毘盧遮那仏とは奈良の大仏さまのこと、アダムの創造と梵我一如の分析哲学存在論 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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情報身体を巨大にすると良いらしいということは、古来より知られていたようです。

奈良の大仏さまはなぜあれだけ大きいのか、いやそもそもなぜ仏像は創られたのかを考えると、これは瞑想の道具です。




瞑想というのは、脳を上手に使う方法論です。仏が実在するか否かではなく、自分とある仏をつなぐことで(灌頂伝授)、その仏になりきることができます。いわば役の割り振りのようなものです。最近の言い方で言えば、その仏を着ることができます。

ハムレットのAssume a virtueですね。

持っていないならば、せめて持っているふりを、です。

我々は三千世界にあまねく存在する仏ではあり得ませんが、そうでないなら、せめてそうであるふりをすると、そうであるのと同じような効果を得られることが分かったので、より実践しやすくするために、仏像を彫り、仏とは手乗り文鳥ではなく、巨大なのだということを思い出すために、巨大な仏像をつくりました。

毘盧遮那仏というとすごそうですが、我々の馴染み深い奈良の大仏さまです。

Wikipediaによれば、「毘盧遮那とはサンスクリット語のVairocana「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。「毘盧舎那仏」とも表記される。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)、遮那仏(しゃなぶつ)とも表される。
史実の人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。毘盧遮那仏については、『華厳経』に詳しく説かれている。
」とあります。

毘盧遮那仏とは密教では大日如来であり、バラモンで言うブラフマンですね。宇宙そのものです。

宇宙そのものなら大きいはずです。

とは言え、我々の自我も宇宙大にすることがここでは求められています。いわゆる梵我一如であり、ブラフマンとアートマンの一体です。ブラフマンとアートマンとはそれぞれ宇宙と自我です。

我々は一体化するというよりは、ブラフマンとアートマンがそれぞれ表裏一体と考えます。

もちろん自我と宇宙は表裏一体です。

なぜ表裏一体かと言えば、それは分析哲学の存在論で記述可能です。

宇宙という全集合のうち、自我という部分集合が存在するとします。自我という部分集合の補集合は自我を除いた宇宙のことです。自我という関数は、自我自身と宇宙を分ける関数でもあり、自我も宇宙も定義する関数とも言えます。

Even(n)という偶数を自然数から選び出す関数が、その補集合として不可避的に奇数を選び出すのと同じです。

自我を部分関数で定義される部分集合でしかないとみなせば、自我という部分関数は宇宙も逆向きに定義可能ということです。

少なくとも物理的には自我を示す身体は物理宇宙の部分集合とみなせます(物理宇宙とは独立した物理が存在するという矛盾した存在が魂でした)。宇宙というデータを放り込むと、自我なり身体を取り出す関数Ego(n)は逆向きに宇宙も取り出せます。

分析哲学での関数としての自我が現代の梵我一如です。

もちろんここでの我、アートマンは伝統的にはアプリオリであり、永遠不滅の魂をあらわします。転生を繰り返す存在です。そのような数学における不動点のような存在を考える時代はカントで終わりました。いまは少なくともそう考えていません。アートマンも滅するものでしかありません。というか一瞬一瞬滅しては生まれ、生まれては滅するものです。

アートマンとブラフマンのこの補集合の関係というのは、創世記におけるアダムの誕生を思わせます。

創世記におけるアダムとイブの誕生は2回あります。これはもちろんそれぞれ別の神話を組み合わせてしまったための編集上のエラーです。

1つ目は「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
(創世記1:26-27)です。

この話はさておき、創世記の2章では健忘症の神様(おじいちゃんなので仕方ないかもしれません)はもう一度、人間をつくります。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)

土(アダマ)からアダムが創られたわけですが、「命の息をその鼻に吹きいれられた」という点がポイントです。

神様が息を鼻に吹き入れるということは、アダム側から見ると、鼻から息を吸っているということです。

このメタファーは非常に美しく感じます。人と宇宙が表裏一体です。

アダムが息を吐くと、宇宙である神は息を吸い、アダムが息を吸うと、宇宙である神は息を吐きます。まさに表裏一体です。


*ミケランジェロ「アダムの創造」システィーナ礼拝堂


話を戻しますと、仏像は瞑想の道具であり、巨大な仏像は仏本来の巨大さを想起させるためであり、仏とは言うなれば宇宙そのものなので、大きいのは当たり前ということです。

我々の表現を用いれば、巨大な情報的身体です。物理的身体を巨大にするのは大変ですが、情報的身体ならいくらでも大きくできます(少なくともそう感じます。実際は物理ほどではないにせよ、情報身体も大きするのは実際は大変です)。

そのための技術として、遮那瞑想(しゃなめいそう)が存在します。

その遮那瞑想(しゃなめいそう)をサポートする技術として「遮那」を配っていますが、かなり有効だと思いますので、ガンガン使いながら深めていきましょう!