樹海の奥
レンタカーを借りたアキヒコは、リエを乗せて富士の麓に向かった。朱雀を崇め、人知れず信仰を続ける集落を目指して。かすみには声をかけなかった。何があるか分からない未知の場所をまずは自分が確認しておく必要がある。
中央高速を河口湖で降り、国道をしばらく進むと青木が原の樹海が見えてくる。樹海の入口に車を止めると、リエはさっさと樹海に入ろうとした。
「ちょっと待てよ、ここは・・」
方位磁石も狂わせ、迷ったら出ることが出来なくなることもある神秘のエリアを前に、アキヒコは躊躇する。
「こんな場所に長老は居るって言うのか?」
アキヒコの問いかけに笑顔で頷くと、リエは軽い足取りで森の中へ消えた。アキヒコも見失わないように慌てて後を追う。その二人を尾行した黒い車があった。
「樹海に入っていきました。」
黒い車の中の男が無線で報告する。
「あまりデートに適した場所じゃないな。ご苦労、そこで見張りを続けてくれ。」
無線の向うから米倉の冷たい声が響いた。
3時間は歩いただろうか、足に疲労が溜まる。今どの辺にいるのか見当もつかない。周囲には深い木々がそびえ立ち、昼間だというのに薄暗い。細身のリエの体力は驚くべきものだ。ビオンディと関わり始めてからレーサーとして鍛えてきたアキヒコも音を上げたくなる道なき道を軽やかなリズムで突き進む。まるで何かに引き寄せられるように奥へ奥へ・・
リエが立ち止まった目の前に洞窟があった。遥か上の梢が風に揺られて音を立てる。思わず見上げたアキヒコはそこに懐かしさを覚えた。遠い昔、朱羽煌雀の記憶・・。リエはアキヒコを目で促して、真っ暗なその中へ身を入れた。アキヒコはライターを灯して手探りでリエの後を追う。1m前のリエは灯りもない中、平気で歩いていく。アキヒコは一度立ち止まると目を閉じて精神を集中させた。ぼんやりと洞窟の中が脳裏に浮かび上がると次第に鮮明な映像になってきた。リエの存在も分かる。アキヒコは目を閉じたまま脳裏に浮かんだ映像に従ってリエの後を追った。
リエは洞窟の奥深くで歩みを止めるとアキヒコを振り返って言った。
「着いたわ。」
アキヒコは周囲の気配を探るが何も感じない。リエの前には深そうな縦穴がポッカリと口を開けている。それにしてもリエは一体どうやってこの暗闇を進んできたのだろう。
「不思議に思ってるわね、私がどうやってここまで来たか。」
リエはアキヒコの心を見透かしたように言った。
「微弱なオーラを発する苔が生えているのよ。かなり集中しないと気付かないでしょうけど。」
そう言われてアキヒコは目を開けて足元に神経を集中してみた。暗闇で焦点を結ぶことは困難だ。じっと1点を見つめると微かに揺らぐものを感じた。その波長を捉えると辺りに同じ揺らぎを感じることが出来た。確かに道標のように洞窟の底や壁に点在している。恐らく森の中も同様だったのだろう。苔のオーラはリエの先に口を開ける穴に続いている。
「ここが入口なの。私を信じて恐がらずに一歩踏み出して。」
リエが青いオーラを発している。アキヒコはリエと並ぶように立つと見えない暗がりを覗き込んだ。
前屈みになったアキヒコの背中をリエが突いた。アッと思った次の瞬間、アキヒコの体は深い縦穴に吸い込まれていた。何も見えない中、体に当たる風がアキヒコの恐怖を煽る。思考が止まり、どう対処していいのか分からない。時間の感覚がなくなり、数秒が数分にも感じられる。いや、実際1分以上経過している。いくら深い穴でも異常な時間だ。気が付くと体に当たる風が熱気を帯びている。落ちていると感じたが、宙に浮いているような気がする。
「こっちよ、アキヒコ。」
真横でリエの声がした。精神を集中すると苔のオーラは密度を増し、辺りの造形をくっきりと描いていた。首を横に向けると青く光るリエが下からの風を受けて浮かんでいる。長い髪とスカートがたなびく。リエは空中を泳ぐように苔の密集する壁の横穴に体を寄せる。岩肌を手繰り寄せてその横穴に足を付けた。アキヒコも横穴に向けて手足を掻く。リエが腕を伸ばしてアキヒコの手を握って引き寄せた。暖かい体温を感じる。勢いが余って思わず二人は抱き合う姿勢になった。すぐに離れたが、心臓の鼓動が心の乱れを映し出していた。
横穴にはもうびっしりとオーラを発する苔が密集し、精神を集中させる必要もなくなった。リエもいつも以上に強いオーラを発し、アキヒコに存在を誇張しながら奥へ進む。50m程進むと突き当たりに古びた祠があった。リエは壁を探るとボタンらしきものを押した。祠が動き、中から本物の灯りが見えた。そこは地底に作られた自然の要塞のようだった。
小学校の校庭ほどの広さの空洞に7つの高床式の建屋が点在している。金箔が塗られ、屋根には鳳凰の飾りが誇らしげに空洞の天井に向けそそり立つ。それらを結ぶ黒光りする木の回廊の下には静かに水が流れている。回廊の手摺に備えられた灯りが水に映し出されて神秘的に煌いている。人影はなく、せせらぎだけが聞こえていた。アキヒコは屈み込んで水に手を入れてみた。ひんやりとした濁り一つない透明感。
「霊峰富士の聖水よ。」
側にたたずんだリエが囁いた。
リエは回廊に登る階段で立ち止まると、奥から二番目の煌びやかな御堂を凝視した。
《朱羽煌雀様を連れてまいりました。》
アキヒコの頭にリエの電声が木霊すると、御堂の扉が音もなく開いた。眩しい光が注ぎだし、暗がりに慣れた目を瞑らせる。中から二人の白装束の巫女が現われ、扉の両側に立って訪問者に備える。リエはアキヒコを先導するように回廊を御堂に向けて進んだ。
朱雀の祠
「朱羽煌雀様でございます。長老」
