Leid und Mitleid(共に悩み悟りゆく) | mathichenの徒然なるままに

mathichenの徒然なるままに

mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】
https://mathichen.hatenablog.com/
ココに常駐中

$mathichenの徒然なるままに-「在外」日本人 柳原和子




表紙左上の方に、プラハの春という文字が見えますね
チェコ在住が半世紀以上に渡る小野田勲氏へのインタヴュー題名です
日本とチェコ(スロヴァキア)間の貿易を中心にやっている日本商社駐在員となった小野田氏は
若き日には、戦前のアヴァンギャルド芸術運動に深い関心を抱きつつ、共産主義者同盟ブントの一員でもあり
世界構造の変動への予感が確かなものと思え、東欧諸国との連携を取っていかなければならないと
60年安保闘争前年の1959年、留学生となってプラハを目指しました
…60年安保闘争がどういう結末を迎えたかを思えば、プラハ行きは、皮肉な選択だ…(Wikipedia








1968年の『プラハの春』そして『チェコ事件』(Wikipedia
新たに芽吹いたチェコ改革の動きは無残にも、ソ連軍主導による戦車の大群に踏みにじられてしまいました




あるひそかな別れの席で、小野田氏は「3年経ったら、また学部で会おう」
すると、近くにいた哲学専攻の学生が、「3年じゃない。20年」
「今度の敗北は20年だ。日本人にはそこがわからないんだ」
この言葉を、古代スラブ語をやっていた日本人言語学者に話したら、たちどころに言われたとのこと
「君、それは蝉だよ。20年に一度、地上に出てきて啼く蝉だよ」
…『ビロード革命』は1989年だから、21年後の勝利…ま、細かいことは置いといて




哲学専攻の学生は、逃亡せず、2ヶ月後、大学の前の電車停留所で、突然ソ連製のジープで轢かれ命を落とし
彼の親友だった心理学専攻の詩人と酒を呑んで弔った小野田氏に
社会改革運動はすでに地下に潜っていたがわかりました
反ソ派狩りが行われ、国外逃亡した面々も多数いた時期ですかね




この時期、小野田氏は常に全財産の2000ドルと日本のパスポートをポケットに入れていた理由として
いつ何があっても妻子と3人だけはどこかに逃亡出来るようにするためでした
それを肌身離さず、あちこちの集会を駆け巡ったのですが
チェコの友人たちにそのことだけは話せませんでした
「逃げ場のある人と無い人では対話は本質的に成立しないんですよ」




それで思い出したのが、1999年のコソボ紛争(Wikipedia
正確に書けば、テレ朝‘ニュースステーション’、ある夜の特集
紛争について、日本滞在中のセルビア人とアルバニア人に話し合いの場を設けたのですわ
詳細は見事に忘れました。敵同士ご対面の場面だけ記憶に残っています
都内のホテル一室に入ってくるや、挨拶と自己紹介もそこそこに熱い議論の戦闘開始
英語で話している所を見ても、海外に出て暮らしていけるのは裕福で教育水準高い、まぁ特権階級にしても
立場は真逆なれど、祖国が危機に瀕しているという点では、『同志』、相通じるものがある
よくわかりましたよ




記事題名ドイツ語の意味、『苦しみと同情』が正しいんでしょうがね
『或る人と悲しみを共にする』と意訳すれば、『共に悩み悟りゆく』にも変化しますわな
本質的には、立場はそれぞれなれど相通じる者同士にのみ成立すると思います
が、心眼を開けば、異邦人にだって可能であるとも




小野田勲氏は、チェコ文化に魅かれ彼の国をよく知るにつれて
学生たちの生い立ちや家族の運命などに興味を抱くようになりました
いわば学生一人一人が研究対象になり、そこで初めて
賢く美しい学生たちとその家族が生きてきた社会主義がどんなに悲惨であったかに、改めて直面しました




激動の1968年を過ごした後、小野田氏にも変化が訪れました
それまでの日本人女性との幸福な家庭を離れ、教職で受け持ちの女子学生の一人と再婚
彼女の父親は共産党政権に対するクーデターを計画したとされ、終身刑で獄中の身にあったといいます
そのため、娘は幼い時からさまざまな苦しみを耐えていたので
小野田氏は彼女に、「国家がしてあげられなかった全てを、僕が代わってやってあげよう」
そう思ってしまったんですね
そして学問と教職から身を引き、駐在員へと転向しましたとさ