魔術ではそれらに人格を与え、実体の形態をもつものとして調査し、明確な名称と性質を与える。 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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たとえば魔術であれば魔術のロジックがあり、風水には風水のロジックがあります。

 

陰陽師には陰陽師のきわめてわかりにくい(けど明白な)ロジックがあります。

アルケミアにもアルケミアに本当にわかりにくいロジックがあります。

 

何が言いたいかと言えば、気功師だからと言って自由に勝手気ままにできるわけではないのです。

 

気功師に関しては、好き放題やっているイメージがあるでしょうが、実際は気が重くなるような(そして気の遠くなるような)大きなシステムが後ろに控えているのです。

そしてそのシステムに従う形で自由を得ています。

(ポランニーが『暗黙知の次元』で語るような「隠れた実在」です。この記事の下に引用を載せます)

たしかにポランニーは科学者について語っていますが、科学と魔術は同じ前提を共有しています。

 

科学と魔術とは、通常の現実が本当の現実ではない、日常の見かけの後ろにより基本的な何かが潜んでいるという信念を共有しています。どちらも、隠れた秘密の知識の基本的な重要性に関する信頼を共有しています。(チャイティン『知の限界』 p.129)

*『知の限界』と『数学の限界』が復刻するそうで、、、、でも500部限定って、、、Kindle版も無し。

 

 

 

 

ただ我々には情報場仮説があり、T理論があるので、少なくとも呪術の歴史を超える視点を持ちうるのです。

 

そこでの公理の一つは、

 

ア・プリオリなど無い

 

というものです。

 

無常でも、万物流転でも、なんとでも言い替えて良いのですが、そういうものです。

 

*進撃の巨人

 

とは言え、要請されるアルゴリズムは存在し、ゲームのルールは存在します。

ルールがあって、ゲームがあるので、ルールなしではゲームは存在しません。

ルールが恣意的に決定され、ルールは好きに変えることができ、ルールは絶対的ではないということは、ルールが存在しないこととイコールではありません。

(恐るべきことに、物理法則すら人間の作ったルールであるという考え方があります。ルールは改変できます。それが科学史です。ただし改変するときは、それまでのルールを整合的に説明し、かつ抽象度が上回る必要があるというメタルールがあります)。

(この科学の歴史と似ているのがミシュナーの釈義の伝統です。それまでの代々のラビの見解を踏まえて、それを包摂する理論が必要なのです。先人が積み上げてきたものを批判的に継承しなくては爪痕が残せないのです)

 

*タルムード、ミシュナー、ゲマラーです。ミルフィーユのように釈義が積み重なり、そのラビ達のディベートに参入するのです。

 

魔術に関してきちんと学べば、悪魔とは虚構でしかないことが分かります。悪魔が実体であるならば、サタンと名指しされたペテロ(初代ローマ教皇)はどうすれば良いのでしょうか?

悪魔やサタンとは状態の名称であり、虚構です。

 

3世紀ごろの教父であり(のちに異端とされた)偉大なオリゲネスはこう言います。

 

言うところの悪魔、そして彼の天使たちについての真理、そも彼が悪魔になる以前は何者であったのか、何故に悪魔となったのかについての真理を弁えぬ者には、悪の起源は知られる由もない・・・・

 

オリゲネスはお茶を濁していますが、その真理を近代魔術の大成者であるエリファス・レヴィは明確にこう述べます。

 

われわれキリスト教徒の間に今日(こんにち)でもまだ尾を引いているマニ教の名残りを一掃するために、優れた人格としての、また権威としての「魔王(サタン)」などといったものは存在しないということをここで声を大にして叫んでおきたい。「魔王(サタン)」とはあらゆる罪業、あらゆる堕落、要するにあらゆる欠陥の擬人化である。(p.171 エリファス・レヴィ『高等魔術の教理と祭儀』祭儀篇)

 

エリファス・レヴィはサタンとは要するに「あらゆる欠陥の擬人化」と呼んでいます。

 

エリファス・レヴィは五芒星を愛しましたが、ピタゴラス教団のシンボルマークも、安倍晴明の家紋も五芒星です。

 

 

 

では、古代悪魔学ではどう悪魔を定義しているのでしょう。

これもきわめて興味深いことに、以下のように書かれています。

 