御堂の木の床に敷かれた丸いイグサの座布団に正座すると、リエは正面の薄紫の垂れ幕に向かって静かに言った。白いロングスカートに水色の薄手のセーターは、遥か時を遡ったようなこの空間には不釣合いだ。
垂れ幕の向うに浮かぶ小柄なシルエットが両脇に控える白装束の巫女に耳打ちする。二人の巫女が静かに垂れ幕を上げた。
「えっ!」
思わずアキヒコは声を上げた。垂れ幕の向うに座る人物の姿はアキヒコの想像を大きく裏切るものだった。
そこに鎮座するのは10才ぐらいの少女だ。透けるような薄手の着物を幾重にも着重ね、紫の羽織を纏った雪のように白い肌の美しい童は、アキヒコの顔を繁々と見ながら微笑んだ。
「ようこそ朱雀の祠においで下さいました、朱羽煌雀様。」
あどけなさの残る肉声に似つかわしくない口調でアキヒコに話し掛ける。
「キミが・・長老?」
少女は微笑みながら頷いた。
「この姿に驚かれるのも無理はありませぬ。我が一族は古よりこの祠に住まい、来たるべき時に備えるのが定めでございました。一族はみな特別な力を授かってこの世に生を受けます。私は記憶の力を授かり、先代の長老より記憶を受け継ぎました。代々長老は同じように引き継がれ、古よりの記憶を今日に伝えています。」
「朱雀の祠というのかい?ここは。キミたちはここでずっと暮らしているのかい?」
長老はゆっくりと頷く。
「もともとこの祠を作られたのは煌雀様でございます。遥か昔、ここ霊峰富士の真下にこの空間をお作りになり、我らの祖先に使命を与えて去られました。自らの記憶の一部を永きに渡り伝えるようにと。祖先たちは文字では表せないその記憶を正確に伝えるために修行を積み、特別な力を会得していきました。やがてはその力は遺伝子となり、役割に応じて分化しながら強まっていきました。そこに座るリエ、白布衣夜子の電声もその一つでございます。」
アキヒコは頭が混乱しそうな錯覚を覚える。意識の奥に目覚めかけた朱羽煌雀の記憶。微かだが確かに自分は遥か昔にこの世に存在した感覚がある。“輪廻転生”どこかで聞いた言葉が次第に大きく木霊してくる。アキヒコは横に座るリエを見た。十も年下の子供に呼び捨てにされても全く心を乱した様子はない。どうやら本当にこの子供を長として慕っているようだ。
「煌雀様は祖先にこのように言い残されました。
“結界に大きな乱れが生じる時、
朱き羽根の印を持つ気高き者生を受ける。
その者金色の気を持ち、
悪しき紗端を封じるであろう。
その者我が生まれ変わりなり。
完全なる力が目覚めた時、
我が記憶を伝えよ。”
あなたのその黄金のオーラ、そしてヤコより聞きし朱き羽根のアザ。まさしく煌雀様の生まれ変わり、19年前に連れ去られた我らが主でございます。」
長老の言葉に思わずアキヒコは聞き返した。
「連れ去られた?俺はここに居たことがあるのかい?」
自分が生まれた頃の出来事を10才の少女に尋ねる違和感を吹き払う。
「あなたはここでお生まれになりました。やや時をずらして白布衣夜子と白布衣日子も。我が一族はついに訪れた記念すべき生誕を祝い、隙が生じたのでございます。あなたの母親が何者かの指図であなたと白布衣日子をこの祠から連れ去ってしまったのです。」
母親と言われ、アキヒコは高野良子を思い浮かべるが、本当の母親の顔は分からない。初めて聞く自分の出生。それにしてもこの祠は謎めいている。アキヒコはふとあることに気が付いた。
「男を見かけないけど・・」
長老はニコリと笑うと答えた。
「我が一族は代々女しか生まれませんでした。誰しも年頃になると俗世界に暮らし、子を宿すと戻って参りました。子供はここで生まれ、育てられ、やがては世間に旅立つ繰り返しです。あなたは我が一族に初めて生まれた男なのです。」
アキヒコはその夜、一番奥の神殿で持て成しを受けた。朱雀を模った大きな金色の椅子。尾羽が座部から足元に伸び、体を包み込むように覆う。広げた羽はアキヒコの頭上にきらきらした飾りを垂らし、長い首の先の頭は神殿の天井に向けてそそり立ち、くちばしを斜め下に向けて神殿に跪く者たちを見守っているようだ。富士の聖水の濁り酒に酔いしれ、胡桃のような不思議の実を口に運ぶ。一欠けらで全身に力が漲るのを感じる。おそらく一族はこれを主食としているのだろう。ほろ酔い気分で長老の言葉を思い出す。
『あなたはまず完全に目覚める必要があります。我が一族が伝えし記憶は完全に目覚めたあなたでなければ理解出来ないはずです。目覚めには出会いが必要。白布衣日子はその一人。そして世界に散らばりし四神獣の化身たちとの触れ合い。そう、あなたが再びこの世に生まれたからには他の四神獣の寵児たちも既に生を受けているはずです。彼らたちとの命を削る凌ぎ合いこそ、神の領域に踏み込むためにあなたが自分に課した精神修養なのです。あなたが惹かれる車の世界は現代最高の武闘なのでしょう。車を武器と思えば、優れし武器の作り手を集める人望が必要です。そして武器の力を引き出す知恵と気力と体力。なによりも危険を予知し、状況変化に瞬時に対応する能力。これこそは選ばれし者に与えられた特別な力です。他の化身たちもあなたと同じように車に惹かれることでしょう。ヤコの話ではドリーム・ラリーとかが開かれるとのこと。おそらくそこには他の化身たちも集結します。』
『玄蘒武炫(ゲキノブゲン)、白牙虎鉧(クガノコモ)、そして蒼鱗龍娯(サリンルコウ)、それが彼らの本来の呼び名。みな神の化身の証として黄金の気を持つはずです。そして彼らの種族に伝わる神宝をあなたは集めなければなりませぬ。彼らとの凌ぎ合いに勝つことこそその手段となるでしょう。神宝はただ手に入れただけでは何の役にも立ちませぬ。その使い方はあなたが我が一族に託した記憶にございます。記憶を理解するには完全なる目覚めが必要。その方法を全てお話するわけにはいきませぬが。』
