時間は流れず、死者は死なず | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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四ツ谷にありますバレリーナ専門の気功整体「まといのば」のブログです。
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「まといのば」では、バレエ・ヒーリング・美容の各種セミナーを行っております。

この夏、亡くなった2人の若き友人に以下の論考を捧げます。


厳密に言えば時間は流れません。
電車に乗っていて車窓から見える風景が右から左へと流れても、大地が移動しているとは誰も感じません。我々が大地「を」移動しています。
時間軸についても同様です。我々が移動しているのであって、時間が流れているわけではありません。
ただ空間のように自由に行ったり戻ったりできません。とは言え、空間もきわめて限定された中で動いています。地球の枠から出るのですらなかなか困難です。空間も時間も不自由さでは同じとも言えます。ちなみにアインシュタイン以降、時間と空間は同じパラメータと考えます。


ですので、時間は未来から流れるというのは、一種のアンチテーゼです。我々はつい過去から未来へと時間が流れるように錯覚します。しかしこれは錯覚ではなく、いわば洗脳です。
神による支配、もしくは支配者による支配を強固にするために、時間は過去から未来へと流れると支配者たちは教えてきました。「先生」という言葉がありますが、「先に生まれた者が偉い」という洗脳です。儒教という支配者の宗教の洗脳です。
長男が偉く、父親が偉く、国の父親である皇帝が偉いというロジックです。
父親が偉く、そのまた父親が偉いと遡ると神に至ります。そして神とホットラインを持つ司祭や教師たちが偉いということです。

縁起を知る我々は「父親」がアプリオリには存在せず、子供が生まれたからこそ、あるカップルは「親」になるということを知っています。縁起は双方向的です。「誰のおかげで生まれてこれたのだ」という親には、冷静に「誰のおかげで親になれたのか」と聞き返すべきです。

また父親の父親と遡れば、神に至るのではなく、猿に至りアメーバに至ることを進化論を知る我々は理解しています。ヘーゲルが正反合のアウフヘーベンで最終的には神に至ると妄想しましたが、不完全性定理を知る我々は神という「絶対者」や「アプリオリ」が存在しないことも理解しています。「神は死んだ」のです。ニーチェが言うように我々が殺したと言えるのかもしれませんし、そもそも神などいなかったことに気付いたとも言えます。
我々は有限で不完全な存在です。だから無限で完全な存在に憧れます。その形式が神です。別な言い方をすればゲシュタルトでしょう。これは「神は妄想である」の中でリチャード・ドーキンス(「利己的な遺伝子」)も言及しています。
あわてて付け加えれば、情報空間には何がいても良いのです。クマのプーさんもリラックマも情報空間にはいて良いのです。しかしそれが実在するとは誰も妄想しません。神も想像の中だけなら良いのです。しかしそれが「実在」すると考えるから、神の名の下に殺人が絶えないのです。


体感としては、むしろ時間は未来から流れてきます。
また体感としても、今が5分後には「過去」になります。そして「いま」未来であった時間が「現在」としてやって来ます。次々と「現在」が過去になり、未来が現在となります。時間は未来から過去へと流れるのです。

我々の社会が時間は「過去から未来へと流れる」という洗脳を施されているために、最初は違和感がありますが、繰り返し感じてみると、むしろ違和感がありません。未来から確かに時間が流れると感じます。

アインシュタインの相対論でも時間は空間と同じであり(x、y、z、ーt)と表現されます。アインシュタイン以降、時間だけが座標として特別扱いされることは無くなりました。もちろんアプリオリに時間と空間があるという想定も消えました。観測者がいない時空は存在しないのです。時空は観測者の運動状態に左右されるというのが相対論の結論です。

ニュートンが「神の肉体」と考えた絶対時間、絶対空間は消滅したのです。アインシュタインも神の死に貢献したと言えます。


もちろん我々は空間を自由に動くようには、時間軸を自由に動けません。また時間の流れはマイナスが着きます。これはもちろん時間の流れが過去から未来へという考え方に対して、実際は逆であることを示しています。

これは電流の流れと電子の流れが逆向きであることを想起させます。最初に電気という現象が発見され、電流はプラスからマイナスへ流れるとされました。しかし電流の本質である電子は負の電荷を持つため、電子の流れは電流と逆向きになりました。時間の流れも同様です。

