アカ

 

 トモヤは防護マスクの下で満足な笑みを浮かべていた。長いようで短い道のりに感じる。目の前に真紅に仕上がったロータスヨーロッパはオリジナルとは全くの別物だ。感動が込み上げてきて涙が滲んだ。

「おいおい、そんな泣くほどのことなのかよ、やっぱり俺には分からねえなあ」

雪宮が腕組みして立っていた。

 

 あの日、雪宮の剣幕は凄かった。一番でないと気に入らない。弟分にしてもいいと思っていたジャガーEタイプの通称悪魔に勝ち逃げされた。「誰かよお、とんでもねえアイデアでもねえか」と作業場を歩き回った。かつて軽自動車のシャンテに12Aロータリーターボまで積んで世間を驚かせたが、所詮は大衆車ベースのせいかチューニングカーとして王座に君臨するものではない。RE雪宮の「こういうことも出来るぞ」という技術力をアピールしたものだ。その甲斐あって、板金屋からロータリーのカリスマと呼ばれるまでにのし上がった。だが車は商売であり、いじって仕上げてナンボだ。悪魔や、あるいは吉見のように一台に執着する気持ちがいまいち理解出来ない。

「あのぉ…」

アルバイトで雑用を手伝っていたトモヤは恐る恐る切り出した。

「俺、車体は確保してるんですけど、社長の秘蔵の13Bペリ、それに積ませてもらえませんか?」

その車体とは、トモヤの憧れだったロータスヨーロッパ、それもS2であった。近所のヨーロッパ専門のボディーショップに置かれているのを見つけて何の計画もなしに衝動買いしてしまったのだ。希少な車だけに手頃なものに出会える機会はそうそうない。

 ロータスヨーロッパは天才コーリン・チャップマンが送り出したライトウエイト・ミッドシップカーである。特徴的なのはY字型のシャシーで、エンジンを挟み込むようにマウントすることで重心を下げている。S2まではルノーのエンジンを搭載していたがいかんせん非力で、後にロータス製ツインカムを積んだスペシャルの登場でようやくスポーツカーらしさを得た。しかしトモヤはリアフェンダー上部の切り欠き段差がない初期デザインが好きで、S1かS2を狙っていた。S1はシャシーとFRPボディーが接着された構造であったため、取り外すとなると面倒である。その点S2ではボルト固定に変更され、好都合であった。

 エンジンはほぼ使い物にならなかったが、それもトモヤを後押しした。つまり思い切ってロータリーエンジンに換装してしまえというわけである。

 ロータリーエンジンはドイツで発明された画期的内燃機関だが、実用化は不可能に近いと思われていた。それを、特にアペックスシールの難題を克服して世界で唯一市販化したのがマツダである。トモヤはその開発話に感銘を受け、ロータリーに関わってみたくて雪宮の世話になっている。

 構造がシンプルなロータリーエンジンは、吸排気のポートを何処に開けるかで性能がガラリと変わる。ローターハウジングの脇に開けるタイプをサイドポートと呼び、市販車では吸気に用いている。しかしローターハウジングのローターとの接触面に穴を開けるペリフェラルポートはローター回転を吸排気の脈動に利用できることから極めて高出力を得ることが可能となる。トモヤが心奪われていたのがコスモ用の13Bと呼ばれる市販最大排気量の、ペリフェラルポート化されたレース仕様エンジンであった。

 

「ロータスヨーロッパか、面白そうだな」

雪宮は満更でもない感触だった。

「でしょ!最高の車が出来ますよ」

トモヤはここぞとばかりに熱弁を振るう。また一人、雪宮の理解を超えた種族がそこにいた。

「お前のその熱さは何処から来るんだよ、RX-7じゃダメなのか?」

「うーん、RX-7じゃ心が揺さぶられないんです、悪いけど。イマイチその機械的というか無表情というか、ロータスみたくキュン!と来ないんですよね」

「何だそりゃ、女にキュンなら分かるけどよ」

「一緒じゃないですか、俺、子供の頃からロータスヨーロッパに恋してるんです!」

こりゃ入れない世界だと雪宮は降参だった。こいつに託してみるか。

「よし、お前に13Bペリやるよ。その代わり…」

雪宮はショップの看板デモカーとしてしばらく使うことを条件にした。

 