長老はアキヒコの手を握り、額と額を付け、試しに記憶を送り込もうとした。見たこともない記号が頭を駆け巡るだけで、とても覚えたり理解出来る代物ではなかった。
やがてアキヒコは深い眠りに吸い込まれた。柔らかな誰かの膝の上、リエの白い指が優しくアキヒコの髪を撫でた。
祠の奥にある小さな扉を開けると暗くて細い穴が斜め下に続いている。穴の中はまるで油を塗ったようにつるつる滑り、一度入ったら逆に登ることは不可能だ。アキヒコは見送りに来た長老たちに別れを告げると穴に体を滑り込ませた。
ウォータースライダーのようにくねくねと曲がりながら30秒も滑っただろうか。アキヒコの体は草むらの上に投げ出された。後を振り返ると溶岩の壁がそびえ立つ。そこに開いた穴からリエが滑り出て来た。リエはゆっくりと歩き出し、アキヒコが続く。
「俺のやるべきことが少し見えた気がするよ。ありがとう。」
アキヒコは後から声をかけた。リエは歩みを止め、アキヒコに並ぶとそっと手を握った。
「少しいいでしょ?かすみさんが見ていない間は。」
アキヒコは戸惑いながらもその手を握り返した。
「朱雀の祠への入口、あの縦穴に落とされた時は生きた心地がしなかったよ。まさか空中浮遊ができるとはね。いったいどういう仕組みなんだい?」
アキヒコは思い出したように訊ねた。あの、時が止まった不思議な別世界にいる間は当たり前のように感じていたが、こうして現実を取り戻すと不思議でしょうがない。
「縦穴の下には今でも溶岩流があるわ。縦穴の特殊な形状が溶岩流からの熱風を増幅し、人を浮かせるの。外部からの侵入者を防ぐために朱羽煌雀様が作ったそうよ。あなたは忘れているでしょうけど。」
リエは優しく微笑んだ。二人は恋人のように寄り添いながら歩き出す。リエへの愛しさが蘇る。その時アキヒコの頭をある記憶が横切った。かつて遥か昔の朱羽煌雀が愛した女の名前が・・“白布衣日夜子(シラヌイノヒヤコ)”
接触の順序
アパートの前に白いロータスが停まっていた。アキヒコが近づくとドアが開き、ドレス姿の木暮かすみが降り立った。
「何処へ行ってたのよ、パーティーをすっぽかして。」
アキヒコは『しまった!』と思った。1週間前にかすみから誘いがあったことを思い出した。3ヶ月かけて製作したアルバム「二人」の完成記念パーティーで、かすみはアキヒコを側に正式に引退表明をするつもりだった。「二人」は空前のヒットとなった「ミッドナイト・パラダイス」を軸に、全12曲がストーリー仕立てに構成されていた。中でもアキヒコを歌ったアップテンポな「ウイング」と、ラストを飾る対照的なピアノソロ「落ち葉」はともにシングルカットされ、発売と同時にヒットチャートの1、2位を占めていた。
「一晩ここで待ったんだから。ペガサスもないあなたが帰って来ないなんて、新しい女でも出来たんでしょう。」
アキヒコは思わず笑い出した。以前同じ様な光景があったことを思い出した。アパートの前で待つリエ。
「何が可笑しいのよ。リエさんと一緒だったんでしょ?あの人まだアキヒコが好きだし、魅力的だし、よりを戻してもしょうがないわ。でもちゃんと私には言ってよね。私にだって心の準備ってものがあるわ。」
アキヒコは笑いながらかすみの肩を引き寄せると、アパートの中へ促した。資産家となった今、このボロアパートに住むこともないが、何となく愛着を感じている。だが五木田のこともあるし、来月には引き払うつもりだ。
「・・今度はかすみも連れて行くよ。自分の目で確かめるといい。」
アキヒコは昨日の経験を出来るだけ細かく説明した。かすみも一族の末裔、朱雀の祠で生を受けた身だ。あの場所を訪れる必要がある。
「本当にリエさんとは何でもなかったのね。」
かすみの問にアキヒコは頷く。微妙な心の揺れはあったが、この世界で一番大事な女はかすみだ。そう、高野アキヒコとして生きる間は・・。
アキヒコは朱羽煌雀の目覚めにかすみとリエの両者が必要なことを本能的に理解した。彼女たちはもともとは一人だったのだ。白布衣日夜子という名の。現代において二人になったのは、神朱雀の防護策かもしれない。一人との接触では不完全。結果的に5才まで自分とかすみを幽閉した組織のもくろみは失敗に終わったと見てよいだろう。
アキヒコはかすみを連れて食事に出た。このところ二人でゆっくりと過ごしたことがなかった。財団のこと、ペガサス・アウトモビリのこと、かすみのアルバムのこと、話題には事欠かない。今日かすみはフリー。自分もオフにして久しぶりに夜まで一緒に時を刻もう。
ホテルのベッドでかすみの寝顔を見ながら、アキヒコは右手の親指と人差し指でV字を作る。精神を指先に集中させると一瞬の煌きの後、小さな漆黒の球体が出現した。アキヒコは球体を目で部屋の真中に移動させ、ベッドの脇の便箋を丸めてそこに投げる。便箋は球体に触れるとキラキラとダイヤモンド・ダストのような光を放ちながら消滅した。アキヒコが目を細めると球体は中心部に吸い込まれるように小さくなり、消えた。時空を操る朱羽煌雀の力、もう一つの世界から引き寄せる反物質はあらゆる物を消滅させる恐るべき武器だ。次第にベールの剥がれる幼少の記憶が長老との出会いとリエとの触れ合いから急にクリアになってきた。強い電磁波で記憶を封じ込められる寸前、5才の自分は身の危険を感じ、無意識で時空にいくつかの穴を開けた。招かれた漆黒の球体は囚われの施設を破壊し、人々は散り散りに逃げ去った。ルシフェルの呪縛から突如解き放たれたペガサスのコクピットで、身に降りかかる危険を避けようと本能が時空を曲げた。伊豆スカイラインでも今にして思えば時空に穴が開く感覚を確かに感じた。あれは自分が招いたものではない。だがこうして力をコントロールする術を会得した今ならば、歪みかけた時空を戻すことも出来そうだ。