現代哲学でも時間の流れ方は大きく分けて2通りが議論されていますが、どちらの説でも「時間は未来から」ということに変わりはありません。

ただアインシュタインが「過去、現在、未来とはどれほど確固たるものに見えても幻想に過ぎない」と言ったように、実際は時間は流れません。永遠の現在があるだけです。
我々の意識が時間軸を移動していくために、時間が流れるように感じます。
繰り返しになりますが、車窓からの風景が進行方向と逆向きに流れるからと言って、風景が動いているわけではないのと同様です。自分が動いています。


では次に時間は離散的であるということを考えましょう。
我々は時間も空間もなめらかで連続的なものと考えがちです。プランク定数は圧倒的に小さいために、時間や空間がでこぼこと不連続に感じることは日常的にはありません(というか観測できません)。

離散的であるということは、観測問題に端を発する量子論で示されていますが、時空が連続的だと考えると生じる矛盾は古くから指摘されていました。

例えば「飛んでいる矢は止まっている」などで有名なゼノンのパラドックスです。
ある矢が弓から的まで飛んだとします。その距離を10mとします。ゼノンは思考実験によって、この矢が10mという距離を決して飛ばないことを示します。

例えば、もし矢が的に刺さるならば、矢はその中間の5m地点を通過しただろう、と考えます。これはもちろんその通りです。テレポーテーションなどで瞬間移動するわけではないので、中間地点は通過します。

すると矢が弓から5m地点に達したと考えると、その5m地点と弓の中間点すなわち2.5m地点を通過したということになります。これももちろん当然です。しかしこの試行は無限回繰り返すことができます。すなわち半分の半分の半分と無限に繰り返せます。

矢が的に当たるまでに、矢は無限回、途中点を通過しなくてはいけないということです。無限回の通過を有限時間で行うのは無理です。すなわち飛んでいる矢は止まっているということです。


ゼノンはこれに似た推論をたくさん行っています。一つを理解できれば、他は類型的です。


これと似ているのが龍樹の「中論」です。「歩いている人は止まっている」などのパラドックスを次々持ち出します。歩いている人はある瞬間に至る過去は歩いており、未来も同様です。しかしある瞬間だけを取り出すと、瞬間なので静止しています。時間とは瞬間が連なったものです。静止を連ねても、動き(歩き)にはならないというような論理です。
ちなみにこれと全く同じ論理でゼノンも飛んでいる矢は止まっていると言います。ある瞬間を取り出すと飛んでいる矢は止まっている。時間とは瞬間が集まったものである。止まっている瞬間を集めていても、矢は飛ばない、というロジックです。


他愛も無いパラドックスに見えますが、これらは長いこと解けないパラドックスでした。

しかし、「クレタ人は嘘つきだ(私は嘘つきだ)」などの自己言及パラドックスが不完全性定理を生んだように、ゼノンのパラドックスや龍樹の中論の問題提起は量子論によって解かれました。どちらも20世紀を待たないと解決不能だったのです。

自己言及のパラドックスは有名ですし、このブログでも繰り返し取り上げています。簡単に復習します。例えば「私は嘘つきだ」という命題が真だとします。すると私=嘘つきということになります。ということは「私は嘘つきだ」というのも嘘だということになります。ということは論理的に考えれば、「私は正直者だ」ということです。私=正直者であれば、「私は嘘つきだ」という命題は本当のことを言っているので、私は嘘つきであるということになります。

「ネッカーの立方体」のようにクルクルと変わり、そして決定不能なのです。
そしてこの些細に見えるパラドックスが、ラッセルを経由しゲーデルにおいて結実します。公理系において、完全かつ無矛盾な系は存在しないという不完全性定理です。チャイティンが数学全般に拡張し、グリムが神という系に適用させ、神の死亡宣告、もしくは不在宣告をします。

ゼノンのパラドックスを理解するには、時間と空間が離散的であるという理解が不可欠です。離散的とは連続していないということです。
日常的なオーダーでは、時空はなめらかに連続していると考えても不都合は生じませんが、厳密にはパラドックスが生じます。
空間も時間も最小単位があるということです。それをプランク定数で示します。
これは例えば「砂糖」で考えると分かりやすいと言えます。
例えば砂糖を分割していくと、一見無限に分割できそうに思います。しかし、すぐに最小単位である砂糖の分子に至ります。砂糖としてはこれ以上分割できません。もちろん分子ではなく原子としては分割可能ですが、ここでは「砂糖を分割する」と考えます。砂糖としては分割できる最小単位があるのです。
ギリシャの哲学者デモクリトスは「分割できない」という意味で「ア・トム」を想定しましたが、きわめて先見性が高いと言えます。アトムは名称としてのちの原子(atom)につながります。鉄腕アトムの名ははるかギリシャの哲学者に由来すると言えます。

