吊り橋を揺らされたら、揺らし返せ。もしくは飛び降りろ(愛の反対は無関心なのか?) | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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「吊り橋を揺らされたら、揺らし返せ。もしくは飛び降りろ」というタイトルで、何が言いたいかと言えば、ラポールのことです。

吊り橋効果というのはいろいろと毀誉褒貶ありますので、実験はともかくここでは比喩として用います。

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何の比喩かと言えば、臨場感空間、ラポール、個人の情動などのモデルを説明するための比喩です。

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ラポールというのは、親密さなどと誤解される概念です。
初歩の理解としてはもちろんそれで構いません。

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たとえばかつての気功のクラスでは、中丹田の熱性の気をボールにして、相手の胸に放物線上に投げ入れるようなワークもします。なぜ放物線かと言えば、放物線のほうがリアリティが高いからです。
我々の認識は結局は物理に囚われています。レーザー光線よりもキャッチボールのほうが臨場感が高いのです。馴染みやすいのです。だからこそ、物を放る線に沿って熱性の気のボールが移動したほうが無意識が混乱せずに済むということです。
もちろん下に凸の放物線でも、直線でも高次関数の曲線のようなものでも、臨場感を持てるなら何でも構いません。

心理学でも、好意を示したり、単純接触を繰り返して、ラポールが形成されるというようなことを言います。
しかし、満員列車に毎日ゆられている同士で、袖触れ合うどころか身体が密着していても、結婚に至ることは稀でしょう。


で、このモデル自体はもちろん間違いです。モデルというか後ろに走るパラダイムが古いということです。このアイデアは直感的ですが、だからこそ歴史的には乗り越えられました。

歴史的なものなので、ダラダラと説明しませんが、結論を言えば、間違いです。


ラポールって何かと言えば、吊り橋です。

吊り橋を渡るAさんとBさんがいて、渡っている最中はお互いに見知らぬ他人。
真ん中くらいまで来て、下を見下ろすと深い谷。
そこで、吊り橋をおもむろにゆらすCさんの存在。

ここで吊り橋がゆれるという臨場感を共有するAさんとBさんは、ある種の情動が発火します。

というか、生命の危機(ゆれていて怖いし、足を踏み外して落ちたら死んでしまう)ゆえに臨場感が急速に高まります。すると、AさんとBさんは臨場感を共有するがゆえに協力するなり、恐怖を分かち合うなり、仲良くなるなりします。
これがラポールです。

AさんとBさんが独立した人格で、自由意志を発揮して、お互いに仲良くなろうとしたり協力しようとしているのではなく(そう思うのは自由ですが)、Aさんは吊り橋に臨場感を持ち、Bさんも吊り橋に臨場感を持ち、たまたま同じ臨場感空間を共有した結果として、何らかの情動が起こります。これがラポール。

ポイントはAさんとBさんの関係ではないということです。
Aさんと吊り橋、Bさんと吊り橋。吊り橋が媒介となって(あまり適切な表現ではありませんが)、AさんとBさんに何らかの関係が生じるのです。

「臨場感空間がなくても、二人の関係は永遠なの」というおめでたい信仰を持つ人は(それはそれで自由ですが)、事実から目をそむけすぎかもしれません。

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たとえば涙を流して、「これからもずっと一緒だよ」と誓った高校のクラスメートたちと、卒業後いつ会ったでしょう。何度会ったでしょうか?

同窓会の連絡にも面倒で返信しなかったりするのではないでしょうか?
あの卒業式での涙は一体何だったのでしょう。

(僕等の高校は予備校状態だったので、進学のことだけが気になり、卒業という臨場感は皆無だったような記憶がありますが。男子校でしたし)



*ベタですが映画「卒業」。
サイモンとガーファンクルの歌声が印象的。ゴールを達成したときの虚脱感が衝撃的。それでも若さは素晴らしいと思ってしまいます。


卒業式のあの情動は何だったのか、嘘だったのでしょうか?
そのカラクリはシンプルです。

もちろん嘘ではないでしょうし(嘘泣きではないでしょう)、クラスメートたちとの永久(とわ)の強い結びつきを誓った(かもしれない)思いも本当です。ただその「永遠」が指し示しているものが、その臨場感を共有している「一瞬」だけだったということです。


一粒の砂に世界を見、
一輪の野の花に天国を見る
手のひらに無限をつかみ、
一瞬のうちに永遠をとらえる

ウィリアム・ブレイク



高校生活という臨場感空間、クラスという臨場感空間を共有していたからこその結びつきであり、それが無くなれば(卒業式が終われば)、関係も終わるのです。人と人が結びついていたのではなく、クラスなり学校という臨場感が結びつけていたのです。その臨場感空間が消えれば個人も消えます。

高校生活という吊り橋が、情動の盛り上がりを支えていたのであって、個人と個人の間には何もありません(と言うと言い過ぎですが、実際にそうです)。


もちろん吊り橋を揺らす人にはより強い情動が働きます。
ハイパーラポールと定義する場合もあります。

吊り橋をゆらせるということは、任意の臨場感空間を定義できるということです。すなわち臨場感空間の支配者です。共有している臨場感空間に対するホメオスタシスフィードバックの結果として、情動が起こるのであれば、その臨場感を作っている人・モノ・コトに対して強い情動が起こるのは当然です。ハイパーラポールです。


ストックホルム症候群が厄介だったのは、敵対関係にある銀行強盗と人質が婚姻関係に入ったという事実を従来のラポールのモデルでは説明できなかったからです。

銃で脅されて、婚姻届を出したのではなく、脅された状況から解放されて、憎むべき相手と恋愛感情を持ったというのが不思議でした。従来のラポールモデルの1つの反例でした。

