あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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寺子屋「神学」はかなり高いレベルで開講することができたのではないかと思います(^^)

受講生のみなさんが、聖書学などの理解がきちんとなされていること、そして事前学習が進んでいた成果かと思います(追加開催組へのプレッシャーも兼ねていますw)。


今回はカール・バルトの正統神学(危機神学・弁証法神学)を中心に据えて、その直前の自由主義神学を批判的に考察し、またその後の神学アナーキーとも言うべき百花繚乱の状況を戯画的に描くことに成功したのではないかと思います。

バルトというと、僕は行きつけの映画館であるバルト9を思い出してしまうのですが(ここでスクール生たちとまどマギを観たのが懐かしい…)、今回は神学者のカール・バルトです(綴りは全く違いますw)

大きな流れとしては、

自由主義神学 → バルト → アナーキー

です。

じゃあ、なぜリベラルでヒューマニズムにあふれた理性と啓蒙の勝利を高らかに謳った自由主義神学が出てきたのかと言えば、第一にニュートンくん、第二にダーウィンくんの存在が大きいと言えます。

神様から「天」という場を奪い、神様から「創造」の場を奪いました。

それに迎合する形で、人間の理性や自由の優位を高らかに謳ったのが自由主義神学です。

IQが高くて、良い人が集まれば、世界はきっと良くなる…と信じていました(「まといのば」の主張でもあります。「まといのば」は基本的に啓蒙思想の枠を出ていません。あまりに人間理性に対する楽観で染め抜かれています)。

その結果が二つの世界大戦です。

サラエボの2発の銃弾がなぜ世界を巻き込んだ戦争にドミノ倒ししたのか、いまだに結論は出ていません。JFKを描いた有名なノン・フィクションに「ベスト・アンド・ブライテスト」がありますが、同じテーマがあるように思います。最良で聡明な人々がなぜ大きな悪を犯してしまうのか。




二度に渡る世界大戦は自由主義の敗北であり、理性の敗北であったということです。

そこで出てきたのが、危機における神学であるバルトの危機神学です。

バルトは古典物理学におけるニュートンのような存在です。少なくともプロテスタント神学においてはニュートンのようなもので、自由主義神学を批判し、神学を大成したと考えられていました。

しかし、皮肉なことに、バルトは西洋社会(ヨーロッパ圏)の最後のトップを走る神学者となり、そこからバトンはアメリカへ渡され、アメリカからラテン・アメリカ、アフリカ、アジアへと中心から周縁へ広がります。

黒人神学、解放神学、フェミニスト神学、福音原理主義など百花繚乱、アナーキーな状態が続きます。

この、自由主義神学→バルト→神学的アナーキー(無政府状態)を抑えた上で、イエス、パウロ、アウグスティヌス、ルターなどの重要人物を押さえました。

そもそもキリスト教の出発点はたしかにイエス・キリストですが、彼は自身をキリスト教徒と思った瞬間はありません。純然たるユダヤ教徒です。

キリスト教がスタートするのは、パウロにおいてです。
パウロがユダヤ教から非ユダヤ教徒にも福音を宣べ伝えようとした瞬間こそがキリスト教誕生の瞬間です(もちろんその根拠はイエスにあるのですが)。異邦人伝道ですね。


今回は特にパウロの手紙である「ローマ人への手紙(以下、ロマ書)」を中心に初期のキリスト教(19世紀、20世紀ではないという意味で初期です。ルターまで含みます)を考えました。ロマ書はご承知のとおり新約聖書の一節です。

なぜロマ書(ローマ人への手紙)が結節点になるかと言えば、たとえばアウグスティヌスロマ書を読み回心します。キリスト教神学において最大の教父であるアウグスティヌスは、若いころは放蕩息子そのものでした。肉欲におぼれ、占星術にはまり、異端であるマニ教にはまっていました。唐突に啓示を受けて、ロマ書を読み、そして洗礼を授かります。

また、ロマ書を講義したルターは95箇条の論題を発表し、これがプロテスタントとカソリックの大分裂につながります。バルトの最初の著書はロマ書でした。

新約聖書に掲載されているパウロの手紙のうちで確実にパウロのものと言えるのはロマ書のみです。通説はあるものの他は議論がまだ続いています。

ですのでロマ書を結節点とするのは、かなり有効かと思います。

ロマ書を中心として、アウグスティヌス、ルター、バルトがつながります。


とは言え、少し長くなったのでロマ書から1つだけ引用して終わります。

アウグスティヌスが回心したという一節です。

(引用開始)
そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。

(引用終了)

この箇所は寺子屋でも議論しましたが、この箇所の冒頭からここに至るまでは非常に良いと言えます。

肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。

という一節に若いころの放蕩息子っぷりを、肉欲への溺れっぷりを想起したようです。

私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた(アウグスティヌス「告白」)

アウグスティヌスは晩年に告白という自伝を書いています。

驚くほど赤裸々に若いころの罪状が面白おかしく書かれています。

キリスト世界を代表する大教父でありながら、このような告白が許されるというのは本当に素晴らしいと思います。むしろ、キリスト教の懐の深さを感じさせます。

結婚早々に悲惨なことになった伊藤英明さんや、プライベート写真を流された香里奈さんなどはこのアウグスティヌスに比べたらかわいいものではないかと僕は思います(というか、どういう職業倫理と誇りを持つとこのような報道ができるのかは聞いてみたいところです)。

イエスではないですが「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい(ヨハネ8:3)」と思います。

ともかく肉欲に支配された若いころを思い、「肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」が響いたそうです。それが回心のきっかけです。

我々は「肉の欲」以上に、その前の「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。」が響きます。

イエス・キリストを着るのです。着ぐるみのイエスです。

これはハムレットの"Assume a virtue, if you have it not."を思わせます。
そして三島由紀夫の仮面の告白の「一つは懸命に知っているように装うことである」を思わせます。

寺子屋でも話題に出ましたが、イエスもパウロもアウグスティヌスも面白い共通点があります。

全員、成人洗礼です。

イエスはバプテスマのヨハネに、パウロは砂漠でイエスに会ってから(目を潰されてから)、アウグスティヌスはマニ教を経ての回心です。

バルトは幼児洗礼に反対ですが(その結果として最後に残った幼児洗礼というサクラメントがなくなってしまうのですが)、これは正しいと僕は思います。啓示を得てから、キリストと出会ってから、洗礼を受けるべきでしょう(^^)