同様に時間も分割できない最小単位があります。
ですからゼノンにせよ、龍樹にせよ、問題に前提として連続性を想定したのが間違いということになります。

しかし、時間の流れが離散的であるというのは奇妙な宇宙観を我々にもたらします。
すなわち連続ではないのですから、時間の流れは一瞬一瞬に断層があるということです。次元の断層です。時間次元の断層です。

時間の断層をどうやって飛び越えているのでしょう。
我々はプランク定数の逆数である1秒間に10の34乗回、次元の断層を飛び越えなければいけません。すなわち我々は1秒間に数えきれないほど輪廻しているということになります。時間の断層を超えている以上は、情報状態だけが継続し、物理(生体)は継続しません。物理は継続しているように見えるだけです。100年後に生まれ変わっても、プランク定数秒後に生まれ変わっても、同じく時間の次元断層を飛び越えている以上は定義上輪廻ということです。

我々の物理的な身体は時間次元の断層を飛び越えられません。
だからスタートレックのワープのように、別な時空にワープするしかないのです。すなわち瞬間瞬間に死に、そして瞬間瞬間に生まれています。そして縁起が継続します。

スタートレックのワープとは、コンピューターのカット&ペーストと同じカラクリです。物理的な情報を読み取り、それを別な空間に再現します。読み取られたオリジナルがあり、別な空間にコピーが生じます。しかしこのオリジナルとコピーという考え方は、慣用的ですが正しくありません。実際は逆と考えられています。
コピーされた側、すなわちいわば移動した側がオリジナルと主張できるのです。
現代哲学ではintentionalityと言い、意図を重視します。すなわちワープしようという意図があった以上、ワープ先のコピーの「私」がオリジナルと主張して良く、元々の「私」は削除される運命のコピーとなります。元いた「私」が削除され、そしてワープ先のコピーされたはずの「私」がこの先はオリジナルとなります。

これは荒唐無稽なSFの話しのようですが、我々の生命現象とはスタートレックのワープと同義です。それを数え切れないほど繰り返しています。
すなわち一瞬の中で繰り返し死に、繰り返し生まれます。しかし「自我」は継続します。すなわち1秒間にプランク定数の逆数だけ輪廻しているということです。
自我が継続することをホメオスタシスと言います。

この繰り返す輪廻は空海の言葉を思い出します。

三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識(さと)らず、生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く、死に死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し。(秘蔵宝鑰)


時間次元のワープを繰り返すことを生命現象と呼び、それを止めて過去の一瞬に留まることを「死」と言います。我々と共有できる時空に死者はいないだけで、過去と呼ばれる時空には生きています。イエスは死者は死者に葬らせよ(マタイ8.22)、釈迦は「葬式は不要」と言いました。両者とも同じことを言っていると考えます。

また不完全性定理により、時間軸を越えるときの完璧なコピーは期待できません。定理によりコピーは不完全になります。ですから固定的な自我はありえないのです。それゆえ、自我はない、とも言えます。

また無生物は時間軸を越えられません。生命現象とは情報空間と物理空間をまたぐ現象です。生命のみが時間次元を超えて時間軸を移動できるからです。でも庭の石は時間が経っても変わらずにあります。目の前のボールペンも同様です。
なぜでしょう。

この回答もまた物理学で可能となります。すなわち石にせよ、ボールペンにせよ、「私」が観測したから生じたのです。時間の断層を超えられません。唯一、我々が観測することで「生じる」のです。

とするならば、我々が死者を想起する時、彼らは明らかに情報空間で生きています。彼らは確実に我々に影響を与えます。我々はそれを対話と呼びます。イエスや釈迦がソクラテスやプラトンが我々に影響を与え続けるのと同じです。生者のそれと本質的には変わりません。ジョン・レノンのIMAGINEを聞いて、我々の心に何事かの変化が起こるのと同様です。ピカソやモーツアルトのWorkの感動が彼の生死に依存するはずもありません。

新しい作品を作るのをやめ、新しい主張をすることをやめ、時間軸を共に移動することを止めただけです。

記憶という情報空間の中ではむしろ「魂は不滅」と言えます。もちろん「私」に記憶されている限りという限定付きです。しかし縁起は継続します。

ゆえに生も死もある抽象度を超えれば同じものです。



三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず、生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死に死んで死の終わりに冥し。



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