ある種の感覚をつかむことだけで、気功は圧倒的に上達するが、しかし。 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

四ツ谷にありますバレリーナ専門の気功整体「まといのば」のブログです。
気功師から見たバレエとヒーリングのコツを公開します。
「まといのば」では、バレエ・ヒーリング・美容の各種セミナーを行っております。

気功を学ぼうと思っているときに(と書いて思うに、気功自体が曖昧すぎるので、それぞれの解釈の「気功」が存在すると思うが、ここで言う気功は「まといのば」が定義する狭義の気功とします)、最も重要なポイントは何かを考えてみると、それはある種の感覚をつかむことであるということが見えてきます。

ある種の感覚というのはまたぼんやりとした言い方なのですが、ベタな言い方をすれば気功感覚とも呼ぶべきものです。
それをたとえば「風景」という言い方をしたり、ポランニーの暗黙知やトマス・クーンのパラダイム、ミンスキーのフレーム、ゲシュタルトなどと言い換えても良いでしょう。
言い換えても良いというのは、学問的にすべて同じであるというような乱暴な物言いではなく、「ある種の感覚」を獲得するためには、そのように見做して良いということです。
これらの学問的な概念は机上の空論ではなく、この「感覚」をマスターするための方便であり、道筋であり、マップであるという風に僕は理解しています。

学問は学問で本来は厳しい場であり、その世界に対して我々は敬意を評しています。しかし、我々はそこに生きているわけではありません。我々が生きているのは、ヒーリングの場であり、大げさな言い方をすれば自己成長を促す場を主戦場としています。

学問を一つの足がかりとし、ニュートンの言う「巨人の肩」とし、ウィトゲンシュタインの言う「梯子」とするのがヒーラーとしては正しい在り方かと思います。

もちろんヒーラーはヒーリングが上手であることが第一優先です。ですから、治れば良いと考え、強いヒーリング能力を持てば良いと思い、カルトに参加したり、●●●●●●や●●●●●●のようなどう転んでも疑似科学の域を超えられないことは明らかな領域に参加するのも一つの方法です(他人のビジネスを邪魔する気もないですし、誹謗中傷の意図もないのですが一応伏字にします)。
何が良いかと言えば、悩みが深くなくて済むということです(これは批判含みの言説です)。

悩むことはかなりのコストを脳が払います。しかし本来は科学も学問も悩むものです。
悩みをショートカットしたいと思う人がテロに走り、カルトに走るのだとあえて言います。
ヒーリングもしかりです。悩むものです。

しかし、その学問や科学の部分で悩まなくて済むのがオカルトや宗教やカルト、疑似科学です(宗教は別な意味でコストを払わされますが)。
これらはコアな部分がすっきりしているので、悩まなくて済みます。
すっきりしているというよりは、のっぺらぼうのようなツルッとした感触です。
神がいるというのは救いです。

ちなみに余談ですが、我々の救いはもちろん科学にはありません。また宗教にも戻れません。

では何に求めれば良いのか?

ヒュームではないですが、太陽がこれまで毎朝昇ったからと言って明日も昇るという保証はありません。科学は不適当なのです。「あす太陽が昇らないだろうという命題は、それが昇るだろうという肯定命題と同じく意味があり、矛盾も生じない。」

科学でも宗教でも無いとしたら何でしょう。

おそらくは唯一確実なのは、死の瞬間が訪れるということです(「おそらく」と言うのは、死の瞬間が訪れない生命を想定するのも可能だからです)。これが基準となります。

フラットランドなどの他愛もない古典を読み返すと見えてくるのは、我々があまりに近視眼的であるということです。

50万年後の「自分」を思い浮かべるならば、そのときの自分は今の肉体とは関係ない存在でしょう。50万年経つはるか以前に肉体は失われます(もちろん精神もセットで)。
3次元だけではなく時間軸の4次元をきちんと観るならば、我々の死はいつも目前にあります。生と死の縁はあまりにはっきりしています。目の前のコップくらいにはっきりと見えます。
であれば、その「死」なり「生命時間」が救いではないかと思います。
救いという言葉があまりに文学的であるならば、アプリオリであり、アルキメデスの支点と言えると思います(いや、これも十分に文学的ですが)。

デカルトが哲学を学ぶことの意味は、哲学を学ぶことで、自分の小さな脳味噌で考えたことなどは古来、多くの人がすでに考え尽くしたことであることが分かるという内容のことを語っています(出典はまた今度)。

まさにそのとおりです。すでに考え尽くされたことをなぞっているだけです。それならばまずその考えを拝聴してから、脳を使うほうが良いでしょう。少なくとも人間としては。

その意味で、死を基準にすると言えば、ハイデガーを思い出します。

苫米地理論で言えば、ひとつのゴールである死を意識にあげることによって、現在が照らされるといことです(逆に言えば、我々はあたかも永遠に生きるかのごとく無意識で考えているがゆえに生命時間を潤沢に浪費します)。そして、死というゴールを意識に上げない限りは、現実の生は浮かび上がらないというのがハイデガーの主張でしょう(多分)。

