アルゴリズムをシンプルにしすぎることの弊害〜行こう牢獄へ。 我々2人で籠の鳥のように歌を歌おう | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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原理や原則をなるべくシンプルにしたいと考えるのは合理的です。
シンプルなものが好きということでもなく、オッカムのかみそりということでもなくです(もちろんそれもあっても構いませんし、重要です)。

単純に我々の灰色の型落ちしすぎたコンピュータはメモリもCPUもあまりにお粗末なので、出来る限りそこに乗せるソフトウェアは軽くしたいのです。

犬のすべての種類を暗記するよりは、犬という抽象度で考えたほうがいいでしょうし、犬ではなく哺乳類で考えたほうがいいでしょう。獣医学では歴史的なものでしょうが、牛や豚といった「哺乳類」について学び、しかし獣医さんの多くは犬や猫たちの手術やケアをします。彼らは生物を高い抽象度で捉え(哺乳類なり、動物なり)、そのインスタンスのわずかな違いとして、犬と牛の違いを捉えるので、混乱しません(多分)。

しかしもし獣医師たちの視点が犬なりネコなり牛なり豚というインスタンスにフォーカスされていたら、牛で学んだことを豚に応用することなど望むべくもありません。

これが「抽象度」の最大の課題であり、ポイントです。

抽象度をあげれば、犬も牛も同じ哺乳類です。ただ大きさが多少異なるだけです。
しかし、抽象度を下げると、犬と牛は全く異なる存在であり、牛で学んだことは犬に応用出来ません。

抽象度を上げるのはある意味で難しいことです。
片目を瞑る感じと似ています。情報量を落とします。


しかし良いニュースがあります。我々はいつも認識する時は抽象度を上げているのです。

我々が世界を認識する時というのは、現実の世界(という言い方が適切かどうかはともかくとして)の写像が脳内に浮かび上がります。

以前、利根川進博士の講演を聞いたことがあります。オウムの地下鉄テロの翌週だったように記憶しています。

そのとき、博士が現在やっている脳科学の研究の一部を講演の終わりごろに、楽しそうに勢い込んで紹介してくださいました。迷路を解いているネズミの脳の研究です。迷路の解き始めと途中経過と解き終わりの脳の状態を見せながら、迷路が脳内にマッピングされている様子を見せてくれました。
脳の発火がそのまま迷路の地図なのです。
脳内の地図がより鮮明になっていくのが、迷路を解く過程と対応しています。
迷路のイデア(プラトン)が脳内に広がっていきます。

これはきわめて面白いものです。

「バカの壁」以前の養老孟司先生の著書にも同じような脳内マッピングの事例が紹介されています。ネズミのひげに対応するシナプスの話だったように記憶しています。

すなわち、環境なり外の世界の情報を脳内に転写するシステムがあり、世界は脳の中の写像として認識されているということです。ここで哲学講座で扱ったプラトンの洞窟の比喩(イデアの世界の写像としての現実世界)を思い出すと、この比喩の秀逸さが分かるかもしれません。

で、何が言いたいかと言えばシンプルです。

写像するときに我々は情報を盛大に落とすのです。その落とすシステムをRASと言うかどうかは別として、情報量は落ちるのです。そして情報の骨格だけが転写されます。これは抽象化以外の何ものでもありません。
すなわち抽象度を上げるというのは我々の認識と不可分で不可欠な機能であるということです。

ちなみに抽象度を上げるのに疲れると、海馬のストックから情報を引っ張ってきます。そして観る前に知るようになります。これがひどくなると「神」なりア・プリオリの誕生です。疲れると栄養ドリンクと神が欲しくなります。どちらも脳の手を抜かせてくれるのです。前者についてはよく知りませんが。

我々は自分の脳で考えることはほとんどなく、基本的には他人の脳で考えます。別に悪いことではありません。分散コンピューティングです。それぞれが自分の分を考えてお互いに共有すれば、集合知ならぬコレクティブジーニアス(エジソン)ができます。

お互いに相手になすりつけるだけで、自分のコンピュータが計算をしない同士が集うと、衆愚が起こります。当たり前のことです。電源の入ってないコンピュータを並べても、何も出力されません。


これは以前のスクールで紹介した仏教哲学における天国と地獄を思い起こさせます。

すなわち、天国と地獄の見た目はまったく同じという話です。

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*エッシャー「天国と地獄」

こんなお話です。

天国も地獄も似た場所です。
両方共中華レストランで、両方共大きなテーブルを挟んで円形に人が座っている。
真ん中のほうに食事があり、めいめいが長い箸を持っています。

さて、地獄はと言えば、その箸で自分の口へ食べ物を運ぼうとする。箸は長いのでとても大変。持ってこようとしても取りこぼしてしまい、自分がともかく食べたいので、潤沢にあるはずの食事をめぐって争いが起こる。

天国はと言えば、自分のことはさておき、箸で食材をつかんだら、対面に座っている人の口へ運んであげる。自分のことを「カンジョウニ入レズニ」(宮沢賢治「雨ニモマケズ」)、そして必ず誰かが自分の口へ運んでくれる。

同じ環境で、心の在り方が異なるだけで天国にも地獄にもなるということです。

イエスは言われました「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカ23章43節

Luke 23:43
Amplified Bible (AMP)
And He answered him, Truly I tell you, today you shall be with Me in Paradise.


