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好きなこと、好きなもの、自分の言葉で〜MY worLd〜

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日本について、自分の国についてあなたはどう考えますか?
誇りを持てていますか?
国を愛する心を忘れていやしませんか?

さて、今回は「葛飾北斎」にまつわる本から着想を得て、記事を書いていきたいと思います。

「なぜ、いま北斎なのか?」という命題から始まるこの本には「ジャポニスム」をはじめとして昨今あふれる自国に対する危機を示唆してくれています。

海外で葛飾北斎が本格的に注目されるようになったのは日本より先だったそうです。今でこそほとんどの日本人は偉大な人物として認識していますが、始まりはそこからです。町の絵師として活躍していた北斎はいわゆる国の絵師ではありませんでした。それも一因でしょう。
西洋人の性とも言える蒐集のうちに見出されたのが葛飾北斎だったわけです。
そして、強調したいのは、その裏に日本に誇りを持つ人間たちの挑戦や努力があったということです。

現在生きる日本人達は少なからず日本という自分の国に誇りを持てていない人がいます。始まりは、遡れば明治維新、江戸時代と遡ることもできるでしょう。
もっと具体的に例示するなら、身近なところで言えばSNS。海外の景色に、振る舞いに、羨望とはまたちがった卑下すら感じる感想を述べる人を見かけます。それは政治の世界でもみられないこともないことは、現代に生きていれば得体の知らないものとして感じざるを得ないでしょう。
「隣の芝生は青い」という言葉があるように、人間である以上自分の置かれている状況以外に羨望を抱くのは仕方のないことだと思います。しかし、私は「羨ましい」と思うことと「自虐する」ことが同じになっているように感じるのです。

抽象的に言えば「個人主義」の世界的広がりが及ぼした日本の現状です。「個人」を「自律」と捉えるのならそれは全体の発展につながることでしょう。ただ、私はこの「個人主義」という言葉はまた違った方向につながっていると思うのです。
例えば「自己責任」という言葉の普及。「個人主義」を「自己責任」と捉えるのは他人を疎外化し、さらには他人と関わらずに生きていけないドウブツである人間はかえって自分自身を「疎外化」していきます。そのことは果たして「個人主義」の本懐なのでしょうか。歴史的に国家としての地位を確立してきた日本に合わせて考えれば、個人が個人として自律し、自律した人間同士が助け合う事によって、社会は発展。その啓蒙を受けた個人もまた自律し、その教えを昇華させていく。そして、また循環していく。これが西洋の考えに迎合しない、日本的「個人主義」だと私は考えるのです。
今の日本では「個人主義」という言葉が一人歩きし他人との希薄な関係を生み出しています。隣人の顔すらしらないなど。それは社会の発展に繋がらないと思うのです。
ここで、「日本人は本質的に他人と関わりたがらないではないか」という反論があるかもしれません。しかし、果たしてそれは本当に本質なのだろうか?以前は近隣との関係があったのではないだろうか?災害時に助け合う姿は世界随一ではないか?それを急に海外の風潮を持ち出して「日本人は他人と関わりたがらない」というのは矛盾ではないのだろうか。もちろん、村八分といったような悪しき風潮とも呼べるものを残した事実もありますが。

では、この矛盾はどこから生まれたのか。それは日本の実情に合わない、単なる個人が個人と関わらないということが、執拗な「個人主義」の風潮によって、一人歩きした結果だと私は思います。家庭においても職場に置いても、分業、適材適所というふうに発展してきた日本において、西洋の「個人主義」は個人の責任のみを追求し、「冷たい社会」を生み出していくのは当然のことです。個人のみが責任を負い、その責任を他人になすりつけているようでは新しい考え方も生まれません。それどころか、事業は萎縮していくばかりです。そうではなく、日本らしく個人が個人を慮り、支え合い、適材適所で活躍するというのが上手い「個人主義」の受け入れ方だと思うのです。「個人」ではなく「当事者」になるべきなのです。

「国際化」「グローバル化」についても同じことが言えます。西洋諸国のいう「国際化」と日本のいう「国際化」はどこが違うのでしょうか。歴史的にいえば、「帝国主義」の恐怖から生まれた「欧化主義」とも考えられるかもしれません。
世界的なブームといえる「国際化」というのは日本のように海外の考えを甘受し迎合することで「世界基準」に合わせるということではありません。
本来は「国際化」というのは「多様な視点」から物事を見て自国の文化と向かい合い、自国を昇華させていくことのはずです。
急速な西洋文化の流入。もちろん悪いことばかりではありません。しかし、ハロウィンで馬鹿騒ぎする若者の発生、外国人の日本での犯罪など、日常生活にまで侵食してきています。これは果たして良いことなのでしょうか。
日本人の文化を取り入れる柔軟性は、北斎の絵が最先端の技術を取り入れ、日本画というものを昇華させた点から見ても、世界から注目されているのは自明です。しかし、それに日本人自身が気づかずに水が流れていくように受け流しているのです。それはとても悲しいことだと思いませんか?
他国からの流入を受け、それに合わせていくことではなく、自国の文化を中心に時には海外にも発信していくことが日本らしい「国際化」だと思うのです。