 トモヤにはもう一つ頭から離れないイメージがあった。子供の頃読んだ伝書鳩の話、最後に伝書鳩をハヤブサが襲って終わる。トモヤはその悪役のハヤブサが好きでたまらなかった。何がって速さだ。トモヤは朱色、紅色が無性に好きで、見れば無条件に惹かれてしまう。それゆえかトモヤの中でそのハヤブサは紅く、ずっと心の中で「アカ」と名付けて相棒にしてきた。

 今、仕上がったロータスヨーロッパは、まさに「アカ」が目の前に現れた姿だった。みんなの手を借りて1年あまりで細部までとことん仕上げた。国産車ならそれなりのレース用強化パーツが手に入るが外国車の場合はそうはいかない。シャシーの強化から始めてエンジンマウント、サスペンションを手に入る部品を加工しながら流用し、300km/hの負荷に耐えるようにした。シフトはヒューランド製のミッションを用い、レーシングパターンの5速とした。ステアリングフィールを良くするため、ステアリングギアボックスを中央にし、内装もみすぼらしいドンガラではなく紅のレザーで統一した。

 

 アカはその年のオートサロンに出品された後、谷田部テストコースの最高速トライアルに参加し、282.35km/h、ゼロヨン13.36秒の公認記録を打ち立てた。ノンターボの280psエンジンとしては驚異的であるが、消音器を外せば330psは出るので実質的にはさらに速い。トモヤは有頂天で毎晩走り回った。アカの速さに付いてこれるのは新型のFCRX-7のフルチューンかニッサンL型エンジンのフルチューン、あるいはポルシェターボくらいであったが、もともとがコーナーリングマシンの異名を持つロータスヨーロッパのアカであるから、C1などでは無敵もいいところだった。

 その日、チューニングショップRS岩本の赤いS30ZとC1外回りで遭遇した。岩本ZはL型最速と噂され、一部では雪宮ロータスよりも速いのではないかともてはやされていた。千載一遇のチャンスとばかりにトモヤはバトルを挑んだ。まだ多少交通量のある時間帯で最適のコンディションとは言えないが、それも公道の試練の一つだ。トモヤは伊豆諸島の神津島の生まれ、閑散とした村ではこんな車の賑わいなど有り得ない。追い越す度に注目を浴びているようでワクワクしてくる。岩本Zの先行で追走するうちにコーナーの立ち上がりで一瞬速くアクセルを踏み込めることに気付いた。それで充分だ。千代田トンネルの出口の先のコーナー加速で並び、抜き去った。ふとバックミラーに目をやると、続けてZを抜いてくる車があった。いつから追走していたのか、スピードを緩めてやり過ごすとポルシェターボ、ミッドシティーの吉見だ。背筋がぞくっとする。C1バトルには参戦してこないが、本当に勝負を付けなければいけない相手かもしれない。

 

 RE雪宮の工場に戻るとポルシェターボが先に停まっていた。雪宮と談笑している。

「よお、今聞いてたところだ、岩本のZに勝ったって?これでうちがNo.1ってわけだな」

雪宮が満足そうに労うが、トモヤの気持ちは逆に掻き乱される。

「ちょっと待って下さい、バトルに楽々付いてきた吉見さんは何なんですか!まるで大人が子供たちの競争を監視している感じだ」

「いや楽々のわけないじゃないですか、キミの速さは本物だ。ブースト上げて追い掛けていたからあの直後にブローしてしまいましてね、一番近いここまで騙しだまし運んできたのですよ」

確かにポルシェはオイル特有の白煙を上げていた。

「ああ、今のお前なら悪魔のジャガーを抜けるかもしれないな、ところで奴はどうしたんだ?ここ1年見かけねえじゃないか」

雪宮にとってすっかり消えない古傷になっている。

「アキヒデくんね、彼はどうも新潟に居るらしいです。何やら向こうで面白いことを考えてるとか。確かな情報ですよ」

吉見は式部を通じて常にアキヒデを気にしていた。

「ちぇ、逃げられちまったかい。おいトモヤ、出張にしてやるからちょいと新潟で様子見てこないか?」

雪宮は半分冗談で言ったつもりだったが、トモヤは二つ返事で引き受けた。

 

 

金山の島

 

 アキヒデは佐渡島に居た。県庁交通対策室といっても新たに人員を回してもらうのも難しく、マホカに非正規契約で助手を務めてもらった。まあお陰で24時間共に過ごせる幸せに有り付けた訳だが。

