第1レグ・ニュルブルクリンク

 

アイフェル高原特有の深い霧に包まれたニュルブルクの森にエグゾースト・ノートが響く。1月1日午前7時。カテゴリーの枠を越え、王者を決めるドリーム・ラリーは全世界の注目を集めてオープニング・セレモニーが行われていた。このラリーはスペシャルステージにおいて複数の競技者でタイムアタックと同時にバトルを行い、トーナメントのような勝ち残り方式でステージを進めていく。最終的に4台による決勝ステージで王者を決めると発表された。第1レグ、ニュルブルクリンクのルールは2台同時スタートでオールドコースを1と1/4周し、トップでゴールを切った者が勝ち残る。ただし1周のラップタイムが首位から107%を超えた場合にはバトルに勝っていても失格とされる。組合せは抽選で決められ、1周20kmを超えるコース長を考慮して、スタートは各組4分間隔で切られる。

ペガサス・アウトモビリは最終54組、対戦相手はジャガーとなった。参加メーカーと車、そしてドライバーの紹介が順番に行われ、雰囲気が盛り上がっていく。霧が晴れた午前9時、1組目がゲートインしドリーム・ラリーの幕が落とされた。

 

「どのくらいのタイムが出るのかな。」

ペガサス・アウトモビリのモーターハウスでかすみが誰にともなく言った。

「ここは世界で一番過酷なサーキットと言われている。サーキットというよりは対向車のない峠と呼んだ方がいいかもしれない。1周20.8kmに対して高低差が300mもあるからね。路面のギャップは激しく、スピードによってはジャンピングスポットも現われる。9分を切れば大したもの。スカイラインGT-Rで8’30”ぐらいだったな。ポルシェはここの王者でたしか最近GT2が市販車レコードを更新したよ。えーと・・」

長谷川がオフィシャル用パンフレットをめくる。

「あった、7’46”17だ。コンプリートカーまで含めればゲンバラのポルシェ996が7’44”7でナンバー付き最速だ。」

「ポルシェつうのはそんなに速いのか。」

三隅が半ば呆れたように言った。

「ええ。ちなみに76年までF1が開かれてましたけど、75年にレガツォーニがフェラーリで7’06”4を記録してフォーミュラーのレコードになっています。でも全てを含めたコースレコードはやっぱりポルシェでグループCの956が6’25”91を叩き出しています。」

「凄い、タイムだけ聞いても想像を絶する速さって感じね。」

かすみがお手上げといったポーズをとった。

「今日は多分7分そこそこはいくだろうね。トップグループは。そうすると7’30”を出しとかないと107%ルールで落とされるかもしれないね。」

長谷川が傍観者のような口振で言う。

「何それ、トップはF1より速いって言うの?うちの車は大丈夫なの?」

「F1といっても25年も前のタイムだよ、そのくらいいくさ。アキヒコ君がどのくらいで走るかは見てのお楽しみかな。」

かすみの不安気な表情に長谷川は自信たっぷりに答えた。

 

1組目が計測ポイントを通過し、電光表示板に結果とタイムが現われた。“Winner No.34; Time 7’10”55”

長谷川は「ほらね」とでも言いたそうな表情でピューと口笛を吹き、パンフレットをめくって勝者を確認する。フォードGT40。かつてルマンを席捲した名車の復刻版。操るはF1ドライバー、クリス・バドフォード。2組目7’29”48、3組目 7’16”97。やはり長谷川の予測通り7’30”あたりがボーダーラインとなりそうだ。かすみが長谷川の洞察力に感心した矢先、異変が起きた。

 

10組目、明らかに今までとは次元の違うスピードで銀色のマシンが通過していった。ポルシェ996ターボ、1300馬力のモンスターを駆るのはヤン・マユニネン。会場の全員が電光掲示板に注目する。・・6’24”35、なんとグループCカーを凌ぐコースレコードの誕生だ。この瞬間前9組の勝者たちが全員トップタイムの107%を超え、失格となった。ボーダーラインは6’51”。 お祭り気分は消え去り、ドライバーたちの表情が強張る。

「(えげつないことする奴だな。いきなり振るい落としにかかりやがった。これは一波乱あるぞ。)」

コース脇で出走順番を待つアキヒコに腕組みしたシュナイザーが言った。

「(さすがの皇帝も脱帽かい?)」

アキヒコがチラリとシュナイザーの横顔を見る。

「(ハッハッ、ここを何処だと思ってる。ドイツは私の母国、余所者に好き勝手させるわけにはいかないな。)」

シュナイザーは冷静を装って余裕の口振で答えたが、抑えきれずに体の芯から噴出す黄金のオーラがその心境を物語っていた。

 

20組を終わってもマユニネンの引いたボーダーラインを上回る者は誰一人現われない。どの組もバトルというよりは完全なタイムアタックだ。相手に勝っても生き残ることは難しい。とてつもなく高いハードルを越えなければ・・。歴戦の勇者たちを持ってしてもマユニネンの足元に手をかけることは至難の技だった。

21組目、先行するランサーWRCが焦りから限界を超えて制御不能に陥った。コースをはみ出し独楽のようにスピンすると立ち木にぶつかり宙を舞う。屋根から路面に叩きつけられ炎上した。トライアルは赤旗中断。マーシャルによって引きずり出されたコブル・リチャードソンは奇跡的に軽傷で済んだ。路面に散らばった破片が取り除かれると22組目が再びコースインする。BMW・M5ツインターボに乗った皇帝の弟ラルク・シュナイザーは、大柄なボディをリズミカルに操り並走相手を遥か後方に追いやる。6’47”20、見事ボーダーラインを突破した。これが引き金となり、続けて3組が6’50”を切る素晴らしいタイムを出した。

 

第30組、黒いフェラーリ360モデナに乗り込んだ皇帝シュナイザーが軽いホイールスピンとともにスタートを切った。F1で熟成されたラウンチ・コントロールだ。優れたトラクション・コントロールシステムの恩恵で、モデナ・ツインターボは荒れた路面でも姿勢を乱すことなく理想的なラインをトレースしていく。同じイタリアのアルファロメオがあっという間にバックミラーから消え去る。ターボによって高周波の音域を消され、一味違ったフェラーリ・サウンドを奏でながら一つ一つコーナーをクリアしていくモデナ。F1の頂点に君臨するミカエル・シュナイザー見る者を圧倒する迫力で走り慣れたニュルブルクリンクを疾走する。まるで自分の城を荒らすなとでも言いた気な後姿だ。完璧な1周を終え、観衆の目が電光表示板に釘付けとなる。

“Winner No.1 ;Time 6’22”25 New Record”

マユニネンを2秒も上回るスーパーラップに津波のような歓声が湧き上がる。期待通り、いや期待を上回る両雄の火花を散らす戦いにスタンドは興奮の坩堝と化した。

 

