チューリッヒの夜

 

遠ざかったポルシェとフェラーリに再び追いつくことなく第2レグは終わりを告げようとしていた。国境を越え、スイスに足を踏み入れて約15分。燃料計の針はエンプティのやや上を指し、警告ランプがついている。本来なら2回必要だった給油を1回でここまで乗り切った。突然の悪天候を味方に付けてアキヒコはギャンブルに成功したのだ。

後に続くアンも同じく1回給油に切替えた。アキヒコの導く滑らかなラインをまるで教習を受けるかのように追い駆け、今までの自分の走りがいかに欠点だらけだったかを思い知らされた。一見派手なアキヒコの走りには荒さは一切なかった。ペガサス・スクァーラルや周りの車に対する労わりさえ感じられた。有り余るベイロンのパワーを力任せに捻じ伏せようとした自分が恥ずかしい。マユニネンやシュナイザーの速さも今なら理解できそうだ。彼らの機械的な精密さは与えられたパワーを常に効率よく生かしきる。だがアキヒコのテールランプにはそれを上回る何かを感じる。未知の何かを・・。

 

アキヒコは3番手で第2レグのゴールを迎えた。10mの間隔でアンが続いた。湧き起こる歓声が木霊のように鳴り響く。トップでゴールしたマユニネンとは2分、ミカエル・シュナイザーとは1分30秒差だった。車を止めるとアキヒコにはもう自力で降りる力は残っていなかった。駆け寄ったオフィシャルにまずかすみを医療センターに運ぶように頼む。遠のく意識の片隅で引き締まった腕に抱えられ宙に浮く自分を感じた。褐色の肌にヴィーナスのような整った顔立ち。アンの黒髪がアキヒコのすぐ側で風にたなびいていた。

 

マルコたちバックアップ部隊がチューリッヒに到着したのはアキヒコがゴールして4時間後。時計の針は12時を指し、日付が変わろうとしていた。スタッフは休む間もなく500kmを走り切ったペガサス・スクァーラルを素早く点検し、整備する。リエは病院に運ばれたアキヒコとかすみの元へと急いだ。

とうに面会時間など過ぎていたが、ドリーム・ラリーの黄色いフリーパスを差し出すとリエは病室への通過を許された。かすみは命に別状はないとのことだったが、意識は戻っていなかった。診断の結果は何処も異常なく、ドクターも生命反応の低下に首を傾げていた。アキヒコの病室に入ると一人寄り添う者がいた。アキヒコのベッドに頭をうつ伏せに仮眠している。そっと足音を忍ばせて覗いたが、アキヒコが気付いて手招きをした。

「何があったの?」

リエが小声で聞く。アキヒコは答える代わりに近寄ったリエの首に手を回すと、抱き寄せてキスをした。突然の出来事で面食らうリエ、だがすぐにその意味を理解した。自分のオーラがアキヒコに流れ込むのを感じる。

「かすみが倒れている理由はこれさ。俺が彼女のオーラをもらったんだ。ちょっと自分のオーラを使い過ぎてね。かすみは全てを差し出して仮死状態になった。さすがに面食らったよ。」

アキヒコは湧き上がるリエへの感情を抑え、努めて冷静を装って手短に出来事を説明した。リエは顔を赤らめながら心を落ち着かせようと胸に手を当てる。心臓の鼓動が速い。

「オーラの受け渡しが出来るなんて始めて知ったわ。」

自分の理解を超えていくアキヒコに畏敬の念さえ覚える。

「困った事にこいつを知ってしまったらオーラを吸収したくてたまらないんだ。耐えがたい空腹感、病院の点滴にはそんなメニューはないしさ。」

冗談を交えながらもアキヒコの飢餓感は切実だった。リエはふとあることを思い出した。

「朱雀、鳳凰は火の鳥と言う伝説を併せ持つわ。自らの体を燃えさかる火に投じて蘇る。」

 

「フェニックスかい?」

突然アンが顔を上げて会話に割って入った。

「アン!寝てたんじゃないのか。それより、日本語が分かるのかい?」

アキヒコは驚いた。

「ああ、施設には色んな子供がいたからね。日本語だけじゃないよ、東洋なら中国語に韓国語、ヨーロッパの言葉はほとんど全て使えるさ。どっかのスパイみたいでかっこいいだろ。」

アンは椅子にしっかりと座り直すとウインクした。

「あんたたちがいい雰囲気なもんで気付かない振りしてあげたけど、ちょっと面白そうな話になってきたからね。不死鳥伝説は世界のあちこちで伝えられてるよ。」

「この人は・・?」

リエがアキヒコに訊ねる。キスを見られたと思うとちょっと気まずかった。

「ああ、俺がオーラを失うきっかけを作ってくれた竜巻の君、フランス空軍の戦士アン・モンゴメリー嬢さ。別名をサリンルコウと言うらしい。」

リエの顔に驚きと緊張が走る。長老に聞いた四神獣の寵児たちの一人ではないか。

「悪気はなかったんだ、許しておくれよ。この坊や、おっといけない、アキヒコさんには感謝してもし切れない。あたしのせいで大惨事になるのを防いでくれたんだからね。」

アンが手を差し出す。リエは躊躇いながらその手を握った。

「はっはっ、そう身構えるなよ、リエ。別に敵じゃないんだから彼女は。それより話の続きを聞きたい。」

アキヒコに促されてリエは自分が言いかけたことを思い出した。

「ええ。つまりオーラはエネルギーの一種、生命エネルギーと呼んでもいいわ。朱雀が火で蘇るという伝説はひょっとしたらエネルギーであるオーラを火から作り上げる行為だったんじゃないかと思って・・」

「ふふん。面白いじゃない。フェニックスの新しい解釈ね。」

冷やかし気味のアンをアキヒコが真剣な表情で制した。

「アン、ライターを貸してくれないか。ちょっと試してみようじゃないか。」

 

アキヒコはライターを灯すと数秒間その火を見つめた。意を決すると掌を火に近付ける。本能的に恐怖感が走り、手を硬直させた。

「アチ!」

オーラを得るどころか火傷しそうになり、慌てて手を引っ込める。

「無理だよ、そんなの。フェニックスはあくまで伝説さ。」

アンがライターを自分の手元に戻す。アキヒコに顔を近付けながら囁いた。

「オーラが欲しいなら、あたしがあげるよ。ほら、こうしてキスすればいいんだろ。」

「ちょっと待って!」

リエが慌てて止めた。

「なんだい?嫉妬することでもないだろ?」

アンがちょっとムッとした表情で睨む。

「そうじゃないわ。あなたとアキヒコではオーラの質が違い過ぎると思うの。血液じゃないけど拒絶反応みたいなことが起こるかもしれないわ。アキヒコの火に対してあなたは水だもの。」

リエはそう説明した。嘘ではないが、嫉妬を感じたのも事実だ。

「うーん。そう言われりゃそうかもね。止めといた方が良さそうさね。じゃあここはお嬢さんに任せてあたしは戻るとするか。明日はまたライバル同士だしね。」

アンは立ち上がると二人に背を向けた。

「アン・・、ありがとう。」

アキヒコの言葉にアンは背中を向けたまま手を振り、病室から出て行った。

 

 

予知夢

 

アルプスの雪道でペガサス・スクァーラルを操る自分が見える。雪煙を舞い上げて狭い山道を意のままにドリフトする。背後にはパガーニ・ゾンタ。サーシャ・ルビンスキーの隣には双子の妹マーシャの姿が見える。助手席に座るリエが心配そうにアキヒコを見守る・・。突然病室の情景に変わり自分の寝るベッドにナイフを突き立てる黒服の男、アキヒコは飛び起きる。

