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視聴率最高記録は『第14回NHK紅白歌合戦』の81.4%
8月15日16時00分 提供:NEWSポストセブン

放送開始から58年、2011年7月24日にアナログ放送が終了し、テレビはひとつの時代を終えた。シリーズ「あの頃のテレビはすごかった」――ここでは国民的番組という称号を得た『NHK紅白歌合戦』(昭和26年~)を振り返ろう。

第3回まではラジオ放送の正月特番だったが昭和28年からテレビ放送が始まり、大晦日は紅白を観て家族で過ごすという行事が確立された。美空ひばりがトリを務めた昭和38年の第14回では日本テレビ史上最高の視聴率81.4%を記録。

しかし時代とともに歌手、視聴者の「紅白離れ」が進み、昨年の視聴率(第2部)は41.7%。国民的番組という存在感が薄れている。

※週刊ポスト2011年8月19・26日号

( 出典先:日刊アメーバニュース )



・モノクロ放送としては最後の回で、キネコで映像は全編現存し、NHKに本格的に現存する紅白の映像の中では最古である。後年の『思い出の紅白歌合戦』(NHK BS-2)でも全編が再放送された。翌1964年の第15回から紅白歌合戦のカラー放送が始まった。

・ビデオリサーチ発足以後のテレビ番組としては史上最高の視聴率81.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区。以下同じ)を記録した(瞬間最高視聴率は五月みどり出演時の85.3%)。また、番組の直前に放送されたニュース(21:00~21:05)も視聴率66.7%で、この年の年間視聴率ランキング2位を記録した(放送分数5分以上の番組をランキングに入れた場合)。

・翌年が東京オリンピックであることにちなんで、オープニングでは俳優の渥美清が聖火ランナーに扮し、オリンピックの開会式風の演出を行い注目された。渥美は当時、テレビ番組「夢であいましょう」(NHK)などで人気を博していた。エンディングも「蛍の光」ではなく「東京五輪音頭」の合唱だった。

・全国のファンからの関心が高まってきたこの年、当時の芸能局内に「紅白歌合戦実施委員会」を設置。この年より毎年秋になると同時に実施の準備が始まることになる。

・初めて歌手・司会兼任出場を果たした江利チエミは後に「出演する方を目立たせるために、地味な格好を自分はしたり、夢中で頑張った」と語っている。

・出場歌手の一人である坂本九は、本番直前に衣装全てが盗まれたため家から持ってきた私物で本番に臨んだ。

・北島三郎が初出場。

・この年使用したマイクロホンは、司会者・歌手用共にAIWA VM-17Sとされている(次回である第15回にも同じタイプのものが使われているが、マイク自体を支える両脇のアームが無いタイプ)。

・雪村いづみ、三波春夫はワイヤレスマイクを衣装に付けてセット中央の階段から歌い始める。

( Wikipedia:『第14回NHK紅白歌合戦』より引用 )



哀愁出船 by 美空ひばり、どちら様も静聴せよ



第17回NHK紅白歌合戦の年の2月1日生まれである当所管理人が昔々聞いた話の記憶によれば



第14回かその前の第13回か忘れましたが、ひばり女王様が紅白出演後に帰宅したら
家でTV観ていた亭主から「オメエ、あの歌い方はねえだろ」
恐れ多くもひばり女王様にダメ出しする、どんだけ歌唱力抜群なんでしょねぇ???



小林旭との短い結婚・離婚後
1962年、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚し、一時的に仕事をセーブするようになる。しかし、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。またひばり自身も歌に対する未練を残したままだった為、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいて欲しい願いも叶わなかった(また小林も勝手に借金をするなどトラブルを起こしていた)。また結婚した翌1963年には、ひばりの実父・増吉が肺結核により50歳で亡くしている。

別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚した。田岡が間に入り、ひばり母子の意思を小林に告げ、離婚会見を開かせた。小林はその場で「理解離婚」とした上で、「未練はいっぱいある。みんなの前で泣きたいくらいだ」と語った。その後、別に開いた会見でひばりは「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」と語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。なお小林の著書によれば、実際には2人は入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった(小林は入籍を希望していたが、母が不動産処分の問題があるからと断り続けたとのこと)。

離婚直後に発表した『柔』は翌1965年にかけて大ヒット、180万枚というひばりとしては最大のヒット曲となる。この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』、1967年には『芸道一代』、グループサウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演とミニスカートの衣装が大きな話題となった『真赤な太陽』と、彼女の代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。

( Wikipedia:『美空ひばり』より引用 )




小林旭 --アキラのズンドコ節.《原始版 》【台翻 : 真快樂】



ずっと後年になっても、あまり進歩無いような~(コチラ参照
昔の名前で出ています~♪…これで、当時9歳のアタクシに覚えてもらえたんですけどぉ



マイトガイに個人的ウラミツラミは別に持っておらんものの
25,6歳の若さにして、人生の酸いも甘いも噛み分け歌に反映される
音符は読めなくたって耳が抜群に良く、バンドの演奏ミスを指摘した
昭和を越えて永遠に偉大なるひばり女王様に、ツッコミ入れたという罪は(怒)



という記事書けるのって
TV黄金期に、レコード盤が高値で高嶺の花だった時代、ブラウン管から聴こえる旋律を覚え歌い、いまだ耳に残る世代
アタクシどもの特権ですかしらん



現代の歌手は、楽典バッチリ、ヴィジュアルも優れている。けど、期間限定消耗品が多い
ダウンロードじゃ何じゃと音の楽しみを得る手間省けて、どれだけ余生後世に残す価値ある歌や歌手が?
TVだっていくら技術が進んでも、中身がスカスカなら意味ありませんよ
数年前でしたか、北野誠がラジオで言っていました
「地デジの時代になったら、オレらタレントは引退せなアカンかもな
双方向番組が普通になってみい、視聴者がエラソーに仕切り出して、司会とかそんなん不要や言い出すで」
これすなわち、プロとアマと素人の区別無くなるのみならず、お茶の間での家族団欒完全終焉やがな