『怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ』 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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先日の「はじめての気功」では気の視覚化の練習を少しやりました。
視覚化というのは単なる共感覚でしかありません。
誤解しがちですが、我々が何かを意識にあげるということは、共感覚化ともいうべきプロセスを経ています。何かを味わって美味しいと感じるとき、それは共感覚の端緒です。その味を何かに形容しようとする心の動きが共感覚に近づくということです。
共感覚者とはその回路が完全に一意的に対応しているようなものです(曖昧な言い方ですが、完全に一意的に対応しているわけではないということです)。
感覚器に送られる情報は電子化されます。神経系の電気(イオン)に変換されます。いわばゲーデル数化が行われます。それをRASを通過させて意識に上げるということが、すでに共感覚と同じく、別な感覚に変換するということでしかありません。

ここで「共感覚のトレーニング」を思い出しましょう。共感覚のトレーニングというのは非常にシンプルなものでした。たとえば赤い色を見たら辛いと思い、白い色を見たら甘い、緑は苦く、茶色は...と対応させていく作業です。別な色という視覚情報に味という味覚情報を対応させたり、味覚に風景などの視覚情報を対応させたりします(ワインの味についての専門家とされるソムリエたちはワインの味を視覚や嗅覚に対応させます。嗅覚は味覚ときわめて近く、視覚は味覚と遠い情報です)。ドレミを視覚情報に対応させたり、視覚情報を音に対応させたりします。
これは最初は厳密に対応させたほうがいいとされます。
というか、共感覚自体がそもそもはこのような対応がランダムにできてしまい、それが後天的な学習によって定着したとも言われます。
もしくは感覚がまだ解釈と正確に結びつかない未分化な状態のときに、同じく学習によって正式な回路(味覚と味覚、聴覚と聴覚など)では無い回路も同時に作れてしまうということなのかもしれません。

共感覚者のことを我々はうらやましく思いがちです。実際に気功をやる上でも、IQを上げる上でも共感覚は便利なツールです。しかし一方で、共感覚者というのは他者と共有できる宇宙が狭すぎるのです。端的に言えば、共感覚は共感できません。一般に共有できる感覚(多数決の原理によりそれが正常とされることが多いのですが)を理解できないし、共感できないのが共感覚者です。
ですので、共感覚者は2つのリアリティ世界を生きることを子供の頃に覚えます。1つは自分自身の共感覚の世界。それこそがリアルな世界です。そしてもう1つは社会が共用する「正常な」世界です。
最近のセミナーではレイヤーと言うことが多いのですが、自分自身のリアリティ(共感覚)と重ね合わせて他者のレイヤーを重ねて頭をフル回転させて現実世界を生きます。いつでも2つのリアリティを生きなくてはいけない困難さに向き合ってきたので、共感覚者はIQが上がります。IQが上がるというのは結果論であり、IQを上げないと生き残れないのです。
外国では子供は英語をすぐに覚えるというのと同じです。英語を覚えないとコミュニティで生き残れないから、必死で覚えるだけです。子供だから脳がやわらかいとかそういうことではないのです。

逆にこどものときには霊感があったのだが、あるときを境に消えたというような物言いがあります。もちろん「霊感」とされるのは霊に対する感覚ではなく、ある種の共感覚であるとすれば、それは大概は小学校進学か幼稚園、保育園への入園時に失われることが多いです。未分化の状態からコミュニティ(共同体)に参加させる中で、そこで共有される「感覚」を共用することを強制されるからです。強制するのはコミュニティであることもありますが、むしろ自分自身で自分自身に対して強制します。なぜならそうしないと共同体の中で生き残れないからです。


言語現象というのは共感覚です。言語は文字という聴覚情報であり、発話などの音声という視覚情報であり、点字などの触覚情報です。その騒音なり、インクのシミを脳が共感覚として変換して言語現象として認識し、そこに臨場感を持ちます。視覚情報と聴覚情報をなぜか同じ「言語」として認識していること自体が共感覚のあらわれです。ある任意の共同体で後天的な学習によって共有されるのが
言語ということです。多くの言語を習得するということは、多くの共感覚を体得することと同じです。そのそれぞれの言語の理解の深さにもよりますが、抽象度は否でも応でも上がらざるを得ません。というのは我々は言語で思考しますが、言語の上のは概念やリアリティとも言うべき層(レイヤー)があります。そのリアリティを変換して言語にしますが、そのリアリティは言語によっても規定されます。その変換に選択肢がある(多言語習得者である)ということは、機械的に母国語だけで考える者よりも多面的に抽象度を上げて見ざるを得ません。平たく言えば視点が増えるからです。
たとえば対立する陣営があったとして、その片側の立場だけで語ろうとすれば、いくらでも言葉は出てきます。しかし両方に通じていたなら、立ち止まって深く考えざるを得ません。両者を包摂する抽象度の高みから言葉を発せざるを得ないからです。多言語習得者ということはそういうことです。日本語だけで話すのであれば簡単でも、それを英語の視点で再構築すると矛盾が見えます。ですので深く考えざるを得なくなります。