リアルな夢だった。これまでもリアルな夢を見たことはあるが、自分の過去の記憶だった。だが今夜の夢は過去の経験ではない。これから起こる事を教えるかのような予知夢。アキヒコは側に控えるリエを確認するとホッとしながらも揺り起こした。

「リエ、リエ・・」

「う・・ん、どうしたのアキヒコ?具合でも悪いの?」

心配そうな顔で、眠そうな長い睫毛の目を擦る。

「これからちょっと事件が起こるかもしれない。念のためかすみの病室に行っててくれないか。俺はもう大丈夫だから。」

リエは不審そうな顔をしながらもアキヒコに背中を押されて部屋を出て行った。

 

20分程アキヒコはじっと身を潜めた。何事も起こる様子はない、やはり只の夢か。予知なんて馬鹿なことを考えたものだ。再び眠りに入ろうとしたその時、微かな気配を感じた。

暗闇に忍び寄る影、アキヒコのベッドに音もなく近寄ると刃渡り20cm程のアーミーナイフを高々と振り上げ、一気に突き立てた。ズンッ!と部屋に響く無気味な音。男は自分の成果を確かめるべく毛布を剥ぎ取った。

パチッと部屋の照明が付けられた。入口の脇にたたずむアキヒコ。黒服の男は驚いて自分のナイフの刺さったものを見る。衣服で人型を作った物がそこにあった。チッと舌を鳴らすと男は懐に手をやり、ピストルを取り出した。

「(動くなよ、坊や。何故俺に気付いたかは知らないが、お前の窮地に変わりはない。おとなしく俺の勧めを聞いてりゃこんなことにはならなかったのに、コケにしやがって。)」

サングラスこそしていないが、2度に渡りアキヒコに薬を勧めた例のタンデオンの使者と名乗る男だ。ついに正体を現したか。

「(お前の運転を見て、てっきり薬を飲んだものと思ってたぜ。だがサーシャからの報告を聞いて驚いたよ、あいつの強力な呪縛は同乗の女にかかったそうじゃないか。しかもそれを撥ね退けやがった。こんなことは初めてだ。あの強力な脳内覚醒剤が失敗に終わるとは。本部に知れたら俺はおしまいだ。悪いがお前も女も闇に葬らせてもらうぜ。)」

男は枕を手に取るとピストルの銃口に当てた。

「(かすみにも何かしたと言うのか!)」

アキヒコは急激に込み上げる不安感に胸を締め付けられた。

「(今頃俺の相棒の手で安らかに眠ったことだろうよ。お前も後を追ってやんな。)」

男は口の端を捻じ曲げると引き金にかけた指に力を込める。アキヒコは自分の死を覚悟した。反物質を呼び寄せる力はまだ回復していない。その時突然キーンと耳鳴りがした。

枕から飛び散る羽毛の中から銃弾が飛び出すのが見える。回転しながらゆっくりと自分に向かってくる。何故こんなに全てがゆっくりと見えるのだ?まるで映画のスローモーションでも見るように動きが止まって見える。体に力を入れると心臓めがけて近付く銃弾を間一髪かわす。まるで水中に居るかのように体の動きが重く感じる。だが、まわりの動きはそれ以上に遅い。止まっている黒服の男に近付くと、右足でピストルを蹴り上げた。羽のようにゆっくりと空中に舞い上がる凶器を右手で掴む。

 

男は引き金を引いた時、アキヒコの体が透けて見えた。次の瞬間手に痛みを感じると、ピストルを手に握ったアキヒコが目の前に居るのを見た。何が起きたか全く分からない、自分は夢でも見ているのか・・。

「畜生!かすみを返せ!」

日本語で叫ぶとアキヒコは引き金に力を込める。

「まて!早まるな!かすみとリエは無事だ。」

背後の声にアキヒコは振り返った。がっしりした身体つきの老人と狐顔の男が立っている。アキヒコは見覚えのある狐顔に自分の記憶を辿る。米倉・・、高野良子やリエを使い自分を監視しようとした男だ。何故ここにこいつがいる?アキヒコは引き金を緩めて二人の男を見詰めた。

 

 

陰陽師

 

翌朝、窓の外は視界ゼロに近い吹雪となった。第3レグはアルプスのヒルクライムとアナウンスされたが、悪天候のため1日順延されることになった。

「もう気を静めたらどうだ、お若いの。」

かすみの病室で老人がにこやかに微笑む。夜中に突如現われたこの二人は、かすみの病室を襲った男を取り押さえ凶器を奪い取ると、アキヒコを襲った片割れとともに夜の町に放り出した。男たちはこの事を報告することはないだろう。自分の身をわざわざ危険に曝すほど馬鹿ではあるまい。失敗には死を、それがブラッククロスのルールだ。

「アキヒコじゃったかの、名前は。」

「ええ、老師。高野アキヒコです。」

米倉が横から答える。かすみは依然意識が戻る様子もない。リエは黙って椅子に座っている。

アキヒコは握った両手の拳を静かに解いた。

「おお、可哀想に。オーラがボロボロじゃの。」

老師はかすみに近付くと皺だらけの手をかすみの頭に翳した。アキヒコは再び両手の拳を握り締める。少しでもおかしなことをしたら老師に飛び掛る覚悟だ。

「そういきり立つな。直してやろうと言うのじゃ。」

老師はアキヒコを鋭い眼光で睨んだ。アキヒコの髪が逆立ち、両腕に鳥肌が立つ。真っ向からその鋭い眼の奥を見据えてアキヒコは握り拳を解いた。穏やかな海のような波動をそこに感じたからだ。

「これで大丈夫じゃ。しばらくすれば意識も戻り、起き上がれるじゃろう。」

老師は竹筒から出した緑の粉を水に溶き、かすみに飲ませると懐に竹筒を仕舞った。

「これは古来より伝わる万病の薬。光苔を煎じて作る。光苔は手に入れるのが大変じゃ。普通の場所には生えんし、普通の人間ではその光を見ることも出来ん。なんせ発する光はオーラじゃからの。」

『あれだ!』

アキヒコは朱雀の祠への洞窟に密集した苔を思い出した。

「そうだよ、その苔さ。」

米倉がニヤリとしながら言った。アキヒコが驚いてその顔を見る。

「ファッファッ、改めて自己紹介でもしようかの。ワシは広沢宗陰。占星術を生業としておる者じゃ。こいつはワシの弟子、米倉忠男。既に会った事はあるじゃろう。人の心を読む特技の持ち主じゃ。」

老師の言葉を米倉が引き継ぐ。

「占星術と言ってもその辺の占い師とはわけが違うぞ。代々続く由緒正しき五芒星の使い手。古来よりヤマトの国の進むべき道を指し示してきた影の統率者、陰陽師だ。俺も能力者の端くれだが、老師の偉大な力の前では赤子同然。老師には総理でさえ逆らえん。」

「オンミョウジ?」

耳慣れない言葉にアキヒコは聞き返した。

「ファッファッ、ちょっと変わった占い師と言う事じゃ。お主もオーラが弱っておるようじゃの。これを飲め。もっともその金色にも効くかどうかはワシでも分からんがの。」

宗陰の差し出す光苔の冷茶をアキヒコは素直に飲んだ。

 

