中箕輪尋常高等小学校高等科二年生二十五名、青年会員九名、引率清水、征矢、赤羽校長の三十七名が、修学旅行中、暴風雨に襲われ、山小屋を急造して避難していた。赤羽校長にとっては、この中央アルプス駒ケ岳登山は執念の行事であった。それは彼の“子供は生まれついては強くも正しくもない、それを鍛え、困難を乗り越えられる人間にするのが教育だ”という方針の為である。しかし、清水訓導は、もともとこの登山には反対であった。彼は、同僚の樋口や伊吹やえとともに自由な理想教育を目指し、校長とは度々論争をしていた。赤羽校長の腕の中で古屋時松がこと切れると、小屋の中にパニックが起こった。一人の青年が、屋根にしてあった着ゴザを引きはがして嵐の中に逃げ出すと、青年達は次々と後を追った。そして、生徒と教師と一部青年会員の悲劇の下山が始まった。着ゴザを手に入れられなかった生徒達が次々と死に、校長は自分のシャツを生徒に着せて死んだ。征矢は山を下り救援を求め、清水は負傷した生徒を岩陰に連れていった。この登山に最も強く反対していた有賀主任訓導は、救援本部にかけつけると、すべてのシャツを生徒に着せて、凍死している赤羽校長の姿があった。有賀は教育の方針の違いを越えた大きな愛を見る思いがした。村葬の日、学校関係者や校長未亡人の回りには遺族たちからの罵声が渦巻き、校長の家には連日投石が続いた。生きて帰った清水、征矢には査問会が待っていた。周囲の反対を押しての結婚を控えていた樋口訓導は、校長に“今が一番大切な時だから残るように”といわれていたが、校長の後を追って自殺する。有賀は病身を押して教師と生徒の心のふれあいを記念する遭難碑を建立し、その記念碑除幕式の翌日、世を去った。それから十二年後、修学旅行は再会され、それは今にうけつがれている。
( Movie Walker:『聖職の碑』より引用 )
概説
1913年(大正2年)に長野県中箕輪高等小学校(現・同県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の集団宿泊的行事として実施された木曽駒ヶ岳集団登山における気象遭難事故の実話に基づき極限状態での師弟愛を描き、「生きること」「愛すること」の意味を問いかけた。
( Wikipedia:『聖職の碑』より引用 )
何となく思い出しました
1978年9月23日(土)公開ということは、mathichenさんが中学1年生の秋ですな
駅前の東宝映画館まで、元料理番と観に出かけました
元料理番は結婚後、子供祭り以外で映画館行くことはなかったけど、主演の鶴田浩二が永遠のアイドルなので
アタクシはといえば、永遠の女神様モモエちゃんの未来の旦那さん観たさで
当時は、権利関係が細かくなく、映画台本がロビーに置かれてあり、無料で貰えました
捨てた記憶ない。いまも汚納戸のどっかに眠っているはずです
BIGLOBEニュース見ていると
『小学校講師、教室で女児の尻を触った疑い』
『少年サッカーのコーチを逮捕=強制わいせつ容疑—神奈川県警』
聖職ならぬ性職に熱心なのが相変わらず多いでやんす
嫁や彼女との生殖活動じゃ、満足出来んのかえ?
何?モテナイ先生であれば、カワイソ過ぎるって?
だが、正面切って風俗店行くのは、もしもPTAに目撃されたら集団ヒステリーの餌食と化す
で、昔々、知り合いのおっさんと二人、「人目につかない場所に学校の先生専用風俗店必要かもな」
とは思うものの、先生や指導者は一応大人なんだから、そこは何とか自制しなさいよ
子供の服脱がすんじゃなくて、「校長は自分のシャツを生徒に着せて死んだ」、‘聖職の碑’を見習いやがれ
アンタらより人生長く将来ある子供の心に禍根残しちゃダメだっての
どんな先生と当たるか、今年の春もドキドキなガキンチョどもは多いでしょうね
大人になって知る真実 クラス替えはこうして行われていた!
