今回は加藤諦三の著書
「自分の人生を生きられないという病」
の内容を踏まえて”自分の”人生を生きるにはどうするべきか思索を巡らせてみようと思う。
~自分の人生を生きられない人とは?~
「現実の自分」より「相手の思っている自分」が大切である
(53頁より引用)
具体的に言えば、自分自身が我慢してでも相手に合わせようとする人。
他人から「いい人」と思われることに執着する人である。
このような人は自分自身でも”何がしたいのか”がわからない。
なぜならば、他人に「いい人」と思わせることだけに腐心しているため自らの興味、趣向に基づいた行動指針がないからである。
では、身の回りにいる「親切な人」「優しい人」は皆そうなのか?否
他人の期待に応えることが美徳なのは、他人への愛を動機として期待に応える時である。(38頁)
原文ではやや抽象的で解りづらいので卑近な例を挙げてみよう。
学校の教室で隣に花粉症のクラスメイトがいる。彼はちょうどティッシュを切らしてしまった。
そこでA君はクラスメイトに自分のティッシュをあげた。
これは何の変哲もない日常の一風景だ。
重要なのはA君がクラスメイトにティッシュを渡した”動機”だ。
もし、A君が
「クラスメイトを気遣うところを示して周囲に”いい人”だと思われたい。」
という動機を持っていたら、これが最初に提示した「自分の人生を生きられない人」である。
A君が
「花粉症辛そうだな。ティッシュが無くなって困ってるかな」
という、純粋な相手を慮る気持ちで善意を表したならそれは健全な行動である。
つまり、行動そのものに問題は現れない。
善行のgoodとbadの分かれ目は”動機”である。
ここまでが本書の重要箇所の要約だ。
~自分の人生を生きられないとどんな問題がある?~
・絶えることのない恐怖
普通の人にだって人生に困難はつきものである。
しかし、こういった人は仮面を引っぺがされて醜い本性が露わになるのが怖い。
RPGゲームでいう”毒”状態のように毎日精神を蝕む苦しみも加わって、その日その日の傷を慰めるのに精いっぱいである。
・他人のおもちゃにされる
自分の感情を殺し、引きつった笑みを浮かべる姿ははたから見れば不気味、あるいは異質である。しかも何をされてもヘラヘラして反撃してこないサンドバッグがあったらどうだろう?また多種多様な性格が混在する共同体で100人中100人がそれを見逃してくれるほど暖かい心の持ち主であることはまずありえない。
感情を表出しない人は良心の枯渇した餓狼にとって恰好の好餌である。
しかもたとえ仲間内では親切な人だとしても、自分の理解の閾値を超えた他人には容赦なく(罪悪感なく)嘲弄を浴びせることもある。
※しかしこれについては一概に”悪”とは言い切れない。
僕たちはみんな己の理解の範疇をはみ出す事柄は異常だと切り捨てて平常を保っている。(”理解の範疇”の広狭はあれど)
もし全てを切り捨てずに理解しようと努めたら、果て無き思考地獄に陥る事になる。
だとすれば異質の排除はある意味では正常ともいえる。
だが、これは論点がずれるので今回はこれ以上は触れないことにする。
・漠然とした将来に不安
「何がしたいか」より「他人からどう思われるか」が大切なので自分自身でも何がしたいか、どうやって生きてゆきたいかがわからない。
茫漠とする不安を共有する相手もいないので一人で不安を更に増大させることになる。
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途中までなのでまた続きを書きます。