「・・アキヒコ?」

かすみが意識を取り戻した。光苔の効果は本物らしい。

「この人達は?」

「日本からのお客さんさ。キミとリエを暴漢の手から守ってくれた恩人といったところかな。米倉さんは知ってるだろう。」

「あっ、成田の帰りに待ち伏せしてた・・!」

「あの節は失礼した。」

米倉が軽く頭を下げる。

「さて、ワシらが日本からここまで出向いたのには理由がある。ちと他人に聞かせたくない話じゃて、場所を変えようかの。お嬢さんももう立ち上がれるはずじゃ。」

宗陰に促されてかすみは起き上がった。体に力が漲り、すっかり元に戻った気分だ。アキヒコたちは身支度を整えて病院を出ると、宗陰の用意した車でホテルに向かった。

 

 

出生を知る者

 

「ワシはお主たち3人をずっと気にかけておった。ワシら広沢家と朱雀の祠との繋がりは古い。リエ、そしてかすみよ。お前たちはワシの孫にあたるのじゃ。」

チューリッヒの真中にあるホテルの最上階、国賓クラスのVIPが利用するスイートルームの革張りのソファにアキヒコたちは腰を沈めていた。部屋の中に盗聴装置のようなものがないことは米倉が自分の“気”で隅々まで確認していた。人間の思念波さえ捉える彼の特殊能力は微弱な盗聴電波も騒音に感じる。

「孫?」

リエとかすみがお互いの顔を見合わせる。今まで全くの他人だと思っていたのに従姉妹だったと言うのか。

「お前たちは双子の姉妹。ワシの愛娘が生んだ可愛い孫じゃよ。代々女しか生まれん朱雀の祠では、その特殊能力を維持し高めるために我が陰陽師の家系、広沢の血を求めてきた。お前たちの母親はワシと先々代の長老との間に生まれた二人の子供の一人、朱雀一族としては珍しく何の特殊能力も持たん女じゃった。じゃがそれは隔世遺伝で巨大な能力をお前たちに授ける伏線だったのじゃ。お前たちはワシの予言の忠告に従い、生まれてすぐに別々にされた。間もなく不幸な事件でかすみは引き離され、お前たちが姉妹であることを知るものはワシら極一部の者となったのじゃ。」

「私、いえ私たちの本当の母親は何処にいるの?あなた知ってるんでしょ?」

かすみが声を荒げる。

「ああ、知っとるよ。お前がさらわれたショックで当時の記憶を失っておる。お前たちの母親だという自覚は全くないだろう。」

「会わせて下さい。私はずっと母親など知らずに育てられた。ひと目会って見たい。」

リエが懇願する。

「そう慌てるな、気持ちは分かるがの。向うは記憶がないのじゃから会わせても感動の再会とはいかんぞ。まあ近々会うことになるじゃろうが。」

宗陰はアキヒコに向き直った。

 

「さて、アキヒコよ。お主は先代の長老の子にして朱雀一族初の男子じゃ。そして先代の長老こそお主とかすみを祠から奪い取った張本人なのじゃ。」

「・・・!」

アキヒコは驚きのあまり言葉も出ない。

「もっとも彼女も被害者かもしれんな、薬で操られていたのじゃから。」

「何故そんなことまで知ってるんです?本人から聞いたのですか?」

アキヒコは本当の母親に会えるかもしれない淡い期待を抱く。

「いや、お主の父親からの報告じゃ。」

「父親・・って。」

宗陰は顎でアキヒコの横を示す。アキヒコの胸が高鳴り、顔が紅潮する。

「俺だよ。」

感情を押し殺した声の主は米倉だった。

 

米倉は深く溜息をつくと、静かに話し出した。

「お前の母親ルリは信心深く気の優しい女だった。何者も疑わず、何事も受け入れた。俺はルリを心から愛し3年の夫婦生活の後彼女はお前を身篭った。古の習いに従い、彼女は一人朱雀の祠に戻って行った。俺に手を振りながら・・それが彼女を見た最後だ。」

米倉の冷たい表情が一層強張る。

「東京でかかっていた産婦人科に奴らの魔の手が伸びていようとは・・ルリは医者から産後に飲むようにと薬を渡され、お前を生んだ後言いつけを守ったらしい。彼女がお前たちを連れて消え去った後、医者の心に脈打つ不審な波長から俺はブラッククロスの仕業であることを知った。莫大な金に目が眩んだ医者は奴らに言われるままにルリに薬を渡したのだ。」

米倉の頬が怒りに震えている。宗陰がその後を続ける。

「ワシは政府に手を回し、腹心の弟子米倉を特能研に潜り込ませてお主たちの行方を探ったがなかなか手がかりも掴めなかった。結局5年近く経った頃、謎の研究施設の情報を得た直後に、事件が起こったのじゃ。5才のお主が引き起こした研究施設壊滅事件じゃ。ワシはお主たちの身を案じ、米倉の監視の下に第三者に養育を任せた。多目の養育費を渡してお主たちの存在が表に出ないようにしてな。ブラッククロスの情報網は日本の政府機関にも入り込んどる恐れがあったから、お主たちの情報はおろかワシと米倉の関係も誰にも明かさずにきた。本当ならまだそうしておきたいところじゃよ。」

 

 

宗陰の気がかり

 

「わざわざスイスまで来たのはそんな話をするためじゃないんでしょ?まあ昨夜はお陰で助かりましたけど。あらためてお礼を言います。」

アキヒコは宗陰と米倉に頭を下げた。

「私からも、ありがとうございました。自分たちが暴漢に殺されるシーンを見るのはあまりいい気分じゃありませんでしたけど。」

リエも頭を下げる。かすみは昏睡状態で全く覚えていないが、リエに倣って頭を下げた。

「フォッフォッ、あれは式神じゃよ。ちょっとしたまやかしじゃの。」

宗陰は愉快そうに笑った。

「ワシがここに来たのは一つには虫の知らせと言うやつじゃ。血の繋がりのある孫の窮地を救えという天のお達しじゃろう。案の定役に立ったじゃろ?」

宗陰はかすみとリエにウインクした。アキヒコに向き直ると真顔に戻り、鋭い眼光を光らせた。

「だがそれだけではない。実はもう一つ気がかりなことがあっての。暮れから占いに曇りが生じ出して鮮明さを欠くようになった。最初は薄い靄のようなベールじゃったが、次第に濃さをましての。今や全く未来が見えなくなってしまったのじゃ。これが何を意味するのかはワシにも分からぬ。陰陽道で推し量れぬ領域で何かが起ころうとしとるのじゃ。すなわち神の世界での。お主、いや朱羽煌雀が四神獣の一神、朱雀の使いであろうことは長老から聞いておろう。かつて記憶とともに封印されたお主の内に秘めたる能力が、再び目覚め始めたことは米倉が調査済みじゃ。そして朱羽煌雀としての活動を開始するのも遠くはない。ワシがお主の手助けを出来るとも思わぬが、何かの足しにでもなればと思って馳せ参じた次第じゃ。」

雲を掴むような話だが、ただならぬ事態であることは宗陰の顔色で分かる。重苦しい雰囲気が辺りを包んだ。

 

「一つ聞いてもいい?」

アキヒコが沈黙を破った。

「俺が何かの使命をおびてこの世に生を受けららしいことは長老の話でも分かりました。だが自分が何をすべきなのかが見当もつかない。長老を信じて今はこのドリーム・ラリーに勝つ事に打ち込んでいるが、それで何が変るのか。宗陰さん、朱羽煌雀の本当の能力を知ってたら教えてくれませんか。」

「残念ながらお主の本当の力はワシにも分からぬ。ただ力を発揮する土台として、少なくとも今よりは強いオーラが求められることは確かじゃ。ワシでさえオーラの具現化までは出来るよっての。式神がそうじゃ。」

