イビキ職人みみはなこのブログ -275ページ目

女子大生志村泉(仮名)の物語Part1

みみはなこは今日も元気です。


今日から、いびき患者第一号 志村泉(仮名)の物語が始まります。


 志村泉は女子大の4回生、大学での専攻は家政学科でしたがそれも親の勧めで決めたのでした。というのも泉の母は短大の家政学科の教授で住居学を教えていたのでそれに従うことになったのです。

高校生のころ泉は「何が家政学よ!家の中だってぐちゃぐちゃのくせに。」と母に反感をいだいていました。両親は泉が幼稚園のころに別れており、泉は祖母に育てられたようなものでした。母は忙しいにも関わらず、祖母との同居をいやがり、祖母は近くに住んで泉の世話をしに通っていました。


泉は時々高い熱を出す子供でした。


小学生の低学年のころには月に一度は高熱を出し、そのたびに忙しい母に代わって祖母が近所の小児科に連れて行くのです。なじみの先生は、また扁桃腺だねと言っては同じ薬を出しました。

泉の扁桃炎はいつもの習慣になっており、熱をだすと母は「またいつものね」と言って、残りをためていた薬を自己判断で飲ませたりしていたものです。


泉は大人顔負けの大きないびきをかきました。

しかし慣れとは恐ろしいものです。小さな体のどこからそんな大きないびきが出るのかと思われるほどの音なのに、母も祖母も、いびきをかかない瞬間があればかえって静かすぎて大丈夫かと思うほど、泉のいびきに慣れていたのです。 



                                  Part2につづく


イビキ職人みみはなこの東京美術館めぐり

みみはなこは東京からの帰り道。昨日は仕事を終えて電車に飛び乗り品川へ。インフルエンザの講演会でした。初めて耳にする内容もあって、興味深いものでした。その報告?そんなものは、どこかよそで仕入れてください。(笑)(笑ってる場合ではありません!感染症学会HP参照のこと!)


今日日曜日は、ひさしぶりの東京美術館巡りをレポートします。ただし今日は上野ではありません。

快晴、朝品川を出て外苑前まで行き、ワタリウム美術館へ。メキシコの建築家ルイス・バラガンの邸を再現するものでした。

あたしは、彼のありえない色調が前から好きで、本も持ってるのですが、この、ワタリウムの企画はなかなかのものでした。あのせまい空間に庭まで再現してしまうんだから、ワタリウムはいつ行ってもアッパレです。しかし、ルイス・バラガンがレオノール・フィニと友達だったとは初めてしりました。 

ワタリウムの筋向いには、かの東孝光の「塔の家」が今日もありました。そりゃああるよね。


さて、ワタリウムの次は?

じつは、みみはなこは、このごろノートパソコンを持ち歩いているのだけれど、昨晩は、ホテルでつなごうとしたら、1000円の使用料がかかることがわかり、そこはせこく、iモードで我慢したのさ!

で、うろ覚えの情報しかない!

いつもなら、246を歩いてスパイラルに行くとこですが、いや、根津美術館が新装オープンしたはず。ソニアパークのアーツ&サイエンスのそばにたしかあったはず。すべてうろ覚え情報のまま、数々の名だたるブランドショップをチラ見のみで通過し、たどり着いた根津美術館は、大阪ではありえないひとだかりでした。

この建築はもしかしてクマさん?きっと誰もが知ってるだろうけど、そこは旅の恥で、受付のおねいさんに聞くと、やっぱり隈研吾さん。すばらしいです。ミッドタウンもですけど、コンクリ打ち放しの御方(お好きな方はごめんなさい)にはない、品があります。

所蔵品も見応え十二分でした。でもね、京都の泉屋博古館と大阪の東洋陶磁美術館を合わせたら、関西にだってもっと豊かなものがあるのに、人は半分どころか10分の1。先日和歌山県立美術館へ行ったときなんか、あたしひとり貸し切りでしたから。関西はどうなってるの?!おっとぼやきブログになってはいけない。
根津美術館の所蔵品のなかでいちばん好きだったのは古代中国の青銅器です。紀元前12、13世紀にこんなものが作られ、いまに保存されてる仰天!取っ手に羊がついてて、その顔にはラーメン鉢の四角い迷路模様がいっぱいほどこされているんだよう!すごい装飾性です。シンプル機能性なんかどっかへいっちゃえです。この時代にこの余裕、装飾はまさに心のゆとりです。
根津美術館をでて、やっぱりソニアパークにいっとこと思い、歩いてると伊勢半というところがあり、江戸の紅 というタイトルで展覧会をしている。何屋さんかとたずねると、紅花の色素でつくったまさに紅屋さん、盃や香合に紅をぬりつめたものを売っているのです。それを細い筆で水でとかしながら、口紅として使うのですって。江戸時代には火消しの装束にも紅染めがほどこされて、刺繍までしてるのです。
人は粧うこと装うことを忘れてはいけませんね。
広尾に移転した山種美術館と岡本太郎記念館はすぐちかくまで来てたのですが時間の都合上行けませんでした。残念!

イビキ職人みみはなこ  初めてのイビキ画像

みみはなこは今日も元気です。

当時、というのは1990年代後半ですが、睡眠時無呼吸という概念は、一般には普及してなかったし、あたしたちも授業でさえ習わなかったのです。まさにイビキって病気なの?でした。

そのころに、イビキや睡眠時無呼吸をテーマに研究していた0医大に勉強にいく機会を与えられたのですから、いまやイビキ職人として生きているみみはなこにとっては、これが第一歩だったのだと思います。




まずは薬物睡眠検査。今ではこの検査をしているところは少ないかもしれませんが、薬物で寝かせて、鼻からカメラでのぞき、どこが振動してイビキの音が出ているかを調べる検査です。


O医大ではセルシンという薬でこれをやっていました。


小生意気なみみはなこは、セルシンよりもキレのよいドルミカムという薬を使ってやってみることにしました。


第一号の患者さんは、なんと女子大生。


薄暗い部屋でルートをとって(生理食塩水の点滴)、何しろ初めてですから、気道確保の準備までしてなんだか命がけの様相です。さすがに第一号患者さんのときは、指導医がてつだってくれましたが。だって手は2つ、誰が器械のスイッチ入れたり記録のビデオをとったりするのよ?

あちらでは8人16本の手が動いてたのですから。
初めてみたノドの震動画像は、そのころ、大学病院にも電子スコープなんかなかったけど、「おおお、これがイビキ!!」っていう感動モノでした。
つづく