シートベルトの締まり具合を確認するとアキヒコはナルディのステアリングを握り締めた。一瞬ユウサクが側にいるような錯覚を覚える。ギアをローに入れ、アクセルを煽りながら目の前のシグナルを凝視する。横に並ぶのは銀色に輝くジャガーXJ220。1000馬力にチューンされたミッドシップマシンのドライビング・シートに座るのはF1の古参エドガー・アルバーエン。長きに渡り皇帝の露払いを務め、今ジャガーチームのエースドライバーとして最後の一花を咲かせようと虎視眈々と狙っていた。

シグナルブルー。アキヒコはクラッチを繋ぎかけてすぐに戻した。回転が合わずにエンジンがストールしかける。0.5秒後、クラッチミートした時にはジャガーは既に悠々と走り始めていた。昨日アキヒコはここを試走し、6’55”を出している。まだ詰める余地はあるとは言え、それほど手を抜いた走りではなかった。全力を出し切って1周回れば次のステージに進めるだろう。だがスタートに失敗したアキヒコの前には厄介な壁が立ち塞がった。

スクァーラルとジャガーの加速力はほぼ同じ。コーナーリングスピードは曲がり方の違いもあるがアキヒコの方が速い。スタートでついた差はヘアピンに差しかかったときには全くなくなっていた。ヘアピンでアキヒコはアルバーエンのインを窺うが、狭い道幅と大柄なジャガーのボディ、そして老練なアルバーエンのライン取りの前に退くしかない。ヘアピンを回ったところから計測が始まった。大きな誤算、計測ポイントまでには前に出たかった。トップタイムは皇帝シュナイザーの出した脅威の6’22”。107%ルールをクリアするには6’48”台が必要だ。自由に走れれば何とかなる自信はあった。だがこの状況では・・。

アキヒコはコーナーでインからアウトからジャガーを揺さぶる。だが完璧なブロックラインを取るアルバーエンに付け入る隙を見出せない。立ち上がり競争は互角。コーナーでも直線でもアキヒコの目の前には常にジャガーのテールがあった。こんな競い合いをしていてはタイムは落ちる一方だ。先行するアルバーエンもたとえアキヒコを抑えきってもこの第1レグでおさらばとなる。なのに何故?

 

アルバーエンはシュナイザーのタイムを目にした時、既に第1レグ突破は諦めていた。ジャガーXJ220ではどうあがいても6’50”が限界。それは昨日のフリー走行ではっきり分かっていた。それだったらこの若僧を道連れにしてやろう。イタリアGPでの生意気な走りは忘れやしない。ラルクやモンパーニは甘ちゃんだ。自分だったら何があったって抜かせることなどなかったはず。それを証明してやる。アルバーエンはスタートに全てを賭け、まんまと先行することに成功した。あとは20.8kmの長丁場を完璧なブロックで抑えきるだけだ。

コースの3分の1を過ぎても事態は何の変化もなかった。アルバーエンの先行は揺ぎ無く、アキヒコの心に焦りが出始める。それがまた集中力を削ぎ、悪循環に陥っていた。

 

「もうだめだな、これは。」

タイムモニターを見詰める三隅が呟く。

「だめって何が・・」

リエが心配そうな表情で聞く。

「途中計時でフェラーリと既に27秒開いとるんだ。26秒差までがボーダーラインなんだろ?長谷川さんよ。」

「ええ。6’49”00がギリギリです。残りをフェラーリと同タイムで走れたとしても107%の壁は破れません。」

「何言ってるのよ、アキヒコがこんなところで終わるわけないじゃない。みんないいの?今までの苦労がこんなに簡単に散ってしまって悔しいと思わないの?私たちが諦めてどうするのよ。戦ってるアキヒコは絶対に諦めないわよ。」

かすみの言葉に三隅が自分の頭を拳で叩いた。

「そうだよな。あいつは諦めるような奴じゃない。最後まで全力で走るだろうよ。ワシらに出来るのはアキヒコを信じて声援を送ることだ。頑張れよ、アキヒコ!」

リエも長谷川も頷いてテレビモニターのスクァーラルをじっと熱い眼差しで見詰める。言葉の意味は分からないマルコも雰囲気を感じ取って真剣な表情だ。

 

《負けないで、アキヒコ・・》

テレパシーがアキヒコの頭に響く。かすみかリエだが、どちらかは分からない。二人が同時に送ったようにも感じる。そうだ、こんなところでもたつくようでどうするのだ。シュナイザーやマユニネンと直接対決する前に終わるわけにはいかない。その瞬間にアキヒコの頭に攻略法が閃いた。

 

“身を切らせて骨を断つ。”

剣豪が強敵に立ち向かう時の極意。アキヒコは低速右コーナーに向かう高速左全開コーナーの途中でアクセルを気持ち緩めた。

アルバーエンはバックミラーの赤いペガサス・スクァーラルがやや離れたのを見てほくそえんだ。ついに諦めたか。F1十年選手の実力を思い知ったことだろう。差が10mはついたことを確認してアルバーエンは低速コーナーに向けてのライン取りを変える。インを突かれる心配はない。最速ラインを通って奴の戦意を完全に喪失させてやる。

アキヒコはジャガーとの差を20m取ると再びアクセルを床まで踏みつける。頭に浮かぶ光のライン。完全に落ち着きを取り戻した。ジャガーのブレーキランプが点灯してもアキヒコはアクセルを緩めない。アキヒコの限界を超えた突っ込みにコース脇で見守る観衆が思わず逃げ場を探す。ブレーキが壊れたに違いない、誰もがそう感じた瞬間アキヒコは軽いブレーキングとステアリング操作でスクァーラルを横に向けた。コーナーへのアプローチを迎える前にドリフト状態に持ち込む。ジャガーとの差が一気に詰まり、テールランプが迫る。スクァーラルは4輪ともグリップを失った状態で横向きに滑るだけ。アキヒコは途切れた操り糸を手繰り寄せようと左足でブレーキをポンピングした。スクァーラルの荷重が前輪に移動しグリップが回復する。右足でアクセルを小刻みに操るとスピン寸前の危ういバランスでドリフト制御に持ち込んだ。ジャガーがコーナーに消える。スクァーラルは信じられないスピードで斜め前方への駆動力を得てコーナーを見事にクリアしていく。ジャガーのバックミラーの死角。アルバーエンの油断もありに入り、再びテールツーノーズとなったことに気付かない。スピードの差はそのまま立ち上がり加速の差に繋がった。アルバーエンが異変に気付いた時には既にアキヒコは真横に並び、一気に抜き去った。

 

『これだ!もっと速く走れるぞ。』

アキヒコは緩い高速コーナーをフル加速しながら、たった今無意識の内に行ったコーナーリングの感触を思い出す。5速から6速へシフトアップすると速度は280km/hを超え、300km/hに近付く。路面の細かいギャップをシャシー全体で発生する大きなダウンフォースとマルコの強靭でしなやかなサスペンションはものともしない。スクァーラルのギアは7速。だが、このコースでは7速に入ることはない。ファイナルギアレシオを変えてもいいが10000から13500回転の幅広いトルクバンドを持つ4ローター・ツインターボは6速で350km/hまでの速度域を十分なクロスレシオでカバーしている。7速は超高速域に備えての秘密兵器だ。

