言魂は国境と時代を超えて | mathichenの徒然なるままに

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mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】
https://mathichen.hatenablog.com/
ココに常駐中

選挙カー、ったく五月蠅いわね~
何とかの一つ覚えみたいに候補者の名前連呼って、やっぱアホだ
姓に引っかけたダジャレ系宣伝なんて、それを当選させる世界一デカイ墓場都市市民ともども知的水準サイテー
てか、mathichenさんが赤ん坊の頃から当選し続けてる爺さん、また立候補してたら、死霊の阿波踊りだわ




「選挙権得たばかりの若い連中が与党びいきであれば、大学生の知的水準落ちた証拠やな~
オレらの頃、第一党に投票するのは、何も考えず長いものに巻かれてるという意味で、恥やった」
昔々、1954年生まれのおっさんが言ってましたが
ここ何年か、狂った果実を当選させてしまう実は田舎者多い某選挙民見てると、あながち間違いではないか




政治で何とな~く思い出したお話を、まず2題




(その壱)




1980年代半ばの米国




当時の合衆国大統領は、大根役者、失礼、アルツハイマー、でもない、ロナルド・レーガン
白組マドリーのクリスチアーノ君、彼のロナウドは合衆国大統領が由来といいますね
女優ジョディ・フォスターを狂愛するジョン・ヒンクリーに撃たれてザマミロは置き




前任者の民主党ジミー・カーターが弱腰外交(実は、功績多いんだけど)と対照的に、レーガンは共和党タカ派
民主党支持多い古巣ハリウッドでも、何かケッタイな映画やTVドラマ見られました
‘若き勇者たち’(1984年)、アメリカに侵略してきた共産軍に徹底抗戦を挑んだ高校生の姿を描く
政治的なメッセージを帯びた作品ではなく、物悲しい幕切れから「反戦映画」だと見る向きもある
が、監督のジョン・ミリアスは、健康上の理由でベトナム戦争行けず悔しかった熱烈な反共主義者として有名
しかも、映画の原題、「アカくたばりやがれぃ」じゃあねぇ…
1987年にABCで放送されたドラマ‘アメリカ’なんて、原題はロシア語風にAmerikaだぜ
合衆国がソ連との戦争に敗れて占領され、国名も綴りを変えられたの意味
星条旗も別の国旗に変更された後の10年後のアメリカ人社会を描いたお話の何がワロタって
「今日、○○が手に入るかしら」と、旧共産圏名物である配給の行列を、物質文明アメリカ人がやってる場面




というくらい、政府が軍事力アップに精魂傾けていた時代
当然、福祉予算などはバッサリ切り捨てられました
ダンサーだかの息子が失業保険受けたら(正当な権利を強調しとく)、身びいきじゃ的批判出たし
国民の大半はまァまァ人並みか貧乏だ、そりゃ~怒ったみたいですよ




1983年頃、福祉についてどう考えているか知りたい質問状送った人のもとへ、ホワイトハウスから返事が届きました
こういう手紙への返事は通常、秘書が大統領の意を汲んだ内容をしたためる、これは常識としてもだ
レーガンの秘書は何をボケとったのやら、返事には、「大統領のお好きな料理は○○です」
小学生からの質問への返事やあるまいしの他、「アレレ、日常の食事もなかなか豪勢なんですね~」
返事を受け取った人は早速、国民の生活を逼迫させてまで軍事力増強への批判に利用しちゃいましたとさ




(その弐)




1985年頃の日本




ある夕方、某新聞夕刊の読者当所欄を眺めていたら、中学生男子が「中曽根さん、寂しいな」
寂しい?頭がバーコードだから?
いえいえ、永田町に対して、中坊は中坊なりに失望していたのでした




その中坊はしばらく前から、友だちと共同で英文の質問状を各国トップに送っていました
質問状といっても、学生時代の思い出とか、偉いさんにも子供時代あったでしょ教えてよと他愛もない内容で
レーガンの他、ゴルビー(ゴルバチョフ)、あと忘れたけど、外国はキチンとした返事をくれただけに
秘書が返事はともかく、「国の上に立つ方はそういうお話は致しません」的なのって、つれないですな
ちょいと中曽根爺さん、この話はアタクシの不興も買ったんで、アクセス数稼げるアメブロ別荘に載せとくわよ




$mathichenの徒然なるままに-Samantha Smith

サマンサ・リード・スミスSamantha Reed Smith、1972年6月29日 - 1985年8月25日)は米ソ冷戦下、アメリカ史上最年少の親善大使となり有名になった少女である。1982年、当時、ソビエト連邦共産党書記長に就任したばかりのユーリ・アンドロポフに手紙を親展したところ、アンドロポフ本人からソ連への招待を含む個人的な返信を受領し、彼女はこれを受託した。

