生い立ち
東京市赤坂区青山北町(現在の東京都港区北青山)の柳原愛子邸に生まれ、横浜市西区老松町に育つ。父は弁護士でThe Japan Society of San Francisco(The Japan Society of Northern Californiaの前身)の初代会長だったヘンリイ・パイク・ブイ(Henry Pike Bowie)。ブイはフランス系アメリカ人であったが、遡ればスコットランドの貴族の家系で、ナポレオンの最初の皇后ジョゼフィーヌの近い親族の子孫にも当たる。母はカトリックを信仰する日本人で琴の教授だったが、近所ではラシャメンという蔑称で呼ばれ、差別に苦しんでいた。威馬雄は父から『家なき子』の登場人物に因み、レミと呼ばれて育つ。
幼時より混血児として差別を受け、その憤りから日ノ出町通りの町道場「養義館」に通って柔道を習い、幼年組の一方の主将となる。横浜市立老松小学校に通学していたが、ハーフとして肩身の狭い思いをせぬようにとの両親の配慮により、同じハーフが多く通学していた暁星小学校に3年生から編入学、寄宿生となる。
レミの会
自身がハーフとして差別を受けた経験から、同じくハーフである佐藤美子・江川宇礼雄・藤原義江・渡辺暁雄と共に、1953年に一九五三年会(通称五三会、レミの会)を組織する。計7人の父なき混血児を自らの子として認知し、また多数の混血児を自宅に引き取って面倒を見るなどの行動により、混血児救済運動に尽力した。1959年、自伝的作品『レミは生きている』で第6回サンケイ児童出版文化賞を受賞する。1964年には混血をテーマにした東宝映画『自動車泥棒』(和田嘉訓監督のデビュー作)で安岡力也やデビイ・シエス(真理アンヌ)たちと共演する。また超常現象にも関心を持ち「お化けを守る会」世話人頭を務めた。その他、競輪廃止運動や麻薬追放運動にも参加した。
心筋梗塞のため、入院先の松戸市立病院で1986年11月11日に死去した。86歳没。遺骨は横浜市中区山手町の外国人墓地に葬られており、威馬雄の墓前では毎年11月11日(現在では5月5日)に墓前祭「青宋忌」がおこなわれている。
( Wikipedia:『平野威馬雄』より引用 )
‘レミは生きている’、確かカワイイ女子中学生の頃に読みました。いまでも持っています
黒船来航の文明開化都市なればこそ、むしろ西洋文明に対する『劣等感』を抱いていたのか
幼いレミは、混血車夫が同業者から「生意気だ!」と差別迫害される場面を目撃しています
レミ自身は外界と触れられるだけまだ恵まれていたといえるでしょう
‘子どものころ戦争があった’(1981年)の少女エミを思えば
蔵に閉じ込められた金髪少女。川遊びの場面では髪の色の如く輝く
この映画、花の女子高文化祭上映。体育館内の暗さゆえか、何やら閉塞感と解放感を両方覚えましたね
‘太陽にかける橋’(1961年)
日本の外交官、元・宮内省御用掛である寺崎英成と結婚したグエン・テラサキの自伝的小説が原作
彼らの一人娘マリコを主に描いたのが、柳田邦男、そしてNHKドラマ
上流階級令嬢ながら、戦争中の差別は逃れられず。登校途中にガキンチョどもから罵詈雑言も浴びた
英成氏が戦後、妻と娘を米国に送り出す永の別れの場面、久しぶりに観よかいな(VHS持ってます)
日本における混血児差別は、片親が白人でも陰湿なもの多いだけに(芸能関係ではチヤホヤするくせに)
‘キクとイサム’(1959年)に登場するような黒人との混血の場合は?
才能に恵まれながら芸能界悪の女王的に堕した歌手・青山ミチなんかも、幼時の差別に遠因ですかね
‘レミは生きている’の終わり近くに、黒人系の子供たちについて触れられた部分あります
夜中にドーンドーンと寝ながら床を足で鳴らす。鬱憤晴らしの如く
ご先祖様の受けた迫害はDNAに組み込まれているのか?と思ったそうです
白人系と違い、黒人系は何代何十年経っても血が受け継がれる優性遺伝子
米国には、『白い黒人』として生まれた子供が白人との間に黒い子供、よく見られるほど
戦後になって本格的に黒人系の血が流入された日本では、さて?
差別の負の連鎖はやはり断ち切れず続く?