アウグスティヌスとミルトンが明らかにしているように、サタンは自分自身が独立した存在であると夢想するときに、最も致命的な誤りを犯す。語それ自体の意味から言ってサタンの特質は虚構(フィクション)ということなのである。(N・フォーサイス 『古代悪魔学 サタンと闘争神話』 序章)

 

ヘブル語のstnは母音がついてsatanとなり、英語のopponent(敵対者)に近い意味を表すが、その根本にある意味は「道をふさぐ」、「じゃまをする」ということである。(略)七〇人訳聖書(セプトウアギンタ)(ギリシャ語訳)はここでendiabolleinという語を用いているが、その根本にある意味はやはり「道をふさぐように何かを置くこと」である。diabolosというのは、diaballeinという動詞の表わす行為をなす人物である。satanおよびdiabolosという単語は、同様に不快な意味に進んでいったけれど、バラムのロバの挿話は、そのどちらの単語にも必要悪など付随しない、ということを示している。もし道が悪ければ、障害物はあってよいのだ。

(略)

「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするもの(skandalon) (pp.154-155N・フォーサイス 『古代悪魔学 サタンと闘争神話』)

 

 

 

引用の最後に用例として引かれている「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするもの(skandalon)」とは、イエスがペテロに言ったセリフです。

あなたはゴール達成の道を邪魔しているとペテロに言ったのです。

c.f.サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている 2021年02月14日

 

では、なぜこのようなサタンを召喚しなくてはいけないのでしょうか?

その意味はあるのでしょうか?

 

それについてイスラエル・リガルディーはこう言います。

イスラエル・リガルディーは薔薇十字団の流れをくむ黄金の夜明け団の一員でした(出世もしました)。そこで学んだ秘密結社の秘密を公開した人です。

*イスラエル・リガルディー

 

長いのですが、興味のある人のために、セミナーのレジュメでよく用いてきた引用の全文を置いておきます。

 

イスラエル・リガルディーのポイントは何かと言えば、悪魔とは、自分の中にある特定の概念の集合体を認識し、認知し、実体のあるような客観的形態を持たせたものとなります。

 

(引用開始)

まず最初の段階として、魔術ではそれらに人格を与え、実体の形態をもつものとして調査し、明確な名称と性質を与える。自分自身の心の内容物に人間的性格や名称を与えるのは精神の性質である。これを行うに際して、現代心理学の権威といえば斯界の第一人者であるC・G・ユング博士の賛同をも魔術的体系は受けると言ってよいだろう。彼は『黄金の華の秘密』の注解でこれらのコンプレックスを「自律性を持つ心の断片的体系」と名付けている。この「断片的体系」について彼はこう述べている。

「心的人格の構成要素そのものであり、したがって〔徳性とか性質といった〕人格的特性を持たなければならないわけである。そのような断片的体系は、特に精神的や心因性の人格分裂(二重人格)、あるいはありふれた霊媒現象などによく認められる。」(『黄金の華の秘密』C・G・ユング R・ヴィルヘルム著 人文書院 湯浅泰雄・定方昭夫訳)

 前にも述べたように、これらコンプレックス即ち特定の概念の集合体に人格を与えるのは人間精神の自然な傾向なのである。もう一つの証拠として、夢における現象を引き合いに出してもよい。夢においては、非常にしばしば精神的障害やコンプレックスが象徴的にある人間や動物の形態を与えられるのである。

 次の段階においては、古代の科学である「魔術」はこう主張する。このコンプレックスを除くためには、その存在をある程度認知できるよう、患者もしくは学徒の意識に対してコンプレックスを客観的なものにすることが必要である。これら潜在意識の感情のもつれ、即ち悪霊が未知でコントロールされていない時は、患者がそれを最高の利益を得るようにコントロールし、完全に調べつくし、ある物を取り、あるものを捨て去ることは不可能である。説によれば、まず第一に、それらをコントロールする前に実体のあるような客観的形態を与えなければならない。それらに実体がなく、無定形で、自我によって認知されていないかぎりは、それらを正しく取りあつかうことはできない。だが、正統的な召喚の儀式により暗い下界の霊、即ち無意識の深い層に潜む概念であるコンプレックスが暗闇より魔術的三角形の中に物質化現象となって目に見えるものとして喚びだすことができる。(イスラエル・リガルディ「柘榴の園」 pp.226-227)