閑話休題

気功を学ぶもしくは上達するための唯一の方法は「気功感覚を得る」ことという話でした。

その気功の感覚とは何か、それ自体は何なのかを記述する方法として、ゲシュタルトやフレーム、パラダイム・シフトなどの概念を援用するという話でした。

「いやいや感覚を得るためだけなら、レイキでもカルトでも疑似科学でもオカルトでも何でも良いではないか」という主張はあり得ますし、もちろんそれでもOKです(人それぞれの好みであり、上達の段階ですので)。
もちろん、逆に科学をよく理解している科学者が良いヒーラーである蓋然性は低いものです。
科学の理解がヒーラーのレベルを決めるわけではありません。
科学の理解が、気功感覚を発見することに寄与した時に、ヒーラーを上達させる足がかりとなるということです。
この点は微妙ですが、重要なポイントです。

科学の道とオカルトの道があり、どちらにも転んではいけないと(あえて)考え(以前、双頭の神であるヤヌスをアナロジーとして用いました)、その中間を突っ走ることです。

その気功の感覚をつかめば(もちろん、掴み続ける必要があります。どんどん進化する必要が)、双方の風景が見えます。科学の世界の風景も、オカルトの世界の風景もです。
風景を観ることと、その世界に住むこととは違います。
言うなれば旅をしているようなもので、科学の世界を旅し、オカルトの世界を旅するようなものです。同じ空気を吸い、同じ水を飲み、同じものを食べ、同じ道を歩くのですが、その世界の住人と旅人では何かが違います。その世界の住人ではなく、あくまでも異邦人ということです。それが風景を観るという感覚です。

我々はオカルトの世界に戻ることもできず、スピリチュアリズムの世界にももちろん戻れず、かと言って科学の世界に行くこともできないのです。我々がするのは、それぞれの世界をぐるぐるとまわってその風景を眺めるだけです。

感覚を持っていれば、それぞれの世界をまわっても多くを学ぶことができます。
ある種の感覚を持っていなければ、いくら世界を実地にまわってもガイドブックを引き写しただけのような薄っぺらい視点しか出てこなくなります。

気功感覚は重要です。

その有る無しはどうやって決まるのでしょう。何か要因があるのでしょうか?

結論から言えば、それはその人がどれだけ「人を助けたい」と具体的にリアルに切実に思ったか、そしてそのために何を差し出し、何を犠牲にしたかによって決まるように思います。
「何を差し出すか、何を犠牲にするか」というと深刻なようですが、シンプルです。
自らの命を差し出し、犠牲にする覚悟があるかということです(殉教とか自爆テロの話ではありません。それではあまりに短絡的にすぎます)。

イエスはこう語ります。

「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」マタイ10:39

「わたしのために」というのがキリストらしい物言いですが、これは「他者のために」と読み替えるのが良いと思います。もしくは隣人のために、と。
というのも、たとえば『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』(マタイ25:40)という文句もあります。ここには「わたし=これらの最も小さい者のひとり」という関係があります。逆に言えばすべての者にイエス(もしくは神)を観ることは可能です。その体現者がマザー・テレサであることは言うまでもありません。

あまり適切な例では無いでしょうが、分かりやすいケースとしてこのブログでも何度も言及している話があります。

すなわち、短期間で圧倒的に上達するヒーラーに共通している特長は、家族や親しい友人、近しい人が死に瀕している場を共有した人です。より正確には、医学的には処置の使用がなく、気功で奇跡的な回復を祈るしかないようなときに、(ようやく)人はスイッチが入り、本気で気功を使います。そのときに吹っ飛ぶ質問は、「気功は本当に効くのか?」「自分は気功ができるのか?」「相手が気功を知らなくても、信じてなくても大丈夫なのか?」などです。不要な質問ばかりです。

回転寿司で自分が食べたいネタがようやく回ってきたときに、「これを俺は本当に食べたいのか」、「俺はこれを本当に食べることができるのか」、「寿司職人が俺の好みを知らなくても大丈夫なのか?」などと問うことは無いのと同じです。すばやく寿司を取らないと目の前を流れていってしまいます。

自分がやるしかない(Just do it!)という環境に追い込まれて、はじめて人はスイッチが入り、そのときに必死でもがきながら行う気功の中で鍛えられるのが気功感覚です。
結果がどうあれ、圧倒的な力を持つヒーラーとなります。死に瀕するのは何も他人ではなく、自分自身でも構いません。

ちなみにこのブログを読んでいる方(のほとんど)はこの貴重な「気功感覚」をきちんと掴まれています。気功を日常に普通に使われている人が多いでしょう。
あとはそれを徹底的に増幅させるだけです。
感覚を増幅させることです。ほんのわずかなプレッシャーをかけ続けつつ。かけ続ければ複利効果で圧倒的な量と質になります。


暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

¥945
Amazon.co.jp

科学革命の構造/みすず書房

¥2,730
Amazon.co.jp

論理哲学論考 (岩波文庫)/岩波書店

¥756
Amazon.co.jpフラットランド/日経BP社

¥2,520
Amazon.co.jp

Flatland: A Romance of Many Dimensions (Dover T.../Dover Publications

¥175
Amazon.co.jp