ところで
21世紀も10年経った現在
外国人と交際する結婚する日本人男女は、そうでない日本人からどう思われているのやら
1980~1990年代で見ると、戦後半世紀経とうがいまだ遅れていて
女性は、白人、黒人がパートナーだと
自信持てないモテナイ君どもから、「どーせ『Yellow Cab』じゃん」との陰口が聞かれた
アジア系がパートナーだと
アジア地域を後進国と見下している優越感による、何というか「カワイソな娘ね」が全世代に見られた
男性の場合、それなり以上の財を成した中高年親父どもが、第二の人生を優雅に過ごそうと南国を目指した
自分は大富豪ではないが、日本は経済大国。フィリピンやタイなら、楽に暮らせるさ
嫁や子供にはそれなりの保証しとけばいい
生意気な日本のオンナと違って優しく従順な女性をはべらせて楽しい老後を♪☆
マニラで貿易会社経営する、フィリピン永住日本人男性によれば、「甘いんだよね」
彼は、期待に胸ふくらませて渡比し幻想は見事に崩れたアホンダラどもの相談に乗っていたのね
アホンダラどもの勘違いで最たるものは、「この国の女性は、強い。日本の女性のように男を立てようとしない」
誰よ?生意気な日本のオンナと言っておきながら、アワ食って慌てて上方修正するのは
包丁持ち出しオトコを躾けるのは、ベトナム美女(タイ美女にも同様のケースが見られるんだっけ?)
そこまで強烈かどうかは知らんけど、フィリピン美女も情熱的ですよ
朝もはよから魂フッ飛ぶ思いした日本男児いた話あるくらい
長期出張から帰国した3日後に、独り暮らしの部屋で朝目覚めたら、マニラ美女が台所で味噌汁作っていた
彼女は彼を追いかけてきたワケ~
次に多い勘違いは、「この国の女性は、実家ばかり大切にする」
こういう商売をやれ。土地を買え。弟妹の学資の面倒見てくれetc.etc.
南国美女を獲得してみたら、彼女とその親族から次か次へと要求される日々に悲鳴上げたの
日本人の幻想で相手を見ていたんだから自業自得でしょ
婚家が優先されデカイ顔出来るの、日本と、それに似た精神後進国だけだよ
女性はどこの国でも基本、嫁いでも、いざという時は実家とその親族を優先するぞ
大家族主義の根強い南国では、経済事情も影響して尚更だ
フィリピンは日本顔負けの学歴社会であり
女の子でも大学行けないと、お手伝いさん、掃除婦、ウエイトレスくらいしか仕事に就けない
下働きの仕事の給料はたかが知れているだけに
日本の基準では庶民に毛の生えた中流程度でも、南国の基準ではエリート級の価値持つ
姉ちゃんが、日本に出稼ぎ行ったり明るい農村に嫁いだりの中に、家族への仕送りのケース多く見られるだろ
日本人男性と結婚した女性は、出世頭で大黒柱、親孝行娘なのよ
皆が皆、カネだけが目的じゃない。南国の皆様の名誉守るため書いといて
アホンダラの皆が皆、経済危機に陥らない保証は?ありませんわな
カネちらつかせて釣り上げ、有頂天になれる夫婦関係だと、カネの切れ目が縁の切れ目だっての
正式な夫婦関係の解消で、日本に泣き帰れるのであれば、まだいい
非嫡出子デキちゃったとかなると、本国にいる本妻や嫡出子にビビリながら余生送り、かの地に骨を埋める?
ちなみに、この手の亭主族の嫁族も同じ穴のムジナ多いらしいですよ
赤ん坊を抱えているため働けない出稼ぎ女性が、弁護士と一緒に何らかの救済を男性に求めに出かけたら
応対に出た嫁が、「ゆすりですか。こちらこそ訴えますよ」と上から目線の高飛車な態度を取ったそうな
思うのですが、この嫁、やってきた女性が日本人であったならば、『正々堂々と戦う』のでは?