この立場で見ると、たとえば「西洋医学vs東洋医学」とか「現代科学vs気功」、「支配者vs大衆」のような安易な二項対立が知的な怠惰でしかないことが分かります。一方の側に立つ一方的な物言いはいくらでも弁舌がふるえるので頭が良いと誤解します。それに対して、少しでも視点が上がると、不可避的に口ごもらざるを得ません。

気功はもちろん明らかな共感覚ですし、気功を教えるというのは新しい共感覚を埋め込み、それを自在に使えるように鍛えることでしかありません。しかしそれを「感覚」と考えると誤解します。「関学」とは「知識」のことです。赤と青という言葉を知らないと色は見分けられません。ニュートンが七色と決めたので我々は虹を七色と認識します(ニュートン自身ももっと多くの色があるのは知っていて、7という数字に根拠を求めただけです)。イヌイットが雪の違いを多く見分けられ、某ヒーラーが野菜をほとんど見分けられないのも、知識ゆえです。知識が感覚を規定します。
そこには「名指す(Naming)」があります。知識がその雪や色を名指し、そのことで感覚が鍛えられるのです。名指すというのはその意味では、ある感覚、ある概念と言語をアンカリングする作業です。知識とは名指しが無い限りは無意味です。

ここで我々はコリント人への手紙(13章)の愛の讃歌を思い出します。

(引用開始)
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

(引用終了)

愛とはリンクであり、アンカリング、関係であると定義するならば、Namingと通じます。

知識をコレクションするだけではダメということです。知識は実践を通じて社会に還元されてはじめて生きた知識(言葉)になります。

それを現代のパウロである人はこう言います。
(これは10期スクールのレジュメでも紹介しましたね)

(引用開始)
僕には確信がある。
どんなにたくさん勉強したところで、どんなにたくさんの本を読んだところで、人は変わらない。
自分を変え、周囲を動かし、自由を手に入れるための唯一の手段、それは「働くこと」なのだ。
(ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく/ダイヤモンド社 堀江貴文)
(引用終了)

以前、311の直後でしたか、堀江さんのことはソーシャルフィルタリングという概念と共に紹介しました(ちなみに原発についてどう考えますかと聞かれますが、ブログでは書いています。ただなぜか科学技術の問題なのに、政治の問題にすり替えられることが多いので、面倒なので表立った議論はしません。知識が無いのに議論している愚かさに気付くべきです。標準理論も知らずにヒッグス粒子の発見は間違いだと叫ぶのと同じ愚かさです。土俵の上にも立っていないことに気付くべきです)。

ヒーリングの能力を手に入れたら、それを手に入れることが激しく困難であり、人生だけではなくすべてを捧げた先輩方に敬意と感謝を捧げながら(僕は捧げるべきと思います)、必死でまず目の前の人をそのヒーリング能力で癒やすことだと思います。ドラえもんに頼って永遠に成長しないのび太くんになってはいけません。気功技術は魔法でもなく、22世紀の道具でもありません。自分を成長させ、社会に還元するための媒介です。



今回は気の視覚化と共にリクエストされた動物霊の視覚化の話をニーチェの言葉にからめて解説するつもりでした。動物霊が見たいという好奇心は重要ですし、いつかは見なくてはいけないものです。仕事に使うので。しかし、好奇心には自己責任が伴い、それを端的に表せば、ニーチェの善悪の彼岸からの有名な一節になります。

(引用開始)
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 --146節 『善悪の彼岸』Jenseits von Gut und Bose

"Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein."

(引用終了)

いつでもどこでも覚悟が必要です。


*ニーチェは僕の高校時代のヒーロー。友達のクリスチャンとの論争にいつも引き合いに出していました。


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