ガジェット通信2月18日(月)15時30分
毎年4月に新しい学年を迎える際の恒例行事に「学級編成」、いわゆる「クラス替え」があります。そのクラス替えについて、小学校に通っていた頃は知らなかった(知られていなかった)事情について投稿された『NAVERまとめ』のポストが話題を呼んでいます。
まとめの内容を抜粋すると、最初に重視されるのは児童の成績と特性。学力、成績の順でクラス数に応じて男女別に振り分ける基本作業の後、定期テストの平均点が同じになるように調整します。その後、学力は無視して個別に「スポーツのできる子」「リーダーシップの取れる子」「ピアノが弾ける子」を均等に分配。特に、ピアノが弾ける子は必ず各クラスに1人割り振られるそうです。
ここまでの優先度の高い配分が行われた後、上記のような特性を持たないその他の児童が均等に配分されて行き、最後にやんちゃな児童と保護者がPTA役員の児童、双子や親戚などの血族、仲が良すぎるか逆に悪すぎる児童同士が同じクラスにならないようにしたり、特定のクラブ活動に所属する児童や欠席日数の多い児童が偏らないように調整を行って完成。よく言われる「公平を期すためにくじ引きで決める」ような方法の採用は、全く事実に反する都市伝説に過ぎないそうです。
公立校の場合は小学校で2年おき(3年生と5年生に進級した際)と中学校で毎年実施されるイメージが一般的ですが、全国的に統一された指針などは存在せず地域や校長の方針によっては必ずしも上記の通例に当てはまらない場合もあります。一例を挙げると、長野県では大半の公立校において卒業まで一度もクラス替えを行わないのが普通とされているそうです。
画像:子供の頃は知らなかった…「クラス替え」の真実(NAVERまとめ)より
( 出典先:BIGLOBEニュース )
「公立校の場合は小学校で2年おき(3年生と5年生に進級した際)と中学校で毎年実施されるイメージが一般的」
mathichenさんの通った小中学校はそうでした
ただし、小学6年生の春、例外的なクラス替えが行われました
5年生までは3クラスに分かれていたのが、2クラスに減ったのですよ
他県への転校生が出たため、その1人抜けた関係から3クラスに分けられなかったとか
1977年4月8日、よく晴れた日の校庭でのクラス替えは、いまだに憶えております
名前呼ばれた者が、6年1組。呼ばれなかった者が、6年2組
担任の先生は、1組は若いオンナの先生、2組は中年のオッサン先生
オッサン先生というのが、体育会系の独裁者。誰だってイヤでしょが
ガキンチョどもはですな、皆必死で、「名前呼んでくれ~」と祈りました
mathichenさんは呼ばれたのか?
呼ばれるわけないじゃん。貧乏クジ引き人生なんだからさ。6年2組に放り込まれちまいました
ところが、クラス替えのもたらした結果は、意外や意外な展開を見ました
3~5年生まで同級で、6年1組に分かれた女子が、後年語った所によれば
「オンナの先生はやっぱ、ヒステリー起こす。鬱陶しかったわ~」
卒業アルバムで改めて見ると、確かに1組の先生、気がメッチャ強そうなねーちゃん…
オッサン先生はといえば
学級委員長他、選挙など行わず、自分の独断と偏見で決める
生徒の名前でなく、「おい、メガネ」みたいな感じで呼ぶ
すぐ校庭を何周かウサギ飛びさせる
給食残すのを絶対許さず、休憩時間に入ってもいつまでも苦手な物とニラメッコさせる
生徒会長である散髪屋小倅に命じ、好きな歌のドーナツ盤を家から持って来させる
家庭訪問は、クラス全員引き連れ、生徒に道案内させ、茶菓子用意している親無視して顔見せ程度
…と思い出しただけで、もお好き勝手にやってくれおって~ながらも
話が通じないというわけでなく、しょおもない冗談言うたり生徒と遊んだりの他
ウチの元料理番が目撃した所によれば
昼日中に、酔っ払って、まだ開店前で閉まっているスナックのシャッターをド突き回したりも
先述の6年1組に分かれた女子は、「皆で歌ったりしてた2組が羨ましかったで」
卒業式後のお別れ会、生徒会長でなくアホの子の、1組の散髪屋小倅が
「先生よう許したな~」と笑うたが、2組は2組で
卒業までの半年で答え出す?二人が暮らした年月を何で計れば?
あなたは少女の時を過ぎ?愛に悲しむ女になる?
…小学校卒業といえば、思春期入りかけ、色気づく年代に、フシダラ奨励かい…
同窓会は一度も行われぬまま、オッサンは昇天されました
ま、生きていても、出来ませんけどね
というのが、オッサンは思い起こせば、なかなかの渋い男前とあって
我々の卒業から数年後、転任先の小学校で、受け持ちクラスのPTAとラブラブになり駆け落ちし世捨て人状態に
…こんな担任じゃ、♪青春時代、納得行きますけども…
オッサンには、「反面教師としては、アンタは偉いわ」