記憶力が低下し、昨日何を考えていたのかさえも思い出せなくなったため、

思考の整理、作文能力の向上を目指しブログを開始することにした。




今日は、「決断」の考え方について今思うところを書くことにする。


私は関数という分野が数学で一番簡単だと感じていた。関数とは中学生のころだれもがならったはずの、y=ax+bのようにyとxの二つの物事の関係性をあらわす式のことである。つまり、関係式といってもよいがここでは関数という言葉をつかうことにする。数学でならったこの考え方は、文字や数字の部分を「事象」「物事」等に置き換えれば、実生活にも代用できる。


たとえば、yを太郎くんの所持金、aを日割りのお小遣いの金額、xを日数、bをもともと持っていた貯金とすると

太郎君が所持金を○○円にするにはあと、何日待てばよいかといったことを計算して出すことができる。


文章題でもいわれたとおりに式をたて、数字を代入するだけだからこれほど簡単で便利な装置はない。

では、yのところに「私の幸福度」という基準を入れるとどうなるだろうか。これはもちろん上のような単純な

一次式では解決できない。簡略化のためにその「私」が「食」と「睡眠」だけに「幸福」を感じる人間ならば、

y=食+睡眠 というような式を作れるだろう。しかし、その「食」のなかにも「どのような食べ物をどれだけ食べれば

『食』における幸福度が最大になるか」という関数があり、その中身は現実世界においては複雑に構成されているだろう。また、睡眠においても「どのようなときにどれだけの睡眠が確保されれば「最高に幸せな睡眠」が得られるか」という関数があり、それも複雑である。


なにか物事を決断するときに、人間は何の気もなしに行動をすることが多いが、もし常に「最善の」選択をするならば、「y=f(a)+h(b)+......」といった複雑に絡み合った関数を瞬時に計算して、選択を決定しなければいけない。


ある研究によると、2つの物事の選択を100万分の1秒で行えるコンピュータを用いても、50種類の物事を

選択させると35年かかるそうだ。人間は二つの物事を選択する際、たとえばご飯を食べるかパンを食べるか

といった選択をするときにすら、「ご飯かパンか」だけでなく、「味をとるか簡便さを取るか」といった選択や

「カロリーが高いほうを取るか低いほうを取るかといった選択」など無数の選択を考えてしまう。

つまり、人間はごく簡単な問いにすら数学的保証がつくような「最善の」選択をすることは不可能であるといえる。


もちろん、もっと高次の問題解決を求める場合はさらに多くの「価値判断(選択)」という関数を考えなければいけないため、生きているうちに解決策を考え出すのは不可能となる。



しかし、それでは社会において人間が生きていくことはできない。時間は限られているのだ。

物事を単純化し、「考えること」をあきらめ、何かを「信じ込む」だとか、「無視する」ことで解決策を捻出しなければいけない。