モナコの賑わいの影で

 

モナコ公国のカジノホテル。決勝レグを前にしたパーティーは異様な盛り上がりを見せていた。イギリスの雑誌社であるモーター・スピリットが提唱し、世界有数の保険会社タンデオンの協賛で実現したドリーム・ラリーは今、全世界で最も注目を集めるニュースであった。決勝に残った4人のドライバーたちは、まるでハリウッドの映画スターのようにフラッシュの嵐に包まれ、四方八方から向けられるマイクのフェンスに行く手を遮られていた。ホテルの外には会場に入れない観衆がごったがえし、遅れてホテルに向かうロールスロイスやフェラーリのクラクションが絶え間なく鳴り響いていた。

タキシードに身を包んだアキヒコはようやくインタビューから解放され、こよなくレースを愛する王を始めとした特権階級との握手の余韻を掌に残しつつ、ペガサス・アウトモビリの面々が待つ一角に辿りついた。ドレス姿のかすみとリエ、三隅と長谷川の緊張した表情、アキヒコはふと箱根の北山の別荘を思い起こした。遥か遠い昔の出来事、体内時計は5ヶ月の日々を10年にも感じさせていた。

 

ドアが小さくノックされ、サングラスをかけたミカエル・シュナイザーが滑り込むように入って来た。

「(さすが皇帝。最後のご登場ね。)」

アンが皮肉交じりに声をかける。

「(そう言うなよ、プレスを巻くのは大変なんだ。)」

「(自分だけがスターって口振じゃないか。気に入らないな。)」

貴公子ヤン・マユニネンが口を尖らす。

「(よせよ、喧嘩するために集まったわけじゃないだろ?)」

アキヒコが仲介に入る。4人とも正装姿だ。決勝への切符を手にした選ばれし者たち。

「(ああ、そうだな。戦いの火花はロードで散らせばいい。結局残ったのはこの4人というわけか。まあ、半ば予想通りだ。)」

シュナイザーが威圧感たっぷりの鋭い眼光で見渡す。F1の王座に4度も輝いた、自他ともに認める史上最高のドライバー。明日の結果は戦わずして明らかとでも言いたげな物腰だ。

「(まあ、僕と皇帝は別として、キミらは良くやったよ。特にミス・アン、一度抜かれたあの暴れん坊モンパーニを再び刺し返すとはね。F1界のお偉方も対処に大変だろう。スーパーライセンスの威光が丸潰れだ。)」

シュナイザーに並々ならぬ敵愾心を燃やすマユニネンも負けてはいない。

「(まあ、誰が一番かは明日になりゃ分かるんだからいいじゃないか。それより、今夜無理に集まってもらったのはあたしたち4人のもう一つの共通点についてだよ。何かは言わなくたって分かるだろ?)」

 アンは続きをどうするかアキヒコの方をチラリ見た。アキヒコはどうぞという手振りをする。

 

 「(あたしとアキヒコはもう既にお互い素性を紹介済みなのさ。あんたたちも何か持ってるんだろ?普通と違う力をさ。)」

 アンのいきなりの問いかけにシュナイザーとマユニネンはきょとんとする。

 「(あーん、じれったい。いいよ、見ててごらん。)」

 アンはコップの水を小さな竜巻に変えて、部屋を横断させた。目配せを受けたアキヒコも小さなブラックホールをお披露目する。

 「(何だよ、僕だけ特別ってわけじゃなかったのかよ。)」

二人の特殊能力を見たマユニネンは部屋の隅にあるコートハンガーを獲物に選んだ。

「(大事なコートを焦がしたくなければどかしときなよ。)」

裸になった銅製の彫刻物めがけ、ピシャリという音とともに鋭い稲妻が走った。周囲に害を及ぼすほど強くはなかったが、突然の閃光に残りの3人は肝を冷やした。

「(ここまでくりゃ当然あんたも何か出来るんだろ?)」

腕組みしたシュナイザーにアンが聞く。

「(出来なくはないが、君たちが信じるかどうか・・)」

シュナイザーは惚けた口調で答えた。

「(もったいぶらずにやってみせなよ、自分だけ高みの見物は嫌われるぜ。)」

マユニネンがけしかける。自分の秘密を見せた彼は、その時点でアンやアキヒコに仲間意識を抱いていた。

「(じゃあいいさ。これから起こることは自然現象じゃないからな。)」

シュナイザーはそう言うと、じっと目を閉じた。

10秒ほどすると部屋がガタガタ軋みだした。この辺りには珍しい突然の地震に、緊張が漲る。シュナイザーは身動ぎもせず、落ち着き払って目を閉じる。

「(まっまさか、この地震は!)」

マユニネンの問いかけにシュナイザーはニヤリと口元を緩めた。

 

 

玄蘒武炫

 

 「(ゲキノブゲン、時折夢に現われるもう一人の私はそう呼ばれていた。)」

 シュナイザーはそう切り出すと、自分の過去を話し出した。

 「(私はレースをやるべくして生まれた男だ。幼い頃から父親にカートを与えられ、何の躊躇いもなくそれをおもちゃ代わりに遊んだ。まるで本能に駆り立てられるように、他のものなど目に入らなかったよ。自分でも不思議だった。いかに速く走るかだけに没頭し、体がカートの一部であるかのような錯覚さえ覚えた。)」

生まれながらの英才教育、付け焼刃の自分とは土台が違うのかとアキヒコは軽く溜息をついた。

「(私の戦歴など今更語っても意味がないだろう。だが一見華やかな暮らしの裏で、私は常に誰にも相談できない悩みを抱えていた。小さな頃から私には友達などいなかった。周りは全てライバルだ。だからみんな自分と同じものだとずっと思っていた。オーラと呼ばれる光が見えたりすることだ。唯一弟は身近な存在だったが、私は常に頼られる側の人間だ。弟にはオーラが見えないということを知ったのは随分後になってのことだよ。成長するにつれ、私は自分のオーラが周囲の人間と違うことに気が付いた。レースを続け、様々な人に出会ったが、誰一人として自分と同じ色の光を持つものがいないことを知った。最初は自分が病気なのではないかと思った。だが体には全く異常はない。自分が何か特別な存在だと悟るのにそう時間はかからなかったよ。)」

「(実際まわりにチヤホヤされる特別な存在だったしね。)」

マユニネンが茶化す。

「(まあもう少し聞けよ。やっかいだったのは感情の昂ぶりだ。興奮して怒ると必ずさっきのように地震が起きるのだ。レースでも私生活でも、私は常に感情を抑えて氷の心を作り上げていった。ターミネーターと人が呼ぶのは知っていたが仕方ない。トロフィーや富が増えても私は笑うことが出来なかった。最近になってようやく力をコントロールする術を知った。ゲキノブゲンが夢でそのコツを教えてくれたのだ。嬉しかったさ。やっと感情を持つ人間に戻れたわけだからな。)」

 シュナイザーはニコリと笑った。レース界のエリート街道を突き進み、世界の頂点に君臨してきただけに回りには無数の目があった。一時たりとも気が抜けない中、自分を押さえつけるのは並大抵のことではなかっただろう。だが、孤独な過去を持つのはシュナイザーだけではない。

