ニッポン神々今昔物語 | 評議会のブログ

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今はわからへん。昔、ニッポン統一教で、ある者がより下の者らに言う決めゼリフは、「おまえより俺の方がアベルや。俺よりあの方のほうがよりアベルやから、あの方の言葉は真父母任の言葉であり、神様の言葉や。」とまぁよう言うてた。

アベルには階級があった。そんなんを平気で当たり前かのようにニッポン人信徒どもは、アベル階級組織を美化してきた。アベルに逆らえば、カインとレッテルを貼られ、心情分野より組織分野を重要視する。韓国は情治で、ニッポンは法治やと、、、笑わせよる。

組織に忠実であり、年功序列で階級の昇進に合わせて神格化され、いわゆる神々の階級制度でもあったわけや。

人が神になる。ニッポンの文化そのものやから抵抗するどころか、媚びへつらうことなど平気やったし、神(アベル)やから媚びへつらうことに慣れ親しんだ。また、慣れ親しもうとした。

悪たれであろうと人格に関係なく、階級制度で天国を備えるもんやと妄想し、自分もそうなるんやと都合よく解釈する。

み言があろうとなかろうと、階級の上を美化して生きることで、罪があっても人格形成がなくても都合よく平安でありたがる。美化されへんかったら、行き場を失うかのような心境になってまうねん。

罪を拭おうとする力がない。ないからキリスト教的贖罪とは違った力で罪を緩和させる。

ニッポン宗教文化とは、罪も体裁で美化させる為、心情界は虚構性に満ちてる。

秩序は従順であれば良い。善悪関係なく従順性があれば、争いわずに済む。規則正しくする。せやから、ニッポン人は、平和を望む人種やと、、、はぁ? 根本的な問題が見えてへん。

心にワダカマリをこしらえようが、美化されれば、美化すれば、強い物に追随して行けば、自分に存在感が持てると、保てると、、、

統一教の教理との融合性を絡めるけど、ニッポンの原型(堕落性)で、救いは、アベル(お上)にある。私、アベル(上のもん)を愛せまへんと言うレベルで心の葛藤をこしらえては、心のワダカマリを持って生きて、救いに至らせる。

ワダカマリ(罪)あって贖罪なしに従順に生きる姿が健気なんか?

上のもん(アベル)と自分のワダカマリ、それがニッポンの生き様や、信仰やと言うて生きる。

忠実でおとなしいと思われがちでも、罪観がない。紙屑同然扱いに命を捨てようが、特攻をさせようが、その残酷性を美化すればええねん。お国の為にと美化したものを言えば、結局犠牲を犠牲とは思わへんねん。その残酷性がホンマ復帰過程において大きな壁となってる。

せやから、外のもんら(韓国、中国)の犠牲など、犠牲とは思わへんねん。ほんで、自分らがほんまの犠牲者、被害者やと簡単に転化させることができるわけや。反共右翼根性になるニッポン人の統一教徒などこないなもんや。


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