1964年に留学のため渡独、1977年まで(西)ドイツに暮らした日本人男性の回想録よりのネタ
ある市立公園に日本庭園を造る工事中、50過ぎのドイツ人男性がカメラを肩にして工事現場に遊びに来た
下働きのトルコ人労働者たちが「おーいゲオルグがまた来たぞぉ」、それくらい熱心に通っていた
電車運転手か国鉄や郵便局に勤める風情ながら、現場に関わる日本人留学生を質問攻めにする好奇心旺盛ぶり
留学生がその後、夏休みを終えて大学に戻ると、ゲオルグは大学教授で物理の研究所にいると知った
教授は職員食堂で一食100円の定食をおごってくれ、自宅に遊びに来るよう誘った
教授には翌年の夏に渡日予定があり、日本人と知己を得られたのは好都合だとのこと
大学教授の社会的地位が日本とは比較にならぬ高さのドイツで、オンボロ自転車で大学に通勤
教授の教え子と出かけたアパートも古い建物なので広々しているものの、他の教授に比べると貧しい感じであった
大学通の友人によれば、「あの教授はね、去年やっと、55歳で教授にしてもらったんだよ」
「学問的に劣っているわけでなく、むしろ立派な業績を残し、剛性の分野では相当の権威らしいよ
ただ見かけがアレで、その上やることなすこと百姓みたいだからね、教授に引き上げられるのが遅れたそうだよ」
実際、教授は豊かな話題で留学生を歓待する知性と教養の人であり
10ヶ国ほどのヨーロッパ語を話せるにとどまらず、日本語も習うと宣言するほどの知的好奇心に満ち溢れていた
教授夫人というのがこちらはこちらで、家に来るドイツ人は面白くないのが多くて
「全く近頃の大学生は専門バカが多くて困るわ
部屋に入って来てもボサッと突っ立っているし、気が利かないし、一体どんな家庭教育を受けているんでしょうね」
大学生に関しては、現場を毎日見聞きするご亭主がより一層手厳しくて
「いまの大学生は昔の女子学生そっくりだ
自分の科目や試験に関係あることには熱心だが、他のことにはまるで興味を示さないのだ
いや、他のことやるのは無駄と、損得勘定で決めるらしい
で、卒業する頃には、知性の無い、知能労働者が出来上がるんだよ
知識だけ頭に詰め込んだ、自分で物事を認めたり判断したり出来ない連中が大手を振って指導者になるなど
無能な指導者しかいないドイツの社会は、民衆は怠けて働かなくなってしまい、没落する。将来が思いやられるよ
といっても、学生連中にこの話は通じない。講義の最中に余計なことばかり話してと思っているらしい
学生とコンタクト取ろうにも、どこかズレていてね
彼らに言えることは、知的雰囲気に反発することなのだ
ある事実を知らないと、彼らはそのことに興味を示すのではなくて
その事実を知らないと自分が劣っているのではないかと逆に、その事実を支えているものを無視するんだよ
人間は知っていることはほんのちょっぴりで、知っていないことばかりなのだから
彼らのような態度を取っていたら、身体がいくつあっても足りないよ
オレは大学でこんなことやった、そして博士までやったと自慢する奴が出てきたのは、全く馬鹿げた傾向だよ
このまま行ったら、必ず大きな穴にはまって引っくり返るぞ」
教授は予言者だったのか。その後1970年代に、ドイツの大学は学生の不満が爆発した
数多くの優秀な科学者や哲学者を生んだドイツの大学のイメージと現実の大学の様子があまりにもかけ離れ
大学で学ぶというエリート意識を十分に満足させてくれない大学の現状と
大学への一般の評価の低下に対する不満が、教授たちへの憎悪、そして暴力に繋がったらしい
ゲオルグ教授はといえば、熟年での日本旅行中、寝るのが惜しいくらい歩き回り食べまくりと、好奇心の塊
新しい研究結果の賞金で新しい自転車を買うはずが、愛車に匹敵する合理的な新型自転車が見つからなかったと見え
相も変わらずのオンボロ自転車通勤を続けたそうな
ドイツの大学は、小さな私立数例を除いて、全て国公立であり、大学授業料は無い
大学入試も無く、医学部のような特殊な学科を除けば、高校卒業試験に合格すれば全ての人々が入学出来る
バカ高い学費や仕送りに悲鳴上げる日本の親が見たら(羨)の涙目になりそうな楽園
では、無論あり得ません
12歳くらいで将来を決めて高等教育か職業教育か決め、その後も篩にかけられる、子供のうちから弱肉強食社会
最高学府に到達するというのは、真に選ばれし優秀な人材のみ許されるのが大前提なのです
フツツカだが人並みの兄ちゃんが無理して安い国公立へ行くか進学諦め
フシダラな妹が見合いの釣書に大卒の箔つけるべく偏差値低い無名私立大学でも送り込む
といった、きょうだい差別して、選ばれざる者が金メッキしてまで分不相応な真似するのは、嘲笑モノといいます
大学は遊びに行く場所で無く、水準に達しない者はガンガン脱落する、将来を賭けた修業の場で
卒業後すぐ、新卒歓迎飲み会など存在せず、即戦力として現場に放り込まれ成果を求められる厳しさに加え
人は能力に応じた学校に入り、能力に応じた地位につくことが、真の平等という考えからです
能力に応じた学校に入る、能力に応じた教育を授ける、持ちつ持たれつというか釣り合い取れないと
学生側、学校側のどちらかが意識低くいい加減だと、もう片方の水準を貶めてしまう
思うに、上段の、ドイツの大学生の不満が爆発は
学生側の、全員でなく知能労働者予備軍の蒔いた、後の世代への禍根となる、自業自得じゃないですかね
無能な者が高い地位についたら、不平等。それが、ドイツ人の絶対的倫理観
古の英国の名レコード製作者も、「芸術に民主主義は存在しない」
機会均等は可能だが、結局は個人の能力が成否を決めるのだったら、最初から能力に応じた配置しましょ
もしも人生途中で、思いもよらぬ才能が見つかったら、新領域に挑む機会を与える余地は残して
これらを日本人が理解するのは、ネタ元の日本人留学生によれば至難だといいます
日本人は意識しなくとも、人は生まれながらにして皆これ同じという、仏教的発想であり
人は生まれながら能力差があり、天分を持つもの持たぬ者に分かれるという、キリスト教的発想は難しいためとか
難しくたって、人には能力差を認めるのが、真の優しさじゃないの?
分不相応で破綻きたさなくても見かけ倒しだったら、何が豊かな人間力として身につき、後世へ受け渡せるのやら
将来決める縛り少ないのはマイナス面として、本当に自分のやりたいことが見えて挑めるか、あると思います
日本もドイツ並みに、中学段階で能力に応じた人生配置、各々の進路に専念させるのは如何?
日本には数人もいないらしいペルシャ語精通者が、本職ではないが高評価で重宝されるに対して
彼は将来性あるが、学習者多く競争率高いため、椅子はあるが座らせてもらえない中年イタリア語翻訳者
という例を知っていますが、後者は身過ぎ世過ぎの副業が本職になりそうな気配で気の毒だわ
紙切れ重視の似非学歴社会から真の能力社会へ変わったら
街のカルチャー教室程度のヘボ大学と、その程度の卒業者の分際で叩き上げ高卒者を見下すクソガキどもを駆逐出来て
世の中少しは清浄な空気を吸えるんじゃないかと思う、今年の五月病患者は大学ではどのくらいか楽しみな今日この頃