 「夢に住むゲキノブゲンの活動が活発になったのは自分と同じ黄金の気を持つ人間に初めて会った時からだ。そう、キミだよアキヒコ。彗星のごとく私の前に現われ、鮮烈な記憶を私に残して消えた幻のライバル。ドリーム・ラリーへの出場を最終的に決めたのはゲキノブゲンがキミに会えると言ったからさ。」

 「(ハハハ、じゃあ感情を持たないターミネーターも並みの人間になったってことだね。ターミネーター相手では厳しい勝負だったけど人間相手なら勝てそうな気もするよ。)」

マユニネンはライバル視するシュナイザーの目が自分ではなく無名の東洋人に向けられていることが無性に腹立たしかった。プライドがズタズタされた気がする。

「(じゃあ僕の話をしてやろう。)」

 

 

白牙虎鉧

 

 「(僕の故郷は氷の世界さ。年の半分は一面の銀世界。遊びと言えば雪や氷のスポーツ。物心ついた頃にはスキーでもスケートでも僕に敵う奴はいなかった。周りの子供たちは僕を英雄視し、崇めてくれた。実はそれが恐れからだと気付いたのは偶然彼らの陰口を聞いた時さ。僕の機嫌を損ねると何故か体に強烈な痛みが走る。まるで感電したように。現実を知った僕は次第に孤立し、周りから一人一人去っていった。ポッカリ空いた寂しさは滑降やジャンプのスリルでも埋まらなかった。そんな時出会ったのがラリーさ。スピードに加えてサウンドとバイブレーションに囲まれた陶酔の世界。僕はすぐに夢中になり、気が付けば北欧の貴公子と呼ばれる存在になっていた。でもラリーはその走りとは裏腹に地味な扱いだ。WRCといえどもF1の華やかさには足元にも及ばない。ミカエル・シュナイザーの名は子供でも知っているが、ヤン・マユニネンは過激なセダンを愛するマニアックな親父たちの慰み者さ。だが、実力は僕が世界で一番だ。ドリーム・ラリーはそれを証明するうってつけの舞台さ。たとえあいつの夢での耳打ちが無くったって参加していただろう。クガノコモ、奴は何者だ?自分に重なる夢の主・・・)」

 マユニネンは頭を抱えてブロンドの髪をクシャクシャと掻く。

 「(何となく共通点が見えてきたじゃないかい?黄金のオーラ、そして夢で導くもう一人の自分。)」

 アンがタバコに火を付けながら言った。

 「(アキヒコ、あんた何か知ってるんだろ?)」

 3人の視線がアキヒコに向く。アキヒコは便箋を取るとサラサラと文字を書いた。

 (蒼龍・蒼鱗龍娯 玄武・玄蘒武炫 白虎・白牙虎鉧 朱雀・朱羽煌雀)

 「(読めないだろけど、これがもう一人の俺たちの名前さ。東洋の漢字で順にサリンルコウ、ゲキノブゲン、クガノコモ、そして俺の名であるシュバノコウシと読むんだ。名前の前に書いたソウリュウ・ゲンブ・ビャッコ・スザクは四神獣と呼ばれる神の化身の使い。俺たちは何かの使命を帯びてこの世に生を受けたのだと思う。それが何かはまだ分からないけどね。)」

 アキヒコは自分の知り得る情報を3人に話した。

 「(キミたちの両親は本当の親かい?アンは違うと言っていた。)」

 シュナイザーとマユニネンは互いの顔を見合す。

 「(そんな疑い持ったこともないが、確かにそうかと言われると証拠は難しいな。)」

 シュナイザーが答える。

 「(おそらくキミたちを神の使いと崇める種族がそれぞれあるはずだ。そして神宝を保管していることだろう。俺はそれらを集める必要がある。そのためにこのラリーに参加したんだ。)」

 アキヒコは単刀直入に切り出した。

 

 「(ハハ、宝と名のつく限りただの代物じゃないんだろう?その在りかなんて知らないし、たとえ知っていたとしてもそんな値打ち物をくれと言われて渡す馬鹿がいるかい?)」

 マユニネンが笑い出す。

 「(もちろんそんなこと分かってるさ。明日のレースにそれを賭けよう。キミらから見たら素人の俺が勝てば考えてくれてもいいだろう?)」

 「(いまいちだな。キミは必死になるだろうが、僕は得体の知れない宝には本気になれない。まあ、ちょうどいいハンデかもしれないけどね。)」

 「(僕は今現在3億ドルの資産を持っている。勝者にはそれを進呈してもいいよ。)」

 アキヒコは北山の残したフューチャークリエイト財団を切り札に出した。

 「(3億ドルだって!本気かよ。僕は受けたぞ。今更気が変わったなんて言うなよ。)」

 マユニネンは目を輝かせて声を弾ませる。

 「(勝ち目の殆どない勝負にそんな大金を投げ出していいのか?)」

 シュナイザーが怪訝な顔をする。

 「(俺は勝つさ、皇帝。)」

 アキヒコはシュナイザーの鋭い眼光を真っ向から受ける。

 「(いいだろう。真剣勝負だ。)」

 

 「(あたしはもうアキヒコには負けてる。神宝とやらが手に入ればあげるよ。)」

 アンがやや顔を赤らめて言った。

「(ところで今日の相手、手強く感じなかった?)」

 自分をあっさりと抜いていったモンパーニが頭から離れない。F1の猛者とはいえ、まるで自分の動きを見切ったかのような思い切りの良さ。最終的に勝てたのはモンパーニのマシントラブルのお蔭だ。

 「(ああ、それ同感。カパルーンがあんなに僕に追いすがれるわけない。不思議に思って問い詰めたら何か薬を飲んだらしいや。)」

 マユニネンが相槌を打つ。

 「(タンデオンの薬ね。みんなに勧めてるみたいだものね。でもあんなもの飲んじゃだめよ。何があるか分かりゃしない。)」

 「(うん。どうも脳を活性化する代償として何かの支配を受けやすくなるらしい。)」

 アキヒコはかすみやリエに起こった異変を思い起こす。

 「(ハハ、このメンバーには無用の助言だな。)」

 シュナイザーが笑い飛ばした。

下を向いたマユニネンの表情が強張ったのに3人は気付かなかった。

 

 

ルシフェルであったもの

 

心地良い波長の電波に身を任せ、かつてルシフェルであった意識は当ても無く漂っていた。インターネットを通じて世界中のコンピューターを旅し、様々な知識と情報を手にした。だが、知れば知るほど現代の人類の知的レベルが自分の欲するものでないことに苛立ちを覚えてきた。

自分はどうしてこの世に再生出来たのだろう。北山夫妻の子として生まれ、幸せな幼少時代を過ごした。病弱な体の代償としての特殊能力に気付かなければ何も知らないまま北山の子として人生を全うしていたことだろう。だが気付いてしまった。そして高野アキヒコに触れてしまった。まさかそれが自分の宿敵の生まれ変わりとは知らずに。