宗陰は袂から人型の紙を取り出すと、自分の髪の毛を1本貼り付けて床に置いた。目を閉じて呼吸を整えると精神集中に入る。全身から眩いオーラが噴出し、燃え上がる火のように包み込んだ。宗陰は指先にオーラを凝集させると人型に向けてそれを放出した。人型がユラユラと起き上がるとそれを核に等身大の人間の姿になっていく。見る間に人型は宗陰の分身となった。

「どうじゃ、紙には見えんじゃろう?ワシのオーラがワシ自身として具現化したものじゃ。触ることも出来るぞ。」

宗陰の分身が喋った。

「こっこれよ、昨夜私が見せられたのは。私とかすみさんの分身が現れて、私たちの代りに暴漢に襲われたの。」

リエが上ずった声でアキヒコに言った。アキヒコとかすみも奇術でも見るかのように呆然としている。宗陰の分身はアキヒコに握手を求めた。アキヒコが握った手の感触はまさに人間そのものだ。次の瞬間まるで霧のように宗陰の分身は消え去り、紙の一型がヒラヒラと床に舞い降りた。

「お主の、いや朱羽煌雀の力はこんなものじゃないじゃろう。ワシにも図りかねるが、昨日見せた消える技もその一つじゃろうて。」

本物の宗陰が話した。いやひょっとしたらこれも本物とは限らない。

「あれは自分でも良く分かりません。無意識のうちに耳鳴りとともに回りの動きが止まって見えたんです。ピストルの弾がスローモーションで自分に向かって来て、自分の体も思うようには動かせなかったけど、避けるには十分だった。」

アキヒコは今それをやって見せろと言われても、難しかった。

「あれに見せてやりたいところじゃの。もうそろそろ来る頃じゃが・・」

宗陰が時計に目をやる。ほどなくフロントからの電話がなった。

「おお、そうじゃ、ワシじゃ。うむ、待っとたよ。すぐに上がって来い。」

 

 

対面

 

ドアを開けて入ってきたのは美しい女性だった。30代後半の落ち着いた雰囲気。理知的な顔付きは頭の良さを物語る。広沢圭子、国立原子物理研究所研究員。彼女は自分が何故ここに呼ばれた理由を掴みかねてその場の面々を見渡す。

「急にスイスに来いなんてどういうこと?お父さん。主任が許してくれたからよかったけど、やりかけの仕事はあるし、海外旅行ならもっとちゃんと楽しみたいわ。」

圭子が宗陰に向かって愚痴をこぼす。かすみとリエが顔を見合わせた。ひょっとしたら・・

「竹村博士には事前に許可をもらってますよ、お嬢さん。事前と言ってもあなたに連絡する10分前ですけどね。」

米倉が口元でにやりと笑いながら言った。

「相変わらずね、忠男さん。プライベートでもその冷たい仮面は外れないのかしら。良かったらお隣の若い方々をご紹介して下さる?」

圭子は初対面のアキヒコたちが気になるようだ。

「ああ、初めまして、俺は高野アキヒコ。一応レーサーの端くれで、ドリーム・ラリーというイベントに参加するためにここにいます。宗陰さんたちとの関係を説明するのは難しいな・・」

アキヒコは自分から自己紹介した。その名前を聞いて圭子は目を丸くする。

「まあ、あなたが・・!」

アキヒコは圭子が自分を知っているらしいことにさして驚かなかった。宗陰の娘なら情報を得ていて当然だ。

「あの・・この人が私たちの・・?」

リエがちょっとはにかんだ表情で宗陰に聞いた。

「おお、そうじゃよ。だが、先刻言った通り圭子はお前たちに関する記憶は全くない。どうするね?」

宗陰はちょっと意地悪く答えた。かすみが思い切って言った。

「私は木暮かすみです。本業はシンガーソングライター、ペガサスチームの一員でドリーム・ラリーに参加しています。お母さん。」

「えっ!?」

圭子は一瞬きょとんとした表情でかすみを見て、笑いながら答えた。

「あなたから見ればお母さんの年でしょうけど、私はまだ独身よ。お姉さんと呼んで欲しいわね。」

「いいえ、あなたは私たちのお母さんですわ。私は立花リエ、学生です。」

圭子はリエの言葉に呆れたように溜息をついた。

「何を言ってるの?あなたたちは。からかうのもいい加減にしなさい。」

「この子らの言う事は本当なのじゃ、圭子。お前はかつて妊娠し、二人を生んだ。その直後にかすみがさらわれたショックでお前はその前後の記憶を無くしたようじゃがの。いきなり認めろと言われても難しかろうが、この子らはお前の子供なのじゃよ。」

「そんな・・相手は誰よ。急に成人した女性が目の前に現れて、お前の子だと言われても訳が分からないわよ。」

「本来なら圭子、お前は慣わしにより朱雀の祠で育てられるはずじゃった。だが何の特殊能力も持たないお前はあそこで暮らしても苦になるだけじゃ。ワシが無理を言って自分の下に引き取ったのじゃよ。朱雀一族は誰もが何処かで子を宿し、祠に戻って生む。18才になったお前はある日突然ワシのもとから消え、妊娠して朱雀の祠に行ったのじゃ。潜在意識の中に本能的に埋め込まれていたのじゃろう。当時の記憶を無くした今、この子らの父親を知る術はない。」

 

宗陰の言葉に圭子は頭を抱えて椅子に倒れ込んだ。自分に子供がいたなんて、それも二人も。喜びよりも混乱と失った時間への悔しさが頭に渦巻く。かすみとリエが両側から優しく圭子の背中を擦った。

「ありがとう・・実感は湧かなくてもその暖かさは本物だわ。本当に私の子なのね、あなたたち。抱き締めていい?」

二人は頷いた。圭子はかすみとリエを交互に強く抱き締める。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

かすみがリエを軽く小突いて耳元で囁く。

「あなたの立花姓は私たちの父親と関係ないの?」

「多分ないわ。立花は朱雀一族が使用する苗字みたい。祠の全員が立花姓なの。」

リエが申し訳なさそうな悲しげな目で答えた。

 

「さて、圭子よ。お前をここに呼んだのは親子の対面のためだけではないぞ。」

穏やかな雰囲気が漂い始めた圭子たちに向かって宗陰が言った。米倉に続きを目で指示する。

「お嬢さん、この間内閣諜報室を交えた報告会でおっしゃってたでしょう、能力者であるアキヒコに直接会って話をしたいと。今がその時期ですよ。存分にお確かめなさい、あなたの仮説を実証するために。」

圭子は涙で潤んだ目を上げると米倉を、宗陰を順に見た。二人が頷く。

「私は原子物理研究所で新エネルギーの研究をしています。その傍らで幾つかの異常現象の解明に借り出されているわ。」

アキヒコに向けて圭子が語り始めた。

「その異常現象とは、物体が部分的に切り取られる事。鉄やコンクリートやその他諸々の物が球状に切り取られ、破片も残らない。切断面は恐ろしく滑らかでレーザーで切ったような変性もない。私たちの常識を超える出来事の調査は次第に私の生きがいに変ったわ。異常現象は3件発見され、その全てに共通の人物が関わっていた。最初は15年前のある研究施設で、着任したての私は凄惨な状況に怯えた事を今でも忘れない。そしてあと2件は去年よ。その全ての事件に共通するのがあなた、高野アキヒコだった。」

圭子はアキヒコを指差す。アキヒコは動揺もせずに受け止めた。

「私は入手した切断面を来る日も来る日も調べつづけた。原子レベルまで。そしてとうとう小さな尻尾を捕まえたわ。アイソトープ、放射性同位元素の異常をね。難しい話は抜きにしても、私が発見した原子はこの世界では存在しないものなのよ。超平滑な切断面、跡形もない切断破片、そしてアイソトープ。これらの事実から私が導き出した仮説はね、反物質というものよ。」