 アキヒデの目論見は二つあった。一つは好きな車を自由に仕上げること、そしてもう一つはその車で自由に走ること。

 まず陸運支局との風通しを良くしてきた。もともと改造車は申請すれば認められる。ただそのハードルが高いのである。アキヒデは週に3日は陸運支局の局長を訪ね、最初は煙たがられながらも根気良く車ロマンを語り続けた。その局長は今ではBMWのM3に乗り、たまにアキヒデのジャガーとツーリングしている。

 そしてこちらが難関であるが、エリアや時間帯を区切って速度制限を撤廃できないかという話を警察署に持ち込んだが、全くの門前払いであった。そんな折、佐渡島から来ていた真野町役場の助役と知り合い、警察署でのやり取りが耳に入ったらしく、一度島に来てくれということになった。

 佐渡島に渡ってみると、島の全市町村の代表が集まっていて、過疎化に頭を悩ませていた。アキヒデのプランを話すと島では観光のレンタカーやバス以外ほとんど車の通行はないからいつでも何処でも自由にやってくれて構わないという話になった。警察もよほどのことがなければ黙認すると。

 実際にドライブしてみて、アキヒデは「ここだ」と感じた。島を一周する外周路は全長約280kmあり、風光明媚な観光名所を巡っている。信号などほとんどない。何と気持ちの良い道だろう。さらに山岳コースの大佐渡スカイライン、そしてつづら折りの難所ドンデン山南ルートはまるで専用コースにどうぞとばかりに普段は封鎖されていた。何から何まで集約されている。

 

 アキヒデの課題は逆にここに如何に人を集めるかになった。簡単なルール作りをした。カーライフを楽しむがために移住する、あるいは一時的に訪れる者は登録し、車の前後ウインドウに「フリーラン」ステッカーを貼ること。登録者は全ての責任を自分で負う。無関係な島の住民車両やレンタカー、観光周遊車には「ゆっくり走ろう佐渡」ステッカーをリアウインドウに表示してもらう。外周路のフリーランは時計回りの周回とする、などである。そして自身はマホカと共に島の西側の丘陵地に居を構えた。

 島の住民たちは高齢化していたが、若い漁師たちも居て、彼らは収入もあり車好きも多く、フリーランのメンバーになると共に魚を持っては気さくに遊びに来た。マホカが魚を下ろすのが苦手と知ると、事前に捌いてきてくれた。真紅のロータスヨーロッパがアキヒデを訪ねて来たのはそんな頃である。

 ジャガーの整備を相談したくて連絡を取っていたので、ロータスの助手席から降り立った柳沢は、やっぱりと思った。客の車にでも乗せて来てもらったのだろうと。だが、運転席から降りた若者はいきなりアキヒデに勝負を挑んできたのだ。面食らったアキヒデは柳沢から事情を聞いた。

 「いやぁ、この若いのがあんたの居場所を知ってたら教えて欲しいとやってきてな、教えてたらどうするんだと聞いたら会いに行くと言う。俺もあんたにちょうど会いたいと思っていたところだからよ、善は急げと便乗させてもらったのさ」

 よく見ればロータスでありながらロータスでない、巧みなモディファイが施されている。そしてフロントウインドウには「RE雪宮」のサンシェード。

「俺の愛車、アカっす。ロータリーのペリフェラルチューン積んだワンオフのスペシャル、あ、俺は雪宮さんのところで世話になってるトモヤっす」

アキヒデはそれで大体を察した。

「悪いけど、雪宮さんには勝負とか興味ないってはっきり伝えてあるから」

「ここまで来て手ぶらじゃ帰れねえ」

「んじゃ俺たちが勝負してやろか?」

漁師たちが笑いながら横からからかった。トモヤはそこに並んでいた新型のマツダRX-7とトヨタソアラを一瞥して、「相手にならねえな」と呟いた。

「何だとお、若僧が!」掴みかかろうとする漁師をアキヒデが制した。暴力は御法度にしている。

「あのさ、ここではキミのロータスのようなチューニングカーなんて欲しくても手に入らない。鼻に掛けるような事はやめた方がいい」

その一言でトモヤは自分の失言に気付いて謝った。

そうなのだ、ここでは好きな車を自由に走らせられるが、その「好きな車」が手に入らない。

「柳沢さん、ここで注文受けて車作りしてみませんか?」

アキヒデは誘うと言うよりも懇願した。

「そうさなぁ、俺は旨いものが食えりゃ考えてもいいが」

「ああ、旨いものなら佐渡に勝る所はねえよ。海の幸、山の幸、何でもござれだ。何より米がええんさ」

漁師が太鼓判を押し、柳沢は満足そうに笑った。

 