 

 

 

 

平たくいえば、内部表現の中にあるコンプレックス(特定の概念の集合体)を認識し、名称と形を与えてRをゆらがすことが召喚魔術です。

そしてその特定の概念を擬人化することによって、使役することができるということです。

 

それを実際に理解し、実践してみると、ふとイエスの不思議ななぞなぞのようなつぶやきの意味が氷解します。

 

そのつぶやきとは、これです。

 

 イエスが言った、「あなたがたがあなたがたの中にあるものを引き出すならば、それが、あなたがたを救うであろう。あなたがたの中にあるものを引き出さなければ、それは、あなたがたを破滅させるであろう」(トマス福音書45:29-33)

 

 

 

 

たとえば、Aさんが、Aさんの中にあるものを引き出すと、それはAさんを救う。

でも、AさんがAさんの中にあるものを引き出さなければ、それはAさんを破滅させる、、、。

 

なぞなぞです。

 

便秘とかを思わせますね(違うか)。

 

それが、あなたがたを救う」一方で、「それは、あなたがたを破滅させる」のです、一方で救い、一方で破滅させるような何かなのです。

 

このカラクリはシンプルに「悪魔」ということになります。

上記のイスラエル・リガルディーの内部告発と重ねて読むと、スッキリ理解できます。

 

 

一方で陰陽師はこれを式神と呼びます。

 

式神とは「神を用いる」という意味です。神を使役するのが式神です(そう考えると、式占とは、占いを用いるのです。占いに支配されるのではなく、占いを使役するのです)。

安倍晴明の肖像画の近くにはいつも邪鬼たちがいます。

 

 

 

ですので、そもそも悪魔に悪いイメージはなく(邪魔する者という意味ですし)、サタンも神様のお友達です(ヨブ記)。

 

ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。ヨブ記1:6

 

(ここだけの話ですが、このあと神様はサタンと賭け事をします。

とある義人を競走馬にした賭け事をします。

そして最後はなぜか意味不明に神様が犠牲者であるヨブにひどい逆ギレをして終わるという何とも後味の悪いお話となっていますw。)

 

 

そして、イエスは(トマスの福音書のような外典でなくとも)自分の内に毒を持て!!と言います(あ、それは「芸術は爆発だ」の岡本太郎でしたw)。毒ではなく、自分の内に地獄を持てと言います。

 

 

 

地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

人はすべて火で塩づけられねばならない。

塩はよいものである。

しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。

あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。(マルコ9章43節)

 

*岡本太郎の名前は知らなくとも、太陽の塔なら分かるかも(^o^)。

 

 

深く深く学ばないと見えてこない真理のようなものがあります。

 

逆に深く深く学ぶと、魔術や錬金術、風水、陰陽師のような別々の存在が「同じ一つの声」で語っているような境地が見えてきます(魔術の源流は言うまでもなくシュメールですが、風水の龍脈の源流の源流は須弥山というシュメールです)。

 

 

 

 

繰り返しになりますが、魔術であれば魔術のロジックがあり、風水には風水のロジックがあり、陰陽師には陰陽師のロジックがあり、錬金術にも錬金術のロジックがあります。

 

その流れをくむ我々気功師もその系譜にある以上は、その巨大な知的遺産を継承することで、自由が手に入るのです。

 

それをポランニーは(科学者に関してですが)こう言いました。

 

(引用開始)

しかし彼が追求するものは彼の創意によるものではない。彼の行為は、彼が発見しようとしている隠れた実在による影響を受けるのだ。科学者は問題を洞察し、それに囚われ続けて、ついには発見へと飛躍するのだが、それらはすべて、始めから終わりまで、外界の対象からの恩義を被っているのだ。したがって、こうしたきわめて個人的な行為においては、我意が存在する余地はまったくない。独創性は、あらゆる段階で、人間精神内の真実を増進させるという責任感によって支配されている。その自由とは完全なる奉仕のことなのだ。(pp126-127 マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』)(引用終了)

 

 

 

科学をスタートさせたのが偉大なアルケミストであったことを思えば、これは我々呪術師(気功師)にも当てはまると言えます。

 

とすると、「その自由とは完全なる奉仕」という言葉に煎じ詰められる感触こそが賢者の石の手触りなのかもしれません。