かすみとリエも圭子の話に引き込まれる。

「もともと宇宙の誕生、ビッグバンの瞬間には2種類の物質が存在したと言われるわ。原子核がプラスの電荷を持つ通常の物質と、マイナス電荷の原子核を持った物質。プラスの電子を従えたその物質を私たちは反物質と呼ぶの。その存在は予想されながらも空想のものとされている。ビッグバンで物質と反物質の量に微妙な差があって、物質だけが残ったというのが通説だけど、よく考えると無理があるわ。確率的には物質と反物質は同量存在したはず、これだけ大量の物質が極僅かの差の残り物のはずがない。私はね、反物質は何処かにあると思ってる。その鍵となるのがブラックホールよ。宇宙の小さな点に巨大な質量が集約される。理屈では説明がつかない程の。ブラックホール自身が質量を持つんじゃなくて、別の世界への入り口と考えた方がよっぽどすっきりするわ。別の世界とは何か、そう反物質の世界よ。そしてあなた、高野アキヒコはブラックホールを作り出す能力を持ってるの。どう?私の仮説は。」

 

パチパチパチ、アキヒコが思わず拍手をした。

「凄い、俺が感覚で捕らえていたものを見事に説明してる。恐れ入りました。」

「じゃあ、全て認めるのね。一連の出来事も、私の仮説も。」

「ええ、もう隠しておく必要もないでしょう。何だったら見せましょうか?」

アキヒコは一同を見渡すとゆっくりと立ち上がった。部屋の隅に歩き、みんなを壁際に移動させると、精神を集中する。体から火花のようなオーラが満ち溢れる。昨日よりも増幅したパワーは宗陰の光苔の効果か。

部屋の中央の空間をアキヒコは凝視した。空間が揺らいだと思うとキラキラ光り輝き、直径30cm程の漆黒の球体が出現した。圭子が目を輝かせている。

「すごい、すごい、本物のブラックホール!反物質で構成された向こう側の世界への入り口ね!思わず触りたくなってしまうほどの感激だわ。ねえ、誰か何かを投げ入れて見て。」

圭子の言葉に、米倉は胸のボールペンを取り出すと球体に向けて投げた。ボールペンは球体に触れた瞬間、光を発しながら消えていく。

「初めて見たわ。やはり理論通り物質と反物質が触れ合うと光子を出して消滅するのね。上手く利用できればこれは画期的エネルギーだわ。ねえ、どのくらい維持できるの?」

「放り出せばすぐに消滅してしまいますよ。そこに意識を集中していれば維持できるけど結構大変だ。」

アキヒコが圭子に答えた瞬間に球体は消滅した。

「見た?」

リエがかすみに囁いた。

「ええ、強烈なオーラよね。まるで生き物のよう。でも昨日はもっとすごかったのよ。アウトバーンに10mもの巨大な黒球を出現させたんだから。アキヒコは消耗しきっちゃうし、今だから笑えるけど、私オーラをアキヒコにあげて本当にこの世の見納めのつもりだったのよ。」

かすみはにこやかに話しながら昨夜の出来事を思い出す。巨大な竜巻を飲み込みながらキラキラと眩い光を放つ漆黒の球体。その美しさは口では説明できそうにない。天国への入り口にも見えた。

 

「ついでにもう一つ見せてやったらどうじゃ。昨夜の消える技を。」

宗陰がアキヒコに促した。

「うーん。自信はないけどやってみますか。」

アキヒコは目を閉じて再び精神統一に入った。意識を耳の奥に集中させる。

「何?何を見せるというの?」

圭子が宗陰に聞いた。

「まあ、黙って見ておれ。見逃すなよ。」

数分後、アキヒコは感覚を見つけた。キーンと耳鳴りが響く。

「よし、掴んだ。いきますよ。」

全員がアキヒコを見つめる。アキヒコの姿が透けて見えたと思ったら瞬時に部屋の隅に移動し、気が付くと部屋の中央のソファーでタバコを燻らせていた。

「わぁ、忍者みたい!」

かすみが驚いて叫んだ。

「どうじゃ、圭子。目の前の出来事を説明できるかね?」

宗陰が笑いながら問いかける。自分自身が特殊能力を持たない圭子は、これまでも特殊能力の成せる現象を科学的に理論付け、自分を納得させようとしてきた。

「ええ。ブラックホールも今のテレポート現象も、おそらく強力な磁場の成せる技でしょう。問題はどうやって磁場を発生させたかだけど・・」

「オーラよ。強烈なオーラが竜巻のように渦を巻いて回転していたわ。ブラックホールはその渦の先端に発生したし、アキヒコが瞬間移動した時にはアキヒコ自身が渦に包まれて見えたわ。」

かすみが答えた。

「それよ。不思議なエネルギー、オーラの渦が、強力な磁場を作り、空間を捻じ曲げ、光を捻じ曲げ、超常現象を引き起こすんだわ。難しい話になるけど、“時間”は一定のものではないの。地球上に居る限り時間は絶対なものに思ってしまうけど、科学を突き詰めていくと私たちの“時間”は光の進む速さを基準にして、それが絶対に変らないものという前提に成り立っているわ。地球が太陽の周りを公転しながら自転して、太陽に向かった時には無条件にその光が一定の速度で届く。だから無事朝を迎え、夜が訪れるのよ。でも光は実は重力や磁場の影響で直進性が損なわれるの。 本来真直ぐ進むべき光が曲がるとそこでは“時間”の速さも変るわ。さっき彼の周りは磁場の影響で光が曲げられ、磁場に包まれた彼の周りは体感時間が変ったのよ。」

「さすがは原子物理研究所の次期主任候補じゃの。我が娘ながらおそれいるわい。」

宗陰が満足そうに微笑んだ。

「時を司る朱雀の言い伝えはやはり迷信ではなさそうじゃの。この先お主の力を生かすには圭子の頭脳が役に立つと思うぞ。ワシはどうも胸騒ぎがしてならんのじゃ。一刻も早くお前たちを引き合わせたかった。そしてもう一人の客も明後日には来るであろう。さすれば全てが明らかになり、未来への道が見えるはずじゃ。」

「ひどい!それじゃ私たちのことはオマケだったのね。」

かすみが口を尖らせて言った。宗陰は心の不安を一時でも紛らわすように笑った。

 

 

競技再開

 

1月3日、前日の吹雪の置き土産でホテルの1歩外は一面の銀世界だ。一日延期された第3レグは正午から行われる予定になっていた。当初はアルプス越えを予定したらしいが、山道は一面積雪に覆われ、とてもスポーツカーによるラリーが出来る状況ではなかった。オフィシャルは積雪の少ないアルプス・イタリア側で、ダウンヒルバトルを行うと発表した。ここまで残った8台が4組に別れ、2台の同時スタートで麓まで競い合う。組合せは現在トップのマユニネンが8位のカパルーンと、2位のミカエル・シュナイザーが7位のハックマンとといった具合に4位と5位を境目に紙を折り返したような順になっていた。これまでの持ちタイムには関係なく、組合せのバトル勝者が決勝第4レグに進める。ただし勝者のこれまでのトータルタイムは決勝のスタートグリッドに繋がることになっていた。