アキヒコの記憶を探るうちにあの感覚を浴びてしまった。紛れも無い朱羽煌雀の感覚。それが瞬時に5000年の昔の記憶を呼び覚ましたのだ。自分を時空の狭間に幽閉した朱羽煌雀。自分はある大きな意識の一部分であって、その全てを知るにはあまりにも小さすぎる。だが微かな記憶にかつて地球の支配者であった自分がいる。栄華を誇った高度な文明がフラッシュバックする。アキヒコの体を出て、心地良い電波に揺られて、気が付いたら巨大な神経網のように張り巡らされたインターネットの中にいた。

時折行き交う負のエネルギーに満ちた情報は何よりの栄養源だ。憎しみや妬みや中傷は常に何処かに存在した。そのうちに中傷を題材としたサイトに出会い、そこにアクセスする人物の負のエネルギーを引き出しては喰らった。パソコンの前の人間は理性を麻痺させられ、凶暴な野獣と化し夢遊病患者のように狩に出て行った。

やがてルシフェルの意識はどうしても入り込めない一角に行き着いた。そこに入るためには自分を8ビットのパケットに完全に分解しなければならない。さらにその先には2ビットに切断するゲートが見える。言うなれば体を細胞単位に分断し、さらにアミノ酸に砕いて初めて通行が許される恐怖の関門だ。門の向うで再び正確に組み上げられる保証は何処にもない。ペンタゴンのコンピューターでさえ、パケットに自分を引っ掛けることですんなりと入り込むことができた。この異常な関所を持つ機関こそタンデオンであった。

ルシフェルの意識はそこに懐かしい何かを感じた。入りたい、だが入ったが最後自分は消滅するかもしれない。どうしようもないジレンマを抱え、ただ情報の波間に漂う。

 

 

第4レグ・モナコ

 

身を刺す寒さにコートの襟を立てて、アキヒコはモンテカルロのコースを歩いていた。突貫工事で公道がガードレールのフェンスで仕切られ、そこには伝統のグランプリコースが出現していた。幾多の伝説と名勝負を生み、F1の中でも特別な存在。そこを制する者はモナコマイスターの称号を与えられた。かつてのグラハム・ヒル、そして不世出の天才アイルトン・セナ。今その称号は次なるF1の覇者へ受け渡されようとしている。皇帝ミカエル・シュナイザーへ。

コースは狭く、とてもレースの舞台とは思えない。ラインを数センチはずせばガードレールの手厚い歓迎を受ける。ここで追い越しをかけようとは普通の神経ではとうてい思わないだろう。だが今日、アキヒコはその不可能に挑まなければならなかった。それも次代のモナコマイスターとモンスターラリーチャンプを相手にだ。各コーナーに埋もれた見えないポイントを入念に探し、しゃがみ込んでは路面の細かな凹凸まで記憶していく。

 

正午の街並みはカーニバルの様相を呈していた。冬だと言うのに人込みで熱気に溢れ、若者はTシャツ1枚でこれから始まるイベントの特等席を求めて東京の通勤電車を思わせる混雑を掻き分けて行く。富めるものはホテルの部屋から下界の喧騒を寛ぎながら楽しんでいる。

ガードレールを挟んだ内側には対照的に人っ子一人いなかった。唯一仮設パドックの前は人が溢れている。腕章を付けたマスコミやチームスタッフ、それに特別パスを与えられた関係者が、2度と実現しないであろう夢の決戦を間近で見つめる幸せを享受していた。

 

仮設ピットで最後の点検を続けるペガサス・スクァーラルの傍らで、アキヒコは折畳みの椅子に腰掛けて小休止していた。さっきまで自分をバックアップする様々な人々が訪れ、激励してくれた。ロベルト・ビオンディやクニレボヤン・ルベンソが肩を叩き、高野良子が以前と変わりなく優しく手を握り締めた。五木田は事務的に財団の良好な運営状況を告げながら、何度も何度も肩を震わせながらお辞儀をした。ミッチは初めての海外に興奮して、いつも以上の早口で走り屋の間でのアキヒコの神格化を捲し立てた。

アキヒコはふと普通とは違う気配を感じ、自分に近付く小さな影に視線を移した。この場に不釣合いな少女に一瞬首を傾げたが、すぐに記憶が呼び起こされた。朱雀の祠の長老、スカートにコートを羽織ったその姿は全く別人。あどけない女の子だ。その後に付き添う逞しい男を見上げて、アキヒコは思わず声を上げた。

「ドルフィン、ブルー・ドルフィンじゃないか!」

「その呼び名は久しぶりに聞く気がするぜ。」

二人はがっしりと握手する。

「きゃあドルフィン!」

かすみが二人に駆け寄る。

「懐かしいな、伊豆以来か。あれからどうしてたんだい?それに今日はどうして・・」

アキヒコの問に堤は長老を手で示しながら答える。

「こちらのお嬢様のエスコートを仰せつかってね。俺はアキヒコ、あんたにはどう足掻いても敵わないことをあの伊豆で身を持って感じたよ。車で身を立てる夢に見切りをつけ、ホストで小銭を稼いで足元を固めたら自分のこれからを考えようなんて思ってた矢先にあの人にあったんだ。米倉さん、不思議な人だぜ。最初はあんたのことを調査するために近付いたらしいが、妙に俺を気に入ってくれてね。何か俺に隠れた素質があるとか言い出して強引に弟子にされちまったよ。怪しいオヤジだと思ったけど今は感謝してるぜ。目標が見つかったからな。俺は修行を積んで広沢老師みたいな陰陽師になるぜ。」

「ククッ!」

「何だよ、何が可笑しい。」

「いや、あんたの口から陰陽師なんて言葉が出るとは意外でさ。湾岸の最速ランナーのイメージとは結び付かなくて。」

言葉とは裏腹にアキヒコは嬉しかった。心の深い部分で認め合った友とこうして再会し、また自分と繋がりが出来つつある。

「俺はマジだぜ。今はオーラぐらい見えるようになったんだ。あんたのオーラがそんなに綺麗だなんてあらためて驚いたよ。敵わねえわけだよな。」

堤は白い歯を見せてニコリと笑った。

 

「コホン、そろそろ宜しいかしら?」

脇にたたずんだ長老が声をかける。

「おっといけねえ、俺はボディガードの分際だったぜ。失礼しました立花様。」

「立花?」

アキヒコがやや離れた場所のリエを見る。

「私の名前です。立花フミカ。朱雀の祠の者はみな立花を名乗ります。」

『ああそういえば・・』

アキヒコはリエの言葉を思い起こす。

「今日は陰陽師のただならぬ要請でここに来ました。いつ何時もあなたの側に控えるようにと。」

広沢宗陰の抱く危機感は相当なものらしい。

「うん。あなたの仰せの通り、今日俺は世界一になってみせる。一筋縄ではいかない相手だけどね。パドックでゆっくり見ててくれよ。」

アキヒコのオーラが一段と輝きを増す。今や抑えても抑えても体の節々から黄金色の光が噴出してくる。オーラを吸収する術を得て、アキヒコの生体エネルギーは数十倍に増幅していた。