昨夜、リエの心はアキヒコに触れ、膝枕に眠る体を優しくいたわるように包み込んだ。そして今朝、アキヒコもリエに心を許した。目覚めの接触は順序良く成されなければならなかったのだ。先に日子であるかすみと、そしてその後に夜子であるリエと。最初のリエとの蜜月は何も引き起こさなかった。かすみとの接触はアキヒコの右脳を呼び起こし、予知と本能的な危険回避を可能にした。だがそこまでだ。5才の時を含め、力のコントロールにはリエとの心の触れ合いが必要だったのだ。完全なる目覚めが近いことを予感し、アキヒコは愛しいかすみの肌にそっと手を当てた。
竹村の空想
「もう一度最初から整理して説明してくれたまえ。まずは君の麗しき助手が苦労の末手掛かりを見つけたんだな?」
内閣諜報室長の杉浦が竹村博士に尋ねた。原子物理研究所の小さな会議室に座っているのは、米倉を従えて竹村を訪ねた杉浦と、それを向かえた竹村と広沢圭子の4人。竹村の報告したいことがあるとの連絡に、秘密裏にここを訪れたのだ。
「そうです。これまで見た事もない、自然界では在り得ない原子を発見したのです。」
竹村が少々うんざりした表情で答える。先程写真を見せながら懇切丁寧に説明したばかりだ。
「それは機械の異常とか、君たちの錯覚とかではないのだね。」
「絶対に間違いありません!私が3ヶ月を費やした末の発見ですよ。」
疑り深い杉浦に圭子がいらいらを隠せない。
「分かった、分かった。それは信じよう。だがその先の説明は理解に苦しむ。陽電子がどうの、反物質がどうのと言われても我々は専門家ではないのでね。そもそも君たちの空想に過ぎないのだろう?」
杉浦と竹村たちのやりとりを米倉はニヤニヤしながら静観する。テーブルに置かれた紙コップのコーヒーは冷めてしまった。本来なら杉浦がここに来るというだけで所長以下玄関に整列して出迎えそうなもの。部屋もコーヒーの器もこんなものじゃない。自分の保身が一番のここの所長が知ったら、竹村は小言では済まないだろう。
「空想と言われればそれまでですが・・そもそも宇宙の始まりはビッグバンだと言われています。とてつもないエネルギーの拡散。その直後には確実に正物質と反物質が生成されたはずなのです。今の宇宙にはプラス電荷の原子核にマイナス電荷の電子で構成される正物質しか存在しない。正物質と反物質は互いに打ち消しあう間柄、接触すると光子を発して消滅してしまいます。微妙なバランスの違いで僅かに正物質が残ったというのが定説ですが、私はどうも納得しがたいのです。宇宙の膨大な量の物質が僅かな残り物だとはとても思えない。」
竹村が自分の考えをなるべく分かりやすく説明しようと言葉を選ぶ。圭子がそれを引き継いだ。
「私たちはひょっとしたら何かの隔たりで正物質と反物質が分けられたのではないかと考えるに至りました。証拠を示すのは難しいのですが、ブラックホールというものがあります。その密度は我々の常識を遥かに超え、理解しがたい存在ですが、確かにあるのです。この銀河系の中心部にも巨大なブラックホールがあるだろうと言われています。私たちはブラックホールこそもう一つの世界との窓なのではないかと考え始めました。窓から覗く向こう側の膨大な物質が、その重量として観測されるのではと。そしてその窓の向こう側こそ、隠された反物質の世界なのではないかと。」
「彼は、高野アキヒコは見えない隔たりにブラックホールのような穴を開け、向こう側の世界から反物質を引き出す力を持つのだろうというのが我々の導き出した結論です。」
竹村が締めくくる。
「ハッハッハッ、まるで子供の頃のSFの世界だな。そんなこと世間に訴えて見たまえ、君たちは学者としての地位を失うぞ。」
杉浦の一蹴に二人は俯いて黙り込んだ。
「あながち空想とも言えませんよ。」
米倉が静かに口を開いた。
「バミューダ・トライアングルをご存知でしょう。魔の三角地域と呼ばれ、幾多の船舶や航空機が行方不明になっている区域です。何故消えるのか、消えたものが何処へ行ってしまうのか、未だに説明がつかない。残された通信記録などから消える直前に計器類が狂い、全く役に立たなくなっていることが分かっています。おそらく強力な磁場の影響でしょう。バミューダでは博士の言う見えない隔たりに、時たま穴が開くのかもしれませんよ。」
「ふむ。バミューダか。確かに報告されない軍用機の不明事故も数多くあるらしいな。」
杉浦は自分の知る事実を突き付けられてトーンを落とした。
「お約束の通り私は高野アキヒコと木暮かすみに接触を取りました。あの時点ではまだ彼は特殊能力に目覚めていませんでしたが、その後不可解な行動に出ています。ある女と富士の樹海に消え、一晩出てこなかった。普通の神経の持ち主がする行為じゃありません。何か変化が起き始めたと言えるでしょう。」
「官房長官じゃないが本当に野放しで大丈夫なのかね?」
“変化”と聞いて杉浦は米倉に問いかける。
「心配ありませんよ。まずは彼に我々を信用させるのが第一です。警戒されて敵に回したらそれこそどうしようもありません。私に任せてください、室長。」
「・・分かったよ。もうしばらく君に任せよう。老師には私から上手く伝える。」
「ありがとうございます。」
杉浦と米倉の会話が途切れるのを待って、竹村が口を開いた。
「米倉さん、何とか彼と会ってみたいのだが。会って直接話してみたい。キミもそうだろ?広沢君。」
圭子が頷く。
「まあ、しばらくお待ち願いたい。何れ機が来たら連絡申し上げますよ、博士。」
米倉は冷たい印象を与える細面に機械的な微笑を湛えて答えた。
