陰陽と書くと、中国の陰陽と混ざるので、陰陽師として陰陽(おんみょう)と呼んでもらっています。
日本仏教が独自発展したのと同様に、陰陽(おんみょう)も陰陽五行説からスタートして、独自発展しています。
僕自身は陰陽五行説をちらっとだけ大学で学びましたが、陰陽五行というのは驚くほど数学です。数学というより西洋の数秘術などに近いような、整数論の世界です。
僕らが陰陽(おんみょう)と言ったときは、もう少し抽象度の低い生温かい世界です。魑魅魍魎が跋扈する世界が「陰陽(おんみょう)」かと思います。抽象度が高い世界はまぶしく、手触りがない世界です。抽象度が低い世界は薄暗く、なぜか安心感のある馴染み易い洞窟の世界です。両方の世界をどれだけ自由に行き来できるかがポイントです。
「天才達のリレー」は太陽に向かい、「陰陽師」は我々がかつていたであろう洞窟の臨場感に向かいます。
「陰陽師」は半年前の気功師養成スクールでこっそり導入して以来、スクールでは珍しいことに二度目になります。同じテーマでは二度とやらないという方針は最近、変わってきています。同じテーマでアップデートして開催することが増えてきています。
「天才達のリレー」もちょうど一年前に講座としてイントロダクションを開催しました。
これがかなり好評で、また「まといのば」としても、非常に高度なゲシュタルトは導入(インストール)しやすいということをまざまざと痛感しました。
最近の寺子屋でも、フェルマーよりもポアンカレ予想のほうが「頭に入りやすい」のです。Yogaもただの前屈よりも、複雑で高度なアーサナのほうがよくできるのです。
いわゆる一般的に言われるような、基礎から順に積み上げていくというのは、まさに「賽の河原」になります。上の階層に上がれることなく、永遠に基礎で終わるか、諦めてしまうのです。
逆に、しばしば「基礎から順に積みあげましょう」とおっしゃる教師の中でも、実際は賽の河原積みとは逆にトップダウン型であったりします。だからきちんと結果を出せるのでしょうが。というか、その人が基礎と思っているレベルが超高いレベルであるので、結果的にトップダウン型になる場合もあります。いずれにせよ、良いことです。
というわけで、「天才達のリレー」も無事にスクールとして船出しました。来年には原典ベースでゴリゴリ読みましょう(今年は邦訳で良いので)などとスクールの序盤では言いましたが、実際にはラテン語(ギリシャ語はまだでしたが)も、古い英語(ニュートン、シェイクスピア)も、漢文(老子)も原典に触れました。ラテン語はお馴染みのヨハネ福音書冒頭とフェルマーのディオフォントスの数論への書き込みです。
実際にロゼッタストーンという縁起の連なりをたどって原典に触れると、意味が立ち上がってきます。もちろん我々はラテン語をポンと見せられてもスラスラと読むのは難しいですが、日本語で読んで意味のゲシュタルトをつくり、英語で読んでゲシュタルトをつくり、その上で英語とラテン語を照らし合わせながら読むとラテン語を通じて直接理解ができます。この照らし合わせをロゼッタストーン方式と仮に「まといのば」では読んでいますが、このロゼッタストーンの照らし合わせによって、原典や原書にすんなりと入っていくことができます。補助輪がついていても、自転車に乗れれば、いつかは補助輪が外れます。最初から補助輪無しで自転車にトライして、転び続けると転び癖がつきます。補助輪があっても自転車に乗れれば良いのです(バチカンに就職するのであれば、ラテン語は必修でしょうがw)。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20140720/01/matoinoba/5f/14/j/t02200319_0365053013008220933.jpg?caw=800)
ロゼッタストーンというのはもちろんエジプトのロゼッタで発見された石碑のことです。先のラテン語、英語、日本語と同じように、基本的には同値な3つの言語で書かれていたために、何が書かれていたのかが読めたという稀有な例です。このロゼッタストーンの発見はナポレオンの唯一の功績かもしれません。ロゼッタストーンにある一番下のギリシャ語は読めたので、同じ内容だと考えると、ヒエログリフとデモティックも読めたのです。我々も日本語は読めますし(そのような訓練を受けてきたので)、そして英語も読めます。すると同じ意味であることがわかっていれば、ラテン語もラテン語として理解できるのです。まずはそこからスタートです。
ちなみにロゼッタストーンという石碑は情報の保存ということについて考えさせられます。いわゆる「電子化」なるものが叫ばれますが、電子化したら紙よりはるかに寿命が短くなるのは事実です。あのフロッピーディスクの情報はいま取り出せるのでしょうか?VHSとの闘いに敗れたベータは見れるのでしょうか?MOやZipは、いやCDに焼いたとしても、そのフォーマットは読めるのでしょうか?
