5次元が見えていますか?〜抽象度を抽象的に理解していると、物理空間に対しても盲目的になる〜 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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抽象空間の中にただようことが気持ち良いと思ったことは、僕に関しては一度もないのですが(記憶にあるかぎりは)、抽象空間の中で彷徨うことが強烈な快楽な方も多いようです。というか、むしろ多数派のように思います。

抽象空間にいることは苦痛であり、身体的な痛みを伴い、精神的にもキツイというイメージが僕にはあります。ただこの仕事をはじめて、多くの人と話す中で自分がむしろマイノリティであることに驚かされます。

どの世界の抽象空間にただよえば気持ち良いのか分かりません。

もちろん瞑想はセックスより気持ち良いと言われますし、ドーパミンも同時にセロトニンも多く出るとされるというよく知られた前提は共有したして議論しています(というか、本当に抽象度を上げることが気持ち良いだけならば、多くの人が低いレベルの肉体の喜びにとどまる理由がありません。多くの人がガンガン抽象度を上げ、IQを上げるでしょう。ですから、単純なロジックというのは単純で使えないのです)。

ドーパミンは渇望ホルモンです。
水を飲みたいけど、飲めない状態で10年望み続けているのがドーパミンがドバドバ出ている状態です。そんな10年に耐えることなく、人は水を待たずに、ワインを飲みます。ドーパミンが出るのが良いというのは幻想です。

何年もその状態に耐えられる人を我々は天才と言います。ケインズがニュートンに対しての評価もこの点に集約されます。以下に何度か引いたケインズのニュートン評を載せます。

(引用開始)
彼の精神の謎を解く糸口はその人並み外れた、絶え間のない集中的な内省力のうちに見ることができるとわたくしはおもう。デカルトのばあいと同様に、彼を完成された実験主義者とみなす主張もなされうる。(略)彼の特有な天稟は、まっすぐに見きわめてしまうまで、純粋に知的な問題を絶え間なく心の中に持ち続ける能力であった。
(引用終了)(pp.317-318 ケインズ 「人物評伝」岩波書店)


多くの人と話していて、少しだけ共有するのは自分が創りあげた自分だけの情報空間でモヤモヤしているのは楽しいのかもしれないということです。自分だけの宇宙で、自分だけで閉塞して、自分だけで完結して、他者が入ってこない宇宙であれば、もしかしたら気持ち良いのかもしれません。

しかしそれは明らかにまがい物の宇宙であり、情報空間です。自己だけで完結している宇宙というのは妄想でしょう。


前回の記事とも重なるのですが、単純に安易な二元論を大人になっても使っているからこそ起こる誤解だと思います。二元論は幼稚園の砂場までで終わらせるべきです。情報と物理は全く別なものに見えますが、同じものです。氷と水は全く別なものに見えますが、同じ分子であり、クジラと豚は全く違うものに見えますが、同じ哺乳類であり、月とスッポンも全く違うものに見えますが、同じように原子で構成されています。情報と物理も連続的です。


世界には絶対的な他者がいることを認め、その他者も含めた抽象度の階段を上がる必要があります。

そのときにはじめて我々は生きていると言えますし、それがImmortal(不死)の意味でしょう。
不死とは永遠の時間を長生きするとか、そういうことではありません。時間と空間を超越するということです。その空間で生きるといことです。


情報空間は時間と空間を超越しています。

と言っても抽象的な概念を抽象的に聞いて、わかったつもりになるおめでたい人は具体化する癖をつけると、より頭を有効に使えます。

我々はスケジュール帳を見る時、時間と空間を超えて推論しています。「今年の夏にグアムに行く」という平凡なスケジュールは、時間も空間も超えた推論です(そもそも推論自体が一般に時間と空間を超えていますが)。「いま、ここ」という制約がなく、かつそのスケジュールという推論(演算・思考)は具体的に自分なり誰かを「今年の夏、グアム」に運びます。時間と空間を超えて、影響を及ぼします。スケジュールを組むという作業は、その意味でメタフィジック(物理を超える)なのです。


*グアムの海

目の前に5次元の世界は広がっています。5次元というのは言葉の綾であり、4次元+1次元ということです。4次元とは物理次元のメタファーであり、別に超弦理論の11次元でも良いのです。その物理次元に対して別な次元を情報空間方向に加えるということです。

前回の記事でも言及したように、実数直線に直交する虚数のようなものです。
実数というのは、離散的で飛び石な自然数や負の方向に伸びた整数、その間を埋める分数で表記される有理数、そしてその間を埋める分数で書けない無理数で埋まったべったりとした数直線です。

Nine Zulu Queens Ruled China.とおぼえました。N,Z,Q,R,Cです。左から自然数、整数、有理数、実数、そして複素数です。

実数までは直線で書けます。そしてびっしりと埋まった数直線を見ながら、そこに新しい次元を加えます。直交させる形で虚数という概念を導入します。それがComplexityNumberである複素数です。

a+biと書きますが、まあre^iθとオイラー表示で書けるということはご承知のとおり。
(数だけを丁寧にじっくりと見つめても、抽象度の階層性は明確に見えてきます)

数直線という一次元の空間に、もう一次元加えたのが複素平面です。

この数をめぐる冒険をメタファーと考えると、物理次元が直線としたら、もう一つの方向に広がるのが情報次元です。x軸の物理次元に対して、直交する形でy軸方向に情報次元が広がります。

ただxy平面なり、複素平面をじっと見てみましょう。



するとどこにも実数と複素数の境界がないことに気付きます。
方眼紙にx軸であって、方眼紙ではない場所を探すことは困難です。

言われてみれば当たり前ですが、我々は情報と物理は、何か別物のように区切れると思っています。区切れるのは概念として、集合としては可能ですが、それだけです。実体としては区切れません。

たしかに、自然数の1や2は複素数に見えません。しかしこれは、1+0i、2+0iという複素数です。係数が0の部分を省略しているだけです。

物理と情報の関係も同じです。実数と複素数と同じです。一見対立しているようで、本質的には同じものです。

もちろんここにも抽象度の階段は存在し、実数の世界からは上には行けません。しかし複素数の世界から見下ろせば、実数も複素数に見えます。
物理の世界からは情報空間は見えません。情報空間から降りてくるしかありません。

情報空間だけの情報空間という妄想は、複素数という数が実数とは別に存在するという妄想と同じです。複素平面の中に実数が無いというのは、整数の中に自然数が含まれていないというくらい奇妙なことです。

しかし、そのようなあり得ない場をつくり、そこでひとりの王国を楽しむ分にはもしかしたら抽象空間は楽しいのかもしれません。しかしそれは魔境の入り口であり、廃人への道が善意で敷き詰められているだけです。「ダメ絶対」ですw

他者を当然に組み込んだ、地に足の着いた情報空間を冒険しましょう。それは苦しいものであり、肉体的に痛みを伴い、精神的にキツイものです。しかし社会に機能を果たせるという大きな喜びが待っています。


錬金術
*というわけで、1月のスクールは錬金術です。



最近繰り返し聞いている、ベイマックス(Big Hero 6)の主題歌”Immoral”(Fall Out Boy)です。


*このレコード盤、売っているなら欲しいくらいですw


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