第3レグと同時に公表された第4レグ、それはモナコ市街地コースであった。カジノで生計を立てるその小さな王国は、年1回開かれるF1グランプリの地として世界的に名を馳せる。幾多のグランプリの中で特別視され、最も権威あるレースとされるモナコ。夢の世界一を決める舞台としてこれ以上相応しい場所はあるまい。発表と同時に観戦チケットはプラチナカードと化した。

モナコへのチケットをめぐり、アキヒコの相手は夢で見た通りサーシャ・ルビンスキーとなった。そしてアンは暴れん坊モンパーニとのバトルだ。アキヒコは気持ちよい朝日を浴びながら、スタッフの待つ広場へとゆっくり歩いていった。

広場は既に活気に満ちていた。各チームのメカニックが忙しそうに歩き回り、エアレンチの音が木霊する。ペガサス・アウトモビリの仮設モーターハウスでは、マルコたちが一昨日のアウトバーンで汚れたスクァーラルをグリースアップし、傷んだ消耗部品を交換していた。

「(おはよう、マルコ。ピカピカだね。)」

アキヒコは傷一つない、宝石のように磨かれたスクァーラルの下に潜り込んだ、細身のイタリア人に声をかける。

「(やあ、アキ。疲れはとれたかい?)」

最近は経営スタッフとして働いているマルコは、油で汚れた手で嬉しそうに顔の汗を拭う。サスペンションの調整に関して天才的な勘を持つ彼には、やはりこの姿がお似合いだ。

「(昨日一日空いて助かった。随分細かいところまで整備出来たよ。雪道に合わせて車高をちょっと高めにして、サスのストロークを気持ち長くしたよ。タイヤをみるかい?スペシャルバージョンだぜ。)」

マルコの指差す場所には無数のピンが打たれたタイヤが積まれていた。スパイクタイヤは今はスタッドレスに置き換わり、一般には使用禁止となっているところが多い。だが絶対的タイムではスパイクの方が信頼できる。

「(ドリアンを思い出すよ、このトゲトゲタイヤは。ところでスタート地点までどうやって車を運ぶ予定なの?)」

除雪もままならない深い雪の中、スタート地点となる山の頂きまで車で向かうのは困難な状況だ。

「(聞いてないかい?あれを見ろよ。)」

広場の隅には巨大な軍用の輸送ヘリコプターが羽を休めている。緑の迷彩カラーは見る者に一種独特の緊張感を抱かせる。

「(トレーラーごと飲み込んでくれそうだろ。あいつで頂上までのショートアドベンチャーを楽しませてくれるらしい。)」

「(ハハ、じゃあ今からいい席を取るために並んどこうかな。)」

ふとアキヒコはヘリの出所が気になった。おそらくスイス空軍だろうか。人命救助や緊急事態でもないこんなイベントに協力するなんて、随分気前のいい軍隊だ。

華やかなラリーに不釣合いの、火薬の匂いが漂うツインローターの真の持ち主。アキヒコはこの時知る由もなかった。

 

バリバリバリ・・雪煙が舞い上がる。大型軍用輸送ヘリは4組目の客を乗せて白一色に染まったアルプスの頂にほど近い駐車上に降り立った。風圧が巻き上げる粉雪で視界は一瞬ゼロになる。台風並みの風にふらついた足取りでペガサス・アウトモビリの面々が地面を踏みしめた。

「さむーい。けど、気持ちいい!スノボを持ってきたくなっちゃうわね。」

すっかり元気を取り戻したかすみが大きく息を吸い込んだ。

「これがアルプスか。雄大だね。どうせならもっとのんびりした気分で訪れたいものだよ。」

これから始まる決戦へ集中を高めつつあるアキヒコが、最終チェックに余念のないライバルたちを見回して言った。

「今日は私にナビを任せて。いいでしょ、かすみさん。」

長い黒髪を風にたなびかせてリエが切り出す。かすみはもちろん承諾するだろう。アキヒコの夢のシーンを考えれば。

「もちろん!リエさんには随分迷惑かけたもの。気晴らしのドライブを楽しんで。」

「おいおい、キミらは何しに来てるんだよ。」

後から長谷川が笑いながら話かけた。

「アキヒコ君、くれぐれも無理するなよ。僕らは正直ここまで来れるなんて思ってもみなかったのだから。吹けば飛んでしまいそうな弱小チームが世界の大メーカーを相手にベストエイトに残れるなんて快挙だよ。ああ社長としてのあなたにご報告しなければなりませんね。今朝までにスクァーラルの予約が15件入っています。発売時期も値段もまだ決めてないのにですよ。中には3億出してもいいから市販1号車をくれなんてのもありました。」

「よしてよ透さん。普通に話してってお願いしたじゃない。うん、その人たちには丁重に挨拶文を送っといてよ。そして15件が百件にも千件にもなるように俺がもっとスクァーラルで夢を見させてあげるさ。」

アキヒコは自分への見えない期待感が力に変わるのを感じていた。

 

 

第3レグ・アルプス

 

“(いよいよドリーム・ラリー準決勝とも言うべき第3ステージのスタートが近付いてまいりました。只今ここまで勝ち残った8台のマシンとドライバーが紹介されております。)”

急あつらえのパラボラ衛星アンテナでアルプスの頂から世界に向けてテレビ電波が流されていた。天候は無風、快晴。放送を邪魔するものは何もない。第1レグと第2レグはテレビ放送がなかった。FIAの公式行事ではない雑誌社主催のままごとラリー。シーズンオフを狙っての開催だけに豪華な顔ぶれは揃ったが、真剣に走るはずもないだろうというのが大方のメディアの見方だった。イギリスの民放ロンドンTVはモーター・スピリット社の要請で簡単な放送機材を持ち込んでいた。後日ダイジェスト番組でも放送するつもりだった彼らは、ニュルに勢揃いしたトップドライバーたちの足掻きにも似た真剣な走りに驚き、アウトバーンの命がけの駆け引きに胸を締め付けられ、視聴者からの要望や罵声にも圧されて急遽ライブに切替えたのだ。

“(・・3番手につけますのは無名の新人アキヒコ・タカノ、自らがオーナーのペガサス・アウトモビリの後押しでF1やWRCの猛者たちを退け、堂々勝ち残ってまいりました。そして4番手も素人と言っていいでしょう。アン・モンゴメリー、何と現役の軍人だそうです。・・)”

実況の声はスタート地点にも流されているが、観客はなく静かなものだ。テレビの向うでは期待に胸を膨らませた何千万、ひょっとしたら何億人もの人々が凝視しているのだろうか。

正午が近付き、1組スタートのアンとモンパーニが駐車場の中央に鼻先を揃えた。ここから出口まではだだっ広い300mの平地。そこから先は道幅の狭い山岳路となる。スタートダッシュで前に出た方が俄然有利だ。後は多少遅かろうがブロックすれば勝利が転がり込む。

ケーニグセグCCV8Sのドライビング・シートで、モンパーニは隣の小娘を睨みつけていた。F1ルーキーとはいえ、アメリカCARTでは無敵のチャンプだった自分が、東洋の青二才に2度も苦汁を飲まされた。その上この女に負けたとあったら築きつつある牙城に穴が開くことになるだろう。今日は自信がある。それに秘密兵器も・・。

アンはモンパーニの焼け付くような視線を感じながらも涼しげな表情だ。軍に入りたての頃はもっと舐めまわすような視線に耐えてきた。荒くれ男たちに少しでも気を緩めたら終わりだ。常に緊張を強いられ、精神力の強さでは右に出るものはないと自負していた。一昨日までは・・そう、雨のアウトバーンで追い詰められ、苛立った自分の気の緩みが、危うく大惨事を起こすところだった。アキヒコはあの状況で的確な判断を下し、自分の巻いた災害の種を消し去ったのだ。完敗だ。だがラリーはまだ終わったわけではない。最強マシン、ブガッティ・ベイロンの性能をフルに引き出せば・・。

