ナマステとは、HiとかHelloというカジュアルの挨拶ですが、本来の意味は相手への拝謁です。
相手の後ろにいる巨大な神さまに向かって挨拶をします。帰依というか、拝謁ですね。
そこには相手の大周天に対するリスペクトがあります。
そして、自分もまた神を後ろに持ち、その神が相手の神へ拝謁するというイメージです。
というわけで、メンタリングはナマステの精神でやりましょう!
いや、むしろナマステでありましょう!というのがメンター養成スクールのテーマでした。
「まといのば」としては、相手の遮那(神)に礼拝するというイメージで使っています。
それぞれがそれぞれの遮那(しゃな)を持つイメージです。
これはシンプルな話しです。
以前開催した子供の教育についてのセミナーのコアテーマが「子供を子供扱いしない」ということでした。
なぜなら、子供は子供扱いされると、子供という隠れ蓑に引きこもり、演技をするからです。
子供を大人扱いというか、しっかりとした人間として接すると、関係性が大きく変わります。
このときのマインドセットとしては、その子が大人になったときを想定して、その大人に話すつもりで話すことです。
難しい言葉を使えとか、大人扱いをしろと曲解しないように。
子供扱いしないことです。リスペクトを持って、丁寧に接することです。
遮那とは可能性と言い換えても良いですし、全抽象度に存在するハイヤーセルフでも、「本当のたったひとりの神」でも、宇宙でも、何でも良いのです。
ただ、このときの宇宙は、お一人様一つずつです。物理宇宙よりはるかに広大な情報宇宙を、贅沢にもお一人様おひとつずつですw
じゃあ、物理宇宙は??と言うと、私とあなたの情報宇宙ないし内部表現の接点が物理宇宙です。
(ここらへんはいろいろと議論があると思いますが、まあ、とりあえず我々は「一人一宇宙」という仮説を自身に要請してスタートしています)。
*毘盧遮那仏の足元で、毘盧遮那仏を見上げながら、自分の遮那はこれほど大きいのかと体感することです。
ちなみに苫米地理論に関しては、ここ数年、意識的に語ることをやめていましたが、、、ちょっと理解の怪しい部分が多々見受けられたので、、、、次回のメンター養成スクールでは、苫米地ワークスの教授を招聘して(笑)、がっつりと講義をお願いしたいなと思っています(笑)
いや、真面目な話をすれば、苫米地理論については、どこかでキャッチアップしましょう。わずかでもポイントがズレて理解していると、アルゴリズムが動き出さずに、砂上の楼閣で終わります。
Namasteとは相手をリスペクトすることです。
相手をきちんと尊敬すること。
これは、クライアントだけではありません。
幼子にも子供にも老人にも、動物にも、家族や友人に対してでもです。
(昔の人はそれを「一期一会」と言いました)
相手をこういう人と決めつけないで、毎回新鮮な気持ちにリセットして、リスペクトして向き合うという訓練を行います。
訓練?
そう、訓練です。
そういうマインドセットでいよう!と決断するだけでは足りず、具体的にトレーニングします。
そしてこういうときにむしろ妄想力を使います。
たとえば、自分はさっきまでちょっとサノスと闘ってきて、宇宙を救ってきた、とか。
非日常が続きすぎていて、凡庸な日常がとても愛おしいものに思えている、とか。
自分は数十年ぶりに、この世界のタイムラインに戻ってきたので、この世界では1日も経っていないけど、別のパラレルワールドでは数十年が経過していた、、、という厨二病な設定などどうでしょう?