さて、トモヤの方だ。アキヒデは大佐渡スカイラインに連れ出し、駐車場にジャガーを停めた。

「僕はとにかくこのEタイプが好きでさ、時折ここに停めて眺めてやるんだ。それだけでうっとりと満足してくる」

「飛ばしたくはならないんすか?」

「なるよ、気持ちいい範囲でね。バトルとかなるともっと限界に挑んで、それを超えちゃうかもしれないじゃないか。今はそこまでやる元気がない」

そう言いながらアキヒデは自分の中に沸々と湧き上がる熱いものを感じていた。このトモヤという人物は今まで会ってきた走り屋たちとは違う。自分と同じ匂いがする。

「あのさ、良かったらキミもここでやってみないか?例えば雪宮チューンを受けたり、コンプリートカーを紹介したり。何だか分かり合える気がしてさ」

「うーん、どっちみち中途半端で帰りたくねえし、いいっすよ」

トモヤも高台で輝くアカに吸い込まれていく満足感に酔いしれながらそう決めた。

 

 

形見

 

 タカオは千葉は山武郡のガソリンスタンドで働く、どちらかと言えば控え目な若者だった。あの夜までは特に夢もないその日暮らしの毎日を過ごしていた。その夜はたまたま店長の代理で灯油の配達に回り、九十九里浜沿いの通称波乗り道路を走っていた。反対車線をかなりの速度で青いスポーツカーがすれ違っていった。背筋にぞくっとした電流が走る。国産車ではない、往年の60年代のフェラーリにも見えたが音が違う。大排気量のV8レーシングサウンドだ。正体も分からぬまま記憶から遠ざかり始めた頃、なんとスタンドにその車がやって来た。

 タカオは震える手で窓拭きをしながら、思い切って車種を聞いてみた。

「ああ、シェルビーディトナクーペと言ってね、オークションに出されれば間違いなく億は超える」

運転席の男は誇らし気に語った後、「まあこれはレプリカってやつだけどね」とウインクした。レプリカとは希少で高価な車を、別の安価な車両をベースにそっくりに再現することだ。通常は形だけ真似られることがほとんどである。

「こいつはコルベットをベースにしてね、エンジンはシェルビーチューンの427を積んでるから、本物と遜色無い走りをする」

男は片貝漁港に住む漁師で、安住といった。今度遊びに来なよと誘われて、タカオは舞い上がる気分だった。

 それからというもの、タカオは休みの度に安住の家に長居した。奥さんと小さな男の子が居て、家族同然にご馳走になった。家族のいないタカオにとって、安住は兄貴の存在だった。もちろんディトナクーペにも何度も乗せてもらい、いつか自分もこの車を手に入れたいと憧れた。

 ある嵐の夜、その年の不漁に無理して沖に出た安住は高波に飲み込まれて太平洋に消えた。悲しみに暮れる奥さんから、安住が自分にもしものことがあったら車はタカオに渡してくれと言われていたことを聞いた。タカオはこれからの生活のために売った方がいいと一度は断ったが、保険金があるから安住の魂とも言えるディトナは思いの分かるタカオに乗って欲しいとお願いされ、形見として譲り受けることになった。タカオは毎晩のように波乗り道路にシェルビーサウンドを響かせ、安住を偲んでは涙を滲ませた。

 ガソリンスタンドの店長から、立っての頼み事をされたのはそれから間もない時だった。新潟の佐渡でスタンドを経営している弟が体調を崩し、危急に手伝いを欲していると言うのだ。ここよりもさらに暇になると思うが宜しくとタカオは半ば強引に送り出された。

 暇どころではなかった。何故か佐渡島は活気に満ちていて、スタンドの隅に置かれたディトナクーペにはいつも見物人が絶えず、遂には簡易の椅子とテーブルが出されて休憩所代わりになってしまった。おまけに外車を整備できる腕利きが居て、安心して任せられる環境が出来てしまった。もともと整備士資格も取りたいと思っていたタカオには願っても無い修行場が用意された。島にはとてつもなく速いダブルエースが居て、無敵と思っていたディトナクーペを持ってしても太刀打ち出来ない雰囲気だった。だが陰険な感じなど微塵も無く、アキヒデとトモヤは深い所で繋がった仲間だと直感が伝えてくる。全ては安住の贈り物、もうこの地を離れる気にはならない。天に感謝だ。

