ボクの中のゴッホ(秋の鑑賞会) | ..あちゃ! no mic's

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自分が「知らないこと」を知らないという、記事だけど、書いてみた。

絵については心を閉ざしていた自分だけど。

 

絵をみるには、まず自分の視点を持っておこうという点。

批評はいくつもされているので、あとで、それを参照すればいいんだろう。

なぜゴッホは死後、評価されたのか?

ボクの一生のスパンで分かればいいことだ。

絵を描く立場にいないので、急ぎはしない。

印象派だとか、絵の流儀や時代背景なんかも、なんとなくでしか分からない。

特に強くゴッホについて思うことがあるとすれば、多くの自画像で見られる、「うねり」のような

タッチ。

誰でもそう思うことだ。

ヴァン・ゴッホ風のフィルタがGIMPにあるけど、それは厳密に違うようだ。

夜空の月の周りをまとう「うねり」だったり、輝く太陽のそれだったり。

自画像の、それは過激な色彩。

法則と定理の狭間で、ボクを戸惑わせる大きな憂鬱がそこにはある。

19世紀の終わりの始まりを予言したのか。

物理学/科学で言えば、大型の列車では蒸気機関がまだ、幅を利かせていた時代だと思う。

それはおそらく、物理学によって予言されたものではなく、経験則からの閃きだったはず(ワットくらいしか知らない)。

物理学のために拡張された乱暴かつ巧妙な数学によって、描かれた描写は、もう既に、一般人には理解できないものになっていたはずだから、アインシュタイン前夜、恐竜と化した古典物理学への訴え、努力の様(狂気)が似た様だったとか、そこにあったんじゃないか。

物の理(ことわり)をそこに見た?

彼の絵の紹介でよく人生が語られるが、科学的にみる目が欠けているんじゃないかと思う気持ちがある(ちょっと言い過ぎ)。

科学者さんなんかにとっては当然の視点ではあるけど。

絵だけが語り掛けるもの。

法則が定理か?

自画像の中にも「うねり」のないものがある。

顔だけに「うねり」のある作品もある(着衣はべた塗り)。

ゴッホのフィルターにおいては、月や太陽や花の種のようなものや、「うねり」を持って描かれたものすべてが、「生きていたんじゃなかろうか」

生きているものは「うねり」を持つという。

 

身体や天体というものは、容器、受け皿であって、そこに宿る生命は、空間を共有する。

自分からはみ出して、ぶれている。

近いほど歪みは強く、遠ければ弱い…馬鹿げた後だしジャンケンだけど。

生きたものにしか「うねり」は見られないんじゃないか。

GIMPのScript-Fu風にゴッホを語るとすれば、カメラで写した写真のどこにフォーカスが当たっているか認識する作業で、イミテーションを大量生産できるんじゃないかと思った。

写真を撮る本人にしてみれば、写したいものが生きているものである場合が多い。

背景のピントがぶれていると、興味の対象ではないことになる。

 

すでにそういうものは(アプリ)はあるのかもしれないが、個人的正直な感想なので…ゴメンね~。

 

ざっぱに見た感じでは、模写では、ほとんど「うねり」用いられていない。

死期が近づくにつれ、うねっているように見える。

が、彼の自画像にみる「生きている」は、対極にある、死を…(これ以上はもうちょい、年を重ねてからにする)。

 

人工知能と言わずとも、時代遅れのボク的に、法則もしくは定理が見えるかもしれないという期待。

すでにそういう類のものがあってもいい、過程なんだから。

嬉しくなんかない、この絵を観て、苦い気持ちになる。

同時に「出来ない」を知らない自分。

「やらない」くらいにカッコッもつけない。

 

次は、いつ思い出すだろうか。