さんや優秀な現場監督さんも活躍されている ㈱山本博工務店に入社。
 
まずは信楽の古民家の解体移築プロジェクトに携わらせて頂き、
家が一度解体されても再築ができる事に衝撃を覚えた。 
私の古民家好きになったルーツがここだったと20年経ったついこないだ思い出した。
 

 

 

 
初めての女大工見習いに 社長は「どう対応すればいいのかわからない」と言われたが、
 
「女と思わないで接してもらっていいです」 と胸張って言っていたものの、
 
見習い二年目で痛いのが言えなくて…夏。
坐骨神経痛と椎間板ヘルニアをひどくしてしまい、
現場に出ると迷惑がかかるからと 治療をしながら事務仕事をさせてもらい、
 
『建物をイチから建てる大工さん講座」のテキストをイチから制作させてもらったこともあり、
退社した現在も毎月第二土曜日に講師として関わらせてもらっている。

 

 

 
 見習い中ではお給料の中から電動工具を一つづつ買いそろえていて
ヘルニアを治療しながらも「このまま眠らせるのは勿体ない」と思い、
自宅や友人の靴箱や棚を作ったり、
実家の寒いタイル浴室をユニットバスに改修するという
大きな工事を母が私に依頼してくれて、とても良い勉強になった。
 
実家を新築で建ててくれたおっちゃん大工さんと 久々に会う場面があり、
 
自分の現場に私を時々呼んでくれていました。
どの現場へ行っても物珍しそうな顔をされたし
そのおっちゃんとよく言い合い、口げんかもした。
 
今思い出してみれば、仕事もろくにできないクセに よくあんなにエラそうに口答えをしていたと思う。
 
1回目の大工見習いの時の親方に『えらそうにせんでええ』と言ったのに、
こんなえらそうにしている私を見られたら一体何て言うのか…。
 
「今の若い子は…」と言う側の年齢になってきて、少しは反省している。
 
ある日、 実家の隣が建て替える際に建築業社が来ていた。
その隣の業者の社長となぜか討論になる。 
 
内容が何だったのかきれいサッパリ忘れたが 
相手がだんだん「女のクセにえらそうに…!」みたいな事を言ってきたから その言葉がスイッチなのか 私はもうカンカンに怒って 相手のオッサン社長を怒鳴りつけていた。
 
確か大工のおっちゃんの方も一緒にいて 私をなだめていたと思うが、
普段から言う事を聞かないのに ヒートアップしている私におっちゃんの声なんて聞こえる訳がなく。
 
するとおっちゃんが呼びに行ったのか 父親代わりだった祖父が来て「もうやめんか!」と止められ、その場はおさまったが、
 
その後祖父から「悔しいんやったら資格をとれ!資格がないとお前が何を言っても世間には通らん!」という事で、 勉強嫌いな私が二級建築士の試験を受ける決心をする。
 
二級建築士の勉強の仕方計画を立てていた所、 ふらりと現在家出中の旦那からヘラヘラと元気~?みたいな電話がかかってくる。
 
「あ!大工としては無謀やけど、二級建築士も宅建も資格いっぱい持ってたやーん。 試験の受かる勉強の仕方教えて~」というきっかけを持って再会する。
 
負けず嫌いのめんどくさがりの私とは対照的に、 当時の旦那は今では思い出せないくらいおおらかで寛容力や包容力あふれた大きな人に見えたもので。
 
すっかり騙された私は結婚を前提に考えるようになり、 この人と一緒に生きていきたいって思ったのかどうなのか
はい、ここで大阪風に 知らんけど。と言っておきましょう。。。
 
騙された結婚後、 実家から近い隣町で3階鉄骨造の一千万円で売り出されていた競売物件を購入。
 
後輩や知り合いの大工さんにも手伝ってもらいながら大改修をし、
作業場兼事務所として「AYA工房」と名付け、
覚えやすいよう祖父の誕生日に開業届を提出した。
 
住みながらの大改修では大きなリビングを主だった居住スペースとして
天井には珪藻土クロス、
壁にはゼオライト珪藻土、
床には無垢パインのフローリングに自然系ダークブラウンオイル、
番傘型の照明器具を付けたりして 
とりあえず古民家風の内装にして遊んで住んでいた✨
 

 

 

 
その家はもうDIY最大の実験台で、 
全責任は自分にあるという事をふまえて色々試せた事は 
「自分でできる事」と 
「手伝ってもらえばできる事」と、
完全に「専門の方に来てもらわないといけない」
区分けがある程度に理解でき、本当に良い勉強になりました。
 
