暑い日が続いていますね。
暑い陽射しの中を何時間も歩いているところを想像してください。のどが渇いて仕方ないときに目の前に自動販売機があったとしましょう。「ラッキー」と思って、近付いたら、飲みたかったボルビックが売り切れでした(エビアンでもコーラでもお好きなもので)。もしかしたら、あなたは落胆したり、イラッとするかもしれません。
そんなときイエス様はどうしたでしょう?
新訳聖書には、このような記述があります。僕の大好きなシーンの一つです。
新約聖書、マタイによる福音書21章18節から22節です。
イエス様はベタニヤというところで一晩過ごして、朝早くに都に帰らなくてはいけない、そしてお腹が空いているという状況でした。
するといちじくの木が道端にありました。いそいそといちじくを食べようと近付くと葉っぱしかなかったのです。
がっくりしたのか、イラッとしたのかイエスはとんでもない行動に出ます。
そう。神の子とあるまじき行為ですが、呪ったのです。
では新訳聖書からの引用です。
朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。(マタイ21.18)
そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。(マタイ21.19)
いちじくの木に実がついていないだけで、呪って枯らしてしまったのです。
もちろんそばにいた弟子はびっくりです。呪いを目の当たりにして、イエスに聞きます。
弟子たちはこれを見て、驚いて言った。「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。(マタイ19.20)
弟子としてもこう聞くしかないという質問です。なぜ呪ったのですかと聞けば面目をつぶすし、かといってスルーできないほど驚いたし、というところでしょう。
そしてそれに対するイエスの答えがまたふるっています。
イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。
また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。
(マタイ21.21-22)
と自分がお腹が空いていたときに、いちじくが食べれなくていらいらして八つ当たりして呪ってしまったというのに、それをスルーして即席のヒーラー養成講座に強引にしてしまったのです。
弟子に見られたことを焦りつつ、必死で取り繕う若者の姿が見えてこないでしょうか。
弟子が聞きたいのはそこじゃないと思いますが・・・、ま全編通して、イエスは質問にはまともに答えません。
ちなみに、それは「呪い」ではないというクリスチャンの皆様へ、初代法王のこんな言葉も紹介します。
先程の話しと同じシチュエーションがあり、その日の夕方のことです。早朝のいちじくの木のそばを通るといちじくが枯れているのをペテロが見つけました。
そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」(マルコによる福音書11.21)
そう。
すごいですよね。
ローマカソリックの初代法王(教皇)は、正式にイエスが呪ったと述べ、イエス本人に言っているのです。そしてそれが正典として2000年間伝えられてきました。
追記:上記の引用はiPadのソフトである対訳聖書(新約)から行いました。新約も旧約も持ち歩けて、検索も引用も自由自在なので、本当に良い時代になったと思います。
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