300km/hから減速しながらアキヒコは先程と同じように早めに車体を横に向ける。コーナーに入ると左足でブレーキを、右足でアクセルを操り、斜め前方への駆動力を確保しながらコーナーをインベタで回っていく。ステアリングの舵角はゼロ。驚異的なスピードを保ちながら最短距離をトレースするスクァーラルは前半で失ったタイムロスを取り戻すべく百分の1秒を削り取っていく。光のラインはアキヒコの走りの変化に応じて修正され、コーナーとコーナーをより直線的なラインで繋いで行く。ジャンピングスポットを軽く火花を散らしながらクリアし、名物のバンクコーナーをインベタのドリフトで通過する。

 

「おい、これは分からなくなったぞ。」

三隅がタイムモニターに表示された数字を見て叫んだ。

「フェラーリとの差が開かなくなった。いやさっきより0.2秒縮まってる!」

ペガサス・アウトモビリのモーターハウスから歓声が湧き上がった。

 

アルバーエンのジャガーはもはや全くバックミラーに映らない。完全なる単独走行でアキヒコはホームストレートを通過し、計測ポイントに向けて最後の力を振り絞る。ヘアピンコーナーを抜けて加速しながらフィニッシュ。アクセルを緩めながらアキヒコは満足感を得ていた。結果はともあれ全力を尽くした。悔いはない。

 

最終54組、勝者107番ペガサス・アウトモビリのタイムは6’48”71。ギリギリで第2レグ進出を決めた。トップタイムはフェラーリのシュナイザーだったが、コースの第2セクションと第3セクションの区間タイムはアキヒコが0.5秒上回った。第1レグ通過車は最終的に12台だった。

 

 

12人の戦士たち

 

96台のモンスターマシンが僅か4時間で姿を消した。勝ち残った12台は車もさることながらドライバーも猛者揃いだ。

フェラーリのミカエル・シュナイザーとポルシェのヤン・マユニネンを筆頭にF1からはBMWに乗るラルク・シュナイザー、ケーニグセグに雇われたモンパーニ、マクラーレンのハックマン、そしてランボルギーニを操るバリチェリスが、WRCからはエドニスから参戦のボーグゼルクとメルセデスのカパルーンが残り、互いに火花を散らしていた。誰もが自分こそNo.1との自負のもと、譲ることを知らない戦士たちだ。

そしてフランス空軍の現役パイロットであるアン・モンゴメリーがブガッティ・ベイロンを順当に次のステージへと導いた。彼女の強引なドライビングはあたかもF-16戦闘機で空中を闊歩する印象を見るものに与えた。彼女にしてみればスピードも横Gも普段空で体験しているものに比べれば遊びのようなものだった。

誰も予想しなかったのはパガーニ・ゾンタと日本のミツオカ・大蛇(オロチ)に乗った双子の姉妹サーシャ、マーシャ・ルビンスキーだった。ドイツ国内のツーリングカーレースで彗星のごとくデビューした彼女たちだが、並み居るインターナショナルクラスの強豪に混じっては成す術もなく敗退するだろうと思われていた。アンを含め、女が3人も残るとは普通では考えられない出来事だ。体力的な問題と反射神経の面で、女性は大きなハンディキャップを背負っているからである。

アキヒコも多くの関係者から度外視された存在だった。一部の熱狂的F1ファンは異例のスポット参戦で一時的とはいえトップを走るという快挙を記憶していたが、その後発覚したビオンディのレギュレーション違反(可変ウイング)の恩恵という烙印の前にアキヒコの実力は闇に葬られてしまったのだ。

 

第1レグを突破した12台のドライバーとその関係者たちは勝利の余韻に浸る間もなく第2レグへの準備に取り掛かった。第1レグ終了直後に発表された第2レグは、アウトバーンを舞台としたものだった。コブレンツからスイスのチューリッヒまで約500kmを第1レグのタイム順に走る。第1レグのタイム差がそのままスタートハンデとなり、先着8台が次のステージへの権利を獲得する。特に経路は指定されていない。すなわち閉鎖されたスペシャルステージではなく、一般車両の走る公道での競い合いとなるのだ。アキヒコはかすみと顔を見合わせて苦笑いした。この夏まで毎晩のように走った首都高トライアル。まるでそのドイツ版ではないか。それもこちらは公認のイベント。スピード違反を気にする必要はない。もっともアウトバーンに速度制限など存在しないが。

夕方の6時に予定されるスタートまで約5時間。各車は懸命にセッティングに挑む。メカニックとしてはギア比やサスペンションセッティングが気になるところだが、どのようにいじれば良いかは分からない。加速重視か最高速重視か、道路状況により選択が分かれるところだ。ペガサス・アウトモビリのスタッフたちは他のメーカーに比べ寛いでいた。公道を走る限りマルコは自分のセッティングに絶対の自信を持っている。特にアキヒコが乗る限りこれ以上の車はないだろう。7速のギアボックスもこの時のために用意されたようなもの。下手にいじってバランスを崩す必要はない。

アキヒコはモーターハウスで横たわっていた。追い詰められた状況で身に付けた新しいコーナーリングを頭の中で反復する。走りたくてうずうずする。今までの自分のコーナーリングを置き去りにするスピード。シュナイザーやマユニネン相手に試してみたい。うとうとしかけたところにノックの音が耳に届いた。

黒服の男たちが自信たっぷりな笑いを浮かべてアキヒコの前に立つ。昨夜の2人組だ。サングラスの男が話しかける。

「いかがです薬の効果は。素晴らしい体験ができたでしょう。」

アキヒコが薬を飲んだと確信した口振だ。アキヒコは肯定も否定もせず、だまって男の様子を窺った。幼い自分を幽閉した犯人かもしれないタンデオン、すなわちブラッククロスが何をしようとしているのか確かめる必要がありそうだ。

「また置いていきます。スタート前にお飲み下さい。」

男は餌に喰い付きかけた魚を値踏みするかのような眼つきでアキヒコを見定めるとテーブルの上に白い錠剤を一粒置いた。

 

 

第2レグ・アウトバーン

 

コブレンツ郊外。アウトバーンへの侵入路がライトアップされる。ドリーム・ラリー第1レグを通過した12台のスポーツカーが煌びやかな肢体を並べている。侵入路に近い位置にフェラーリが控え、ポルシェ、マクラーレンと続く。アキヒコの乗るペガサス・スクァーラルはBMWの隣、12番目の位置だ。助手席ではかすみが急遽取り付けた衛星ナビゲーションシステムの動作を確認している。ナビゲーターの同乗は義務ではなかったが、止めても無駄なことはアキヒコが一番良く知っていた。

午後6時。激しいスキール音とともにミカエル・シュナイザーのフェラーリ・モデナ・ツインターボがスタートした。1100馬力に耐えかねるタイヤがセカンドギアでも軽いホイールスピンを起こしていく。トラクション・コントロールがなければ真直ぐ走らせることさえ困難かもしれない。迫力あるエグゾーストを響かせて、フェラーリは視界から遠ざかっていく。