最も良いのは、紙に書くこと、いや紙に墨で書くことかもしれません。いや、それ以上に良いのは竹簡かもしれませんし(羊皮紙は避けましょう)、一番は石に刻むことでしょう。石に刻まれたのがロゼッタストーンです。ただそのロゼッタストーンもフォーマットを3つ用意してくれたので、我々は読めたのです。同じ内容を冗長にも3つのフォーマットで保存してくれたから良かったのです。そしてラテン語と同様にギリシャ語が多くの「車輪の下」の犠牲者を出しながらも、フォーマットを維持したから良かったのです。
ちなみに脳内メモリである記憶はすぐに揮発します。記憶という電子化は最も揮発性が高く、変更されやすいものです。不思議の国のアリスのクイーンの言うように、どんなに一生忘れないような出来事でも、メモしておかないとすぐに忘れてしまうのです(「でも忘れますとも、ちゃんとメモっておかないと」不思議の国のアリス)
グーグルとフェイスブックは情報空間にいるのではなく、情報空間にいると見せかけて、物理世界にいます。トランセンデンスと同じく砂漠に巨大なサーバーセンターを用意し、膨大な発電コストをかけて存在しています。すべてのデータを冗長にして(何重にも)バックアップしておきたいというのが現代の狂信です。ライフログを巨大化したのがフェイスブックでしょうし、すべての刊行物をストックしておきたいのがグーグルでしょうが、これは端的に言えば、我々の「死にたくない」という根源的な自己保存本能から来ています。すべてを残しておきたいのです。できれば、時間すら止めたいのです。
時間すら止めるというと、鉄拳さんの「振り子」という作品を思い出します。
「いま」という瞬間が永遠につづいて欲しいというのは、人間の願いなのかもしれません。
「時よ止まれ、お前は美しい」と言う瞬間が来たら、命を奪うと言ったのは悪魔ではなく天使であったのではないかとゲーテのファウストを見て思います。人生の絶頂の瞬間を迎えて、死ねるのであれば本望でしょう。それを「朝(あした)に道(みち)を聞(き)かば、夕(ゆうべ)に死(し)すとも可(か)なり」と論語では言い、釈迦は悟りを得て、「ただちに涅槃にはいるに如くはない」と考えました。
増え続けるサーバーと増え続ける電力消費量はあるとき限界に達します。ネットの空間の限界費用が明確に可視化されたとき、「くだらない写真や動画の投稿はやめましょう」というコンセンサスが得られるのではなくw、おそらくはこっそりと古いデータが揮発していくのだと思います。
日本のような国は、貴重な文化資源だと思う古いテレビ放送やCM放送を保管場所がなく、維持が困難ということで廃棄していきます。そのようにおそらくは重要なものが廃棄され、2chのようなサーバーが何重にも保護されそうです(もちろん何が重要で何が重要ではないかを測る物差しなど無いのですが、しかし人類の共有財産と呼べるべきものは存在します)。
この問題に悩んだのは我々が最初ではなく(最後でもありません、多分w)、だからこそラテン語で書ききるそうと考えた人がいて、オイラーもフェルマーもガウスもラテン語で残し、デカルトもフランス語で出版したあとにラテン語で残します。新しい方言のどれが残るか分からないので、人類の共有財産を多く保有するラテン語で残したということです。ペレルマンも圧縮された形でarXiv(アーカイブ)しました。(Xと書いて、ギリシャ語でカイと呼ばせるのが洒落ています)。ガウスは引き出しの奥深くにしまいこんで、未来の人類によって発見されることを待ちました。ニュートンも同様でしたが、ハーレーによって表舞台に登場させられました(プリンキピアの誕生です)。
偉人たちは人類には希望を持っていますが、同時代人には絶望しています。
洞窟の中で無駄にわめくだけのサルどもに太陽の話をしても理解しないことを知っているからです。
手痛い経験を通して知っています。
イエスの断末魔の叫びである「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」を聞いて、「エリヤに助けを求めている」という中途半端な物知りが我が物顔で歩いているのが地上の世界ということです。この滑稽で物哀しいイエスの臨終こそがすべてを物語っています。
ちなみに我々東洋文化におけるラテン語は漢文です。ですので、明日からブログは漢文で書きます(ウソです)。
ちなみに数学自体は永遠のような気がしますが、数学も言語ですので、表記法というソフトウェアの問題がいつも付きまといます。我々はデカルトやライプニッツに多くを負っています。ですので、たとえばニュートンは読みづらく、ディオフォントも読みづらいのです。親しみやすいはずのユークリッド原論でも、翻訳ですら読みづらいものです。現代の数学の表記法は、歴史の波に洗われて、洗練され圧縮され、十分に慣れた我々から見ると直感的です(アプリオリに直感的なのではなく、訓練の賜物としてということです)。
では、我々はどこに安寧を求めれば良いのか?