という、以上のダラダラした文はですな…
女性史研究家・三谷圭子は、今、ボルネオの北端にあるサンダカン市の近代的な街に感慨を込めて佇んでいる。ここは、その昔、からゆきさんが住んでいた娼館の跡であり、サキが現在もそこにいるような錯覚すら覚えるのだった……。圭子とサキの出会いは三年程前になる。からゆきさんの実態を調べていた圭子は、天草を訪ねた時、身なりの貧しい小柄な老婆と偶然めぐりあった。それがサキであった。圭子は、サキがからゆきさんであった、との確信を強め、また、サキの優しい人柄にひきつけられ、波瀾に富んだであろう過去を聞き出すために、サキとの共同生活を始めた。やがて、サキはその重い口を徐々に開いて、その過去を語り出した……。サキの父は彼女が四歳の時に世を去り、母は父の兄と再婚した。サキが十二歳の時、サンダカンで娼館を経営する太郎造はサキに外国行きをすすめ、前金三百円を渡した。サキはその金を兄・矢須吉に送金し、人手に渡った畑を買い戻して幸福な生活をするように願い、村の仲間、ハナ、ユキヨと共にサンダカンへと発った。当時のサンダカンは、英領北ボルネオにおける最大の港町で、日本人の経営する娼館が九軒あり、一番館、二番館と名づけられており、太郎造の店は八番館であった。八番館に着いて一年後、サキは客を取るように言い渡された。借金はいつの間にか二千円にふくれあがり、十三歳のサキにその借金の重みがズッシリとのしかかり、地獄のような生活が始った。だが、そんな生活の中にもサキは、ゴム園で働いている竹内秀夫との間に芽生えた愛を大切に育てていった。そしてある日、太郎造が急死し、女将のモトはサキたち四人を余三郎に売り渡した。余三郎はサキたちをプノンペンへ連れて行こうとするが、新しく八番館の主人となったおキクの尽力で、サキとフミだけはサンダカンにとどまることになった。おキクが主人となってからは、八番館は今までと違って天国のようだった。そして秀夫との愛に酔いしれたサキだったが、ある日突然、秀夫はゴム園の娘との結婚を告げ、サキに別れを告げた。サキの初恋は砂上の楼閣のように、もろくも崩れ去った。数年を経て、おキクはひょっこり現われた余三郎との口論の最中倒れた。おキクはサンダカンで死んだ日本人を弔うために共同墓地を作っていた。おキクを葬ったサキは帰国したが、母は既に死に、兄の矢須吉もサキが外国帰りということで外聞を気にして避けるようになっていた。天草はサキにとって、もはや故郷ではなくなっていた。その後渡満したサキは結婚、男の子を生んだ。だが戦争は夫も財産も奪った。やがて帰国したサキは、息子と京都で暮すが、彼が二十歳を過ぎた頃、サキ一人で天草へ帰された。結婚するにはからゆきさんの母親が邪魔になるのだろう……。圭子とサキの生活は三週間続いた。だが、村人は二人への疑惑を燃え上がらせた。圭子がサキの実態を書けば村の醜聞が知れ渡るからだ。圭子は取材を断念するとともに、自らの素姓を明かしてサキに詫びた。だが、サキは圭子を慰め、温い愛情で勇気づけるのだった……。そして今、圭子はジャングルの中でおキクや秀夫の墓を発見した。望郷にかりたてられて死んでいった日本人たち。だが、それらの墓は、祖国・日本に背を向けて立てられていた……。
( Movie Walker:『サンダカン八番娼館 望郷』より引用 )
サキを演じたのは、大正・昭和期を代表する日本の女優・映画監督であった田中絹代
1974年に主演した、熊井啓監督の映画‘サンダカン八番娼館 望郷’の円熟した演技は
ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞など、世界的に高く評価され
波乱に満ちた半世紀に渡る芸術家人生、その最晩年を華々しく飾ることが出来ました
村の小さな食堂でだっけか、圭子とサキが知り合う場面
サキの経歴を知ろうと、同行した圭子の友人が軽く「あ、からゆきさんね~」
ギョッとした表情のサキ。気まずくなる小娘ども
からゆきさんの実態を調べていても、戦後生まれ世代の無知無神経ぶりが現れた1970年代
だったら、からゆきさんなど言葉も聞いたことあるかどうかの、後の世代やアホンダラどもは?