2秒後、ヤン・マユニネンのポルシェ996ターボが続いた。1300馬力に対して4駆をベースに選んだのはさすが実用第一主義のポルシェだ。スタートダッシュで明らかにフェラーリを上回る。15秒の長い空白をおいて3番手のマクラーレンF1が走り出した。青いブガッティ・ベイロンがすぐに続く・・。26秒をこれほど長く感じたことはなかった。走り去るBMWのテールを睨みながら、振り下ろされたグリーンフラッグと同時に満を持してアキヒコがクラッチを繋いだ。

 

本線に合流するとひたすらアクセルを床まで踏みつける。100m前方にラルク・シュナイザーのBMWが見える。3車線の広い整備された路面。首都高湾岸線を思い出すが、木々に囲まれた景観は無骨な湾岸線とは似ても似つかない。チューリッヒに向かうには最終的にフランクフルトから真直ぐに南下するアウトバーン5号線に乗ればよい。バーゼルを経由して一本道の快適なドライブが楽しめる。5号線への合流は何通りかあるが、この61号線で5号線にぶつかるまで走るのが最短コースだろう。今日は日本でいう元旦、交通量は少ない。上空に見えるヘリコプターはテレビの中継だろうか。

アキヒコはドライブに集中する。いつもの光るラインがアキヒコを導く。緩いカーブは一般車にとっては直線にしか感じないだろうが300km/hを超える速度では緊張したステアリング操作が必要だ。6速でアクセルを踏みつけるとスクァーラルはなおも矢のように加速し、350km/hに達した。ギアを7速に放り込む。一瞬11000回転にドロップしたタコメーターの針は再びジリジリと上がりだす。BMW・M5のテールランプが徐々に大きくなってくる。流石に箱型のボディは最高速には不利なようだ。車間が30mを切った辺りでスリップストリームが効き出し、エンジン回転が上昇しだす。BMWをかすめるように抜き去ると、空気の壁が出現し、まるでブレーキがかかったような錯覚を覚える。実際には速度は落ちていない。加速が急激に鈍っただけだ。速度は390km/h、アキヒコにとって未知の領域。

追い越し車線を地を這うように低いテールランプが突き進んでいく。ランボルギーニの威信を賭けた新作ムルシエラゴだ。鬼面カウンタックとディアブロの流れを汲んだ後継機種だが、実際にはランボルギーニのブランド名で出したアウディの作品と言ってよい。中身もスタイルもランボルギーニらしい奇抜さは窺えず、ある意味オーソドックスなスーパーカーだ。だが、その分細部まで煮詰められたまとまりの良さはこういう実戦で威力を発揮する。ドライバーはフェラーリで皇帝シュナイザーのパートナーを務めるバリチェリス。ラテンの血はここ一発の速さで皇帝をも脅かす。

アキヒコはムルシエラゴの背後にスクァーラルで忍びよる。車間距離は60m、速度395km/h。道は緩く左にカーブし、アクセルを僅かに緩める。加速力ではムルシエラゴがやや上回るらしい。370km/hからの競争でジリジリと差を開いていく。フッとムルシエラゴのテールランプが消えたように見えた。前を走るメルセデスベンツSLRを避けたのだ。380km/hでのレーンチェンジとは思えない大胆さでバリチェリスは2車線吹っ飛んでいた。アキヒコはムルシエラゴを追わずにベンツSLRの真後ろを選んだ。車間距離がじわじわ詰まり、スリップストリームに入る。SLRを運転するのはWRCドライバー・カパルーン。普段とは全く異なるこのステージでは彼の実力を発揮する機会はなさそうだ。一気に差を詰めるとアキヒコはバリチェリスのように2車線横っ飛びして抜き去る。アキヒコの場合は光のラインに従っただけだ。真中の走行車線を200km/hで走るベンツ550が後方に流れるのが見えた。

ムルシエラゴはアキヒコの80m前方だ。速度はついに400km/hを超えた。景色が溶け、もの凄い勢いで後方に流れ去る。追い越し車線前方に一般車を見つけ、ムルシエラゴのアクセルが僅かに戻る。スクァーラルは車間を詰めてスリップストリームに入った。これを追い越せば9位、あと1台で勝ち残り圏内だ。

 

「楽勝じゃない?走り出して数分なのにもう2台も追い越したわ。この分なら一気にトップに立てるかもね。」

かすみがエンジン音に負けないよう大きな声で話しかける。

「この車の燃料タンクの容量を知っているかい?100リットルさ。全開走行を続ければ燃費は2km/lぐらいだ。この第2レグの走行距離は約500km。途中2回の給油が必要になる。」

アキヒコが前方を見詰めながらかすみに言った。一瞬の気の緩みが命を奪うことになりかねない。

「それはみんな一緒でしょ?」

「そうとも限らないさ。燃費は同じぐらいとしてもタンクが150リッターなら1回の給油で済むだろ?給油自体に3分程度かかるとしてロスタイムはおそらく4分近くなる。」

「じゃあ4分も後続を引き離さないとだめかもしれないのね。」

アキヒコが黙って頷く。ライバルたちの燃料タンクがどのくらいの容量かは分からない。それだけに自分以外は1回ストップと考えておいた方が賢明だ。事態の深刻さを知ってかすみも黙り込んだ。

 

ムルシエラゴが再びレーンチェンジすると、目の前に漆黒の曲線美が現われた。オロチ、ミツオカ自動車から突如送り出された和製スーパーカーだ。市販時に600馬力を予定するエンジンは900馬力にチューンされている。今度はアキヒコもムルシエラゴと同時にレーンチェンジしてオロチを一気に追い越す。運転席には若い女が座っている。双子の姉妹マーシャ・ルビンスキー。マーシャは微笑を浮かべながらこちらを見た。かすみはマーシャと視線が交わった瞬間背中に冷気が走り、何とも言えない劣等感と嫉妬に支配された。自分はこんなスピード出せやしなかった。300km/hが精一杯。たとえ車の性能が十分あったとしてもアクセルを踏み込む勇気はなかったろう。アキヒコの助手席でなかったら不安感で叫びだしそうだ。400km/hを超える非現実的世界もアキヒコと一緒なら大丈夫。でも・・