2階のリビングまでで生活はほぼ完結できた為、
3階はずっと解体したまま放置していたが、
 
第一子の長女がお腹で8ケ月の時にやっと寝室となる和室天井を張り終え、
大きなお腹で旦那のニッカポッカをはき、階段部の珪藻土も塗っていました。

 

 

 
その後、 4歳離れた長男を出産し、何となく騒がしさ狭さも窮屈さも感じて どんどん憧れの田舎暮らしの夢を膨らませ始める。
 
タイミングは長女が小学校入学だな!と感じ、 
『田舎暮らしするよ~」と宣言した数か月後、
 
築100年以上のドシリとした重厚感と、 
縁側に座って眺めた目の前の景色になぜか懐かしさを感じ、 
生まれ育った大阪から二児の子供たちと奈良県宇陀市のこの地に移住を決めました。

 

 

 
古民家再生協会で古民家専門の伝統耐震診断、床下診断や建物全体を鑑定してもらい、築100年も経過しているお家の技術に憧れて勉強していました。
 
購入したその年の秋。
台風による長雨が続く中、来年度から通う小学校とこども園へ見学に行く前日でもあり、
今後の工事のご祈祷を終えて、 
お供えしていた鯛を3枚おろして頂いた後に
離れの方からトサッと音がして確認すると 敷地の一部が崩れて窓にまでのしかかっていた。
 
そのあとすぐに停電もしたので、 このままここで子どもたちを寝かせるのは怖いと思い、
消防車が停まり、とにかくたくさん人がいる建物に避難させてもらう。 
(ハイ、この場所でございます)
 
移住前から「4月から引っ越してくる土砂崩れの家族」として有名になった記念日となる。
 
その後、今あちらこちらで上映されている「杜人」で有名な大地の再生の矢野智徳さんがトントントンと来て下さる事になり、
 
建物と敷地との関連性と重要性と、土中の空気の通らない酸欠状態が崩れた経緯である事を学び「大地の再生講座」を12月と翌年4月に開催し、全国各地からたくさんの方のエネルギーを敷地に注いで頂きました。

 

 

 
そして2018年4月いよいよ引っ越し完了し、長女ピカピカの小学1年生、長男2歳児クラスで入園。
 
どうやら尻に敷かれていそうな旦那さんと尻に敷いていそうな鬼ヨメの奥さん。
そんな私たちを ご近所さんは本当に暖かく出迎えてくれます。
 
宇陀市にある空き家対策、起業者支援として 民宿やカフェ、店舗などの起業をする場合の改修工事の一部補助金を利用させてもらい、
 
モデルハウス用のイベントスペース、接客室、商談室なども兼ねたカフェスペースとして引越し2か月後、宇陀市地元の工務店さんに改修工事をして頂いてました。
 

 

 

 
さて、ここで人生で何度かしかない位の最大のピンチが到来します。
改修工事が始まっているのに「お金が用意できない」状態。
 
古民家購入に土砂崩れや大地の再生講座×2回や、引っ越しや、入学、入園や何やらで、身内のスネもかじりまくり状態。 
 
引っ越しと共に売り出した大阪の家は、当時は中々売れず、
約1年後には購入した金額+リフォーム材料代も上乗せされて売れたのですが、
 
すぐには売れなかったので、しばらくは先立つ自己資金がなく、
改修工事費用が今どのくらいになっているのか聞くのも怖くて、
 
お金が用意できていないのにこうして欲しいと言いにくいなぁ…
あぁ、工事が終わったらお金を払わないと…
いっその事終わらないでくれたらいいのに…
あぁ、でももっとかさんでくるか…  と 神経をピリピリさせていたら
旦那がある夜に突然家出したのです。
 
余談ですが、私も中2か中3で最長、鳥取まで家出経験者ではありますが、
 
身内が周りにもいなくてこの引越し、工事が進行中のこの状況において更なる大ピンチに対して
私が遠い目をして途方にくれた事は想像は難しくないかと思います。
 
『えーっと…一人で何とかするわけね」と 
もう何をどうしたか、あんまり記憶にございませんが
 
工事中をほったらかしにする訳にも、売り出している大阪に戻る訳にもいかず、
 

申込をしていなかったので学童にも預ける事もできず、

学校から帰ってきた小1娘と肩身狭く部屋の中で工事の音を聞いていた記憶があります。

 
またまだ幼い子どもたちが「置いて行かれた」と悲しい思いをせずに済むにはどうすれば良いか。 
とも考えていました。
 
あとは 田舎はすぐ噂が回ると聞いていたので、
「最近あそこの旦那さん見いひんなぁ、土砂崩れた所にとうとう旦那さん埋めはったんちゃうやろか」って
殺人疑惑をかけられる前に 
 