フミカはニッコリと笑うと、アキヒコに会釈してパドックに向かった。

「ずいぶん頼もしくなったな。半年前のあんたとは別人だよ。」

堤も片手を上げて、フミカに付き添った。

「何か嬉しいわね。楽しかったあの頃に戻った気がする。ドルフィンにあなたに、そしてバード・・」

かすみはハッとして口を噤んだ。ミッドナイト・バードこと池谷ユウサクは決して現われることはないのだ。

「ああ、兄貴もそこに立っている気がするよ。」

ユウサクは本当に側にいる気がする。いつも自分を見守って。自分を気遣うかすみの肩をそっと抱き寄せ、アキヒコは優しく髪を撫でた。愛しさが込み上げる。

「いよいよ今日で終わるのね、勝っても負けても終わったらあなたとゆっくり過ごしたい。」

アキヒコの肩に頭を預けてかすみが呟く。

「うん、このレースが終わったら話したいことがあるんだ。」

アキヒコはここ数日間考え、心に決めたことがあった。

「なあに?今はだめなの?」

「今言ったらレースに集中できなくなりそうだから・・」

「分かったわ、楽しみにしてる。今日はスタンドで観戦するね。ピットやパドックはお客さんがいっぱいだから。」

かすみはアキヒコの唇に軽くキスをして、手を振ってスタンドに向かった。アキヒコは微笑を浮かべながら、その後姿を見送った。

 

午後1時、4台の車がスターティング・グリッドについた。

圧倒的に有利な先頭のポジションには銀色のポルシェ996ターボ、貴公子ヤン・マユニネン。1300馬力のパワーと4駆システムの恩恵で稼いだ吹雪のアウトバーンの貯金がものをいっていた。

続いて大本命と言われた黒のフェラーリ360モデナ、皇帝ミカエル・シュナイザー。ツインターボで武装した1100馬力がその低いシルエットに不気味な精悍さを与えている。

3番手にアキヒコの乗るペガサス・スクァーラル。ライバルたちに数値的に見劣りする750馬力だが、小さく軽い車体には十分だ。真紅のボディが陽光に一際映える。

4番手は青いブガッティ・ベイロン。参加車両中最高の1500馬力を手中に収めたアン・モンゴメリーが隙あらば出ようとチャンスを窺う。

 

F1GPさながらのフォーメーションラップをゆっくりと回る。この第4レグはもはやラリーとは呼べない。シグナルブルーとともに一斉にスタートし、78ラップ後最初にゴールラインを通過した者が勝者というスプリントレースだ。もちろん搭乗するのはドライバーのみ。これまでのタイム差はグリッドというハンデに置き換えられた。

ジグザグ走行して半分スリックのレーシングタイヤを暖める。レース用タイヤは一般のタイヤと違い、トレッドと呼ばれる表面のゴムを路面との摩擦熱で溶かすことでグリップを得る。その喰い付きは絶大だが、摩耗も速く、F1用の柔らかいコンパウンドでは200kmも走れれば上等だ。今日のレースでは燃費の関係もあり、給油を兼ねたタイヤ交換が行われることだろう。

再びスターティング・グリッドに戻った4台は静かにシグナルを見つめる。数秒が永遠に感じる一時を経て、激しいスキッド音とエグゾーストノートが響き渡った。

 

 

神技のオープニング・ラップ

 

狭い第1コーナー、サン・デボットに向けてマユニネンのポルシェを先頭に突っ込んでいく。スタートダッシュでは4駆のポルシェ996ターボとブガッティ・ベイロンが有利だ。1000馬力を遥かに超えるモンスターパワーを4つのタイヤを駆使して有効に路面に伝える。ベイロンがアキヒコのスクァーラルの前を抑え、アキヒコは最後尾に下がった。ペガサス・アウトモビリのピットがざわめく。

ポーリバージュの登りは一見緩いS字に見えるが、全開で加速していくストレートだ。早くも先頭のポルシェ996からスクァーラルまでは20mの差がついた。6速までシフトアップすると左に大きく90度回りこむマッセンネ・コーナーのために3速まで落とす。アキヒコはブレーキングを我慢してベイロンとの差を詰める。テールツーノーズでカジノ前コーナーを抜けると今度は短い下りのストレートだ。3、4、5速と矢継ぎ早にシフトアップすると、息つく暇もなくミラボーに向けて減速だ。

ミラボーコーナー。モナコF1GPにおいて最も追い越しの見られる個所だ。アキヒコは減速するベイロンのインに、当然のごとくスクァーラルを滑り込ませる。荒れた路面に跳ね飛ばされそうになりながらギリギリまでブレーキを遅らせ、ベイロンに並ぶ。アンは無理すればアキヒコの鼻先を抑えることが出来たかもしれない。だが、その結果は2台揃って曲がり切れずにコースアウトだったろう。スッとベイロンが引いた瞬間アキヒコはブレーキと同時にステアリングを切り、リアをブレークさせてドリフトに持ち込んだ。フロントノーズを軸にして、綺麗にミラボーをクリアしていくスクァーラル。アキヒコは右側に見えるアンに軽く感謝の手を上げた。

ジェットコースターのように下るローズヘアピン。1速まで落として回り込む。ここでのライン取りを誤るとポルティエに向けてのリズミカルな走りが出来なくなる。最もタイムに影響する区間だ。アキヒコは1周目が勝負だと思っていた。誰もが路面の状況とマシンの状態を気にかけながら慎重に回るオープニングラップは、最速のリズムに乗るのが難しい。それだけアキヒコにとってチャンスが生まれるのだ。危険を伴うが、ここで引いてはそのままズルズルと差が開くことだろう。

ポルシェ、フェラーリ、スクァーラルの3台は数珠繋ぎの状態でポルティエコーナーを抜け、トンネルへと侵入する。緩く右にカーブしながら全開で加速していく3台。パワーの差がやや車間を広げるが、ヌーベルシケインに向けた減速で再び一体化する。ここでの減速競争も抜きどころだが、百戦練磨のシュナイザーは隙を見せなかった。アキヒコは素直に後について、F1チャンプで現役モナコマイスターのライン取りを盗んでいった。コの字型に変更されたヌーベルシケインはF1ではショートカット可能なエスケープゾーンが設けられるが、今日はタイヤバリアで壁が築かれている。完全なるブラインドコーナーとなって難易度は一段とアップしていた。

 

左側にはヨットの停泊した港が広がるはずだが、低いシートからはガードレールに阻まれて何も見えない。短いストレートを1速から5速までシフトアップすると、アキヒコは勝負に出た。最速ラインに向けてアウトによるフェラーリを尻目に、インベタでルイ・シロンのコーナーに向かう。軽いブレーキとステアリング操作でスクァーラルを真横に向ける。左足ブレーキを駆使してドリフトアングルを調整し、シュナイザーのラインに立ち塞がる。

