無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか(ヨブ記) | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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正しい人であり、神からも義人とされたヨブは、神とサタンの賭けによって、持ち物を奪われ、家族を奪われ、健康を奪われ、尊厳を奪われます。
うすうす神が間違っているのではと思いますが、それを口にすると友人から罵倒されます。

そんな中、突然に神さまが登場します。

ポイントを整理しましょう。

設定として、「ヨブ=正しい人」です。これは神もサタンも全く異論はありません。

神様はなぜサタンを通じて、ヨブを罰しているかと言えば、ヨブが悪をなしたためではなく、サタンの口車に乗せられたからです。

サタンは神にこう言いました。ヨブからすべてを奪えば、ヨブはあなたを呪うでしょう、と。
自分の評判しか気にしない妬み深い神様は、そんなことはないとサタンに示すためだけに、ヨブへのリンチをサタンに認めます。

これはどう考えても、神様がヨブに「ごめんなさい」と言うべき失態です。特に殺された息子や娘の命は帰ってきません。

ヨブは最後まで気丈に友人たちとの激論を交わします。病人に対してひどすぎると思います。
そして若い友人の気負った発言はスルーします。

すると、唐突に神様が登場します。

無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。」と言いながらの登場です。

神の計りごとがもしあるとして、それを暗くしたのは神自身の軽薄さです。

ヨブ記から引用します。

(引用開始)
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。
あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。
その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。
かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。]
海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、だれが戸をもって、これを閉じこめたか。
あの時、わたしは雲をもって衣とし、黒雲をもってむつきとし、
これがために境を定め、関および戸を設けて、
言った、『ここまで来てもよい、越えてはならぬ、おまえの高波はここにとどまるのだ』と
あなたは生れた日からこのかた朝に命じ、夜明けにその所を知らせ、
これに地の縁をとらえさせ、悪人をその上から振り落させたことがあるか。

(引用終了)

重要なのは、「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。」以下、神は質問にも答えず、自分の話しばかりしているのです。

ヨブが聞きたいのは二点でしょう。

1つは自分(ヨブ)は義人ですか?

もう1つは、もし義人であるならば、なぜこのようなひどい目に合うのですか?ということです。

義人であることに対しては絶対的な自信があるので、それゆえに神の行為が不可解なのです。

それに対して、当然後ろ暗い神様はまっすぐに答えません。

「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。」と言いますが、男らしくすべきは神様のほうですw

そして、質問に対して質問で回答します。

わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。


「地の基をすえたとき、どこにいたか?」というのはほとんど言いがかりです。子供にむかって、親が叱るときに、俺達が結婚したときにお前はどこにいたんだ?というようなものです。少なくとも神様に対しては「まだ生まれておりません」としか言いようがありません。

そして、その質問がいったいどんな意味があるのですか?と聞きたくなります。

創業社長が新入社員に対して叱るときに、創業時の苦労を激昂して話しながら、「創業時にお前は何をしていたんだ!」と逆切れするようなものです。

いよいよ神様が狂っていくのが分かります。その後延々と彼が話すのは、自分の神様としての苦労話ばかりです。ヨブについて語ることは一切なく、ましてやヨブの疑問に答えるそぶりもゼロです。


ユングの軽妙な語り口を借りるなら、こんなことになっています。

(引用開始)
 ここで略奪、殺人、故意の傷害、そして正義の拒絶と、休む間もなく解しがたい行為が続くことについて、説明がなされなければならない。とはいえ、ヤーヴェがためらいや後悔や同情を一切表さず、冷淡で残酷なことしか述べないことを考えると、説明は困難である。彼が無意識なのだという弁解は通用しない、なぜなら彼はシナイ山で自ら告示した十戒のうち少なくとも三つをあからさまに犯しているからである。
(引用終了)

自分が律法を定めて、お気に入りのモーセ君に渡したにも関わらず、まず自分が破り、破り、破りまくります。ヨブに対しても「略奪、殺人、故意の傷害、そして正義の拒絶と、休む間もなく解しがたい行為が続」きます。「なぜなら彼はシナイ山で自ら告示した十戒のうち少なくとも三つをあからさまに犯しているからである」という下りがパンチが効いてて良いです。


ご承知のとおりヨブはうすうす神の本性に気付いています。自分の求めている答えが得られないことも分かっています。
自分は義人でありながら、ひどすぎる仕打ちを受けていることが分かっています。そしてそこには正義も正しさもないことが分かっています。