ペガサス・スクァーラル
時は静かに流れ、12月。イタリアのミラノ近郊に居を構えたペガサス・アウトモビリでは連日夜通しの作業が続いていた。
社員80人余りの精鋭部隊は3つのセクションに分かれていた。空力の追求と夢のあるデザインを手掛けるボディ設計は、長谷川がリーダーを務める。サスペンションとシャシー設計はビオンディから人材応援を得たマルコがもちろんリーダーだ。そしてエンジン設計は、公募で採用した15人にマセラッティを退職した老練な3人の職人と元アバルトのバリデスを加え、アペックスを菅原や若手に任せた三隅がまとめていた。
EMS、ユーロモデリングシステムズからマルコが導入した大型の3次元光造形装置はその威力を存分に発揮していた。紫外線硬化型の樹脂を満たした浴槽に3次元CADのデータを2方向からの波長の異なる紫外線で照射する。2つの紫外線がクロスしたポイントの樹脂は硬化し、CAD上の仮想モデルを正確に実体化するのだ。ベース樹脂を変えることにより、鉄を上回る剛性を持つものからゴムのような弾性を持つものまで自在に作り上げることが出来た。照射ビームの太さや移動速度を変えることで、短時間での造形も、驚くほど滑らかなサーフェスを持つ部品も意のままだった。エンジン部品の簡易型は造形装置でおおよその模りを出した後、マセラッティの職人たちの手で磨き込まれ、一体型の薄肉ボディは十分な時間をかけて造形された。圧巻はモノコックのシャシーだった。軽量化のためのハニカム構造断面がものの見事に正確に作り上げられた。もっとも重要なパーツだけに、5日間をかけてゆっくりと造形させた。それでも従来の作り方から見れば驚くほど短時間の完成だ。
限られた時間で失敗の許されないプロジェクトは、シミュレーションに膨大な労力をかけた。一部の老練な職人を除くほとんどのエンジニアたちは、パソコンを友とする現代的デザイナーだ。彼らの計算では完成車は時速400km/hを超える最高速度を持ち、タイヤ次第では4Gを超えるコーナーリング・フォースを発生させる。これはほぼF1に匹敵する数値だ。あくまでも机上の値だから実車ではそこまではいかないだろうが。
エンジンは討論の末、軽量コンパクトなロータリーが選択された。むろん三隅の技術力を如何なく発揮するためもあったが、イタリアにおいて特別視されるレシプロV12気筒を凌いだのは、部品点数の少なさとサイズのためであった。ペガサスで高回転化に自信を得た三隅はさらに高回転を目指して4ローターというレイアウトに若手たちと挑み、ツインターボで750馬力を得るに至った。言葉の壁は三隅の熱意の前に消え去り、若手たちは三隅の手振りで何をすべきか理解するようになっていた。
タイヤは例によりピレリに特注し、フロント15インチ、リア18インチの超扁平セミレーシングが出来上がった。カンパニョーロに頼んだ美しいアルミ合金製ワイヤーホイールは素早い着脱が可能なセンターロック式となった。
「かわいい!」
厚手のコートに毛糸の帽子を被ったかすみが声を上げる。クリスマスを控えた小雪のちらつくテストコースにその車は姿を現した。「ペガサス・スクァーラル」、それが小柄な真紅のマシンに与えられた名称である。60年代のザガートを連想される美しくもクラシカルな曲線のフォルムは、愛らしい小動物を思わせる。しかし空力的にはF1で培ったビオンディの技術をふんだんに盛り込んだ最新のベンチュリーカーだ。シャシー下面は入念に計算されたウイング形状をなし、ボディ上面を流れる空気との流速差で高速になるほど車体を路面に押し付ける。さらにトラクションの必要なリアにはハイマウントの大きめのウイングを2枚装着し、ビオンディF1で長谷川が考案した速度可変機構を備えていた。F1同様エンジンも構造体に利用したモノコックシャシーは、ハニカム断面により剛性と軽さを両立させ、総紫外線硬化樹脂製のボディと合わせ、車体重量はなんと690kgに抑えられた。パワーウエイトレシオは1を切り、0.92kg/psとなった。
側に寄り添うかすみの手を優しく振り解いたアキヒコは、スクァーラルを囲む開発スタッフを労うように笑顔で一礼した。フロントを蝶番にして2本のダンパーで貝のように開けられた一体式ボディを潜ると、自分の体形に合わせられたバケット形状のドライビング・シートに腰を沈めた。左手で取っ手を掴み引き寄せるとボディは静かに降り、カチリと小気味のいい音を立ててシャシーと合体した。電磁ロックのかかったチャック部はステアリングの脇にあるスイッチで解除するか、電子キーで外部から開錠されない限りは決して開くことはなく、余計な開口部を持たないことでシャシー同様に剛性と軽量化を両立させていた。
兄ユウサクの形見、ミッドナイト・バードで愛用していたナルディの小径ステアリングを、アキヒコはスクァーラルに取り付けてもらった。ダッシュボードのプッシュ式スイッチでセルを回すと、三隅の半生の集大成とも言える4ローター・ツインターボは瞬時に目覚め、乾いた心地良いサウンドを奏で始めた。バリデスの手によるエグゾーストは紛れもないあのアバルトの直系だ。アクセルを軽く煽ると15000回転まで刻まれたタコメータの針はピンピンと回転を上げたがる。7速ギヤボックスに繋がる短いストロークのシフトレバーは軽い操作感の中にも確かな剛性感を持ち、後に倒すとシフトアップ、前に倒すとシフトダウンする。はやる気持ちを抑えてゆっくりとクラッチを繋いだアキヒコは、各部の慣らしをするためにテストコースを軽く5周した。
