安藤忠男氏は、エンジニアとしては失格だ、と昨日書きました。NHKラジオ深夜便での彼の自慢話を聞きますと、なまじっかの努力ではないことは分かりました。彼は、基本的に現場上がりであるにもかかわらず、偉くなってコストを考えなくなったのでしょうか?
しかし、この問題には、もう一つの側面があると思います。つまり、安藤忠男なる建築家をどう使うか、という観点です。安藤には形の面白さを担当させ、もう一つのグループには構造面、技術面、価格面を検討させ、この2つの要素を総合的に判断する、という総合機能です。コンペをやってそのまま採用する、という意志決定方法が、そもそもの誤りなのです。これは、文科省に脳がなかったということと思います。
このような建築家は、いわば施主(新国立の場合は国民でしょう)の意向を無視して、自分はつねに正しく、それを実行する設計家と同じです。このような建築家は、ふつうの戸建て住宅の設計を請け負う居るということです。こういう設計士は、『機能』よりも『見てくれ』を重視します。格好いいけれども、使いにくい家になってしまいます。
建築家の形に関する美意識 は、何ら客観性がありません。ふつうの工学では、形には物理があります。理屈、つまり物理現象を記述する基礎方程式の解、があります。見てくれ至上主義者には、自意識しかありません。この自意識とは、具体的にはある建築空間をすっきりさせるには、ここに水平線があるのは邪魔だ、と称して、安全上必須の手すりを設けない、というようなことを平気でします。例として、B787の翼がより鳥の翼に近いので美しいのであり、それを可能にしたのは、炭素繊維の強度によるのですし、ホンダジェットの翼の上にジェットエンジンが設置されているのも、計算をしているからです。飛行機の設計家は、エンジンを翼の上に置きたいから置いているのではないのです。
まとめると
①建築家の造形美ほどいい加減なものはありません。構造計算ができない人物を建築家とみなして不味いと思います。
②新国立競技場の件、意思決定の構造を作ったお役人か、政治家か、あるいはその両方に脳がなくって、安藤某を暴走させた、と思います。
③建築家協会は、何らかの声明をだすべきと思います。それは、安藤某に限った話ではないからです。