 

 

監視

 

光輝く空間にヒト型生命体が3体、状況確認を行っている。彼ら彼女らは声なき声、思念波(テレパシー)で会話している。

(ステラ、タイムラインの移し替えは順調ですか)

(はい、今のところは。ただ予定していた第4ウォーリアの波動上昇が不足気味で予備のウォーリアに始動を促しています)

(ソニア様のために干渉経緯を説明してください)

(はい。ガイア外殻ヒューマン文明のリニアタイムで西暦2002年、オリジナルのタイムラインにおいて地下に眠っていたドラコニアンによる壊滅的破壊がアキヒコたちにより無事回避されました。ところがオリオンのアルコンがタイムラインに介入し、1996年にコンゴエリアにドラコニアン部隊を送り込むことでガイアの波動上昇を押さえて2002年の出来事を未然に消去してしまいました。それによりヒューマンたちの覚醒が困難となり、奴隷意識のままタイムリミットを迎えつつありました。そこで私たちはスピリチュアルリーダーとなるべく派遣されていたアキヒデに仕込んでいたBプランを発動し、1985年から自由解放を促す第3のタイムラインへと移行させたのです。この介入の失敗は許されないため慎重に監視しています)

(必要なガイドはしていますか?)

(まだ準備期間のため、見守っている段階です。今後必要に応じて導きを行います)

(分かりました。引き続きお願いします)

 

 

 

 アキヒデは懐かしいような夢を見た。眩い光の女性が告げる。

「間もなくあなたの前に白き者が現れるでしょう。それで四つの色が揃います。艮の聖地にて豊かさの門を開きなさい」

消えゆく女性をアキヒデは呼び止める。

「待って下さい!初めて会った気がしないのですが、お名前は?それに聖地とか門を開けと言われてもどうすればいいのやら」

「私はプレアデスのステラ、またお会いしましょう」

 

 

アリサ

 

 ヨコスカは日本に有りながら異国のような独特の雰囲気が漂う。それは米軍基地を抱えるために街中に英語が溢れているせいだろう。そして背の高い海軍兵たちが憩いを求めて闊歩する。

 アリサは施設で育ち、ヨコスカで美容師をしている。お洒落なことが好きで選んだが、見るとやるとでは大違い。愛想笑いでストレスは溜まるし、薬液で手が荒れて悲しくなる。

 百恵ちゃんの歌に倣って熱いミルクティーを飲みながら向かいの車屋さんを眺めていて目に止まる一台があった。真っ赤なポルシェならぬ真っ白なオープンカー、車に詳しくはないが見た事のないお洒落な感じだ。この辺りは基地流れで珍しい車が売られることがある。

 アリサは早速道路を横切って車を見に行った。男友達に運転のセンスがいいと言われたせいか、こういう店に気後れすることはない。

「フィアット850スパイダー、超レアな出物ですよ」

早速店員が声を掛けてくる。

「一応エンジンも見ますか?」と後ろのトランクを開ける。

一応なんて小馬鹿にされた気もするが、ボンネットではなくトランクを開けたことに驚いた。

「エンジン後ろにあるんだ!」

「ええ、ポルシェと一緒ですよ」

オッシャレーと思った。値段も手頃で店員が決まり文句のすぐ売れちゃいますよと急かすのにも焦せらされて、その場で決めた。

「ただ、古い車なので現状でお願いします」

意味が良く分からなかったが、後日ガソリンスタンドのサービスで無料点検を受けて愕然とした。

「エンジン、オイル漏れ激しいので一度バラさないとダメでしょうね。足回りも相当へたってます」

つまりそう言うことの面倒を店では見ませんよということだったのだ。まあスタイルに惹かれて買ったので仕方がない。

 

 週末、仕事が引けてから何気に足軽峠にドライブに行ってみた。元気な車が何台か追い越していく。駐車スペースを見つけて走り行く車たちを眺めていると、軽トラックが隣に停めてきた。くたびれた感じのオジサンが降りてきて思わず身構える。

