人はパンのみにて生くるにあらず 〜人は麻薬のみにて、中毒になるにあらず〜 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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人はパンのみにて生くるにあらず」と荒野で悪魔に応えたのはイエスでした。

石をパンに変えてみろというサタンの試みに対して、イエスは正しくも聖書を引いて答えました(エゴが肥大すると、石をパンにするという手品をやりたくなるものです。僕ら気功師もしばしば「試み」に合いますが、サクッと退けましょう)。

人はパンのみではなく神の言葉によって生きるのです。


同様に麻薬があるから、中毒になるわけではないようです。

「人はドラッグのみにて、中毒になるにあらず」というわけです。



*もちろん、「悪いのはすべて悪魔のせい」でもありませんw


ラットをケージにいれて、水とヘロイン入りの水の両方を並べると、たしかにヘロイン入りの水を好んで飲み、中毒になって早々に死にます。

これは僕らがよく知っている中毒モデルです。我々人間も同じだということです。


しかしこの対照群に別な実験を設定すると不思議なことが起こります。

たとえば、ただの水とヘロイン入りの水をラットの前に出しても、ただの水を選択するケースもあるのです。それは個体差ではなく、ポイントは環境です。

たくさんのチーズ、たくさんの遊び場、そしてたくさんの仲間がいるケージの中では、全くと言っていいほどヘロイン入りの水を飲まなかったのです。すなわち、目の前に麻薬があるか、どうかではなく、ラットが孤独を感じているか否かが本質的だということです。


*良き仲間がいれば、なにかに中毒する必要が生じないのです。


そして、もう一方で大量の麻薬を摂取しても、中毒にならないケースについてわたしたちよく知っています。
それも膨大なエビデンスと共に。

たとえば交通事故の治療です。ジアルモフィンという混じりけなしのドラッグを処方されます。ドラッグディラーなら泣いて喜びそうな純粋なヘロインです。それも長期間にわたり。
ヘロインは化学物質なので、一度身体に入ると中毒になり、それが長期間続くと離脱が難しいと私たちは考えがちです(そう教わってきました)。しかし、交通事故の後遺障害にドラッグ中毒が多くの割合を占めることはありません。

以上は「私たちが中毒について知っていることはすべて間違い」というTEDレクチャーからのサマリーです。


TEDのサイトはこちらから。スクリプトの邦訳はこちら


私たちは様々な中毒にさらされています。

それはインターネットかもしれませんし、スマートフォンかもしれません。糖質かもしれませんし、脂質かもしれません。ある種の強迫観念かもしれませんし、成功に対してかもしれません。失敗に対してということもあるでしょう。


しかし「中毒」という概念を少しだけこれまでの場所から、わずかに移動させるだけで、世界の様相は変わります。


寺子屋「フロイト」において大きなテーマであったラカンのこんな言葉を思い出します。

(引用開始)
人間と記号表現の関係において(この場合は釈義の手続きにおいてだが)、少しでも変更をほどこせば、人間の存在様態をつなぎとめる路線が修正されることになって、歴史の全行程が変わってしまうのである。 (引用終了)(ジャック・ラカン)


*ジャック・ラカン。ジャック・ラカンと言えば構造主義、ポスト構造主義です。
寺子屋の今後のラインナップの中で「構造主義」についてやりたいという意見もそう言えばいただきました。僕らの若いころは構造主義、ポスト構造主義、ポストモダンが大流行りでした。そしてその洗礼を十分に受けて、そしてそこから脱兎のごとく逃げ出しました。
スピリチュアリズムにどっぷりはまって、脱兎のごとく逃げたのと同じです(ちがうかっ)。
気分としては、若気の至りなのですが、若いころの愚かさと学問の愚かさとは異なりますので、リクエストも頂いたことですし、いつか寺子屋で取り上げたいとは思います。



このラカンの感覚というのが、いま我々の課題となっているカバラ的、密教的な感覚と言えます。


この感覚というのはたとえばパスカルのこんな言葉を思い出します。

言語というのは暗号のようなものである。そこでは、文字は置き換えられないが、単語は置き換えられる。したがって、未知の言語もまた解読可能なのである。(パスカル「パンセ」断章四五)


まさに言語というのは暗号です。

とくに我々がよく知っていると思う言語こそ、暗号だと思って接する必要があるように思います。

なぜなら、そこに「少しでも変更をほどこせば、人間の存在様態をつなぎとめる路線が修正される」からです(そして変更を施すのは我々自身ではなく、対象だという感覚もきわめてカバラ的かと思います。我々ができるのはその変更に気付くことだけです)


昨年の陰陽師、アルケミア、そして今年に入ってから頻出するカバラに共通する「秘密の教え」の中核はここにあります。

言葉は暗号であり、世界は暗号であるという感覚です。
(世界というか宇宙は読むべき本だと言ったのはガリレオ・ガリレイでした)