スミスは米ソ両国において親善大使としてマスコミから注目を浴び、さらに日本での平和活動を通じ「史上最年少大使」として有名になった。また、スミスは本を執筆し、「ライム・ストリート」という連続テレビシリーズに出演した。13歳の時、バー・ハーバー・エアライン1808便の墜落事故によって他界した。

( Wikipedia:『サマンサ・スミス』より引用 )




ウィキペディアに、サマンサからの手紙と、アンドロポフからの返事が載ってるのをご覧下さいまし
「この質問には答えていただかなくてもいいのですが」
10歳の女の子にしては大人の事情わきまえている以上に
「ソ連の人々がいかに平和と友好関係を望んでいるか、ご自身で判断してください。」
爺さんが「子供だから」と侮らず、彼女の意志を尊重しているのが見て取れますよね




アンドロポフいうたら、こんな小話があります
「友人のアパートでの食事会に招かれた
食事中、テーブルに置かれた調味料を取ろうとすると、友人が慌てて『ワタクシめがお取りします』
すると書記長は、『我が手は何にでも届くよ』」




この小話の意味ですか?




KGB議長
1961年に党中央委員会の一員となり、1962年には党中央委員会書記に昇進した。その後1967年に一旦党中央委員会を離れ、国家保安委員会 (KGB) 議長に就任し、党書記長となるまで以後15年の長きにわたって同職を務めることとなる。KGB議長就任と同時に党政治局員候補となり、1973年に投票権のある正規の党政治局員となる。秘密警察の責任者が政治局に入るのはラヴレンチー・ベリヤ以来のことであった。これはベリヤ追放後にフルシチョフの発意で、軍と秘密警察を党の統制下に置くため、国防相と同じくKGB議長の政治局入りを禁止してきたのを、ブレジネフが解禁した結果であった。1973年には、国防相アンドレイ・グレチコも党政治局員となっている。

KGB議長としては外交面での緊張緩和(デタント)がソ連国内でイデオロギーを弛緩させることに関して警戒し、峻厳な治安政策をとった。アンドロポフは、アレクサンドル・ソルジェニーツィンを国外追放とし、アンドレイ・サハロフをゴーリキーに流刑にするなど反対派の弾圧に辣腕を振るった。一方で、KGB議長としてソ連内外の情報を管理・知悉する立場から、ブレジネフ政権時代の後半の「停滞の時代」にあって危機意識を強め、体制内改革を志向するようになっていった。汚職の摘発にも辣腕をふるい、ブレジネフの親族の逮捕にも大鉈を振るった。KGB議長が政治局に入ることを禁止したフルシチョフの措置を解禁させたブレジネフであったが、その措置によって強大な権力を得たアンドロポフに求心力をそがれていくという皮肉な結果になっていった。

( Wikipedia:『ユーリ・アンドロポフ』より引用 )




「KGBの手はね、何処にも伸ばせるほど長くて、何事も掌握出来るんだよ。ふおっふおっふおっ」
早い話、「ワシ(と、泣く子も黙るKGB)を見くびるなよ」




てな感じのおっかない爺さんではありましたが
サマンサをソ連に招待した本当の所はどうあれ、国の党首に相応しい紳士ではあったと思いませんかね




1983年12月、サマンサは引き続き「最年少親善大使」として、日本に招待され
神戸で開催された国際子供シンポジウムに参加
毎年2週間ずつ米ソの代表者が孫を交換することを提案し
そうすれば大統領が「孫が訪問している国を攻撃したくなくなるだろう」
…この案、日本と隣近所国の間にも適用されると思わん?
日本には、現代のガキンチョを洗脳したトシヨリが「ちゃう!」と絶叫しようが、大陸の血が濃いしさ
どっちが良い悪いじゃなくて、日本と隣近所国はすでに一蓮托生的な関係なんだから、どお?




それよか、サマンサと会った中曽根爺さん、何話したの?
1983年、NHK朝の連続テレビ小説‘おしん’ブームの頃に
少女時代のおしんを演じた小林綾子ちゃん(当時10歳ちょい)を国会に招き
「ダイコン飯だけで、よく頑張ったね~」と激励した
「ドラマと現実の区別つかんほど…」というよか、人気モノには何でも便乗しちゃえ~
ブーム過ぎたら知~らない
を思えば…ま、サマンサが何を力説しても、脳細胞の右から左へだったでしょうけどねーだっと