ピット前で見守る三隅のゴーサインを確かめると、エンジンの封印を解き放つ。低回転域でも実用的なトルクは持つが、この新型ロータリーの真骨頂は10000回転を超えた辺りから始まる。1速、2速では瞬きする間にパワーピークの13000回転に達し、レッドゾーンの始まる14000回転をも超えようとする。その加速感はF1に匹敵しそうだ。実際にはF1には及ばないが、常人の手に負えるものではない。コーナーに向けてブレーキを踏むと、その減速力にまた驚く。極限までに絞り込まれた軽さの恩恵だ。早めのステアリングとアクセルワークで得意のドリフトに持ち込む。太いタイヤと強大なダウンフォースでFDペガサスに比べて限界は遥かに上だ。このスクァーラルにドリフトアングルを与えるのは至難の業、そんな気を起こすのはアキヒコぐらいだろう。有り余るパワーはアクセルワークによる姿勢制御の幅を広げる。スタッカートのリズムでクリッピングを過ぎるとコクピットは再びレーシングサウンドに包まれる。素晴らしい足回りだ。固さの中にしなやかさを持つマルコ独特の味付けは、あらゆる路面状況に対応するだろう。地上で最速の車はF1だろう。だがF1マシンの速さはサーキットという閉空間に緻密に合わせたセッティングによって引き出されるもの。アキヒコはそんな速さは本物のような気がしなかった。何が起こるか分からない未知のロードでの速さ、このスクァーラルを操りながらアキヒコは自分の求めるものがそこにあることに気付いた。公道での競い合いならおそらくペガサス・スクァーラルはF1を凌ぐであろう。
アキヒコは確かな手応えを得てピットに戻った。体の芯から溢れ出る興奮は、初めて赤いペガサスに出会い、乗りこなした時のあの感動を上回る。姿形は変われど、このマシンに流れる血はFDペガサスのもの。長谷川とマルコと三隅の熱き思いは優秀なスタッフを従えてこのスクァーラルに結実していた。まるで火に身を焼かれたFDペガサスが蘇るかのように・・
前夜祭
ドイツの空の玄関フランクフルト。その西に位置するコブレンツからさらに西方約60kmに由緒あるサーキットがある。ニュルブルクリンク。その北側オールドコースは世界屈指の難コースと言われ、欧州のスポーツカー、とりわけポルシェの最終セッティングに使われる。12月31日、そのニュルブルクの古城に108台のマシンが集結し、華やかな前夜祭が開かれていた。ライトに照らされて輝く色とりどりのスポーツカーたち。ドリーム・ラリー。21世紀を記念して企画されたこのスペシャル・イベントに、欧州を中心とした世界各国の自動車メーカーが挙って参加した。FIAの正式な行事ではない。レースやラリーと呼ぶには余りにも泥臭いレギュレーションは、裏を返せば規制に縛られることなく無制限の改造を施した純正チューニングカーによる真の世界一決定戦。技術者たちは粋の限りを尽くし、パワーと耐久性のバランスに挑んできた。前日になってもラリーの全貌は明かされていない。明日ここニュルブルクリンクの伝統あるオールドコースを舞台に第1レグのスペシャルステージが開かれることが1週間前に発表されただけだ。
真っ先にエントリーしたのはフェラーリ。皇帝シュナイザーを擁し、大方の予想に反してF-50でも次期フラグシップモデルでもなく360モデナで臨んできた。ただしエンジンはツインターボで武装され、1100馬力というとてつもないパワーを絞り出す。
2番目がポルシェ。こちらもGT1でもGT2でも次期モデルカレラGTでもなく、4駆の911ターボである。もちろんエンジンは極限まで手が加えられ、1300馬力仕様である。それよりも驚いたのはマシンの横にたたずむドライバーだ。プジョーの秘蔵っ子WRCチャンプであるマユニネンを起用したのだ。プジョーも当然マユニネンを充てこんで、WRCカー206をエントリーさせている。来期の両者の関係に影を落としかねない出来事であった。
WRCカーは他にフォード、三菱、スバルがエントリーした。WRCではターボの吸気リストリクターによりパワーが300馬力程度に制限されているが、ここに揃ったマシンたちには500馬力を超える本来のパワーが与えられている。しかしながらWRCカーがモンスターである所以はパワーではない。コーナーを安定したドリフトで駆け抜けるために、スライドさせた時に最大のダウンフォースを発生する空力設計。市販車とは作りが根本的に異なるのだ。
スーパーカーたちも妖しい容姿をくねらせている。パガーニ・ゾンタ、ケーニグセグ・CCV8S、エドニスV12などがその低く広い奇抜なスタイルで報道陣の目を釘付けにしていた。スーパーカーの雄と言えばランボルギーニ。アウディの傘下として開発したムルシエラゴで自信に満ちた参戦である。
それらの中でも一際不気味な存在がブガッティであった。EB16/4ベイロンは記号の示す通りW型16気筒エンジンを4つのターボで武装し、市販スペックで1001馬力、ここに持ち込んだマシンは1500馬力を与えられている。
107番目に置かれた一際小柄なマシンにはそれ程人垣は出来なかった。60年代を愛する一部のエンスーたちが美しい曲線のフォルムを繁々と眺めて行ったが、馬力スペックもドライバーも注目される要素はなかった。ペガサス・アウトモビリのスタッフやアキヒコにとって、それはちょっと寂しかったが、余計な神経を使わずに済み、ありがたいとも言えた。
パーティーは主催者モーター・スピリット社長ゴードンの挨拶で始まり、協賛のタンデオン広報担当重役エンゲマルクが笑顔でスピーチしていた。ペガサスの一行に加わったリエが冷たい視線を送る。重役とはいえ大組織のタンデオンでは彼にはまだ100人近い上役がいる。リエがお目にかかりたい本当の黒幕はこんな席に出てくるわけはない。