「秘密の教え」は隠されているのではなく、見えない人には絶対に見えないから「秘密」なのです。提示しても見えません。教えても理解しません。自分で見出すしかありません(それもシステマティックに)。
秘密の教えとは、透明人間のようなもので、だからこそ私たちの目の前にその姿を安心して、いつもさらしても平気なのです。


英語も同様です。
英語という言語をあたかも日本語のように学ぶから、うまくいきません。
日本語は文字が膨大にあります。英語は大文字と小文字をあわせても50文字ほど。日本語はひらがなで50、カタカナが同じ、それに膨大な漢字が続き、その漢字の読み方は逐語的に覚えざるを得ません。「かな」は音と対応していますが、漢字はハングルのような合理的な音とのつながりはありません。丸暗記するしかありません。
しかし英語は異なります。

「はじめに音ありき」です。

そしてその音は「文字とともにあった」わけではないのです。
文字はあとから、やっつけ仕事のように持ってこられたのです。
ですから、音の数に対して、アルファベットは少なすぎます(我々はこの先、アルファベットという言葉を巨大な企業の名前としても認識しなくてはいけません。Googleという「神」はアルファベットのたかだか一文字「G」でしかないというシンプルで力強い言明に、野望の大きさと深さを感じます https://abc.xyz/)。




これはDNAの塩基とアミノ酸の関係に似ています。
塩基であらわせるのは4文字だけ、アミノ酸は20種類。
さすがに足りないので、塩基3文字でアミノ酸を記述します。
4文字しかなくても、3つ使えば、その組み合わせは4×4×4=64になります。
4×4=16では少し足りません。


*二重らせんとヘルメスの杖


同じようにアルファベットも少し足りないので、一文字で音を表すのを基本としつつ、二文字、そして三文字で音をあらわしています。

とすると文字から英語を学ぶのはアウトということです。
音から学ぶべきで、その音を便宜的に表すのが文字です。

また単語を覚える時に、書いて覚えてはいけないのもそれが理由です。まず音を正確に聞き取り、音を正確に覚えて、どう使うかを理解したあとで、その不完全な写像として単語なり英文という文字にします。
ある踊りをみるときに、その影が実体だと思う人はいないように、文字を見て、これが英語だと思うべきではないのです。

たとえば、日本語の学習においては、文字が多すぎ、そしてその音は全く推測できない形象なので、漢字は繰り返し書かなくては覚えられません。しかし英語は日本語ではないので、同じ方法で学んではいけないのです。


これも非常に些細な概念の変更です。
人間と記号表現の関係における少しの変更です。

しかしその変更が世界の様相を一変させます。

英語だけではなく、中毒だけではなく、一事が万事そうなのだと思います。それこそがカバラ的な陰陽師的な「秘密の教え」のポイントかと考えます。

ある概念、ある考え方、ある言葉の意味をわずかに変化させることで、世界が一変するというそのエキサイティングな体験を通じて、人はゆっくりと進化します。


*壁を突き破りましょう!!


とはいえ、では中毒に陥った人にどう接すればいいのか、ジャーナリストのJohann Hariはシンプルな回答を示しています。

I love you whether you're using or you're not. I love you, whatever state you're in, and if you need me, I'll come and sit with you because I love you and I don't want you to be alone or to feel alone.
(君がヤクをやっていてもやっていなくても、君のことを愛している。君がどんな状態におかれていも。
もし君が僕を必要とするなら、いつでも飛んでいって君のそばにいるよ。
なぜなら、君のことを大好きだし、君をひとりにしたくないし、孤独だと感じさせたくないからね)

平たく言えば、無償の愛ですね。
見返りを求めぬ愛です。

当然ながら、ここでのポイントはこのように語ることではなく、このように語る相手を持つということかと思います。
「こう言えば効果的!」という魔法の処方箋ではなく、マニュアルでもありえません。言葉ではなく、関係が先でしょう。

いや、イエスであれば、どのような関係であるかに関係なく、「あなたも行って同じようにしなさい」と言うのでしょうが(ルカ10:37

事程左様に(というほどでもないのですが)、真理が語義の解釈によってパタンパタンと一変していく様を楽しみましょう!!



【書籍紹介】
寺子屋「モーセ、フロイト、ユング」のテキストがフロイトの「モーセと一神教」でした。
この本自体が壮大な推理サスペンスです。
推理の主題はいくつかありますが、たとえば「誰が神を殺したのか」(まるでニーチェです)、そして「誰がモーセを殺したのか」。モーセは誰だったのか?レビ人とはどの民族だったのか?ヤハウェとは誰か?
そして、なぜキリストは殺されたのか?
祖先のリンゴの味見程度で、死刑というのは重すぎます。

謎解きにつぐ謎解きです。
もちろんスッキリと謎が解決し、知識のフォルダにしまい込まれておしまいという内容ではありません。むしろ謎が謎を呼び、その謎と謎が化学反応を起こして、異なる謎を呼び、気付いたら無知の闇の中に囚われています。

しかし、何かを学ぶとか、知るというのはそのような体験であることも事実です。

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