と、「個人主義」と「国際化」を例にあげましたがこういったように脈々と日本という国は西洋の大きな影響を甘受し、それを盲信し先人たちの築いてきた道を、踏みはずそうとしています。

海外の景色や振る舞いに羨望を抱くことそのものが間違っているとは思いません。ただその後に続く言葉が、私は些細なことだとしても危機だと感じているのです。
「海外はすごいな、これだから日本は…」
こんな言葉を平気で使ってしまっている事に違和感を覚えて欲しいと思うのです。
確かに日本以外に素晴らしいものはたくさんあります。芸術、化学、スポーツ、それは間違いありません。しかし、そこで「これだから…」と卑下するのではなく「よし、日本も負けてられないな」と前に踏み出す反骨精神にして欲しいのです。そして、「でも、日本にはこんな素晴らしいものがあるんだ」と、現状でも日本には世界に誇るべき素晴らしいものが溢れているはずです。それこそ、日本らしく海外の鋭い視点を「見習い」自らが気づいていくべきなのです。

葛飾北斎をはじめとしてみられる「日本らしさ」や「ジャポニスム」、それが世界から再度注目されています。
それも、以前のように「未開の東洋の地」としてではなく「日本」という神々の降る多神教も厭わない美しい国としてです。

資本主義の行き詰まりは世界的課題です。民主主義ですら影を落とし始めています。一神教による世界の諍いもまた、大きな世界的課題です。世界の中心が西洋であることは現時点では理解せざるを得ないでしょう。そんな、西洋が世界的課題の解決策として「日本」に向き合おうとしています。
そんな時にその国に住まう人々が誇りもなく、愛してもおらず、知識もなく盲信的に西洋信仰をしていたら、その興味は急速に衰えていくことでしょう。
私たちは再度自分の国に向き合わなくてはなりません。海外が注目する「国」ではなく、誇れる「日本」というすぐそばにある不思議な国に。



みなさん。アイドルアニメってみますか?
みないんですか?
では、せめてこれだけはみてください!

「ゾンビランドサガ」

タイトルからしてやばい匂いがプンプンします。
ゾンビなランドのサガですよ?
ゾンビなランドの佐賀ですよ?

どうみたってアイドルアニメには思えませんよね(笑

しかーし!驚くことなかれとってもアイドルしたアイドルアニメなんです!!

物語はある少女の部屋から始まります。アイドルに憧れる少女、主人公の源さくらです。
意気揚々と新しい日に向け玄関を出て行くさくら。玄関をくぐると、新しい毎日が始まります!!

ドーーーーン!!!

(!?!?!?!?
え?車に轢かれた!?
もう一度言います。主人公が車にはねられます。)

宙を舞う少女。そのまま、少女は地面に投げ出され、息を引き取ります。

(な、なんじゃこりゃ!?)

と、まあこんな感じに物語は始まり?ます。

少女は目を覚まします。見慣れぬ薄暗い部屋。どこか怪しい雰囲気の漂う空間です。

ガシャン!!!

大きな物音とともに何かが現れます。化け物です。それに驚くさくらは近くの部屋に隠れます。しかし、そこにも複数の化け物が!!
近くにあった棒状のもので応戦し、その建物から脱出します。
さくらは走って逃げ警察官を見つけます。助けを求めると、警察官は血相を変えさくらに銃を向けます。驚く警察官にさらに驚くさくらはカーブミラーを見て絶句します。
自分も化け物になっていたのです。
それを見て警察官は発砲。さくらの胸を貫きさくらは倒れます。しかし、死にません。警察官がまた引き金を引こうとした瞬間助けが入ります。
そこでさくらの意識は途切れます。

再び目を覚ますと謎のサングラスをかけた男がいました。さらに、謎の男は意味のわからないことを言います。
「ゾンビィ1号として、佐賀を救うんだ」
こうして物語は進んでいきます。

これが1話の前半のあらすじです。
謎のサングラス男、巽幸太郎はさくらをはじめとして、選りすぐりの人材を集めアイドルユニットを結成し、佐賀を救うことを指令し、ゾンビである彼女たちにアイドル活動をさせます。
様々な時代に生まれた彼女たちがアイドル活動を通して、佐賀を、自らを救い絆を深めていく物語です。
これが、この物語なのです。