関係者と報道陣を合わせると3000人を超える賑やかな宴。カクテルを3杯ほど傾けてほろ酔い気分となった頃、マスコミから解放されたタキシード姿のF1王者がアキヒコに歩み寄ってきた。
「(タキシードが様になってるじゃないか、スーパー・ルーキー。)」
テレビや雑誌を賑わす大物の登場にアキヒコの周りにいた三隅たちが一歩退く。
「(今日は美しいご婦人を両手に従えて羨ましいね、アキヒコ。楽しんでるかい?)」
「(俺を覚えていてくれて良かったよ、ミカエル。)」
二人は再会の握手を交わす。シュナイザーはかすみとリエの手を取り、その甲にキスをする。
「(いい車が出来たじゃないか。キミにお似合いだ。)」
赤いスクァーラルを一目見てシュナイザーはその秘めたる性能を見抜いたようだ。
「(うん、ありがとう。今度は誰にも水差されることなくあなたと真っ向勝負が出来ることを望むよ。モデナもいい出来のようだね。)」
アキヒコは遠くにシュナイザーのマシンを見ながら答えた。
「(こうして眺めるとドライバーもなかなかのメンバーだが、本当に手強そうなのはキミを含め3人だな。)」
なかなかのメンバーどころではない。F1、CART、WRC、世界のトップカテゴリーで活躍するドライバーたちが勢ぞろいしている。シュナイザーでなければ言えない台詞だが、アキヒコは自分がライバルとして認められていることが誇らしかった。
「(もう一人手強い奴が来たようだ。)」
シュナイザーの言葉に後を振り返ると、サラサラの長い金髪を風に靡かせた綺麗な顔立ちのフィンランド人が近付いて来た。
「(僕も会話に混ぜてくれないかい?お二人さん。ああ、まずは自己紹介しなくちゃね。僕はヤン・マユニネン、ちょっとラリーを嗜む北欧の田舎者さ。)」
貴公子と呼ばれるマユニネンは女性をクラクラさせそうな笑顔を振りまく。28才の若きフィンランドの英雄は既にWRCの年間タイトルを3回取り、史上最速の称号を得ている。カテゴリーは違えどF1の皇帝シュナイザーとどちらが速いのか、誰しも興味がある。
「(誇り高き皇帝が自分から誰かに話しかけるなんて初めて見たよ。キミはそんなに有名人かい?坊や。)」
マユニネンがアキヒコを射るような目で見詰める。整った顔に似合わない眼力だ。
「(アキヒコ・タカノ、ペガサス・アウトモビリ代表さ。)」
アキヒコはドライバーとしての自分ではなく、自動車会社社長としての肩書きで答えると、マユニネンと握手を交わす。
「(ひょっとしてこの車をキミがドライブするのかい?乗りこなすのは容易じゃなさそうだけど。前輪に比べて後タイヤの太くて大きいこと、このアンバランスじゃまともにコーナーを曲がりやしないだろうに。今からでもいいドライバーを紹介しようか?)」
マユニネンはスクァーラルをチラリと見て見下したように言った。
「(私のライバルを軽く見ないほうがいいぞ、貴公子君。ライセンスさえ与えられれば彼は間違いなく来年のF1タイトルに絡む男だ。)」
シュナイザーがマユニネンを牽制する。
「(ところで貴公子君、いつものプジョーはどうしたんだ?変わった車に乗るみたいじゃないか。300馬力に馴らされた身じゃ1300馬力は持て余すだろうに。)」
マユニネンの肩から一瞬黄金のオーラが煌いた。
「(皇帝様こそターボはNAほど従順じゃないよ。暴走されないようお気を付けなさいませ。)」
シュナイザーの威圧感に臆することなくやり返す。
「(手強そうなもう一人って誰だい?)」
アキヒコが場を和らげるようにシュナイザーに訊ねる。
「(あそこ、ブガッティの脇にいる女さ。キミにも見えるだろ?微かな光が。)」
シュナイザーが顎で指し示す先には褐色の肌をした引き締まったボディの黒髪のフランス女性がいた。ライトのせいではなく、アキヒコにもその女の放つ黄金の光が見えた。
「(アン・モンゴメリー、先程ご挨拶してきたよ。どうもこの世界で見かけない顔だと思ったら、フランス空軍のパイロットだってさ。)」
マユニネンが二人に説明する。
「(女性としてはこちらのヤポンの方がいいけどね。)」
マユニネンはそう言うと、かすみとリエに深々と頭を下げた。
「(ヘイ、凄いツーショットだぜ。ちょっとどいてくれ。)」
シュナイザーとマユニネンが揃っているのを見つけた地元ドイツのカメラマンがアキヒコを肘で追いやると、盛んにフラッシュを焚く。苦笑いするアキヒコにシュナイザーはウインクした。
タンデオンの誘惑
「長老の言った通りだわ。4人の神の化身が勢ぞろいね。」
パーティーが終わり、ドライバーに割り当てられた宿舎に戻るとリエが言った。
「何でリエさんまでここに来るの?」
アキヒコと二人になりそこなったかすみが不満気な顔をする。
「こんな所まで来て仲間割れはよそう。キミにもオーラが見えたんだな、リエ。」
アキヒコが確認する。自分の目の錯覚ではなかったようだ。
「私にだってオーラぐらい見えたわよ。あなたと顎のしゃくれたドイツ人と気障なフィンランド人、そして黒豹のようなフランス女から黄金の光が放たれていたわ。」
リエに代わってかすみが答える。かすみにかかってはF1チャンプもWRCチャンプもただの外国人に過ぎない。それにしてもアキヒコやシュナイザーはほとんど気を消していたというのに、かすみの特殊能力もかなり向上してきたようだ。
ドアをノックする音に、アキヒコは警戒した。かすみとリエをバスルームに潜ませる。ドアを開けると黒尽くめの二人の男が立っていた。
「(パーティーは楽しまれましたか?いよいよ明日は本番ですね。よろしければあなたにとってとても良いお話をしたいのですが。)」
妖しげな赤いオーラ。アキヒコは警戒しつつも二人を招きいれた。いざとなれば非常手段もある。