彼らが大国と絶賛し誇りにする日本にも暗黒史は存在するのに
南国において、カネによる結婚や愛人関係なんて
貧しい時代に生まれ歴史の彼方に消えた、名も知れぬ同胞女性たちへの侮辱を行っているも同然
最後に
日本から遠く離れた、現代の世界でもいまだ、何らかの緊張関係にある地域や国は多いですが…
パキスタンに迷い込んだインド人女性、自宅帰れず13年
【8月14日 AFP】対立関係にあるインドとパキスタンは今週、それぞれ独立65年を迎える。そんな中、パキスタンに何年も足止めされている、耳が不自由で口の利けないインド人女性が願うことはただ1つ――故郷に戻り家族にどうやったら会えるのか、ということだ。
21歳になるギータさんは、13年前、インドから国境を越えてパキスタン東部のラホール(Lahore)へ向かう列車の中で、混乱した状態で1人で座っているところを警察官に発見された。
保護者が見つからなかったことから、警察官はギータさんを同国最大の慈善団体、エディー財団(Edhi Foundation)の施設に連れて行った。
ギータさんは、インドに戻りたい一心で施設から何度も脱走した。だが、家族の住む場所がわからないギータさんにはどうすることもできなかった。
そして現在、インドとパキスタンの両当局合同でのギータさんの両親捜しを求める活動が始まった。
■迷い込んだインドの少女
「彼女にとってはシンプルなことなのです」と、ギータさんの面倒を見るBilqees Edhiさんは、孤児院兼病院の建物の中の小さな部屋で、AFPの取材に語った。
「彼女はここを出ればすぐにインドに行けると考えている。家族に本当に会いたいと思っている。けれど彼女は、インドに暮らしていたということしか覚えていない。それ以外のことは何もわからないのです」
保護後しばらくの間、ギータさんはラホールの施設に暮らし、エディー財団が両親の捜索にあたった。だが、成果の出ないまま年月が過ぎた。ギータさんは何度も施設から脱走したり、スタッフと衝突するようになり、ギータさんと良い関係だったBilqeesさんが6か月前、カラチ(Karachi)の自宅にギータさんを招き入れた。
小柄で細い体のギータさんは、独自の手話を使う。また、ヒンディー語で「インド、兄弟が7人、姉妹は3人」と書くことができる。年長者に対しては足に触れた上でナマステの動作をする、ヒンズー文化の作法を用いる。
ギータさんは手話を使って、ある日、両親に叱られることに嫌気が差して家を飛び出し、そのまま何時間も歩き続けたと語った。
「それから、私は電車に乗って、眠った」
■両親の捜索は続く
ギータさんは、母親に「Guddi」と呼ばれていたという。これはウルドゥー語とパンジャブ語で「お人形」を意味する単語だ。また、自宅の脇には川が流れ、病院とレストランの裏手にある住宅は野原にあったという。
「でもこれだけでは、どこの村や町でもおかしくない。このような場所はいっぱいある」と、Bilqeesさんは、いら立ち交じりのため息をつく。
パキスタンにインドの子どもが迷い込むことは過去にもあったが、いずれも親元に無事帰ることが出来ている。
ギータさんの問題は、パキスタンの有力人権団体「パキスタン人権委員会(Human Rights Commission of Pakistan)」のZohra Yusuf会長がインド高等弁務官事務所に持ち込み、さらにインドメディアに両親捜索の協力を要請した。
■「すぐにでも帰りたい」と願う日々
ギータさんは現在、小さなテレビでインドのドラマ番組を見たり、イスラム教の断食月「ラマダン(Ramadan)」の様子を眺めたりして過ごしている。また、Bilqeesさんの自宅のベランダの隅に設けた小さなヒンズー教の寺院で、祈りを捧げている。
「彼女はあそこで祈りを捧げてから、私たちの断食の仲間入りをする」とBilqeesさんは語る。
ギータさんは指で唇と耳に触れ、きょうだいたちは耳が不自由でないことを表現する。それから少し悲しそうな笑顔を浮かべ、空を見上げて、飛行機の形にした腕をゆっくりと伸ばす。
「すぐにでも家に帰りたいって彼女は言ってるんだよ」と、孤児院に暮らす10代のイスマットさんが言葉を挟んだ。(c)AFP/Hasan Mansoor
( 出典先:AFPBB News )
1988年、池田理代子×遠藤周作対談の中に、池田先生がマリー・アントワネットの王子について
「ルイ・シャルルは、幽閉後、かなり簡単に自分が王子であったことを忘れています
あんなに簡単に忘れるものなのかなと思っていたら
この間、来日した中国残留孤児の中に親と別れた時が14歳がいて
それでも親の名前とか自分の日本名とかを覚えていないというんですね
じゃぁ7歳や8歳だと簡単に忘れるものなんだなぁを認識しました」
乳幼児だと、中国人として育てられる。年齢高いと、現地での労働力として教育無い
こういうケース多かったから、順応力(生存本能)が働いたら?
血は水より濃いなどというタワゴト言ってると手酷い報いを受ける、その証の一つ
ギータさんはまだ若い。しかし、両親は?
家に帰れても、誰もいなかったら?
望郷に駆り立てられて死んでいった異邦人
だが、その墓は、祖国に背を向けて立てられていた……
手遅れにならないよう、一日も早く身元判明を祈ります
「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」敗戦記念日に合わせ
【子供の頃の戦争は時を越えても】(2010年9月1日)
【望郷レクイエム】(2012年7月22日)
見事にカテゴリ検索落ちしたYahoo!独話別館記事2本を
加筆修正して1本の記事にまとめました次第です
【子供の頃の戦争は時を越えても】(2010年9月1日)
【望郷レクイエム】(2012年7月22日)
見事にカテゴリ検索落ちしたYahoo!独話別館記事2本を
加筆修正して1本の記事にまとめました次第です