巨人の肩に乗りましょう!!(ニュートン)、、、狂人でもなく、コピペでもなく、自分の肩にでもなくw | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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一番良い方法は巨人の肩に乗ることでしょう。

何をするにせよ、そうなのだと思いますが、気功やヒーリングにおいても基本は「巨人の肩に乗ること」です。

「巨人の肩に乗る」というのはニュートンの言葉として有名ですが、実際には彼も慣用表現を使ったにすぎません。

ニュートンはロバート・フックに当てた手紙にこう書きました。

If I have seen further it is by standing on ye sholders of Giants.

(私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです)



*いや、その巨人ではなく。
*いやその巨人にも乗ってしまって良いのかも。というか、肩の上に乗った上に、自分も巨人になってしまえというテーマだったのかもw


ニュートンの意図はこの慣用表現を遣いながら、背の低いフックを腐したとも言われますが、真相はどうだったのでしょう。
(まあニュートンが謙虚な発言をするときは、何か裏を読みたくなります)



何の話かと言えば、ヒーラーの話です。


シンプルに結論から言えば、良いヒーラーになりたいのであれば、巨人の肩に乗りましょう、ということです。

シンプルです。

巨人の肩の上に乗ることで、かなたを見渡せることもでできますし、情報空間を遠くへ素早く移動することもできます。



偉大な先人たちは、例外なく巨人の肩に乗ります。
先人の業績を理解し、自分のものにすることに若い頃の多くの時間を費やします。
あの天才空海ですらそうです。
イエスもしかり、仏陀もしかりです。

(ああ、どんなことにでも例外はあるものです。
インドの天才数学者ラマヌジャンは少なくとも見出されてロンドンに渡るまでは、偉大な数学の巨人の肩の存在すらほとんどよく知りませんでした)


*例外はあるものです。


僕がいつも疑問に思うのは、ヒーラーたちはなぜ巨人の肩に乗ろうとしないのかということです。

歩いて大阪まで行けるからと、青森から歩くようなものです。
新幹線という巨人の肩に乗っても良いのではないかと思います。

お金がかかるからとか、切符の買い方が良くわからないとか、グリーン車は緑色なのかとか、そういうことで悩んで、便利で素早い新幹線ではなく、確実で明晰判明な「歩行」を選択しているように見えます。


*歌川広重「東海道五十三次」日本橋
*歩くしかないときは、歩きましょう。
*実際に気功の世界でも最後の最後のツメ(ラストワンマイル)は歩きですし。いや、むしろ暗闇を手探りで這うようなものです。ですので、移動の手段(気功技術)の確保(洗練)だけではなく、基礎体力も大事です。


とは言え、実際に歩いても移動はできます。

盲人の中にあって、少しでも目が見えることは、その空間を支配できることを意味します。

移動できない人の中で、少しでも移動できることは、その空間を支配できることを意味します。

比較優位ですね。比較優位が絶対的優位化のように機能して、その人は教祖となり、カリスマとなります。


そこにヒュブリス(傲慢)の罠が静かに入り込み、初心を忘れ、学ぶことを忘れ、自我だけが醜く肥大し、評価欲求だけが膨れ上がります。

あまりにワンバターンなので、次の展開が容易に予想できるほどです。



気功というのは否応なしにある種の神秘体験をもたらします。
神秘体験をスルーできる理性があれば良いのですが、その気持ち良さや感動に巻き込まれてしまうと、初心は吹っ飛び、学ぶことも忘れて、自我が肥大するのです。
(神秘体験は恋愛と似ているのです。当事者の二人にとっては奇跡や神秘の連続でも、平場で見ればありふれた「恋愛」でしかありません。恋愛に関しては人は冷静になれるのですが、気功やヒーリングに関しては、それが稀に見えるというだけで冷静さを失うのかもしれません。でも「奇跡的なヒーリング」なんて実際はありふれています)


そんなときに(ダークサイドに入ったときに)、「もっときちんと学ぼうよ」「巨人の肩に乗ろうよ」などと言っても、「我は神なり」と自我が無駄に肥大しているヒュブリス君に何を言っても無駄です。

かと言って、市場がすぐに淘汰してくれるかと言うと、そうでもありません。
歩けない人の中にあって、歩ける人は重宝されるので、小金は集められるのです。
ですので、気付ける契機を奪われ、ズブズブと深みにハマり、かと言って、魔境に引きずり込まれるほどの才覚もなく、ブクブクと膨れ上がっていきます(自我が)。





彼らの特徴は「アドバイスを聞かなくなる」「偉そうになる」「手を抜き出す」ということです。

いやいや、彼らは教師のアドバイスを聞いていないつもりはないのです。
しかし脳がすでに先輩や教師に対して重要性を感じていないので、結果的に聞けないのです。


偉そうになるのは、本気で自分が偉いと勘違いしてしまっているか、もしくは自己顕示欲と承認欲求が激しくなるからです。

手を抜き出すことについては、本人たちにどこまで自覚があるのか分かりません。
ただ安易な方法を探すことに脳が最適化され、パクリ、コピペ、ノリが彼らの脳を支配します。
無知と衝動と非論理性に満ち満ちていて、見ていられません。
でもその狂気に惹かれる人もいるので、集客は一定数はできたりしますw


僕は彼らの言説を見ると、いつもこの引用を思い出します(ちなみに一部改変しています)。


(引用開始)彼自身にしてみれば、これは気分の変化というだけのことであった。そして、その時々の気分にふさわしい悲壮な極り文句をあるいは自分の記憶のなかで、あるいはそのときの心のはずみで見つけることができるかぎりは、彼は至極満足で、〈前後矛盾〉などといったようなことには一向に気付かなかった。後に見るように、紋切り型の文句で自慰をするというこの恐ろしい長所は、死の寸前にあっても彼から去らなかったのである。(引用終了)


ノリで話していて、そのノリに相応しい自分の気分を高揚させてくれるような文言であれば、パクリでも、矛盾していても、熟考されていなくても構わず撒き散らします。

その時々の気分にふさわしい悲壮な極り文句をあるいは自分の記憶のなかで、あるいはそのときの心のはずみで見つけることができるかぎりは、彼は至極満足

寺子屋受講生であれば、お馴染みのこの「彼」とはアイヒマンのことです。
引用はハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)からです。



*獄中のアイヒマン


まあパラドキシカルなことに、この文章を読める人は、そのダークサイドというか、ヒュブリス(傲慢)サイドには入っておらず、入っている人にはこの文章は届かないので、ここで書くこと自体がパラドックスなのかもしれませんw(違うか)



ヒーリングや気功を生業(なりわい)にしたいと思うのであれば、積極的に学ぶ姿勢は持ち続けることです。

我々は巨人の肩に乗るしかないですし、その過程というのは、いかに自分が無知で傲慢でアホだったかを痛烈に感じるだけです(僕も自分の先生には、いつも「いかに自分が無知で傲慢でアホだったかを痛烈に感じ」させてもらっています。いや、別に罵倒されるわけではありません。自然とそのことに気付かされるような空間に置かれるのです)。


別に辛いことばかりではありません(まあ、辛いかどうかは解釈次第であって、別に辛くないですが)
そこに「知」の喜びが少々加わります。


狂人の肩でも、自分の肩でもなく、書割(かきわり)のようなコピペでもなく、偉大な先人たちという巨人の肩に乗りましょう!!(コピペするくらいなら、Good Artists Copy; Great Artists Stealとうそぶいて、盗みましょう!その本質を。盗まれたことに気付かないくらいにエレガントに!)




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