最近校内で話し合った出来事の中で疑問に思うことがありました。それは以前となりのクラスの若い先生に,
「先生,テストで分数の足し算を計算した後約分をやっていなかったら,どう採点したらいいんですか。」
と聞かれたのに対し,
「それをどう採点するかは教師の教育観にかかっているので自分で考えてみてください。」
と答えておきました。すると後日学年主任の先生からも同じ質問があったので同じように答えると,
「そんなのおかしいでしょう。テストというのは同じような観点で採点しなければ保護者から苦情が来るよ。」
というのです。ではどうするのかを尋ねてみると,「約分していないものは全部×にする。」というのです。おそらく授業の中で約分することを「約束」しているのでしょう。それぞれが考えればよい,という私の意見に対し,絶対に採点基準はそろえなければならない,という硬直した考えが私には受け入れられなかったのです。
 私はこの点については「採点基準」というよりは別の観点からの考えを持っています。それは,
イメージ 1「×をつけるという行為は表現されていることが成り立っていませんよ。」ということを指摘する行為だと思っているのです。数学的に成り立っていないことに対してはきっちりと×をつけてやらなければいけません。逆に「成り立っていることに×をつけること」はできません。
イメージ 2 左のような3種類の解答があったとします。これらをどのように考えて評価するか,というのはすごく難しい問題ではないでしょうか。一番上は「計算はきちんとしていますが全く放置したまま」2番目は「約分はしていますが既約分数になっていない」3番目は「最後までやっている」(一般的にはこれを正答としている。)という違いがあります。
 これらの解答に対する思いは,教師一人ひとりの「教育観」で決まるはずです。私にはそもそも「約分」はいつもしなければならない「技能」だとは思えません。例えばクラス10人中4人が手を挙げているとき「4/10しか挙がっていないなあ。」と言った方がイメージできます。(分数は割合的に使うのだから)
イメージ 3 実際教科書の赤刷りでも「小数を分数に直す」場面では約分せずに分母は,10,100等のままになっています。つまり場面に応じて「約分した方がよいときとよくないときがある」わけですから,無機質なテストの計算問題などの場面ではその判断材料がないわけです。だからどちらでも構わないはずです。(このようなことは数学では多々あると思います。例えば「有理化」はいつもやらなければならないわけではなく,「直積」などを考えるときにはしない方が分かりやすくなります。)
 一方で「計算した後はきちんと約分する」という習慣をつけさせることも大切なことです。「数学的なことはさておき,決められたことは最後まできちんと守らせる。」という教育観があってもよいと思うのです。世の中へ出れば自分が何と思おうと,上司が「白」と言えば「白」と応えなければならない「処世術」も大切な能力です。それらのバランスをよく考え,この場面ではこちらを優先する,という判断こそ「教育観」の現れといえるのではないでしょうか。
 小学校6年間にいろんな先生に教えていただき,多様な「価値観」を身につけることは大切なことです。私は「教育」という大きな視野の中の「数学」という目の細かいフィルターで子どもたちの価値を作っていきたいという「教育観」で臨む態度だけはぶれないようにしたいと思っています。