「最近リエさんといることが多くなったわよね。」

かすみは揺れる気持ちを抑えきれずに口に出した。今そんなこと話題にすべきではないのは頭では十分理解しているのに。

「彼女があなたを見る眼、あれは明らかに愛しい人を見詰める眼差しだわ。」

どうしてこんなこと言うのだろう。かすみは自分が自分でないような気がした。

アキヒコはチラリとかすみを見る。その頬には涙が伝っていた。すぐに正面を向きなおすが心に動揺が走る。ムルシエラゴとの車間距離は僅か10m。集中が切れたら終わりだ。

「俺が愛しているのはキミだ、かすみ。リエはもう関係ない。」

「呼び捨てにするのね、彼女を。夏まではそんなことなかったのに。」

感情的な口調に涙が止まらない。

「どうして欲しいと言うんだ?俺を信じてくれないのか?」

前方には大型トレーラーが見える。乗用車が3台それを追い越すために車線を変えている。5秒後には追いつきそうだ。

「彼女には敵わない、何もかも。私にはあなたを引き止めておける魅力などないわ。」

アキヒコは複雑な光のラインをトレースするために軽くブレーキを踏んでステアリングを切った。3車線が塞がっている。ムルシエラゴは2台の乗用車の中央突破、アキヒコは狭い左からの追い越しを狙う。道は緩い左カーブ、追い越し車線を走るフォルクスワーゲンと中央分離帯の隙間をミラーを擦りそうになりながら時速370kmですり抜ける。前方追い越し車線にはWRCドライバー・ボーグゼルクが操るエドニスがいる。今度は左から抜く隙間はない。すぐさま右にステアリングを切り、流れ出そうとするタイヤを微妙なアクセルコントロールでくいとどめる。中央突破を図ったバリチェリスのムルシエラゴは微妙なカーブの曲率でアキヒコに遅れをとった。中央車線に縦に並んだ2台の順位が入れ替わる。これで5台を抜いた。前方が再びクリアになり、アクセルを全開にする。

 

「どうして自分に魅力がないなんて思うんだい?キミにいったい何人のファンがいると思ってるんだ。」

ヘッドライトに照らされた路面を凝視しながら、アキヒコは途切れた会話を続けた。100m先に見える縦に2つずつ並んだ丸いテールランプはパガーニ・ゾンタだ。

「何万人のファンがいたって関係ないわ。私にとってはアキヒコが全てなのよ。アキヒコの気持ちが彼女に傾くのが不安なの。」

かすみはスリリングな高速バトルの緊張でようやく涙が止まったようだ。アキヒコは軽く溜息をつく。

「俺にとって木暮かすみは雲の上の人だったんだぜ。そのお姫様が今自分の側にいて俺を好きだと言ってくれる。これ以上の幸せはない。この気持ちが分かったら給油ポイントでも確認しておいて下さいな、お姫様。」

かすみはアキヒコになだめられて心の劣等感が薄らいだ。ナビゲーションシステムには道路を示す青いラインに白い輝点が11個。ライバルたちの現在位置だ。そして自分を示す赤い光は後方集団のほぼ真中にある。集団からかけ離れた位置に2つの点が先行する。皇帝シュナイザーと貴公子マユニネンの2台だ。ボタンを操作して広域表示にすると全体の地理が分かってくる。

「スタンドは”G”の記号ね。約50km毎にあるわ。あとどのくらい大丈夫なの?」

アキヒコはオドメーターをチラリと見た。

「今50km走ったところだからまだ先だな。あと150kmはいけるけど、ガス欠になったらお終いだから少し余裕が欲しい。」

「130km先にあるわ。そこがちょうど良さそうね。」

かすみは左手に握り締めたストップウオッチを見た。スタートして約9分、平均時速330kmの計算になる。アキヒコは落ち着きを取り戻したかすみに安心した。

 

スクァーラルをパガーニ・ゾンタのスリップ・ストリームに入れるとゾンタに吸い寄せられるように車速が伸びていく。速度計は再び400km/hを超えていく。十分な速度差を確認するとスリップを出て一気にゾンタを抜きにかかった。運転席の女が抜かれざまこちらを見る。さっきのオロチのドライバーと瓜二つ、双子の姉サーシャだ。こんな速度で横を見る余裕があるとはなんて女だろう。

かすみは突然悪寒を感じた。さっきもそうだった。ミツオカ・オロチのマーシャを見た時・・。まただ、かすみはギュッと目を閉じて首を強く振った。得体の知れない嫉妬感に襲われる。

「リエさんと何でもなかった証拠を見せてよ。」

かすみの口から意志に反して言葉が出る。アキヒコは怪訝な表情でかすみを横目で見た。かすみは両目に涙を溜めて首を横に振っている。まるで自分が言っているのではないとでも言いたげな仕草。手で口を抑え、言葉を切る。激しい目眩と頭痛に耐えられなくなりそうだ。ただならぬ様子にアキヒコは左手を伸ばしてかすみの肩を抱こうとした。かすみがそれを振り払う。ドライビングに支障をきたしてはならない。

《ヒコ、どうしたの?ヒコ。》

頭に木霊するリエ、白布衣夜子のテレパシー。閉じた目に映像が浮かぶ。木々に囲まれた中アキヒコと手を繋いで歩く誰か・・自分ではない、リエの記憶だ。行った事もない樹海の様子が鮮明に見える。とても暖かい気持ち、アキヒコへの深い愛を抱きながら決して奪おうなどとは思わない。何て人、かすみの嫉妬心が急速に消え失せ、目眩と頭痛も遠退く。目を開くとようやくの思いで自分の言葉を告げた。

「大丈夫、気にしないで。運転に集中して、アキヒコ。」

 

後方からアウトバーンを疾走する改造トレーラーの中、リエは額に脂汗を浮かべていた。吐き気に襲われ洗面台に駆け寄る。

「どうした?大丈夫かい?」

長谷川が声をかけると蒼ざめた顔でもたれかかって来た。長谷川は細身の体を抱きかかえて簡易ベッドに横たえる。

「かすみさんが・・危なかったのです。何かに心をコントロールされかかりました。」

ハンカチに汗を吸い取らせるとリエは体を起こして言った。

「何故そんなことが分かるんだい、それに具合が悪くなったのはキミじゃないか。」

長谷川の問にリエは首を横に振る。

「突然かすみさんの異変を感じたのです。反射的にかすみさんに意識を飛ばしました。そして気が付いたら彼女と一瞬一つになり、心を覆いかけた暗く冷たい影を撥ね退けたのです。少々ダメージを負いましたが。」

長谷川の優しさについつい甘えて普段より口数が多くなる。

「元はと言えば私がいけなかったのです。昨夜アキヒコさんのところにタンデオンの者と称する男たちが現われて“レースに勝つ薬”を置いていきました。もちろんアキヒコさんはそんなもの見向きもしません。でも私はその薬の効果を知りたかった。それでかすみさんと2人で半分づつ飲んでみたのです。」

長谷川はタンデオンと“レースに勝つ”という言葉を以前に耳にした気がした。何処で・・そうだ!