シュナイザーはまさに不意を突かれた。こんな所で追い越しをかける奴にこれまでお目にかかったことはなかった。数少ない追い越しポイントさえブロックすれば、あとは自分の最速ラインを走ればよい。それがF1でのセオリーだったし、それがこれまで勝利をもたらせて来たのだ。カウンターも充てずに横向きで直線を加速していくスクァーラルに舌打ちしたが後の祭り。プールサイドの一つ目のシケインに向けてそのままの姿勢で消えていった。

ドリフトにかけてはプロ中のプロ、WRCチャンプの貴公子はバックミラーに映った派手なカニ走りに心中穏やかでなかった。2つ目のシケインをスクァーラルの進路を塞ぐようにポルシェ996ターボをドリフトさせる。4駆マシンのドリフトは並みのテクニックではない。センターデフを巧みに調整して後輪への駆動配分を操る。

ラスカス、180度回り込む難所だ。減速を誤るとガードレールが待ち受ける。マユニネンはこれでもかと言わんばかりに996ターボを横に向ける。アキヒコは一瞬我慢して、タイミングをずらせてスクァーラルをドリフトさせた。マユニネンがアウト側に膨らみながら立ち上がっていくそのイン側に、アキヒコのスクァーラルがいた。車体を斜めにしながら、ドリフト状態で最終コーナーに向けて加速していく。狭い最終コーナーを抜けるラインは1台分しかない。マユニネンは入口の見えた最終コーナーにステアリングを切ったが、減速を余儀なくされた。そこには真紅のボディが立ち塞がっていたからだ。

1周目のフィニッシュラインをペガサス・スクァーラルがトップで通過した。誰がこの光景を予想しただろうか。スタンドから大歓声が湧き上がり、アキヒコのアグレッシブな走りを称える。アキヒコはそれに応えるように、サン・デボットの直角コーナーをドリフトで回っていった。インベタの最短ラインを魔法のようにトレースしていく。ドリフトの魔術師マユニネンさえ舌を巻くテクニックだ。マユニネンはサイドブレーキを引いてリアをロックさせ、アキヒコに続いてタイトなドリフトを見せる。この走法で後塵を浴びることはWRCドライバーとしては屈辱的なことだ。マユニネンは熱くなってポーリバージュでスクァーラルのテールを突っつく。しかしアキヒコはまるで後に目があるかのように巧妙にブロックを続けた。

マッセンネの左ターンは再びドリフトの競演だ。今度はマユニネンはアウト側からコーナーに進入し、カジノ前右ターンのインを取ろうとした。しかし車半分リードするアキヒコは多めにアクセルを開けてスクァーラルを滑らせると、右ターンもインベタのラインに付ける。

 

 

マユニネンの焦り

 

マユニネンにはアキヒコの動きがおぼろげながら予測できた。こんな感覚は初めてだ。アキヒコがコーナーに進入する前に、そのコースやドリフトアングルが細切れのフィルムを見るようにチラチラと瞼の裏に浮かぶのだ。昨日カパルーンが言っていたことがよく分かった。これならば自分について来れたわけだ。どこでブレーキをかけ、どういうラインを通り、どこでアクセルを開けるかが事前に見える。だったらそれを真似れば同じ速さで走れるではないか。そしてさらに相手の隙が見えたところで楽に抜けばよいのだ。だが、彼は自分を抜けたか?否だ。そう、いくら動きが予測できようと、よほど技量に差が無い限り抜くことは容易くない。特にここのような狭いコースでは・・

一方のアキヒコは、後に張り付くマユニネンに全神経を集中し自分の走行ラインを組み立てていた。とは言え決してタイムを落とすような走りではなかった。アキヒコの脳裏には例によって光のラインが現われ、それを正確にトレースしていく。以前のアキヒコなら、目の前に示された決してレコードラインではない光の道を走ることは大幅なタイムロスに繋がったことだろう。だが今のアキヒコはまさに究極の走りを身に付けていた。左足ブレーキによる荷重移動と右足のアクセルコントロールの絶妙なバランスは、ステアリングをほとんど切ることなくスクァーラルの姿勢を自由に変えていく。マユニネンの多用するサイドブレーキターンよりもパワーロスが少ない分、立ち上がりが鋭い。付け入る隙が無いとはこのことか。1300馬力のモンスター4WDをもってしても加速競争で歩を得ることができなかった。

 

10周に渡り、ドリフトの競演が続いた。ほんの些細なミスはそく敗北を意味する。アキヒコは命を削るような真剣さでスクァーラルのドライビングに集中した。不思議と疲れを感じない。数十倍に増幅した生命エネルギーがアキヒコを強力にバックアップしているのだ。スタンドから、ホテルの窓やバルコニーから、そして沿道から、アキヒコの走りは人々のアドレナリンを分泌させ、オーラを湧き上がらせ、一面青いエネルギーの海と化していく。それを走りながら本能的に吸収し、アキヒコのオーラはさらに大きく膨れ上がっていった。

マユニネンは次第に焦りを感じ始めた。ドライビングが荒くなり、バンパーがガードレールを擦る。シュナイザーはその後に影のように付けて、観察していた。マユニネンの怒り狂った心境が手に取るように見えた。最早後に気を配る余裕はなさそうだ。気配を殺してじっとチャンスを窺う。12周目のミラボーでアウトからドリフトに入ろうとマユニネンがインを空けた。皇帝はそれを見逃さなかった。ズバッとノーズを捩じ込むとアキヒコばりのタイトなドリフトでミラボーを曲がり切った。マユニネンは押し出された格好で、エスケープゾーンから2台を追うことになった。

 

ラリーにおいては常に戦いの相手はコースである。スペシャルステージで1秒を削ることがドライバーの役割だ。マユニネンはこんな激しいバトルなどこれまで経験したことがなかった。単独で走れば自分の最速ラインをとれるが、今日の相手はそれを許さない。シュナイザーはバトルにおいてプロ中のプロ。現代のF1はスピードレンジが上がりすぎて追い越しがめっきり減ったが、相手が隙を見せれば別だ。常に虎視眈々と前に出ることを狙う。レースではタイムはさして重要ではない。順位が全てなのだ。

アキヒコのレース経験は乏しい。だがバトルに関しては、それを補って余りある、夜の公道で磨き上げた感覚を身に付けている。C1ハイスピードバトルの緊張は閉鎖されたサーキットの比ではない。何時いかなる時も不慮の事態に備えながら、相手を見据えてアクセルを踏み込む。最速ラインなどあってないようなもの。一般車が混じれば1周ごとにコースが変わる。

 

マユニネンは惨めな思いに囚われた。シュナイザーはともかく、素人同然のアキヒコなど自分の眼中になかった。そして万全を期して禁断の薬にまで手を出したのだ。それがどうだ。蓋を開けてみればあっという間にアキヒコにしてやられた。今またシュナイザーに見事に抜かれてしまった。心が暗く沈み、深い闇が覆う。