しかし、これも吊り橋をゆらした人と、ゆらされて命の危機を感じていた人が強い情動で結ばれるのは当然であることを思い出すのであれば、婚姻するのも不思議ではありません。
この関係も、個人と個人ではなく、ゆらされている吊り橋と個人、ゆらしている吊り橋と個人の関係が、個人と個人の関係に影響を与えます。正確には与えたように見えます。

もちろん吊り橋がなくなれば、情動も消えますが、あまりに強い情動だったので吊り橋が無くなっても、そのまま情動が継続してしまい、つい結婚してしまったのでしょう。情動は残り香のように継続します。
卒業式が終わっても少しはセンチメンタルな気分になります。何年も経った同窓会にそれを持ち込む場合もあります。


整理しますと、吊り橋に残る2人の間に起こるのがラポール。
分かりやすく言えば、被害者同盟のようなものです。傷を舐め合う2人の結びつきです。
そして、吊り橋をゆらしている者と、吊り橋にいる被害者との間に起こる関係がハイパーラポールです。臨場感空間の支配者にはより強い情動を覚えます。

しかし、カラクリはどちらも臨場感空間に対するものです。

「臨場感空間に対するものです」というのは、奥歯に物が挟まった言い方です。
厳密には、自我と環境(臨場感空間)はフィードバック関係にあります。
いわゆるホメオスタシスです。

吊り橋がゆれることで、吊り橋とフィードバック関係にある身体は影響を受けます。心拍は上がり、アドレナリンは放出されます。

同じ臨場感を共有している同士で、一種の同病相憐れむ的な関係が生じます。これがラポール。
しかし、これも臨場感空間に対するそれぞれのフィードバックの結果でしか無く、たとえば吊り橋のゆれがおさまればまた他人に戻るかもしれません(卒業式後の仲間と同じく。入学式前の赤の他人にほぼ戻ります。学校というのは巨大な吊り橋だということです。だから渡り終えればまた次の吊り橋に夢中になります)。


そして吊り橋をゆらしているCさんに対しては、より強い情動を抱きます。「ゆらしてくれてありがとう」とはあまり思わないまでも、「なんで揺らすんだ」という情動は起こるかもしれません。怒りかもしれませんし、当惑かもしれません。恐怖かもしれません。
しかし、不意にCさんが吊り橋を揺らすのを辞めたらもしかしたら感謝の念がわくかもしれません。いずれにせよ強い情動が起こります。

しかしこれも臨場感を経由しての(この表現が正しいかは別として)情動です。Cさんに対する情動というよりは、臨場感空間とのフィードバック関係で起こる反応ということです。臨場感空間とは具体的な吊り橋とその揺れであり、死ぬかもしれない、怖いと言った少し情報的なものに対するフィードバック関係です。その対象が、臨場感空間の支配者に向けられているように、我々は短絡するだけです。


この「吊り橋」のモデルはきわめて重要です。


吊り橋をゆらす人、吊り橋を渡っていてゆらされる人というアルゴリズムを徹底的に頭で動かしたあと(実際にゆらしてもいいですが)、この吊り橋の吊ってあるものがWebのように見えてくれば次のフェイズです。そして自分も吊り橋そのものでしかないことに気づけば次のステップです。

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自分も吊り橋そのものでしかないことに気づくというのはある種、意味不明です。分かる人にはよく分かるでしょうが。

これはシンプルな話です。

ある古典ではこのことを以下のように表現していました。

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The Matrix has you...

いやThe Matrix is you.と言っても良いのでしょうが、それだと「吾は神なり」になってしまい(なってしまっても良いのですが、抽象度が低い誤解を避けたいという動機があります)厄介です。ただ意味は同じです。

この視点から見れば、スピリチュアリズムの思想にせよ、梵我一如にせよ、神秘体験、「あれは吾なり」などにせよ、その構造がシンプルに分かるかと思います。滅私や無心の構造も。


そしてそれを視覚化したのがこちら。

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*職場のWindowsマシンには未だにこれが壁紙です。

ゆらされている吊り橋の上で、怖がっている私の身体も吊り橋のロープでできていたことに気づけば1つの覚醒です。



また本題に入る前の前提で話が終わってしまいました。

簡単に2点ほど補足を。

我々はいくつもの巨大な吊り橋の上にいて、多くの人にその吊り橋をゆらされて存在をおびやかされています。その(見えていない)吊り橋を知ること、意識に上げることが第一ステップ、揺らしている人・モノ・コトに気付くのが第二ステップ、そしてそれらを凌駕するのが第三ステップです。
陰謀論風に言えば、揺らされる側から揺らす側に回るということです。
揺らすことで社会に機能を提供できると、あなたが信じられるのであれば、揺らす側に回ることです。良い機能を提供できないなら、回らないことです。シンプルな話です。


またマザー・テレサが言うように、愛の対概念は怒りでも憎悪でも憤怒でもなく、無関心です。しかしこれは文学的表現です。
愛と無関心の間は連続的であり段階があります。
それを鮮やかな形で記述したのが、重要性関数という言い方です。自我は評価関数です。評価の大小を言えば重要性関数ということです。自分にとって重要なものが網の目の中心に近く、重要でないものが遠くあるイメージです。その網の目こそが吊り橋の網なのです。
ですから好悪の感情とはアンビバレンツと表現するのが正確かもしれません。好きなものは嫌いであり、嫌いなものは好きなのです。他はスコトーマに隠れて見えません。情動もまた両性具有であり、ヤヌスなのです。

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