「いい車だ。アンタ走らないのかい?」

キョトンとしていると、ここは走り屋たちが集まって来ると言う。

「そう仰られてもそう言う車じゃないんです」

「あん?フィアット850スパイダーだろ?充分にそう言う車じゃねえか」

アリサはガソリンスタンドで言われたことを話した。

「ふむ、それでアンタには整備する伝手も金もねえってか」

図星を突かれてアリサは頷くしかなかった。

「面白えな、おじさんはちょっとそっち関係に手を染めててよ、何だか縁を感じるぜ。ひとつこのオレに預けてみねえか?」

 

 オジサンは沢村といい、富士スピードウエイのそばの小山町でサーキット志向車の整備とチューニングを手掛けていた。元はロータリーのスペシャリストでマツダワークスのメカニックだったそうだ。

「79年のルーカスインジェクターを付けた13Bペリフェラルは1万回転で311馬力出る傑作だったんだが、速すぎてBMWや日産がクレーム付けて、翌年からレースに使えなくなっちまった。そのサバンナRX-3がまんまそうさ」

アリサにはチンプンカンプンな話だが、沢村の口惜しさは伝わってくる。

「サバンナは速いんだがどうも武骨なところが気に入らねえ。最近はRX-7が流行りらしいが、猫も杓子もで気に入らねえ。そうしたらよ、東京の雪宮ってヤツがロータスヨーロッパに13Bペリ積んだ馬鹿っ速を作ったって聞いてな、そんな手があったかと唇を噛む思いでいたらアンタのフィアットに出会った訳だ。もともとマツダはコスモスポーツっていう空飛ぶ円盤みたいな車でロータリーをデビューさせたんだが、雰囲気が似てるんだよ、フィアット850スパイダーに」

 フィアット850スパイダーはベルトーネのデザインした魅惑的なオープンスポーツカーで、何より特殊なのはリアエンジンであることだ。そのコンセプトやスタイリッシュなヘッドライト、さらにはテールランプがそのままベルトーネにより、かのランボルギーニ・ミウラに流用された。

「で、エンジンも足回りもオリジナルとは変わっちまうが構わねえか?」

「全然、でもお安くしてもらわないと」

「ハッハ、こっちが持ち掛けたんだから任せときな。その代わり一つお願いを聞いてもらいてえ」

 

 そういう訳でアリサのお洒落な車は見た目からは想像もつかない化け物に生まれ変わった。同時にアリサは峠のテクニックとしてタイヤをわざとスライドさせるドリフト走行の手ほどきを沢村から受けた。

「アンタ筋がいいよ、多分峠じゃ敵無しだぜ」

「よく言われます」とアリサは上々の気分だった。

 何だかんだ言ってアリサはお金がない訳ではなかった。施設で貧乏の惨めさは嫌という程分かっている。給料の残りで株を始めたところ、運が良かったのか株価が未曽有の急上昇を続け、今やひと財産になっている。ただ手元に現金が少ないだけの話だ。

 沢村の頼みはRE雪宮のロータスヨーロッパと勝負して欲しいと言うのだ。子供っぽい話だが、ロータリーのチューニングに関してはワークス経験を持つ自分の方が上だと自負している。それを証明してみたい。

 アリサは沢村と東京に出てみたが影も形もない。噂で佐渡に居るらしいと聞き、仕事を休んで遠路渡った。

 

 フェリーから佐渡島に降りたアリサたちは驚いた。公道を改造車が小気味良い音を奏でてかなりのスピードで通り過ぎて行くが、島民たちはそれを当たり前のように気にもしていない。聞けば島に拠点を置く県庁交通対策室に登録すれば自由な走行が認められていると言う。そんな馬鹿なと思いつつ場所を聞いてフィアットスパイダーを走らせた。

 そこは丘陵地に建つ洒落た民家で、申し訳程度に『県庁交通対策室』の看板が立てられていた。敷地内には黒いジャガーEタイプと紅いロータスヨーロッパが停められていて、ロータスのフロントガラスには御丁寧に『RE雪宮』のサンシェードが付けてある。いきなり目的地に到着だ。アリサは家の中に居た3人に聞いた。

「表のロータスヨーロッパの持ち主は?」

「俺だけど」とトモヤが答える。

「アタシと勝負しな!」

それを聞いてアキヒデたちは大声で笑いだした。

「な、何が可笑しいのよ」

「いや、しばらく前にそんなセリフを聞いたなと思ってね。なあトモヤくん」

トモヤは頭を掻きながら、

「悪いけど俺、競争は好きじゃないから」とアリサを諭し、それでまたアキヒデたちは「大人になったねえ」とからかった。

アリサと沢村は訳も分からず憤慨している。アキヒデは表に停められたフィアットスパイダーを見て、「これか」と思った。夢で聞いた白き者、まさか本当に現れるとは!