久々に家族に会うのです。
もしくは、今日が会える最後の日だったとか(そういう日は確実に来ますし)。
メンター養成スクールでは、「妄想するな、物理を見よ」とさんざん言われました。
でも、妄想自体が悪いのではありません。
クライアントの話を聞くときに、正確に聞かずに、相手の表面だけを聴いて、単語だけ耳に入れて、自分の中で物語を妄想するのがいけないのです。
妄想自体が悪いわけではなく、適材適所です。
正確に相手の表情、話している声、視線、息遣い、肩の高さ、身体が発する音を観て、聴くことです。
脳は「やったふり」が得意が臓器です。
脳のメインの機能は「考えること」などではなく、「やったふりをすること」です(笑)
(これも仕方ない側面があり、見たふり、聞いたふり、やったふりをしないと、作業量がオーバーしてしまうからです)。
ですので、そんなサボり魔の脳を躾けるために、testをします。
本当に聴いていたのか、脳に試験をします。
すなわち、今聞いたことを、話させるのです。
聞いたことをRepeatingさせます。すると、、、脳は、、、次からがんばります(爆)
いや、そんなものです。
次から本気を出すのです。そして本気を出させ続ければ、最初はキツイですが、すぐに慣れます。
僕の友人の一人は、落語を聴くと一度で覚えていました。
落語ばかりを小学校の時分にラジオで聞いて育っていたので、高座に行くと一回で覚えてしまったそうです。
帰り道に全部、頭から話して、一緒に行った親戚たちを驚かせたそうです。
(とは言え、その彼も漫才はどうしても覚えられなかったそうです。さもありなんですね)。
何が言いたいかと言えば、慣れだということです。
ソクラテスも同じアドバイスをしていましたね。
抽象度が高すぎて、まぶしくて仕方ない??
大丈夫、すぐに慣れる、と。
(プラトン『国家』)
どうしてもRepeatingがうまくいかないという人は、暗唱の訓練から入ると良いです。
四書五経ではないですが、頭の良い人たちは、膨大な暗記から入ります。
(フォン・ノイマンはギリシャ語を暗唱しました)
(引用開始)
幼い頃より英才教育を受け、ラテン語とギリシャ語の才能を見せた。6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算で行い、父親と古典ギリシャ語でジョークを言えた。8歳で微分積分をものにした。興味は数学にとどまらず、家の一室にあったウィルヘルム・オンケンの44巻本の歴史書『世界史』を読了した。好んで読んだもの、特に『世界史』やゲーテの小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた。長じてからも数学書や歴史書を好み、車を運転しながら読書することもあった。(引用終了)
暗唱、、、Orz
、と思っている方は、歌を歌いましょう。
僕のまた別の友人はThe Beatlesが好きすぎて、中学生のころに全曲歌えるようになっていました。
暗唱と英語の集中特訓を自分に課したようなものですね。それも楽しみながら。
話をリスペクトに戻します。
相手をリスペクトする、相手を決めつけないというだけではなく、Namasteはもっと重大な問を自分に突きつけます。
それは、「自分は間違っているのではないか」という問いです。
いや、もちろん人間ですから、間違いは多々あるでしょう。
そういうレベルの間違いではなく、森羅万象について私が理解していること、私の信じる世界観そのものが根底からくつがえされるのではないかという恐怖、もしくは強迫観念、絶望のことです。
これを「パラダイム感覚」と仮にここでは呼んでいます。
いつか、根底から自分の思想が否定され、くつがえされる。ブラック・スワンが海の向こうからあらわれて、すべてを否定していく、、、そんな想像を広げていくことです。
これがパラダイム感覚です。
Namasteをしながら、その背景に遮那とパラダイム感覚を持っておきましょう!!
【書籍紹介】
面白すぎる中国の長編SFの「三体」ですが、Netflixが映像化を決定したそうで、楽しみすぎます!!
文字通り「三体問題」から「三体」は来ています。
メンター養成スクールの初日に「三体」Tシャツを着ていたのですが、誰からも突っ込まれなかったので(笑)、ここで紹介しておきます。
(引用開始)
「その手品師はどれだけ大きなことができるんだ?」
「逆に、どのくらいのスケールなら信じるの?」
(引用終了)
本稿のタイトルは「三体」からの引用。
ゴール設定やヴィジョンについて、どこまで自分に求められるかで、結果は大きく変わってきます。
小賢しさから遠く離れて、もっと大いなるもの(たとえば遮那に)ゆだねて、圧倒的な結果を得ていきましょう!
メンター養成スクール2期というか、アップデート版は2021年3月に予定しています。
お楽しみに!!!