「ひょっとして北山さんが箱根の別荘でしていた話と繋がりがありそうだね。」

ルシフェルの告白を聞かなかった長谷川は薬の真相までは知らない。リエは暫く考え込むとゆっくりと頷いた。

「結果的に北山さんを死に追いやった薬と思われます。」

「なっ、何だって!?」

長谷川が思わず叫ぶ。やや離れた場所にいる三隅が振り向く。

「どうしたい。」

リエは三隅に大丈夫という合図を送りながら落ち着き払って長谷川に説明した。

「一粒や二粒飲んだところで命に別状はありませんわ。長年の蓄積が問題なのです。薬の成分は専門家に調べてもらえば分かるでしょう。でも私たちはタンデオンの狙いを知りたいと思ったのです。かすみさんのお蔭で氷山の一角が見えた気がします。」

 

 

給油所の明暗

 

小さく光るテールランプが次第にはっきり見えてきた。マクラーレンF1。あの伊豆スカイラインで北山がドライブした車だ。3番手でスタートしたが2台に抜かれたようだ。まだ顔色の冴えないかすみを横目に素早くナビゲーション・システムのモニターを見る。後10km程で予定の給油地点に差し掛かる。時間にして2分弱、ここで給油する車は2回ストップの必要なグループだ。はたして何台いるのだろう、既に抜き去った車たちが2回ストップならば楽な展開となるのだが・・。

F1ドライバー、ハックマンのマクラーレンのスリップ・ストリームに入るのに30秒を要した。空気抵抗が消え、車速が上がり始める。誤差1%未満の優れた速度計は400km/hの更に先に足を踏み入れていく。抜いた。これで5位に浮上、だがトップグループは見えない先にいる。

給油ポイントまで2km・・1km・・500m・・アキヒコは右側に車線を移すとフルブレーキングで減速した。タイヤがロックし、暴れだそうとするスクァーラルを巧みなステアリングとブレーキ操作で留める。

「すぐに給油準備に入れるように頼むよ、かすみ。」

かすみは頷くと体に残る疲労感を撥ね退けるように勢いよくシートベルトを外す。セルフ形式のスタンドに飛び込むと3台の給油機の手前から2台は塞がっていた。ブガッティ・ベイロン、そしてケーニグセグ。トップを走るフェラーリとポルシェはいない。1回給油で行けるのだろう。アキヒコは一番奥の給油機にスクァーラルを止めると、急いでボディを跳ね上げ、バケットシートから飛び降りる。既にシートベルトは外していた。かすみも全速力でカウンターへ急ぐ。オフィシャルから発行されたフリーパスカードを差し出すと給油機のロックが解除された。アキヒコは素早くノズルをスクァーラルの給油口に差し込む。プレミアムガソリンが毎秒約0.5リッターの速さでタンクに注ぎ込まれる。じれったい時間。

「(ふふ、坊や、随分遅い到着だこと。あたしはもう行くわよ、後も支えた事だしね。ごゆっくり。)」

アンがベイロンに乗り込みながら声をかけた。振り向くとムルシエラゴとエドニスがエンジンを空ぶかししながら給油機が空くのを待っている。こんな事態があろうとは・・彼らを抜いておいて良かった。こういうタイムロスは一番精神的に焦りを生む。彼らにしてみれば塞がった給油機を見た瞬間、絶望に近い気分を味わったことだろう。かといって素通りは出来ない。次の給油所までは60km近くあるのだ。途中でガス欠になるかもしれない危険なギャンブルは打てない。ベイロンに同乗したスタッフが給油ノズルを元に戻すと助手席に飛び乗る。タイヤを軋ませて急発進、約1分アキヒコより先行している。平均速度が30km/hは違うことになる。

待ちわびたムルシエラゴが怒りを露わに空ぶかししながら空いた給油機の前に車を進める。続いてモンパーニの乗ったケーニグセグが発進。エドニスにようやく給油の順番が回った。

カチッと給油ノズルの止まる音がした。洗面所で気分を癒したかすみは既にシートベルトを装着している。アキヒコはスクァーラルに乗り込み、エンジンを始動すると車を発進させながらボディを降ろす。アクシデントのせいで、少なくともこれで2台は確実にパスした。あとは1回給油組との位置関係が問題だ。抜いてきたグループでも3分は先行していることだろう。トップ2台に至ってはどのくらい差をつけられているか分からない。勝ち残るためにはあと2台前でゴールしなければならない。厳しい戦いになりそうだ。

 

 

悪天候

 

アウトバーン5号線に合流すると全ての車が1回の給油を済ませ、順位が再び入れ替わった。アキヒコより前を走るのは4台。トップを走るのは戦闘機パイロット・アンのブガッティ。スタート時の15秒以上の差を逆転していた。皇帝シュナイザーのフェラーリ、貴公子マユニネンのポルシェがほぼ並んで続き、F1界の暴れん坊の異名を取るモンパーニ操るケーニグセグがやや離れた位置にいる。アンとアキヒコの差は約1分30秒。じりじりと開かれているようだ。

5号線はやや交通量が多く、ペースダウンを余儀なくされた。250km/h程度でスラロームしながら一般車をかわして行く。クリアになった瞬間を逃さずにフル加速し、再び減速して巡航速度に戻す。アキヒコにとっては有難い状況と言えた。前半のような最高速争いでは車の性能がほぼ全て。1000馬力を超える怪物マシンたちとの差はいかんともし難かった。今は違う。一般車を縫って走るライン取りは何通りもあり、そのどれを選ぶかで微妙にタイムに影響が出てくる。アキヒコはC1や湾岸線での走りを思い出しながら神経を路面に集中させた。光のラインが浮かび上がる。数秒後の出来事をも予期してはじき出された最適・最速ラインだ。さらに加速が要求されない場面では極力7速にホールドした。約8000回転、この回転域では燃費が格段に良くなるはずだ。少しでも余裕を持たせれば給油ポイントの選択肢が出てくる。

「綺麗ね。テールランプが星のように煌いて。その中を廻るように走る私たちは流れ星みたいね。」

かすみがぽつりと言った。周りにライバルたちの姿も見えず、2人でアウトバーンをドライブしているような気分にもなってくる。

「流れ星か。じゃあ俺たちは願いをかなえる神様かな。」

アキヒコも少し緊張を緩めた。1時間もこんな状態が続いたらへとへとになってしまうだろう。

「願いをかなえて欲しいのは私よ。」

かすみは小声で呟いた。

「えっ?聞こえないよ!」

アキヒコが大声で聞き返したが、かすみは笑ってごまかした。

緩く左にカーブする遥か先で赤いブレーキランプの点滅が見える。1台や2台ではない。走行中の全車両がブレーキを踏んでいるようだ。

『事故か?』

アキヒコはハイスピードのスラロームを続けながら、カーブの先に神経を集中して予測する。例え事故であったとしても何とかすり抜けなければならない。頭に浮かぶ白いラインは途切れることなく続いている。道が塞がれていることはなさそうだ。では何がブレーキを踏ませているのか・・。

 

その答えはすぐに判明した。突如襲いかかる吹雪に視界が遮られる。先行車がブレーキを踏み、急減速する。雨は降り始めが一番厄介だ。路面の埃が浮き上がり、滑りやすい状況を作り出す。ましてやこの雪、路面に積もるにはしばらく時間がかかるだろうが、シャーベット状の落し物は簡単に車の足元をすくって制御不能に陥れる。アキヒコもブレーキを踏んで車速を落とした。