巨大サーバーはリニアにしか増加しませんが、ネット空間の使用状況は指数関数的です。
どこかで成長の限界が来ます。
どうすればよいのでしょう。
この答えもすでに2500年前には明らかにされています。ただ我々がそれに聞く耳を持たないだけです。
天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい:人民の意)をもって芻狗となす。
現代語訳は
「天地に仁愛などはない。万物をわらの犬として扱う。聖人に仁愛などはない。人民をわらの犬として扱う」(以上、老子第五章。出典は下記のリンクを)
たしかに大宇宙は万物をわらの犬程度にしか見ないでしょうし、それは人間に対しても同じです。
同様に我々が理想とする人間像もまた、お祭りのときに一時(いっとき)だけつくられて、消費されていく「わらの犬」として人を観るということです。
もちろん自分自身も宇宙も「わらの犬」でしかないという諦観と共にです。
わらの犬とは我々の言葉で言えばファンクションということです。関数であり、機能ということです。永遠に不滅なのは「わが巨人軍」とセゾンカードのポイントだけで、アプリオリで永遠不滅なものは存在しないのです。諸行無常なので。
それをヘラクレイトスは「万物は流転する」と言いました。もちろんその背後に普遍の存在としてロゴスをヘラクレイトスは想定していますが、ロゴスもまたファンクションでしかありません。
「同じ川に二度と入れない」と言ったのはヘラクレイトスだったかと思いますが、このときに不動点として存在している(概念空間に存在しているところの)「川」がロゴスです。可能世界での固定指示詞が「川」であり、ロゴスです。ですから不変なアプリオリでは毛頭なく、むしろそのように「要請される(ユークリッド「ユークリッド原論」)」のです。
すべてを残したいというアイデアは永遠に生き続けたいという煩悩、もしくはホメオスタシスの当然の帰結の一つでしかないということに思い至れば、心安からに生きられるのではないかと、今年3月に買い替えたばかりなのに、うっかりと液晶を壊してしまったばかりに御臨終を迎えそうなMacBookProでこれを書いていますw
ジーク・ジオン!
【書籍紹介】
老子 (岩波文庫)/岩波書店
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道(タオ)を最初に定義した老子ですが、この小さなパンフレットがどれだけ薄いかを痛感するためにも、ぜひパラパラと眺めてみてください。
実際に漢文の白文だけであれば、もっと圧縮されます。おそらく般若心経のようにお守りのようにポケットに入ります。書き下し文と現代語訳と詳細な注解でふくれあがり、歴史的背景などが詳細に書かれています。それでも驚きの薄さです(そしてこの安さ)。
ぜひ、薄さをまず味わってください。あれだけ引用され、様々なイコンとして用いられている老子がこれだけちっぽけであることに。すごいことです。
老子 (まんがで読破 MD105)/イースト・プレス
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まずはこの「まんがで読破」をパッと見てしまってから、ある程度の予備知識とゲシュタルトをつくってから、岩波にトライするのも良いと思います。いつもながら、まず漫画です!
『老子』 2013年8月 (100分 de 名著)/NHK出版
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このNHKの100分de名著のシリーズは、その専門分野のトップの方が易しく噛み砕いて、その分野の最も良いところをあますところなく(は言いすぎですが)伝えてくれます。高級フレンチの離乳食のようです(たとえとして正しいのか?)。最高です。こちらは離乳食なのに、食べごたえがありますので、こちらも導入には最高です。そしてこちらも驚きの薄さです。
リヴァイアサン全四巻とかに辟易している寺子屋受講生には、嬉しい薄さです(^^)
肩の力と同時に、手も抜きましょう。手を抜くところを間違えなければ、加速学習はますます加速します!
車輪の下 (新潮文庫)/新潮社
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一応、本稿でも言及したヘッセの「車輪の下」を紹介しておきます。
現代風に言えば、「中二病乙」ということなのでしょう(^^)
ゲーテ『ファウスト』全2巻セット (集英社文庫)/集英社
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こちらも紹介しておきます。ちなみにネット上でも全文が読めます。
しかし、まとまったものを読むフォーマットとしては書籍のほうが便利です。
検索にはネット上が便利です。
ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)/岩波書店
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ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)/岩波書店
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