 

 アキヒデはトモヤと共にアリサたちを大佐渡スカイラインのドライブに連れ出した。紅と白、2台のペリフェラルロータリーサウンドが見事に絡み合う。

「いいところでしょ、いきなりですが移住してみませんか?」

見晴らしの良いパーキングでアキヒデはアリサを誘った。

「オレはいいぜ」

意外にも沢村が答えた。ここは自分の力が発揮出来そうな気がする。

「じゃあ、アタシも」

アリサは沢村について行けば間違いない気がした。

 

 

儀式

 

 アキヒデはトモヤ、タカオ、アリサを集めて話をした。

「信じられないかもしれないけど、僕は夢である指示を受けてね、半信半疑でいたら夢の予告通りにアリサさんが現れたんだ」

 

 『四つの色が揃います。艮の聖地にて豊かさの門を開きなさい』

 

「マホカと調べてみたんだけど、青、赤、白、黒の4色はどうも中国古来の四神獣を指している感じで、それらは日本の古都、平安京なんかでも都を加護するために四つの方位に祀られていたんだね。つまり東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武。そして艮も鬼門を示す方角で、北東を指すらしい」

アキヒデはみんなを見回した。黙って聞き入れている。

「それで、艮の聖地とは島の北東、大野亀辺りだと思うんだ」

「ああ、それでそこに俺たちの車を並べようってことっすね」

「そう。それもきちんと方位に向けてね」

という訳で特に反対もなく、一行は大野亀に向かった。

 

 ちょうどオレンジ色の飛島萱草が咲き誇る中、鳥居手前のパーキングに入り、慎重にやや間隔をあけて菱形に車を並べた。東に青のシェルビーディトナクーペレプリカ、南に赤のロータスヨーロッパ、西に白のフィアット850スパイダー、そして北に黒のジャガーEタイプ。そして静寂の中、待った。

 4台が囲む中心にキラキラと光の柱のようなものが降り立ったのに続き、南の草むらに揺らぎが見え、蜃気楼のように人が立っていた。車を降りて一行はそこに近づいた。人物は半分透き通っていて、ホログラムのようだ。

(私はアガルタのアガム、次元の門を開けたのはあなた方ですね?)

頭に直接声が響いてくる。夢のような現実に呆然としていると、

(あなた方の波動は門を開けるほどに上昇していますが、地上世界はまだ完全に安全ではなく、私たちのエリアに招待は出来ません。代わりにこれを差し上げます)

と5kgはあろう水晶差し出した。アキヒデは恐るおそる受け取った。

(その石は地を浄化し、豊かさをもたらすでしょう)

そう言い残してアガムは消えた。

 

 

発展

 

 アキヒデは分かってきた。政治に興味はないが田口角善の手前、知識は増やしている。日本を始め西側欧米諸国の押し進める民主主義は資本と労働の契約世界で、契約とは言っても実のところ対等ではない。言葉が過ぎるかもしれないが、労働者は自覚のない奴隷みたいなものだ。自由なようで規制の鎖に繋がれて生きている。その際たる象徴が車で、自分たちは車への情熱に押されて自由な地を作りつつある。何だか水滸伝の梁山泊みたいではないか。豊かさの水晶を家に飾ったとたん、千葉から式部が病院を移設し、顧問弁護士の吉見も付いて来た。

「東京は土地と株価の上昇で凄い景気になってましてね、フェラーリやランボルギーニが珍しくなくなりました。でも裏では地上げ屋が暗躍していてキナ臭い。宮さんもだいぶいづらくなってるみたいですよ」

吉見の言葉通りにアリサは怖いほど株で資産が膨れていたが、アキヒデは頃合いを見て手を引いた方がいいと助言していた。

 

 ポルシェが新型車両を佐渡島に持ち込みロードテストに利用しだすと、欧州のスポーツカーメーカーが密かに押しかけるようになった。島には改造車が普通に走っていてデザインをカモフラージュする必要もなく、限界走行を繰り返しても全く問題がない。そういう滞在で島は潤った。

