即ち、白人だろうがなんだろうが、格差問題の歪みに覆われてもうたわけや。要は、銭が幅を効かせてるわけなんやけど、その銭の公正分配するにあたり、人種や宗教の偏見、差別では割り切れるもんやないなった。
白人中心のキリスト教で幅を効かせられへん時代やから、公正でより中立的にする銭の分配に対して、結局人間の欲望、保身中心判断になってくるわけや。
生きる為には背違いな世の中とは言え、銭がなければあかん。様々な人種が様々なもんで銭儲けし、多様な価値観で人間関係に亀裂がはしらへんようにせな銭は稼げへん。その為、多様な価値観を認めようとする。生きる為、銭の為にと、、、
ところが最初はええ。ええねんけど、多様な価値観を認めようとするあまり、普遍的で一貫性なる価値観に乏しくなり、重要な価値観(core value)を見過ごしてしまうねん。
その為、オーナーシップ、為の精神、大志を抱く、チームワーク等の欠如が生じやすくなる。
すると元々ある伝統的な価値観や自己都合的な価値観以外を葬ってまうような社会の動きに非寛容さがところどころに潜んでは現れる。このような余波が各国の社会を窮屈にしてる。
多様な価値観を認めようと言う考え方は、一見ええもんに見えがちやけど、実は多様な宗教観や価値観、多様な楽しみ、生き方、そう言うもんを逆に縛り、なにを中心にして公正公平にっするかが、わからへんようになってきた。
このような現象は今のニッポンでも同じように見られる。しかし、宗教価値に乏しいニッポンであるだけに、ある枠内に留めた多様性の価値を限定させるなど、ある意味矛盾性を秘めてより思考能力を退化させてる。
少数意見は尊重されなあかん。せやけど、一方的な多数意見や曲げるべきやないと言ったニッポン的常識(非常識)、伝統を多様性とは裏腹に自己都合を肯定させようと働きかけてる。
進行しようとする多様性にみせかけた社会では、古き良き時代を懐かしむかのように、幻となりつつあるものに対する国民のノスタルジーを呼び起こすが、錯覚で過ごしたものが良き時代やと思い込むことで、天の父(ハナ任)の描かれた創造理想(夢)から遠ざかる。
ニッポンは変形した多様な価値観から多様な解釈まで生み出す。また、「新しい判断」とまでして、一貫性を持たせようとするが、矛盾性をはらませる。
まぁ、この世の神に対して畏れ多くも可畏く生きる呪縛からまだまだ脱し切れてへんから、矛盾が矛盾を呼んで、多様性に生きて、それがあたかも共生共栄共義やと思い込んでは、錯覚に生きてるわけや。

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