《いいの?このままやられっぱなしで・・》

何処からか声が聞こえた気がした。マユニネンは996ターボの狭い室内を目で探る。誰も居る筈はない。

「(ピット、何か言ったかい?)」

無線に呼びかける。

「(ガガッ・・何も・・ザザッ・・ピットインまでは間がある・・ザザッ・・前の2台との差は・・ガガッ・・1秒無い。)」

ノイズ交じりの野太い声が返ってくる。全然違う。もっと若い女の声だ。

《あたしたちに任せなさいよ・・》

頭が割れるように痛む。マユニネンは深い悲しみに襲われ、誰かにすがりつきたい衝動に駆られた。楽になりたい・・遠のく意識の片隅に勝ち誇ったサーシャとマーシャが現われ、その後に巨大な何かの影を見た気がした。

 

 

操られたパプニング

 

シュナイザーはアキヒコの背後にピタリと付け、その走りを観察した。見事なものだ。ここモナコの荒れた路面に飛ばされながらも的確なドリフトでコーナーを駆け抜けていく。そのライン取りは従来のセオリーから外れた、アキヒコスペシャルとでも呼べそうなものだった。コーナー手前からイン側に付け、そのままクリッピングポイントまで綺麗にコーナーのRに沿ってドリフトさせていく。クリッピングポイントを過ぎた辺りで斜めになりながら猛然と加速していく。常識的な最速ラインがアウト・イン・アウトならば、今のアキヒコのラインはイン・イン・アウトだ。場合によってはコーナー出口でもイン側をブロックしたままイン・イン・インで抜けてしまう。それでいて速いのだ。コーナーでは、まず追い越し不可能。そしてここモナコには追い越しに十分なストレートなど在りはしない。だが・・シュナイザーはニヤリと笑った。

 

ホームストレートのスタンドの最終コーナーに近い辺りに数周前からアキヒコは視線を送っていた。これまでは余裕がなくて気付かなかったが、そこには金網のフェンス越しにかすみの姿があった。アキヒコが通過する度に軽く手を上げている。アキヒコも左手を上げて応えた。周回は25周目に入っていた。背後からのシュナイザーのプレッシャーは相変わらずだ。ワンミスも許されない極限状況に逆にアキヒコの闘争心は燃え上がり、精神の贅肉を剃り落としていく。何という珠玉の一時。高みに登った者だけが味わえる至極の幸せ。

 

「(なんか、あいつ許せないよね。)」

コース脇を歩く若い北欧美人の3人組は、ヤン・マユニネンの親衛隊だ。自分たちのヒーローであり、神にも等しい存在のヤンに苦汁を飲ませている紅い車に苛立ちを覚えていた。

「(ヤン様の声が聞こえるような気がしない?あいつをやっちゃえって。)」

そう言いながら髪を紫に染めた娘は軽く目を閉じる。

《キミが頼りだよ・・邪魔なあいつを何とかしてくれ・・》

心に聞きなれたヤンの声が響く。紫の娘は次第に我を忘れて暗示にかかっていった。残りの二人も同じように夢遊病者の目をしている。

「(どうする?ヤン様のお願いだよ?)」

「(あんた、ちょっとそのコート貸しなよ。)」

紫の娘は、コートを手に持つと低く身を伏せ、警備員の目を盗んでフェンスの向こう側へ忍び込んだ。

ガードレールの陰でじっと様子を窺う。やがて甲高い排気音が木霊し、ペガサス・スクァーラルがルイ・シロンコーナーに現われた。娘は立ち上がると、あたかも声援を送るようにコートを振り回す。フェンスの向うの警備員が慌てて止めようとあたふたするが、扉まで観客の波に阻まれて思うように進めない。娘はスクァーラルが通過する直前、タイミングを計ってコートを持つ手を離した。バサッとムササビのように広がったコートがスクァーラルのフロントガラスを覆い尽くした。

「(やった!ザマアミロ!)」

 

突然視界を奪われ、アキヒコは一瞬思考を失う。ブレーキを強く踏み、危うく後のシュナイザーが追突しかけた。だが、アキヒコの見るスクァーラルのフロントガラスには光のラインがくっきりと浮かび上がる。アキヒコは恐怖心を抑え付け、アクセルを踏んでスクァーラルをドリフトさせると、光のラインに乗せた。視界を奪われたままプールサイドシケインへ。シュナイザーが機を逃すまいと挑みかかるが、アキヒコの隙は既になくなっていた。海からの風に煽られて、コートがフロントガラスを離れる。アキヒコは何事もなかったように30周目のゴールラインを通過していった。

 

 

牙を剥く皇帝

 

『そろそろ来たな。』

シュナイザーがほくそ笑む。スタートして33周目、前を走るペガサス・スクァーラルの動きに微妙な変化が現われ始めた。コーナーでアウトに膨らみ始め、クリッピングポイントに的確に付けない。タイヤが摩耗し、グリップを失ってきたのだ。このレースはF1と同じ78周。1ストップで走り切るためには、あと少なくとも6周はピットインを伸ばしたい。

『私はこの時を待ってタイヤを温存してきた。あと6周私のアタックに耐えられるかな?たとえ耐えてもキミがピットに入った瞬間、私はスパートをかけて労せずして前に出ることができよう。ここに来てやはり経験の差が出たな。』

コース上での追い越しがほとんど出来ない現代のF1においては、相手のピットインこそが順位を入れ替える最大のチャンスなのだ。シュナイザーはスタートして数周でアキヒコの走りがタイヤに厳しいことを見て取り、綿密にレースを組み立てていた。

マッセンネからカジノコーナーへの切り返しでアキヒコはクリッピングに付き損ね、アクセルを開けるタイミングがほんの僅かに遅れた。マッセンネでのシュナイザーの仕掛けが原因だった。鼻先をちらつかせる皇帝をブロックしようと必要以上にイン側を回り過ぎたため、カジノへのアプローチが遅れたのだ。シュナイザーはすかさずモデナをスクァーラルに並べる。50cmほどスクァーラルがリードするが、次のミラボーへは皇帝が有利なイン側だ。

勝負どころのブレーキング競争でシュナイザーはギリギリまで我慢する。しかしアキヒコは一向に減速する気配がない。こうなるとインが必ずしも有利とはならなくなる。これ以上減速を遅らせたらグリップ走行は無理だ。ドリフトさせるためにはアウト側のアキヒコに動きを合わせなければ接触してしまう。シュナイザーが引いた瞬間、アキヒコはスクァーラルをドリフトに持ち込み、ミラボーを制した。

タイヤが怪しくなってきたとはいえ、スクァーラルの軽さはブレーキング競争において絶対的な武器だ。車は軽ければ軽いほど短距離で減速でき、コーナーリングスピードも速くなる。慣性の法則だ。

ミラボーを真横に回るアキヒコの後で、シュナイザーはローズヘアピンへの飛び込みを狙う。スクァーラルが直進状態になった瞬間が勝負だ。必ず減速して向きを変えるはずだ。だが、アキヒコはアクセルを緩めずに左足ブレーキで後輪を滑らすと、自分を軸にして独楽を回すようにスクァーラルを180度回転させた。早々とローズヘアピンへの進入態勢を整えてしまったのだ。これには皇帝も兜を脱いだ。まるで魔術師のようなハンドリングだ。

 