 最高速を試す場が欲しくなり、アキヒデは島の自治体の合同事業として北西部に全周22kmのオーバルコース建設をまとめた。地形上斜面に約10kmの直線路2本と短い二つのバンクカーブによる構成は世界でも屈指のスピードコースとなる。完成すると早速賑わいを見せた。こけら落としにアキヒデたちがチャレンジし、ディトナクーペレプリカが293km/h、ジャガーEタイプが291km/h、ロータスヨーロッパが284km、フィアットスパイダーが279km/hを記録した。市販車でさらに速かったのはフェラーリF40の322km/hであった。

 

 小型コンピュータの登場によりデータ処理や情報処理への普及を試行するベンチャー企業が雨後のタケノコの如く生まれ出したが、プログラマーやシステムエンジニアには車好きが多く、環境の良い佐渡島にオフィスを作る会社がいくつかあった。それらの中には斬新な技術を自由に模索するところもあり、CADという設計システムに紫外線硬化樹脂の液槽を組み合わせて短時間で試作モデルを作り上げる画期的な装置が提案された。

 アキヒデはそれに着目し、6m長の巨大液槽を特注して車のボディーの雛形を図面から簡単に興せるセット(CMS)を島の予算で用意してもらった。

 同時にスポーツカー専門学校を設立し、県庁職員を退職して学校長となり、CMSを寄贈してもらった。それで行政に縛られることのない自由の身となったのである。

 専門学校は『ペガサスCDD』と名付けられ、講師としてシャシー・サスペンション科を柳沢に、エンジン科を沢村に、ボディーデザイン科をトモヤに依頼した。校風は全くの自由で、講義よりも工場での実習が主体となった。卒業制作に共同作業でスポーツカーが作られ、1期生の作品は軽自動車ベースの簡単なものであったが、2期目以降は時折画期的な作品が送り出されることになる。

 

 オイルショック以降、出力向上がなかなか進まなかった日本の自動車業界であるが、日産が満を持して登場させたスカイラインGT-R(R32)は夢の300馬力を達成した。だが運輸省はこれを良しとせず、自動車工業会の自主規制という形で280馬力を超えてはならないとされ、以後長期に渡り技術の進歩で遅れを取ることになる。アキヒデは何と馬鹿らしい制度だと感じた。だがペガサスCDDの車は御構い無しに改造申請により海外の高出力スポーツカーと渡り合える作品を発表していった。

 

 

エピローグ

 

 60才を迎えたアキヒデは、射し込む朝日で目を覚ました。人生に完全に満足していた。

ジャガーEタイプでスポーツカーの魅力を味わい尽くすと、自分の価値観に変化が起き、哲学的思想に目覚めてヨガや瞑想を追求し本当の人生に開眼した。そしてマホカと共に求める人たちにそれを説いた。

 

 直前までの夢でステラと話していた。

「もう全てを理解されたことでしょう」

「はい。地球の変容に向けての準備だったのですね。佐渡選んだのも偶然ではなく、金という特別な物質を抱いた波動の高い聖地だった。そして『サ』は神話で豊潤なる南、その扉の地ですね。何故南か?それは秋田が基準だからだ」

「そうです」

「ひとつ分からないのは何故車が鍵だったのでしょう」

「あなた方の理解を超えたひとつに金属生命体があります。あなた方の知識では生命は炭化水素で構成されますが、炭素は地球において豊富な元素という訳ではありません。地球は珪素やアルミニウムや鉄でできているのです。そして進化した肉体は結晶化の歩みを必要とし、概念的にあなた方の肉体はあなた方の周期表で上位にあたる珪素ベースの結晶体へと変化します。一方で自動車は地球の上位構成元素である鉄やアルミニウムで作られ、あなた方の心臓とも言えるエンジンや肺とも言える吸排気装置や胃袋とも言える燃料タンクや手足とも言えるサスペンションを持ちます。そして近年はコンピューターという頭脳を得て、無人運転が可能になっています。どうです?生命に近づいているではないですか。あなたはそれを若くして直感で感じ取り、ペットのように接してきました。あなたは美しい自動車を愛し、高性能への進化を自由に解放してきたのです。そしてあなたの薄々気付いているようにペットのように大切にされた自動車はそれに応えるべく意思を持つのですよ。すなわちあなたやあなたのお仲間たちは地球人として一段進んだ金属生命との交流を果たしてきたのです。それにより銀河人としての扉が開きました」

 

 隣で目覚めたマホカを見て、アキヒデは驚嘆した。アキヒデを見たマホカも驚嘆している。そこには出会った頃の二人がいた。