 

正午とともに雪煙を上げて2台はスタートを切った。加速に勝るベイロンがすぐに車半分リードし、ケーニグセグは出口で道を譲る形になった。

『決まったな・・』

アンの勝利を確信し、アキヒコは10分後の自分のスタートに集中するためにスクァーラルのコクピットに腰を沈めた。

 

見慣れた計器類をぼんやりと見やりながら、頭の中に曲がりくねったコースを描く。これも特殊能力なのだろう、一度見た映像を瞬時に刻み込む記憶力。

気が付くと助手席にリエがいた。

「邪魔しちゃ悪いと思って、黙って座ってしまったわ。気分を害したらごめんなさい。」

「今更他人行儀はよせよ。」

アキヒコがニコリと笑う。恋人ではない、だが限りなく恋人に近い複雑な存在。

“(おおっ!暴れん坊モンパーニが、何とブガッティを抜いています。この狭くスリッピーな雪道で追い越しがあるとは予想だにしませんでした。さすがドリーム・ラリー、目が離せません。これでモンパーニが断然優位に立ちました。ミス・モンゴメリー、個人的には応援したい謎めいた美女も残念ながらここまでか。)”

スピーカーからの声にアキヒコは束の間の甘い気分を捨て去る。

『追越しだって、この道で?!』

普通に考えたらそんなこと有り得ない。アンが何処かでミスったのか、それとも・・・

目の前でオフィシャルが手を上げる。スタート1分前の合図だ。アキヒコは両手で頬を叩き、気合を入れる。アンは気にかかる。だが心配を振り切り、自分のレースに集中しなければならない。

 

スタート地点に並んだペガサス・スクァーラルとパガーニ・ゾンタ。

アキヒコはゾンタの運転席に顔を向けた。サーシャ・ルビンスキーがじっとこちらを見ている。アキヒコと視線が合うとニコリと笑って会釈した。何も知らなければ虜になってしまうかもしれない。北欧系の透き通るような肌と栗色の巻き毛、エメラルドグリーンの瞳からは草原の爽やかな風が吹いてきそうだ。その向うには瓜二つのマーシャがナビゲーターを務める。アキヒコは無視するように視線を正面に戻した。

グリーンフラッグが振り下ろされた。2台は同時にクラッチをミートする。アキヒコはエンジン回転を低めに抑え、ホイールスピンを防いだ。タイヤに打たれたピンが弾け跳んだら意味がない。アイスバーンに近い路面に、パワーを伝える命綱なのだ。

サーシャが1歩リードする。それはアキヒコが意図的に許したともいえた。この双子の姉妹がブラッククロスと繋がりがあることは明らかだ。麓まで何事もなく進むとは思えない。前後に気を分散するよりは、相手の後ろから観察することを選んだのだ。

「余裕ね、譲るなんて。」

リエがアキヒコの落ち着いた目から察して言った。

「余裕があるわけじゃないさ。この狭いコースでどうやって抜くかをこれから考えなくちゃならない。ただ、それよりもあいつらの前を走ることに不安を感じたんだ。今日は君の力を借りることになるかもしれないな。」

「ふふ、嬉しいわ。あなたからそんな言葉を聞けるなんて。」

リエは二人っきりの空間で、アキヒコからほとばしる気の輝きを浴びる幸せを感じていた。

 

「大丈夫かしら、前に出られちゃったわよ?」

トレーラーのモニターを見ながらかすみが心配顔で言った。

「僕は心配するだけ損する気がするな。彼は不可能を可能にする男さ。今日はどんなパフォーマンスを見せてくれるかワクワクするよ。」

長谷川が画面を食い入るように見つめながら答えた。本心からそう思う。マルコも三隅も、ペガサス・アウトモビリの面々も、誰もが期待に満ちた表情だ。アキヒコが醸し出すカリスマ性に自然に引き込まれ、熱い血がたぎる。

『すごい、火柱みたい。』

かすみはまわりのみんなから青いオーラ滲み出て、集まり、巨大な炎となって天空に舞い上がるのを見た。

 

「速いな。」

アキヒコはサーシャのドライビングに感心した。この滑りやすい路面を意図的にドリフトさせて、きれいに最速ラインに乗せていく。

スタートして10分はたっただろうか。何もしてこない姉妹にアキヒコは警戒心を緩めた。黒服の男の話から察するに、サーシャとマーシャはアキヒコの常人離れしたドライビングが薬の力ではないことを知っている。ブラッククロスがそれを知れば何かしてきて不思議はない。彼らは幼いアキヒコを幽閉し、抑え切れなくなり、力を封じ込めたのだ。黒服の男の襲撃はブラッククロスの意志ではない。力の復活を知っているのなら、何故何もしてこないのだろう・・・。

今自分に課せられた使命はこの相手に勝つことだ。アキヒコはそろそろ勝負を仕掛けることを決意した。普通なら先行するサーシャはインを閉めたブロックラインをとるはず。それをしないのはアキヒコがまだ抜く気のないのを見透かしているようだ。あるいはわざと隙を見せて誘っているのか・・。

右周りのヘアピンでアキヒコは均衡を破った。ブレーキングを遅らせてインに鼻先を突っ込もうとする。サーシャはそれを予期したかのようにスッとラインを変える。道を塞がれたスクァーラルがタイヤをロックさせてふらつく。その走りにアキヒコは自分と共通の匂いを感じた。

「ちょっとやっかいな相手らしいや。普通じゃないとは思ってたけど、どうやらこちらの動きを読めるらしい。俺と同じ予知能力でも持ってるのかな。」

アキヒコはパガーニ・ゾンタの5m後で態勢を立て直した。

「違うと思う。彼女たち一昨日はかすみさんの心を支配しかけたわ。心に入り込めるって事は相手の考えを読めるということでしょ?あなたのお父さんみたいに。だからこれから何が起こるか分かるんじゃなくて、人が何を起こすかが分かるのよ。」

リエは真中で分けた長い黒髪を手で払いながら言った。

『お父さんか・・』

アキヒコの脳裏に米倉が浮かぶ。あれほど冷たく感じた表情が、イメージの中では笑っている。

「だったら何とかなるかもしれないな。自分を騙せばいいんだ。ちょっと恐いかもしれないけど、俺を信じてくれ。」

アキヒコはリエを横目で優しく見た。愛しい女、運命の悪戯がなければずっと恋人だったかもしれない。

 

アキヒコはサーシャをアウトから抜き去るイメージを頭に描く。そしてそれを実践に移そうとした。スクァーラルをドリフトさせ、アウト側のスペースに狙いをつける。サーシャはそれを予期したかのようにパガーニ・ゾンタをドリフトさせてアウト側に寄せる。2台は接触しそうになりながら並んでコーナーを抜ける。イン側で車体半分リードしたサーシャが前を抑える。

次のコーナーも、その次のコーナーも、アキヒコは同じようにアウトから攻め立てた。まるで裏焼きのフィルムでも見るように、左右のコーナーで同じシーンが繰り返される。

左コーナー、イン側が崖に直結し、ガードレール代わりの低い石壁がこの一角だけなくなっている。危険を示す道路標示がくどいほど現われる。アキヒコは頭に再びアウトから攻めるイメージを浮かべた。サーシャはポッカリ口を開けた崖下を本能的に避けて、早めにアウトへ車体を振る。アキヒコのイメージに従って・・。

