先日,学年の休憩室でお茶を飲んでいると,同じ学年の先生がやってきて,
「あった,あった。」
と言いながら大きめの短冊黒板を何枚か持っていこうとするのです。どうしたのかを尋ねてみると,
「めあてを書くためですよ。」
という答えが返ってきました。
「あった,あった。」
と言いながら大きめの短冊黒板を何枚か持っていこうとするのです。どうしたのかを尋ねてみると,
「めあてを書くためですよ。」
という答えが返ってきました。
本校では「学力向上」が課題と言われています。そのためには「授業改善」が必要で,例えば「0分スタート」などを共通理解して実施する必要があるとさればれています。このことについては全く異論はありません。ところがここから先におかしなことが起こってきます。それは,
「授業では必ず『めあて』を板書しよう。」
というスローガンを打ち出したのです。「ああ,うちもいっしょか。」と思ってため息が出てきました。
授業で「めあて」を持つことは当然大切なことです。しかしそれは子どもが自分のものとして持つものであって,上から押しつけられるものではないと思うし,子どもが持っためあてを「必ず書かなければならない」というものでもないように思っているからです。必ず書くということになれば,逆に「書いておけばいいんだ。」という形骸化が生まれてきます。
具体例はいくらでも上げられますが,今回はこの話を「算数科における常識を疑ってみる」という観点で考えてみたいと思います。「めあて」に加えて「まとめ」「ペア学習」などの必要性・意義について最近少しずつ述べられるようになってきたので違う面について述べてみます。
「アイデアは子どもに書かせた方がよい」
問題解決型の場合,練り上げの時間に「発表ボード」のようなものが登場し,子どもたちに書かせることが多いのですが,見にくかったり,最終結果しか示せないことになりがちです。私は,「子どもが言ったことを教師が書く」というのもしっかり認めるべきだと思います。もちろんかいている途中を見せる(書きながら説明する)ことも意義があります。つまり「ケースバイケース」という認識をするべきでしょう。
「答え合わせは先生が行った方が丁寧な指導だ」
子どもが自分で答え合わせができ,その反省を生かして修正できるようになればすばらしいことでしょう。しかしすぐにできるものではありません。長いスパンで見守ってやりながら定着させる必要があります。(先生がやってしまうといつまでもできないまま)こちらの方がよほど「丁寧」な指導だと思うのですが。
「授業では必ず『めあて』を板書しよう。」
というスローガンを打ち出したのです。「ああ,うちもいっしょか。」と思ってため息が出てきました。
授業で「めあて」を持つことは当然大切なことです。しかしそれは子どもが自分のものとして持つものであって,上から押しつけられるものではないと思うし,子どもが持っためあてを「必ず書かなければならない」というものでもないように思っているからです。必ず書くということになれば,逆に「書いておけばいいんだ。」という形骸化が生まれてきます。
具体例はいくらでも上げられますが,今回はこの話を「算数科における常識を疑ってみる」という観点で考えてみたいと思います。「めあて」に加えて「まとめ」「ペア学習」などの必要性・意義について最近少しずつ述べられるようになってきたので違う面について述べてみます。
「アイデアは子どもに書かせた方がよい」
問題解決型の場合,練り上げの時間に「発表ボード」のようなものが登場し,子どもたちに書かせることが多いのですが,見にくかったり,最終結果しか示せないことになりがちです。私は,「子どもが言ったことを教師が書く」というのもしっかり認めるべきだと思います。もちろんかいている途中を見せる(書きながら説明する)ことも意義があります。つまり「ケースバイケース」という認識をするべきでしょう。
「答え合わせは先生が行った方が丁寧な指導だ」
子どもが自分で答え合わせができ,その反省を生かして修正できるようになればすばらしいことでしょう。しかしすぐにできるものではありません。長いスパンで見守ってやりながら定着させる必要があります。(先生がやってしまうといつまでもできないまま)こちらの方がよほど「丁寧」な指導だと思うのですが。
その他にもたくさんあると思います。どれも疑いの感性を持っていなければ見過ごしてしまいそうになるものばかりです。「不易」は当然ありますが,今一度「見直し」も行い,本当に子どものためになる活動を多く取り入れたいものです。