「ひょっとしてアキヒコ、雨とか嫌いでしょ。」

かすみは心配になって訊ねた。アキヒコと知り合って9ヶ月、(正しくは再会して9ヶ月だが、)一度たりとも雨の日に運転してところを見たことがない。

「ああ、嫌いだね。」

絶望的な気分がかすみを襲う。みんなの夢の結晶、ペガサス・スクァーラルもここまでか。

「走った後すごい汚れるもんな。すぐ洗ってやらないと落ち難くなるし、面倒くさいよ。」

アキヒコはステアリングを切りながらアクセルを少し開ける。スクァーラルはドリフトしながら2台の車の間を通り抜ける。

かすみはポカンとした顔でアキヒコを見つめた。

「何それ、苦手だから乗らなかったんじゃないの?いつも雨が降ると私の助手席にいたのはそういう理由なの?」

「何時苦手だなんて言った?俺の走りはドリフトが基本だよ。滑りやすい路面はむしろ大歓迎さ。」

アキヒコはかすみにウインクして見せた。

「憎たらしい!もう二度と雨の日に迎えに行ってなんてやらない!」

かすみは頬っぺたを膨らませてアキヒコの肩を拳で何度も叩いた。目には裏腹に安堵の微笑を浮かべながら。

 

アキヒコの視界に周囲の車は映らなくなった。極度の集中、かつて湾岸でルシフェルのエスティマを追ったあの時の感覚が蘇る。目の前に広がるのは幅2m程のクネクネと曲がった光るワインディングロード。スクァーラルを斜めにしながらハイスピードでその道を走り抜けていく。アクセルを調整しながら左足でブレーキを軽く踏む。例のニュルブルクリンクで会得したコーナーリング、微妙な荷重移動がスクァーラルの限界をさらに高めると光のラインが形を変えていく。素早いステアリングとアクセル操作でアキヒコはそれに対応する。マルコの作り出したしなやかな足回りがもっとも本領を発揮するのはこういう場面だ。限界でドリフトしながらもアキヒコの操作に確実に反応する。ギアはいつもより1段高めだ。あり余るパワーはトラクション・コントロールのないこの車には今は邪魔なだけ。レスポンスは多少劣るが低めの回転で急激な挙動変化を極力防ぐ。

ワイパーを持たないスクァーラルは雨や雪に対して特別な配慮をしていた。ガラスの代わりに嵌め込まれた透明な紫外線硬化樹脂は水の接触角がほぼ0度。つまり水滴は薄い膜となって広がり、粒をなさないのだ。エンジンの放熱を利用したデフロスターは雪を溶かして水に変える。スクァーラルに乗る限りフロントウィンドウは常に良好な視界を保つ。前走者の巻き上げる水幕がなければ、雨に気づくこともないだろう。

 

予定の第2給油ポイントが近付く。かすみが指示通りにアキヒコにそれを告げた。

「・・でも、燃料計の針はさっきより全然余裕よ。壊れたのでなければ給油がいるとも思えないけど。」

かすみの言葉にアキヒコは燃料計を確認した。針は残り3分の1辺りを指している。給油後約200km走行した。残りは100km強、針が正しければ確かに微妙なところだ。高めのギアを使ったことがスクァーラルの燃費を良くしているのだろう。

「うん。ひょっとしたら給油なしで走り切れるかもしれない。まだこの先にも給油所はありそうだな。ここはパスしよう。」

アキヒコはそう答えると再び前方に全神経を集中させた。このままなら第2レグも通過できる。あとは第3レグに向けてトップグループとの差を広げられないことだ。

かすみは気づいていたが、アキヒコには教えなかった。1分程前に白く低い車を追い越した。ケーニグセグCCV8S、モンパーニの驚いた顔が忘れられない。トップとの差も確実に詰まっている。このまま行けばひょっとして・・。

 

 

水柱

 

斜めになりながら3車線を横切ると水飛沫を上げながら加速していく。一瞬のブレーキランプの点滅の後、再びリアタイヤをスライドさせてスローペースの2台の間をすり抜ける。周りから見たらスクァーラルはぶつからないのが不思議なくらいだった。アキヒコにしてみれば脳裏に浮かぶ光のラインを忠実にトレースしているだけだ。もっともこの滑りやすい状況で、幅の狭いラインをドリフトでトレースしていくこと自体驚異的なテクニックだが。

かすみはナビゲーション・モニターでライバルたちとの位置関係をチェックした。スクァーラルの後2kmまでには後続車の影はない。前方100mに2台の軌跡が重なっている。そのさらに100m先に1台。差は確実に縮まっている。フロントスクリーン越しに前方を見ると派手に蛇行する2つのテールランプが確認できた。どちらも丸型、ポルシェのものではない。とすればフェラーリとブガッティ、またもやトップは入れ替わっている。アキヒコの横顔をちらりと見ると完全に集中し切っている。教えるべきか迷っているとアキヒコが呟いた。

「なんだい、まだこんな所をうろついていたのか。」

光のラインを交互にクロスしていく2台は否が応にも視界に纏わり付く。言葉とは裏腹に、アキヒコは半ば諦めかけていた遭遇に対する嬉しさと闘志を隠せなかった。いよいよ直接対決が出来る。皇帝シュナイザー、そして蒼き龍の遣いアン・モンゴメリー。

じわじわとスクァーラルは先行する2台に近付いた。もう手を伸ばせば届く距離だ。アキヒコの全身の毛穴が開き、アドレナリンが体中を駆け巡る。まずはアン。ブガッティ・ベイロンの真後ろに付けるとアキヒコはパッシングライトを点滅させて戦いの狼煙を上げた。

アンはベイロンのパワーを吸い取るような雪と周りの邪魔な車たちにいらいらしていた。気持ちはもっと速く走りたい。だが僅かな隙間を見つけて右足に力を込めるとタイヤの空転を察知したトラクション・コントロールが燃料をカットしてエンジン回転の上昇を抑えてしまう。TCS(トラクション・コントロール・システム)をオフにすると、路面に伝えるべきパワーは行き場を失い自分自身に跳ね返る。簡単にスピンに持ち込まれそうなベイロンと格闘している間に隙間は塞がれ、次のチャンスを待つことになる。それよりは暴れ馬をなだめすかす役割をTCSに委ね、追い越すチャンスを確実にものにしたほうが良さそうだ。

後に追いやったはずのマユニネンのポルシェが嘲り笑うかのように追い越していった。やや間をおいてシュナイザーのフェラーリにも攻めたてられ、かわされた。これが世界のトップに君臨する男たちの力なのだ。F-16に乗った自分に敵う男はいやしない。複雑な計器を素早く読み取りながら3次元の姿勢をコントロールしていく戦闘機の操縦に比べれば、車なんて地面を這うだけのまどろっこしいおもちゃ。そう思っていた20分前までの絶対的な自信は根底から覆された。そして今度は例の坊やだ。いったい自分と何が違うと言うのだ。

 

アキヒコはアンの走りを数秒間観察すると一度車間を取った。意を決して追い越すプログラムを組み立てる。走りはまだまだ隙だらけ、絶対的なパワーでは負けるが、それを生かしきれないこの状況では大したことはなさそうだ。水に足を取られてもがき苦しむベイロンの後姿が切ない。