アキヒコはわざとハンドリングをミスった。テールを流しすぎたスクァーラルはバランスを崩して石壁の切れ目に直進する。崖下への死のダイブ・・。リエが顔を手で覆う。アキヒコは何も考えずに本能の危機回避能力に任せた。左足がブレーキを小刻みに踏み、右足がアクセルを煽る。左前輪が掴むものを失った時、スクァーラルはドリフトバランスを取り戻した。宙に浮いた前輪に荷重をかけたらそのまま崖下だ。アキヒコは恐怖心を捻じ伏せて右足に力を込めた。

 

 

光と影

 

サーシャが怒り狂ったように後ろから攻め立てる。アキヒコは邪魔者のいなくなった山道を意のままにドリフトで泳ぐ。リエの心配そうな顔、バックミラーにはゾンタの助手席に座るマーシャが見える。夢のシーンがアキヒコの目前に再現されていた。サーシャがどう足掻こうが最早アキヒコを抜くことは出来ないだろう。このまま麓まで路面に神経を集中させるだけだ。

突如気分が悪くなった。重苦しい暗闇が心を襲う。去年兄ユウサクやリエに対して抱いた嫉妬心や怒りが何処からともなく蘇る。吐き気を抑えながらリエを垣間見ると、苦悶の表情だ。

《これよ・・かすみさんを襲った魔物だわ。口を開けば必ずあなたへの責めの言葉が出るわ。あなたも同じ気分でしょ?》

リエのテレパシーが頭に響く。アキヒコは首を縦に振った。ハンドリングがふらつき、サーシャの飛込みをかろうじてブロックする。

《一昨日よりはるかに強いのは、彼女たち二人分の力なのだわ。頭がどうにかなりそう。このまま続いたらもちそうにない・・どうしよう・・》

リエの顔色が青白くなり、額に脂汗が滲む。普段は綺麗な青色のオーラが赤味を帯びている。あの箱根で見た時のように。

「リ・・エ、欲望を消すんだ・・クソッ!」

アキヒコはこの重苦しさの正体をおぼろげながら理解した。人の心に潜む負の要素、恨み、辛み、妬みを引き出し、増幅する。それに身を任せれば心は怒りと破壊欲に支配され、理性を失った野獣と化すのだろう。抗う苦しさに普通の人間はおそらく耐えられまい。アキヒコは自分に潜む欲望を打ち消し、心を無にしていく。ユウサクに抱いた妬みは尊敬に、リエの裏切りは自分への愛の裏返しだったのだ。金や地位や名誉に心を奪われるほど社会に揉まれてはいない。このレースに勝ちたい気持ちも自分の運命を知りたいがためだけだ。賞金やトロフィーは欲しい奴が持って行けばいい・・

アキヒコを覆った重苦しさがスゥッと引いた。リエもじっと目を閉じて瞑想に耽る表情だ。その口元には安らかな笑みが戻った。

だが安心は出来ない。人の本当の弱さは別のところにある。

『来たな・・』

アキヒコはギアをセカンドに固定し、空けた左手でリエを抱き寄せる。ズンッと心に杭を打たれる痛み。リエの去る後姿、ユウサクのルーフが宙を舞う姿、心の奥に閉じ込めた深い悲しみがゴボゴボと音を立てて噴出し、涙腺が緩む。リエの肩も悲しみに震えている。両手で覆ったその顔は涙で濡れそぼっているだろう。

背筋に悪寒が走り、追い討ちをかけるように迫り来る恐怖。黒頭巾の死神が次々と骸骨の顔をのぞかせながら自分に鎌を振り下ろす。人が神仏にすがる気持ちが嫌と言うほど分かる。暗闇の向うから誘いの手が差し伸べられる。あたかも楽になれるかのような錯覚が心に広がる。

 

アキヒコはリエの肩をギュっと握り締めると、暗闇の向うの手を蹴散らした。優しそうだった手は、見る見る爪の伸びた節くれだったものに変わり、口の裂けた目の吊り上った顔がチラリと見えて消えた。再び死神の舞が繰り返される。アキヒコはオーラを凝集させると、自分たちを覆う黒い靄をはじき飛ばそうとした。靄は体から離れ、心の不安は一蹴されたが、伸ばされたゴムが縮むように再び襲いかかる。体の周りに出来たオーラのバリアがかろうじて食い止める。

集中を削がれたドライビングほど難しいものはない。アキヒコは手足に染み付いた条件反射で車をコントロールするが、安定を欠き、ペースが落ちる一方だ。5分は経ったろうか、アキヒコのオーラが次第に弱り、黒い靄の恐怖心がチクチクと針のように突き刺さりだした。

「アキヒコ・・このままじゃあなたが危ないわ。私のオーラを使って。そして反撃に出ないと・・」

アキヒコは首を横に振る。その結果リエがどうなるかは明らかだ。それに反撃といっても全世界の人々が注目する中、反物質の黒球を使うわけにもいくまい。

《早く、躊躇している余裕はないわ・・》

リエのテレパシーが頭に響く。

 

“(凄いデッドヒートです。アキヒコ・タカノのペガサス・スクァーラルとサーシャ・ルビンスキーのパガーニ・ゾンタ。タカノがまさに神業のパッシングを見せたかと思えば、ルビンスキーも譲らず、その後テールツーノーズのチェイスが続きます。一時たりとも目が離せません。)”

ペガサス・アウトモビリの面々は手をギュッと握り締めてモニターを見つめ続ける。期待通りアキヒコは見せてくれた。見事な追い越し劇を。だがその後が今までと違う。ペースを上げて引き離すどころか、どう見てもアップアップの状態。いつ抜かれてもおかしくなさそうだ。

「(何かトラブルかな、ペースが悪いぜ。)」

「(だったら無線で何か言ってくるんじゃないか?)」

「(無線も故障しているのかも。)」

スタッフに動揺が走る。かすみが長谷川をちらりと見た。長谷川はその意味を理解して、スタッフにイタリア語で檄を飛ばす。

「(僕らがシュンとしてどうする。社長が孤軍奮闘しているんだ。声援を送ろう!)」

「(アキー!頑張れ!)」

マルコが声を絞り出す。

「(アキ、アキ、アキ!アキ!!)」

大合唱が湧き起こり、空に木霊する。巨大な青いオーラの火柱を纏って・・

 

アキヒコは声援を聞いた気がした。無意識に弱まったオーラを細く絞り、アンテナのように上空に突き出す。バリアのなくなった心に恐怖の暗雲が容赦なく襲いかかる。ボロボロにほころび、支えを失いかけた精神に誘いの魔の手が四方八方から忍び寄る。

アンテナが何かをキャッチした。数秒後、青いオーラの棚引きがアンテナに吸い寄せられるように巻きついた。次の瞬間オーラの集合体が竜巻のように押し寄せる。アンテナがしなり、オーラを残さず下方のアキヒコの体へと導く。

アキヒコの体に急激に力が漲った。リエはアキヒコの胸や腕が一回り膨れ上がったように見え、目を擦る。溢れるオーラは二人を包み、グイグイと黒い靄を外側へ広げる。靄の網はついに屈し、破れ目が広がって一本の束に戻され、後方のパガーニ・ゾンタの元へジリジリと押し戻された。そして青いオーラの光がゾンタをも包み込む。

 

もうアキヒコを阻むものはなくなった。ゾンタとの差はあっという間に開き、バックミラーに映らなくなった。滑る雪道を楽しむように、左足ブレーキのコーナーリングを満喫して、ペガサス・スクァーラルはゴールラインを越えた。

 

 

 

 

[第二部(終)へ続く]