熾烈な攻防が全てのコーナーで繰り広げられた。6周の長きに渡って。観衆は酔いしれ、モナコを熱気が包んだ。誰もが1992年のセナとマンセルの死闘を思い起こした。90年代最高の車と言われるウイリアムズFW14Bを操るマンセルは、圧倒的強さで開幕5連勝を果たし、モナコでも絶対的な速さを誇っていた。ゴールまで8周となった時、原因不明のタイヤトラブルでピットインを余儀なくされ、セナが先頭に出た。そこからゴールまでスピードに勝るナイジェル・マンセルを抑えきったアイルトン・セナ。モナコ最高の伝説に勝るとも劣らないシーンが、今目の前に繰り広げられているのだ。

39周を終えて、アキヒコは待ち望んだピットインを果たした。給油とタイヤ交換。F1なら10秒前後の作業だが、市販車ベースではそうもいかない。センターロック式のタイヤはともかく、給油スピードはとてもF1には及ばないのだ。37秒を要してスクァーラルはコースに復帰した。すぐ後には大幅に遅れたアンがいた。

全力の2周を走り、シュナイザーはピットインした。F1で鍛え上げたスタッフが素早く作業を進める。やや遅れてマユニネンもピットに入ったようだ。シュナイザーは垣間見たマユニネンの虚ろな表情に、何か違和感を覚えた。

36秒、ペガサスのピット作業よりも速くフェラーリは皇帝をコースに送り出した。ピットイン前の2周の単独走行で稼いだマージンを合わせれば、スクァーラルの前に出るには十分だ。シュナイザーはピットロードから合流する本線をチラリとバックミラーで確認する。何も走っている筈はないが、いつもの癖だ。その瞬間、皇帝は我が目を疑った。バックミラーに紅い影が映ったかと思うと、目の前をペガサス・スクァーラルが横切ったのだ。

『何だ、これは!何故彼がここにいる?』

 

アンはあっという間に離れていくアキヒコの走りが、スタートした数周の間に見たそれと明らかに違うことを感じた。今、自分の視界から消え行くスクァーラルの速さに比べれば、あの時見たスピードはまるでウォームアップ走行のようだ。

『とんでもない人。』

アンは爪を隠しながらシュナイザーやマユニネンと渡り合ったアキヒコに戦慄さえ感じた。

 

アキヒコはグリップ感のないタイヤで6周もの間皇帝を抑え込んだことで、膨大な量のインプットを得た。感覚はますます研ぎ澄まされ、半径5m以内の空気の僅かな揺らぎさえ感じられるようだ。小さな虫がスクァーラルの作り出した気流に引き込まれ、後方に流れ去る。下面を流れる空気が引き剥がされるとグランドエフェクトを失ったタイヤが微かにホイールスピンを起こす。タイヤが滑っていく様子がミリ単位で分かり、それを制御するアクセルコントロールが右足の筋肉に直接記憶される。

フレッシュタイヤのグリップ感がアキヒコの感覚にインプットされると自然に走りが一変した。無駄なパワーは与えない。ストレートでさえ路面のギャップに合わせて右足が無意識にアクセルを調整する。それは1cmにも満たないコントロールだろう。アキヒコ本人さえ気付いていないかもしれない。ピットに無線で送られるエンジンセンサーの波形だけが変化を物語っていた。

コーナーは積極的にドリフトさせる。ただ、そのドリフト姿勢はマイルドになり、アクセルの開度は常に大きい。クリッピングポイントをやや手前にとり、アウト側のガードレールに数ミリまで車体を滑らせながら立ち上がって行く。

シュナイザーはアキヒコがピットインしている間に、それまでアキヒコが記録した最速ラップを1秒上回るタイムで回り、逆転を確実なものにしようとした。アキヒコのピットアウト後2周目のタイムはシュナイザーの最速ラップをさらに1秒縮めていた。普通なら大きなハンデとなる満載した燃料の重量も、全く問題ではなかった。

シュナイザーでさえ、ピットアウト後のアキヒコにはついていけない。1周に付き約1秒離される。50周を終えた時、先頭スクァーラルと2位モデナの間には10秒のマージンが出来上がっていた。二人の間には周回遅れとなったアンがいる。もはやよほどのことがない限り、アキヒコの独走は明らかだ。シュナイザーの3秒後に続くマユニネンの口元が冷たく歪んだ。

 

 

雷撃

 

モンテカルロ市街の上空に突如として黒い雲が現われた。ゴロゴロ・・不気味な音が鳴り響く。冬にしては珍しい雷雲の訪れに観客は心配気に上空を見やる。太陽は隠され、辺りは夜のように薄暗くなった。

ピカッ!青白い光が上空を走り、ガラガラガラ・・という音がそれを追う。アキヒコは不自然さを感じた。普通なら夕立のような雨が降り出してもおかしくない。だが雷だけが鳴り響き、一向に雨の降り出す気配はないのだ。昨夜のマユニネンの芸当が頭を過ぎる。

バリバリバリッ!激しい振動とともに青白い光の牙が、ホームストレートに落ちた。スクァーラルの目前だ。アキヒコは動物的な反射神経でブレーキを踏みながらステアリングを切り、激しく蛇行して高圧電流の柱を避けた。危うく黒焦げだ。アドレナリンが体中を駆け巡り、オーラが毛穴から噴出す。危険予知能力を全開にして身構える。

10秒あった差がホームストレート1本分に縮まり、シュナイザーは1コーナーに消えるスクァーラルの後姿を捕えた。彼もまた不自然さを感じていた。これだけのビルをぬって路面に落雷するなんてあり得ない。何かを感じてアクセルを緩める。マユニネンがその脇を全速で駆け抜けていった。

「キャア!」

「ウワァ!」

スタンドから悲鳴が起こる。身をかがめて頭を抱える者、その場から遠ざかろうと右往左往する者、レース観戦どころではない。

 

第2弾の雷撃がカジノコーナーを襲う。アキヒコの予知能力はそれを察知し、十分な減速でコーナーのアウト側を擦り抜けた。後続との差が見る見る詰まり、4台が数珠繋ぎのようになった。

シュナイザーは雷撃の瞬間、前を走るマユニネンの996ターボが黒いオーラを発するのを見た。

『なんだあれは?いつものヤンではない!』

 

アキヒコは思案を廻らすがいい策を思いつかない。今や雷撃がマユニネンによるものであることはほぼ間違いない。3度目、4度目の攻撃に気を抜けない。今度は直撃弾を放つかもしれない。まさかという気もするが、特殊能力を使うこと自体マユニネンが既に普通の精神状態ではないことを示している。落雷を受けても、オーラのバリアを張れば自分は無傷で居られるだろう。だが、スクァーラルは無事では済むまい。マルコや長谷川の夢と努力の結晶は、その瞬間ただの焼け焦げた鉄の塊と化すだろう。ブラックホールで消し去るには相手がでか過ぎる。上空を覆う黒雲全てを消さない限り、雷は何処からか放たれるであろう。

 

アキヒコの直後を走るアンも落雷が意図的なものであることを確信した。周回遅れとなった今、自分にこのレースの勝ち目はほぼない。いや、始まる前から既にアキヒコの勝利を願っていた気がする。アキヒコ・・自分を惹き付ける不思議な男。垣間見た純粋な魂に完全に魅せられてしまった。今そのアキヒコの危機を感じる。右手に海・・気が付くと海の水が渦を巻き、上空高く舞い上がっていた。