ヨブは二度にわたって神に対して謝罪します(とは言え、何を謝るのでしょう)。


見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。
わたしはすでに一度言いました、また言いません、すでに二度言いました、重ねて申しません
」。


何を言っても無駄だし、何を言っても論理は通じず、正義は実現されないのだから、黙りますということです。沈黙は金です。

「もう何も言いません」と言っているに輪をかけて、神は怒りまくります。それもまた同じことの繰り返しです。

神様はおなじようなことをネチネチと繰り返します。「冬の太陽と老人の繰り言は似ている」、という話を思い出します。「照らしはするが、温めはしない」w

神様は自分の偉大さと細かな仕事をいちいち上げていきますが、本質的な回答にはかすりもせず、無為なおしゃべりと化しています。

ヨブはこう言います。

(引用開始)
わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。
『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
(42章)(引用終了)

いわば完全な敗北宣言です。

全知で全能である神の存在を認め、「みずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べ」たことを認めました。いわば傲慢の罪を認めたということです。

その上で、「みずから恨み、ちり灰の中で悔います」という大敗北です(まあ勝ち負けではないのですが)。

しかし、批判されるべきは神です。きちんと回答していないのも神です。

ですが、一切回答しないし、現れたと思ったら逆切れしているだけの神様をみて、ヨブは愛想を尽かします。

で、口を開かないことを誓い、それでも満足しない神に対して、その全知全能をたたえ、自分の非を認めて、自分を恨み、悔います。

しかし、これはヨブ側から見ると違う風景が見えてきます。

「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。」という意味は、耳で聞いているときは正義をなす神だと伺っていたが、実際に目でみてみると、正義などどこ吹く風で、単に無思想に怒り散らして、気分で力を行使する古代の王のような人間的な神であることがわかったということです。

だからこそ、神に正義が存在すると無邪気に考えていた「みずから恨み、ちり灰の中で悔い」るのです。

神の正義を信じていた過去の自分を恨んでいるということです。

このときヨブは明らかに神より高い抽象度へ移動しています。ユングの言い方を使えば、ヨブは神の裁き手に昇格しているのです。

ヤーヴェもしくはヤハウェという神様が示しているのは、野蛮な超能力のひけらかしと自分の無反省さであるとユングは考えます。


(引用開始)
ヤーヴェの演説は、デミウルゴスの野蛮な超能力を人間にひけらかしたいという、たしかに無反省ではあるがしかし明瞭な目的を持っている。「我こそは、倫理的な律法には従わない放埒で無軌道なすべての自然力の創造主であり、したがって我自身もまた道徳とは無縁の自然力、自身の裏側を知らない単なる現象としての人格である」(略)この宣言によって、人間は無力であるにもかかわらず神に対する裁き手にまで高められるからである。
(引用終了)

「人間は無力であるにもかかわらず神に対する裁き手にまで高められる」のです。

ここでユングは2つの重要なことを示します。

第一に神とは意識的な正しさを実践する存在ではなく、正義ではなく力で支配し、無意識の存在であるということです(理性的な存在ではなく)。

第二に、ヨブは神との対話を通じて、無力であるにもかかわらず神よりも上位に、神を見下ろし裁くことができるところまで高められるということです。だからこそ、ヨブは口を閉ざし、自分を恨み、悔やんだのです(負けるが勝ちです)。


神はさんざん怒鳴って、この最後のヨブの言葉を聞いて、満足したのか矛先を友人たちに切り替えます。
そして燔祭することでヨブに謝れと迫ります(謝るのはまず自分でしょうというツッコミをできるのはサタンくらいです)。

そして当のサタンにはお咎め無しです。

神は当然ながら、自分が悪いことをしたという自覚があり、後ろめたさがあります。


だから、、、、


ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。

主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。



これは明らかに普通に考えれば奇妙です。ヨブが悪をなしたので、罰したのであれば、原状回復はおかしいですし、原状回復どころか「2倍」です。「初めよりも多く恵まれ」させたのは神です。

これは損害賠償です。神様からヨブへの賠償です。お詫びの気持ちが現れています。とは言え、失われた子供たちの命は戻ってきません(神様なら戻せばいいのにとも思います)。


耳で聞くのと、実際に見るのでは大違いな神さまでした。


我々も神に正義を求めるのはやめて、その本質を見抜き、もし神にからまれたら、こう答えましょう。


わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。