『水・・』

アキヒコの頭に昨夜の映像が浮かぶ。ある不安がよぎり、右足に込めかけた力を一瞬抜いた。次の瞬間、ベイロンの後輪から水柱が立つのが見えた。水柱は左右と後方に広がり、渦を巻いて竜巻になっていく。

「何あれ!」

かすみが声を上げた。竜巻は瞬く間に10mの高さとなり、ペガサス・スクァーラルに襲いかかろうとした。加速を始めていたら間違いなく飲み込まれていただろう。アキヒコは素早くステアリングを切るとスクァーラルをハーフスピン状態に持ち込み、真横になりながらラインを変える。竜巻はスクァーラルの鼻先をかすめ、後方に移動していった。放っておいたら大変なことになりそうだ。アキヒコは後続車両がやや離れていることを確認すると、竜巻の進む先に精神を集中する。夜の暗闇に紛れて大き目の黒球が出現した。竜巻は漆黒の玉に触れるとキラキラと線香花火のような光を発しながら消えていく。降りしきる雪に光が乱反射してダイヤモンドダストのような神秘的映像を繰り広げる。後続車両がそこに差しかかった時には竜巻も黒球も誰にも知られることなく既に消滅していた。アキヒコはスクァーラルを1回転させながらそれを確認すると、再び体勢を整えてベイロンの追撃に入った。

 

アンの行為は無意識のものだった。いらいらが次第に募り、堰を越えて具現化したのだ。ベイロンのタイヤに絡みつく水は竜巻と化して後方に消え去り、グリップを得たマシンはホイールスピンを起こしながら急加速した。この状況ではあり得ない加速に、アンは自分が引き起こした事態を理解した。バックミラーに遠ざかる竜巻が映る。どうすることも出来ない。止める手段が見当たらない。アンに出来ることはただ祈るだけだ。雪に消え行く竜巻が一瞬光ったように見えた。

戦意を失ったアンの横にアキヒコが並んだ。ニヤッと笑うとウインクして見せる。アンにはそれで十分だった。手を上げてアキヒコに感謝の意を表した。アキヒコも手を上げると、付いて来いと合図した。アキヒコは再び前方の路面に精神を集中させる。光のラインが浮かび上がると走りのリズムを整えて滑らかにスクァーラルをそこに乗せた。アンはアキヒコのリズムに合わせてベイロンで追い駆ける。今までのいらいらは一変し、気持ち良さが心に広がって来る。自分が知らなかった世界、まるで空を飛ぶような気持ち良さ。アンの目に知らず知らず涙が浮かぶ。初めて誰かと心が通じ合った喜びの涙が・・。

 

 

死の接吻

 

赤い絨毯の敷かれた薄暗い螺旋廊下の突き当たりから灯りが洩れている。中世の風格を備えた広い城の一室、中からはカチャカチャとキーボードを叩く音が聞こえてくる。

「(エネルギー波を捉えたというのは確かか。)」

円形のホールのような部屋の中央に置かれた大型のスーパーコンピューター。それを取り囲む100台近いワークステーションは壮大な眺めだ。世界のあらゆる情報をリアルタイムに収集し、解析し、分類していく。コンピューター同士を繋ぐケーブルが神経細胞のように張り巡らされている。今ここのコンピューターの7割はドリーム・ラリーを見張るために作動していた。銀色の長髪を靡かせた長身の男がそれを指示している。

「(はい。かなりの量のエネルギーが一点に凝集し、すぐに消滅しました。アウトバーンの真中にまるで核爆弾でも落としたかのようです。核と違うのは周囲への放射がないこと。こんな現象は見たこともありません。)」

「(どう致しましょう、メフィスト様にお伝えした方が宜しいのでは?)」

「(なあに、慌てることはない。それ程のエネルギーを意のままに操る者が参加者にいるのなら黙っていてもこの城まで辿り着くだろう。それこそが我らの狙い、この世の全てはメフィスト様の足元に跪くのだ。)」

 

突然ずっしりと肩に重さを感じ、意識を失いかけた。反物質を操ることはアキヒコに想像以上のダメージを与えていた。生命力の源、オーラを1点に凝集させて空間の磁場を捻じ曲げる。歪が極限に達した時、時空を遮る磁力の壁にピンホールが生じ、もう一つの世界と繋がるのだ。ピンホールが塞がれる一瞬の間に、噴出す反物質が球体を形成する。ピンホールを開ける位置が自分から遠いほど、そしてピンホールを維持する時間が長いほど、オーラは消耗する。今アキヒコは立っていることも出来ないほど疲れ切っていた。だが本能が止まることを拒否し、アクセルを踏み続ける。

「かすみ・・」

アキヒコは絞り出すような声でかすみを呼んだ。憔悴し切ったアキヒコの顔にかすみは驚いた。一瞬老人のように見え、目を擦る。

「なっ、何があったの?アキヒコ。」

「頼みがある・・キミの力を俺に貸してくれ・・このままではもうだめだ。」

この短時間の間に自分には理解出来ない何かが起こったことを知り、かすみは狼狽する。

「どうすればいいの?」

アキヒコの極限に追い込まれた体の欲求が、意志を超えて言葉となる。

「オーラを吸いたい・・キミの息吹を俺に吹き込んでくれ。早く・・」

上手くいくのかも分からない。かすみの身に何が起こるかも・・。だが今はもはや考える余裕はなかった。

かすみはゆっくりと頷くとベルトを外し、アキヒコの唇にキスをした。目を閉じて息を吹き込む。双子のルビンスキー姉妹から受けたダメージが残る体から急激に力が抜けていく。遠のく意識の向こう側に魅力的な光が見える。死への旅路に足を踏み入れてしまった・・。でもアキヒコのために死ねるならこれでいい。頬に一筋の涙が伝う。口元に笑みを浮かべながらかすみの顔は生気を失っていた。

 

アキヒコは体に流れ込むオーラを感じた。見る見る力が漲って来る。かすみの暖かさがそれを増幅しているようだ。こんなことが出来るとは思ってもみなかった。朱羽煌雀としてのステップを一つ登った自分を感じながら、それと引き換えにぐったりと蒼ざめてしまったかすみを片腕に抱くと、そっと助手席に寝かせる。

『ありがとう・・かすみ。』

オーラの吸収を体験した体はまだまだ空腹感を訴えてくる。今までのアキヒコ自身のオーラなど本来の朱羽煌雀にしてみれば無に等しいのだろう。

「馬鹿野郎!」

アキヒコは自分を罵ると掌にオーラを凝集させた。フッと目の前が暗くなる。かすみは自分を犠牲にして全てをアキヒコのために投げ出してしまった。今は意識を保つのに必要最低限があればいい。黄金色に輝く掌をかすみの左胸に当てると、気合を込めて放出した。ビクンとかすみの体が波打ち、心臓が鼓動を取り戻す。ほんのりとしたピンク色を取り戻したかすみの頬を安堵の表情で見守ると、アキヒコはドライビングに意識を集中させた。

 

 

 

 

[第二部⑥へ続く]