磔刑にされたのはイエスだけではなく、他の2人の罪人も同じでした。
1人はイエスをあざけり、1人はイエスを擁護します。
そのときイエスは喜んでしまって、口走ったのがこの上記のセリフ。
today you shall be with Me in Paradise.

磔にあっても、そこはパラダイスなのです。

ここはエリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ、神よ、なぜ私を捨てたもうたか)の詩篇22章の引用と並んで僕は好きなシーンです(マタイ27:46 マルコ15:34 詩篇22:1


このブログやスクールでも何度か言及していますが、これはリア王がコーディリアと牢屋で再開したときのシーンがダブります。

(引用開始)
No, no, no, no! Come, let's away to prison:
We two alone will sing like birds i' the cage:
(引用終了)

No, no,no,no!、行こう、牢獄へ。
われわれ2人で籠の鳥のように歌を歌おう。


パラダイスという言葉が壁に囲まれたという意味である(エデンの園でありHeavenの意味でもあり)ことを考えると、リア王が本当の愛に目覚め自分に目覚めたときに let's away to prisonと言うのは宜(むべ)なるかなです。

パラダイスの語源については、以下にリンクから引用。

paradise (n.)
late 12c., "Garden of Eden," from Old French paradis "paradise, Garden of Eden" (11c.), from Late Latin paradisus, from Greek paradeisos "park, paradise, Garden of Eden," from an Iranian source, cf. Avestan pairidaeza "enclosure, park" (Modern Persian and Arabic firdaus "garden, paradise"), compound of pairi- "around" + diz "to make, form (a wall)."

The first element is cognate with Greek peri- "around, about" (see per), the second is from PIE root *dheigh- "to form, build" (see dough).

The Greek word, originally used for an orchard or hunting park in Persia, was used in Septuagint to mean "Garden of Eden," and in New Testament translations of Luke xxiii:43 to mean "heaven" (a sense attested in English from c.1200). Meaning "place like or compared to Paradise" is from c.1300.



お釈迦様が菩提樹ほとりで立ち上がられたときも、宇宙に広がる自我をまとめて、 let's away to prisonと考えたのではないかと夢想します。地球に降り立とうと窮屈な肉体に戻ろうと決意したのではないかと思います。

窮屈な肉体に戻るという感覚は、例えば臨死体験(NDE)であり、ジル・ボルト・テイラーが涅槃の境地から肉体に戻ったときと似ていると思います(TEDレクチャー)。


ご承知のように「仏陀の沈黙」もしくは「説法の否定・躊躇」が初転法輪の直前に釈迦の心をよぎります。その釈迦のロジックは明快で整合的です。

(引用開始)
「自分の悟ったところを、人々に話して聞かせることはむだである。自分の悟った法は、あまりにも深く、あまりにも微妙であって、愛欲に盲(めし)いた人々のよく理解するところではない。説法することは無駄な努力であり、いや聖なる法を、それにふさわしくない方法で取り扱うことにもなる。このまま沈黙をまもり、ただちに涅槃にはいるに如くはない」(p.16 大乗仏典 世界の名著2 中央公論社)
(引用終了)

ここで言う涅槃に入るとは「死ぬ」ということです、もちろん。

ここであわてた神々が釈迦を留めて(梵天の勧請)、その頼みを聞き入れて、布教の開始である初転法輪につながります。


ここで釈迦の「愛欲に盲(めし)いた人々のよく理解するところではない」という表現はニュートンのプリンキピアの一節を思い起こさせます。

ニュートン力学講座で取り扱ったプリンキピアの引用です。

プリンキピアの一般的注解からです。

(引用開始)
この至高の存在はありとある事物を統治するのです。(略)盲人が色彩の観念をもたないように、わたくしどもは、全知の神がいっさいを知覚し認識する仕方について、なんの観念ももっていないのです。(略)以上、神に関して述べたのですが、事物の現象するところより神に及ぶのは、まさしく自然哲学に属することなのです。
(pp.560-565 中央公論社・世界の名著シリーズ「ニュートン」)
(引用終了)

「わたくしどもは」と言いながら、ただニュートンは神の心を垣間見たということです。
それは数学で書いてあるという確信を持ち、そしてその数学を発見したのです。

釈迦も同じく真理を見、そしてそれを伝えることは不可能という諦観に達したと考えるのは強引でしょうか?


話を戻しまして。。。。

天国にいる人も地獄にいる人も両者とも中華レストランのテーブルに囚われているのですが、片方は天国で片方は地獄です。

囚われているという字は、人が囲まれていると書きますが、囚われていても、想像力によって宇宙を包摂していれば(アインシュタインの「想像力は知識より重要」とパスカルの「考える葦」を想起します)、 let's away to prisonと言えるのです。たとえて言うなら、「さあ食事をしよう!」という感じでしょうか。



話が長くなり、そしてまとまらなくなるのは悪い癖ですが、脱線もまた良しとしましょう。

結論はシンプルです。

天才が考えたシンプルすぎるアルゴリズムは、シンプルすぎるがゆえに安易に取り扱われ、そして理解されないので、アルゴリズムがシンプルすぎるのも考えものだということです。

我々はシンプルなアルゴリズムを勝手に解釈しすぎる弊害を防ぐためにも(聖なる法を、それにふさわしくない方法で取り扱う)、そのシンプルさに見合った抽象度まで階段を駆け上がりましょう。




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