「埋めてはいません、ただの家出です」と報告した時も

 

 

ご近所の皆さまにはいつも暖かく見守って下さっていました。
 
何か恩返しができたらと思うのですが、皆さん心身ともにお元気で芯も強いのにお人柄も良くて優しくていつも助けて頂いていまだに何にも返せておりません。
 
1人で子どもを育てて行く覚悟という意味では、
10代半ば頃からの自由な自分1人の身の振り方ではなく、
金銭的な面と母親的な心身のケアが同時に必要で
 
とにかく何か動き出さねば!
と2021年には国家資格の「一級建築大工技能士」を必死のパッチで取得し、 
 
おっちゃんのアドバイスで赤字でも10年青色申告をしてきた為、『奈良県建設業」の許可も無事頂く事ができ、
 
2022年には一級技能士のみが受験資格のある「48時間講習』というものを眠さに打ち勝ちながら受講し、「建築科職業訓練指導員免許」も取得しました✨
 
仕事では建築業一括請負で主に改修工事で、現場調査から見積書、図面作成、各業者さんと連携をとりつつ工程管理とチラリと大工作業をしたりしています。
 
自宅のモデルハウス改修も引っ越してきた当初より絶賛まだまだ進行中です。
 
完成していない下地がまだ見えているところもあるので、開き直って日時設定して公開見学会をしようと思っています。

 

 

 

 

 
朝は中々布団から出てこない子どもたちをたたき起こし、
学校へ行かせ、日中は現場に行ったり事務仕事をして、
夕方になったら学童に子どもたちを迎えに行き、
お風呂やご飯をして寝かせているそんな私の口癖はずっと『お嫁さん募集中』です笑
 
この建築業界は見て覚えろ派で特に頑固で無口な職人さんが多かったためか
 
私は女で言いやすいのか、
軽い感じで専門も専門以外の事まで気軽に相談されたり
日曜大工的なお仕事を無料で頼まれる事や、
 
やるせないのが『DIY動画と同じ金額でできると思っていた』とか『安い方法教えて!』という
実際に経験を重ねてきた業者さんに少し失礼とも取れるような質問の多さに最近悩んでいます…。
 
元々育児しながら1人で建設業で請け負うなんて、同業者さんから言わすとバカにするなよっていう無謀な事をしている為、
 
時間がない中コストカットの為に工夫をして関わるも、
ヘトヘトで子どもを迎えに行き、
ご飯作る気力なく外食して、夜は子どもが寝た後に事務仕事をしたり、草刈りはお金を払って人にお願いをし、段々そんな事を続けていると、気持ちも楽しくなくて、何をしているんだろうと訳が分からない事になった事もあり、
(都合の)良い人キャンペーンはもう終了しようと思っています。
 
男女共同参画でいうと、少し違うまとめ方になってしまうかも知れないのですが、
 
今後家出中の旦那がかえってくるのか来ないのかも分からないし、
子どもたちが私のように中卒で働くのか
それとも進学したいと言い出すのかも分からないので
各それぞれの意向に私は無理やり何とかしようとはせず
 
わたし自身のこの失敗談も含めた生き方や知識と経験を必要とされる方へ届け
お仕事としてもきちんとお金も含めた、やり甲斐があり、楽しい、嬉しい、喜びの想いやエネルギーの循環を目指したいと思います。
 
私が今までしたい事を思う存分してきた中には、
母を筆頭に色んな人にご迷惑やご心配もたくさんかけてきたと思うし、
自分自身も恥ずかしい悔しい情けない思いもたくさんしてきたし、
人を傷つけ傷つけられてきた事もたくさんあります。
 
私ってなんて単純で複雑だったんだろうと反省のような潔さのような諦めのような
何だかよく分からないけど、
それはいつか『聞いてください』か『知らんけど』のタイトルで本に執筆するとして
 

 

 

 
結論は、周囲の環境を言い訳にせず、
自分の直感で『やった方が良い』とか『やめておいた方が良い』と勇気をもって決断する事と
自分の中の優先順位に主体的に責任を取り、
 
『色々あったね〜』といつかはみんなで笑い合えるそんな未来を目指していきたいと思います。
 
色々お話して協力しながら三方良しが叶えられたら素敵だなーとニヤリと企んでおります。 
ご清聴ありがとうございました。