何年か前のこと、僕がある作家の新刊を読んで、感想をネットの某読書コミュニティーに書き込んだところ、ある方より

《そういう読み方がダメなんですよ》

と言われたことがあります。

僕は“読んでいる間、大変心地よい時間を過ごせた”とかなんとか書いたと思うのですけど、その人が言うには

《文章の心地良さに酔ってないで、この本の物語の底に流れる深い云々、登場人物の心の動きを云々、お前みたいなダメな読み手が増えて云々》

との苦言を頂いたのです。

この人は一時コミュニティー内をお騒がせしてた方で、《こんな馬鹿共に付き合ってられない。もう来ない》と言いながら、自分への悪口反論には必ず倍返しの反論をしてまして

で、絡まれた僕はどうしたか。もちろん反論なんてしません。《アナタの気を悪くしたならすみませんでしたね》とだけ答えました。


僕は物語の底に流れる深い云々は判らないけど、自分の読み方がダメだなんて、別に思いません。

そもそも読書にダメな読み方なんてあるのか?それは音楽だってそうでしょう。

例えば、ブライアン・ウィルソンの音楽は天才的と言われていて、でも僕がどこまでその音楽の天才性を理解してるかって問われたら、それは判らないですよ

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それでも、ブライアンの新譜『ノー・ビア・プレッシャー』は素敵だと、僕は大きな声で言えます。

“芸術よ、大衆娯楽であれ”ですよ




最近、珍しく読書モードでして、新刊を買い込んで枕元に積み上げてる状態です。

本を読んでる間、僕はインターネットに手が出ないので、日記を書き始めたら“一冊読み終えたのだな”と思って間違いないです。

前日記で北村薫の新刊のことを書きましたが、連れ合いがこの『太宰治の辞書』を図書館で予約待ちしていたことが判明しました。

待ちは三十四番目だそうで、それなら貸してあげよう、と、ひさびさの夫婦間図書交流。


大学の卒論で太宰をやったという連れ合いは、僕からするとリアル“私”な感じです。


僕は太宰治は「斜陽」と「人間失格」を読んだだけ。それも連れ合いの影響で読んだほどですから、お恥ずかしい程度の関心度です。

でも、太宰が『斜陽』を執筆したという伊豆の温泉宿に、僕らも泊まったことあります。

実際に太宰が使った部屋に泊まれて、その時はちょっとミーハーしました




マシス