聴いていて《滋養をもらえる音楽》と、そうでもない音楽があります。あくまで《僕にとって》の話で、とても感覚的な話ですけど、結構ハッキリとそれは分かります。どちらも好きな音楽なのに、滋養のあるなしって感じるのです。


滋養のある音楽は、聴けば聴くほどに心の刃が研がれていく。《こっちに道はいっぱいあるよ》と気づかせてもらえるのです。聴くだけで歌がどんどん作れそうな気がしてきます。


例えば、僕は佐野元春が大好きで、昔も今もファンですけど、佐野元春は僕に滋養をくれるのですね。友部正人とか忌野清志郎、早川義夫や原マスミも滋養の固まりです。谷山浩子なんてどこを切っても滋養だらけです。


大御所なら、例えば松任谷由実や山下達郎、中島みゆきからも滋養をいただけます。でもこの三人は、取れる養分は既に色々な方が飛び付いていて、僕が今さらそちらに行っても後追いの後追いになってしまう場合が多い。僕が自分らしい音楽を探そうとした場合に、僕が使えそうな新しいアイデアって、もうそこにあまり残ってなかったりするのです。


そんな彼らから滋養をもらう場合は《これは既に多くの人が持っていったモノだ》と、しっかり認識した上でもらわなきゃいけません。


僕が吉田拓郎より井上陽水を熱心に聴いてきた理由も、その辺りにありそうです。両者とも巨大な滋養の山脈で、どちらもファンなのですけど、拓郎の方へ向かっても道が少ないと感じるのです。すでにもう多くの人が歩いてしまっていて、同じ道の後追いになるしかない。


その点、井上陽水の方角って、そちらはまだぜんぜん開拓されてない大地が広がってて、誰も歩いていない道がポコポコある。聴いていていまだにいくつも発見があるので面白いです。



滋養と道、つまり【道=追いかけて二番煎じにならない鉱脈】と定義して考えると分かりやすいかもしれません。道のあるなしで滋養が取れるかどうか決まる。誰もみな、その時々の勢いのある音楽にバーって寄って行きがちです。その反対側にすごく広くて空いている道があっても、わざわざ混んでる道へ行きたがる。


最近のネットで流行っているボカロPの音楽とか、いま流行りのミュージシャン、例えば米津玄師やあいみょん、髭男でもYOASOBIでもなんでもいいですが、みな素晴らしい才能でえげつなく完成されていて、それらを聴いてると楽しいのですけれど、こと滋養の点ですと、僕にとってはあまり旨味を感じません。


それは、どんなに憧れて彼らを追いかけても、改めて僕なりに開拓できそうな道がそこに見えないから。後追いではそのジャンルで彼ら以上の個性を示せる余地がないのです。ただでさえ、今や誰でもDTMで音楽を作れる時代。そこでの勝負は大変ですよ。


仮に、そんな狭い場に他者が後から飛び込んで、若さと情熱で音を突き詰めれば、いいところ横並びにはなれるかも知れない。横並びでも大したモノですが、千番煎じの一人になるだけ。労力のわりに実入りが乏しい道でしょう。僕はとても行けない。そんな棘の道で頭角を現そうと挑むエネルギーも才能も持っていません。


若手には影響を受けない、なんて言いたいわけでは決してなく、若手でも僕に滋養をくれるミュージシャンは何人もいます。僕が知らないだけで、これからも僕好みの凄い才能はまだまだ出てきてくれると信じたいですけどね。


こと、僕は個性的なミュージシャンが好きで、誰にも聴きやすくポップでノリが良くて、なのに誰にも似ていないっていう人が最高です。誰かの歩いた道の後追いだとしても、違う景色を見つける目を持ってさえいれば、面白いモノは作れるはずと信じてます。



ああなれたらいいな、こうなれたらいいな、と思っても、なかなかそうなれるモノじゃありません。音楽を作ろうとして、憧れは募っても、真似っこと思われないようにしたい。自分らしさって何でしょう。


創造は模倣から生まれる、という言葉は真実です。それは形を真似ることから始めても最終的に唯一無二になれ、という意味で。わかっていても難しいものです。

近所の犬と僕。鎖を外し、我が家に迷い混んで来た時の写真が出て来た。散歩コースに我が家の前を通るので遊びに寄ってくれたか。保護した時も大人しかった。いい子です。

先日コロナの一回目の注射が済んで、大した副反応もなかったので、ちょっとホッとしました。腕ももう上がる。今夜は夜勤です。頑張ってきます。


マシス



余談ですが、佐野元春は大好きでも、マシスの演奏を聴いてくれた人から《元春っぽいね》という感想をもらったことは(覚えている限り)ありません。僕は元春っぽくはなれないし、やれない。そこを目指すのは無謀だと自覚しています。聴いて好きな音楽と、自分の演る音楽は必ずしも同じではない、ということです。


それでも、間違いなくマシスは佐野元春に影響されています。されてないはずがない。意識はしてなくても、佐野元春の音楽的を聴くことで心の刃が研がれることは多大にあったと思う。