さとうみつろうさんのブログを久しぶりにみて
どんな存在であっても その存在の 「御蔭(おかげ)」で
自分が存在している
どんな人であっても その人がいなければ
自分の 「陰」 は できなかった
自分は 「存在」 すらしていなかったんだ
自分も「他人」だ というのもありました
http://ameblo.jp/mitsulow/entry-11457827860.html
家族も 坂東玉三郎も 他人 だけど
「自分」も同じように他人だ
だから、他人の明日がどうでもいいように
自分の明日もどうでもいい
何だか気が楽です
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暖かくなってきて もう編み物でもないのだと思うのですが
なかなか 動けない
とにかく 家を出てしまえば 後は何とかなるのに
家にいる方が 安心なのか
どこでも たのしいのは 一緒とか
内も外もない と 思うのですが
いろいろ考えて 流れに乗れていない ような気がします
流れに乗れていないと 疲れる
そして、疲れた自分を あぁ今日も動けなかったなあと思う
いい加減、そんなことにも疲れてきました

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ずっと 何かしていないと と思っていました
価値がある(と思っている)ときだけ 満たされる
でも、価値がなさそうな状態になると 満たされない
「価値がある」は「何かしていると」の条件付きだから
「何かしている」がなくなると 価値がない に戻っていく
結局、根底に ”価値がない” があるから
”それ”は 行動では 埋められない
もう 身体が スペックが そうなっているから
それは 意志の力とか 気の持ちようとか 行動とか
そういうことでは 埋められない
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同じように、
人を変えたい(何とかしてあげたい)と思っても
その人は そういう身体 スペックだから
「何かしてあげたら」 変わる ということはない
いっとき変わったようにみえても
根底が同じだから
またすぐに戻る
楽にしてあげることはできるけれど
救ってあげることはできない
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『イティハーサ』を読み終わりました
kindle unlimited で少しずつ
たぶん 前に読んでも まったくわからなかったと思います
善であること 悪であること
「善」が「よい」のだと思っていました
人生の醍醐味は、人生を生きる意味は
「よい」をたくさん感じること
物事が思いどおりにいかないと
期待や理想が大きいと
うまくいかないことが 寂しかったり がっかりだったりするけれど
がっかりも いやな気分も 迷いも 疲れも
すべて わたしである
ようやく そうなんだと 思えるようになりました