「(お見受けしたところ、失礼だがあなたは他のチームのドライバーほど実績のあるお方ではない。このままでは明日には母国に向かう飛行機に乗ることになるでしょう。だが、我々ならあなたに手を貸すことができます。どうです?契約してみませんか?)」
サングラスの男がいきなりアキヒコに迫る。
「(あ、あなた方はいったい誰なんですか?)」
アキヒコはわざと声を震わせて怯えた様子を見せる。
「(おおっと、これは失礼しました。我々はタンデオンの者です。あなたのような若くて将来有望なレーサーを援助し、育て上げるのも我々の事業なのです。この企画に協賛したのも優秀な人材をスカウトするため。なあに、正式な契約は先で結構です。まずは我々の力をお試しいただきたい。十分な資金援助に加えて万全のトレーニング・医療システム。誰とは言えませんが、今日集まっている中の何人かは我々が育てた契約ドライバーです。とりあえず我々の開発した薬でもお試し下さい。あなたの隠れた力を引き出すことができますよ。ドーピングに引っかかったり体に害を与えるようなことはありません。まあ、お近づきの印にどうぞ。)」
男は鞄からカプセルの薬を取り出すとテーブルに置いた。
「(明日の朝お飲み下さい。効果はすぐに分かります。)」
アキヒコはすぐにピンと来た。北山を死に追いやった例の薬だ。相変わらずタンデオン、いやブラッククロスは薬を広めようとしているのか。アキヒコはドアからそっと身を乗り出し、部屋を出て行った二人の男の後姿を目で追った。
アン
「(だめよ、あんな輩の言うこと間に受けちゃ、坊や。)」
突然の声に驚いてドアの反対側に目をやると、褐色の肌をした長身の女性が壁にもたれかかって立っていた。アン・モンゴメリー。真冬だというのに袖のない黒いドレスからのぞかせた腕は筋肉の塊だ。しなやかな肢体は軍隊で鍛え上げられた鋼の肉体なのだろう。
「(あいつらはあたしの所にも来たわ。5秒で追い返したけど。坊やは弱そうだからつけ込まれるのよ。あんたパーティーでシュナイザーやマユニネンと話していた子よね。どう、良かったらあたしの部屋に付き合わない?)」
「(俺はあなたに坊やと呼ばれる年ではないよ。それに連れがいるから遠慮しとくよ。)」
アキヒコは少し顔を赤らめて答えた。
「(キャハッ!ベッドの誘いだと思ってるの?悪いけどあたしは子供には興味ないわ。そうじゃなくてちょっとあんたと話がしたくなっただけよ。15分ほど付き合いなさい。)」
アンは強引にアキヒコの腕を掴むと斜め向かい側の自分の部屋に引っ張った。なんという力だ。アキヒコは簡単に引き摺られてしまう。
簡易ベッドを兼ねたソファーに腰を下ろし長い足を組むと、アンはシガレットに火を付けた。
「(遠慮なくあんたも吸えば?)」
アンの言葉にアキヒコも腰掛けてタバコを取り出した。
「(坊や、あんたやシュナイザーはどうも他人って気がしないのさ。ちょっとそこのバスを見ててごらん。)」
アンは湯を張ったバスタブを凝視する。バスタブの湯がゆっくりと回転を始めると次第に盛り上がり、小さな竜巻を作った。アンが首を振ると竜巻は音を立ててバスタブに落ちる。アキヒコは別に驚きもせずにその悪戯を眺めていた。
「(ほらね、やっぱり驚きゃしない。当たり前見たいな顔じゃないか。あたしは小さい時から周りと違ってさ、いじめられたりすると必ず今みたいな竜巻が起こったさ。他の子は恐がり始め、親にも気味悪がられて施設に預けられた。本当の親じゃなかったのさ。14で施設を飛び出すとあちこちで盗みを働いた。危ない時は何となく分かったし、のろまな大人たちの動きなんて手に取るように見えたから捕まりゃしなかった。でもある時屈強な男に首根っこ抑えられて、そいつには小さな竜巻のこけおどしなど通用しなかった。空軍少佐だったそいつは、あたしの敏捷さに目を付け、空軍の訓練施設に放り込んだ。厳しい訓練に明け暮れる毎日があたしにとっては幸せな日々だったよ。誰もあたしを恐がらず、同格で扱ってくれる。やがて戦闘機に乗るようになり、あたしは気がついたら空軍No.1の使い手と呼ばれるようになった。そんなある日、夢にあの女が出て来た。サリンルコウと呼ばれるそいつはあたし自身のようで気がおかしくなりそうだったよ。そいつは言うんだ。“2002年の始まりの日、世界が注目する競争が行われる。黄金の気を持つ者たちが集結する。お前は私。行け、参加せよ。”ってね。電話の音で目が覚めて、出たらブガッティのお偉いさんさ。まるであの女に操られたかのように、全くの素人のあたしにラリーに出てくれと頼むのさ。自分とこの車は速過ぎて戦闘機みたいだから、戦闘機乗りに操縦を頼みたいなんて変な理屈こねてね。まああたしも車は嫌いじゃないから暇つぶしにその気になったってわけさ。あんた黄金の気を持つ者なんだろ?正体を明かしてごらんよ。)」
蒼鱗龍娯。長老が口にした名前だ。アキヒコは抑えていた気を解放すると、指先で小さな黒球を作り吸いかけのタバコを投げ入れた。タバコはキラキラ光りながら消滅する。
「(多分俺たちはここで出会うよう運命付けられていたんだよ。シュナイザーやマユニネンもそうさ。俺は朱羽煌雀、もう一人のあなたに聞けば教えてくれるかもしれないよ。俺たちはお互い敵か味方かもまだ分からない。当面の間は全力で戦うライバルさ。その戦いの向うに答えはあると思う。)」
アキヒコはアンに手を差し出した。アンは頷いてその手を握り返した。
部屋のドアを開けると二人の女が腰に手を当てて待っていた。
「この浮気者!何よあんな女!」
かすみが口調とは裏腹に笑い顔でまくらを投げつける。リエも遠慮がちにそれに加勢した。3人はまるで修学旅行の子供のように枕投げに熱中した。