 

超自然現象の激突。何の前触れも無くモナコを覆い、コースに恐怖を撒き散らした雷雲に巨大な竜巻が襲いかかる。水飛沫が飛び散り、ビリビリと細い髭のような電気が断末魔の叫びを上げる。観客には普段は恐ろしい竜巻が救世主に見えた。不思議な竜巻は裾野を地上に降ろすことなく、その渦に雷雲を巻き込むと再び海に向かって遠ざかって行った。モンテカルロに穏やかな冬の日差しが舞い戻る。

『ありがとう、アン・・』

アキヒコは遠ざかる竜巻に蒼龍の背を見た気がした。

 

 

凍りつく悲劇

 

残り10周。再びアキヒコはペースを上げたが、独走態勢を築くまでには至らない。タイヤのグリップが低下するとともにピットアウト直後の驚異的ラップタイムからは遠ざかって行った。

それでも2位シュナイザーとの間には3秒のマージンがあった。騒ぎを巻き起こしたマユニネンは涼しい顔でその1秒後に続く。周回遅れのアンはさらに20秒差を広げられていた。

快調に周回は進む。車には何のトラブルもなく、皇帝のプレッシャーもこの距離では感じない。毎周最終コーナーを回ると、アキヒコはかすみに視線をやった。レースが終わったらかすみに結婚を申し込むつもりだ。自分はこの先普通の生活を送れないのかもしれない。リエに半分心を惹かれるのも事実だ。だが、自分を見つめなおすと、その中心にかすみがいた。やはり何があろうと彼女なしの人生など考えられない。かすみも承諾してくれるだろう。早く彼女の喜ぶ顔が見たい。あと2周、もうすぐゴールだ。

 

スタンドには警備員の目を逃れた紫の髪の娘たちがいた。ヤン・マユニネンの親衛隊。3人は再び集結し、何とかヤンの役に立てないものか話し合う。

「(悔しいよね、結局あいつがトップじゃないか。)」

「(しょうがないよ、あんたのあの邪魔で止まらないなんて、あいつ普通じゃないよ。)」

「(まだ頭の中でヤン様の声が聞こえる。ちくしょう、こうなったらこのレース中止にしてやりたいよ。)」

「(うん?あの最前列に居る女、見たことあるよ。そうだ、あの紅い車の奴の女だよ。ピットで親しげにしているのを見たもの。そら、あいつが通ると手を振ってる。)」

「(本当かい?何であんなところに・・)」

「(ねえ、いい考えがあるよ・・・)」

 

レスラーのような体格の中年男はウィスキーの小瓶を片手にレースを見ていた。ふと気が付くと若い娘が横で泣いている。

「(どうしたい、べっぴんさんが台無しだぜ。)」

男は気になって声をかけた。

「(あたし・・悔しくて。涙が止まらないの。)」

「(何だよ、俺で良かったら話してみな。)」

「(あたしの両親はジャパニーズ・マフィアに騙されて、警察に逮捕された挙句、留置場で自殺したの。取り残されたあたしは生きるために体まで売って暮らしてるわ。なのに、あの娘はのうのうとレース観戦なんて。あいつジャパニーズ・マフィアの娘なのよ。あたしの両親から絞り上げた金でああして贅沢してるんだわ。もう、悔しくて、悔しくて。)」

「(警察に言ったらどうだい。)」

「(そんなの無駄よ。警察もグルだもの。ああ、何とか復讐してやりたい。折角のチャンスなのに。誰か手を貸してくれたらあたしどうなってもいいわ。全部あげちゃう。)」

紫の髪の娘はチラリと男を見上げた。男がゴクリと唾を飲み込む。

 

最終ラップ、アキヒコはシュナイザーの2秒前を慎重に走っていく。もう限界走行の必要はない。1周なら十分ブロックできる。車のトラブルが起きないことを祈るだけだ。ミラボーからローズへ、そしてポルティエを抜けてトンネルに消えていく。

プール前を抜けるとラスカス。もう勝利は目の前だ。アキヒコはトップでチェッカーを受けることを確信して、最終コーナーへ飛び込んだ。

 

レスラーのような男は、紫の髪の娘とともにゆっくりとかすみの背後に忍び寄った。ペガサス・スクァーラルが最終コーナーに現われた。

「(今よ。)」

紫の娘が小声で男を小突き、合図した。

「(ウォー!)」

男は大声を上げながらかすみを背中から抱え上げると、金網の向うへ放り投げた。

 

アキヒコは目の前に信じられないものを見た。かすみが路面に打ち付けられ、弾んで横たわる。パニックブレーキを踏み、ステアリングを思いっきり切った。脳裏の光るラインは消え失せ、スクァーラルがアキヒコの意に反して滑りながら直進する。

「うわあああ!」

言葉にならない声を上げ、顔から血の気が失せる。

車体にドンという鈍い感触が伝わった。全ての音が消え去り、心臓の鼓動だけがやたら大きく響き渡る。なんということ・・・。自分の命より大切な存在に取り返しのつかないことをしてしまった。

スクァーラルが止まるのを待ち切れず、ボディを跳ね上げてアキヒコは飛び降りた。地面を転がりながら、横たわるかすみに駆け寄る。かすみはピクリとも動かない。震える手で抱き起こす。

「かすみ・・、かすみ・・、起きろよ、かすみー!!」

アキヒコは狂ったようにかすみの体を揺すった。

「(何をする、離れなさい。動かしちゃいかん。)」

救急車で到着したドクターと救急隊員が慌ててアキヒコを引き離す。アキヒコは拳でアスファルトの路面を叩く。

「(ドクター、かすみを助けて!俺の体を切り刻んでもいい。血を全て抜いてもいい。俺の命なんかいらない。だから彼女を、かすみを助けて下さい。)」

アキヒコの声に答えずに医師たちはかすみの応急処置に懸命になる。

「(脈はある。急げ!心肺装置をセットしろ。頭を強打してる。慎重に運べよ。出来る限りの治療の用意だ。)」

「(大変です!呼吸が停止しました・・。脈も弱い。おい、心肺装置はまだか!・・電気ショックの用意も頼む・・。)」

アキヒコの耳は次第に聴くことを拒み始めた。涙が止まらずに景色が揺らぐ。そばに誰かが立っているようだが見る気力も起きない。フェラーリの赤いレーシングスーツか。

『何でこんなことに・・最愛の女一人守れないどころか、この手で殺めてしまうなんて・・俺が守ると誓ったのに・・馬鹿野郎、アキヒコ、お前なんか生きる資格なんてあるものか・・』

アキヒコは激しく自分を責めたてる。悔やんでも悔やみきれない。

 

『時を巻戻せれば・・』

何かが閃いた気がした。同時に遠くなっていく意識を感じた。自分が自分でなくなるような不思議な感覚。二度と目覚めない深い眠りの底へ・・・。

 

 

 

 

[第三部①へ続く]