次に軽くキャラクター紹介をしたいと思います。
「巽幸太郎」。幸太郎は「宮野真守」さんが演じます。まもちゃんが演じます。謎のグラサン男ですが営業能力はピカイチ。目的は「佐賀を救うため」と語っていますが目的は不明瞭です。今後の展開も気になります。まもちゃんが演じているだけあって自由度半端ないです。一挙手一投足が面白いです。
 「源さくら」。1号。「本渡楓」さんが演じます。えーでちゃんは今まさに売れっ子ですね。さくらはとっても気遣いができて頑張り屋でとてもとてもいい子です。声も相まって元気をくれます。17歳で死んだので永遠の17歳です。唐津弁を操る方言女子です。口癖は「どやんすー」です。
 「二階堂サキ」。2号。伝説の特攻隊長。「田野アサミ」さんが演じます。元レディースの特攻隊長で根っからのヤンキー気質ですが、仲間思いで熱い魂を持ったリーダーです。口癖は「ぶっ殺すぞ」です。田野さんの声がとってもカッコよく歌でもそのイケボが響き渡ります。とってもいいキャラクターでトラブルメーカーです。永遠の18歳です。
 「水野愛」。3号。伝説の平成のアイドル。「種田梨沙」さんが演じます。種ちゃんの復帰後大当たりの役で推していきたいキャラクターです。2000年代のアイドル戦国時代に一斉を風靡した元アイドルで元アイドルなだけにポテンシャルが高くエースと言えるでしょう。プライドが高いため、最初はゾンビのアイドル活動に難色を示していましたが彼女もユニットの1人としてお互いを支え合う掛け替えのない存在になりました。永遠の16歳です。
 「紺野純子」。4号。伝説の昭和のアイドル。「河瀬茉希」さんが演じます。普段は弱々しい守りたくなるような声なのにもかかわらず、歌はかっこよく歌いこなしギャップ萌え必至です。1980年代のアイドルブームの火付け役でアイドルというものの神聖性が高かった時代のスーパーアイドル。愛と同じく元アイドルだけあって実力派でもう1人のエースと言えるでしょう。昭和生まれであるため、今の時流やアイドルのあり方を受け入れられず頭にキノコを生やすほど葛藤しますが、次第に自分のあり方を見つけていきます。永遠の19歳。
 「ゆうぎり」。5号。伝説の花魁。「衣川里佳」さんが演じます大人っぽい余裕の持ち主で喋り方も花魁口調です。色っぽい声で歌にも華を添えます。明治維新の裏に彼女ありといわれるらしいです。グループ内でも母的目線でマイペースながらも周りを見渡して温かく見守っています。一期で死因が謎のままの1人です。美しさと色っぽさはこのユニットで1番でしょう。必殺技はビンタ。永遠の19歳。
 「星川リリィ」。6号。伝説の天才子役。「田中美海」さんが演じます。天性のアイドル声優みにゃみが演じるということで、文句なしのアイドルキャラクターです。全チャンネルのゴールデンタイムの主演を務めるという快挙を成し遂げたリリィは天真爛漫さを垣間見せるも仲間を思いで、時々現実的な考え方を持っている子です。可愛らしさはユニット随一ですね。永遠の12歳。
 「山田たえ」。0号。伝説の山田たえ。あの「三石琴乃」さんが演じます。キャストが伝説です。どうやら1人だけ意識が戻っていないようで、何かしらをかじっています。純子やさくらをよく噛んでいます。喋りません。呻っています。よく見ると美人でスタイルもいいですが1番ゾンビらしいゾンビです。たえちゃんの成長は物語の後半を見ればわかりますが涙なしには語れません。永遠の29歳。

と、このように1人と一匹と7人のメインキャラクターでお話は進んでいきます。

作品について。
この作品は昨今溢れるアイドルアニメの一つですがやはり、他のアイドルアニメとは違い、ゾンビであることが特徴に挙げられます。
舞台は文字通り佐賀で、佐賀に行ってみたくなる地域おこし的にも意味のある作品です。
登場人物は様々な時代に生まれ、死に、蘇った事で様々な不都合に出会うことになります。
生前の時代との違い。生前の関係者との関係。死因にまつわるトラウマ。生前の回顧などあげれば様々。これらのような葛藤をそれぞれ抱えたまま活動して行く中で彼女たちは光を見つけていきます。そんな葛藤や不都合も本作の魅力の一つです。
最初は全員がアイドル活動に賛成だったわけでもなくなし崩し的にやることになっていきましたがさくらを中心として本気で活動している姿をみてやる気の波紋は広がっていきます。
徐々に絆も深まり、視聴者としてもどんどん目が離せなくなります。
個性的に過ぎるメンバーが集まったユニット「フランシュシュ」はそれぞれの個性を生かした楽曲もバラエティーに富んでいて音楽としても楽しめます。これも特筆すべき点でしょう。アイドルはかくあるべし。

まとめ。
様々な魅力が詰まった本作はキャストが出演するライブもハイクオリティで観ていて飽きないコンテンツです。
2期も決定し、まだまだ伸びて行くコンテンツです。今後の展開も気になりますね。
気になる方はみてみてはいかがですか?
以上です。



さて、今回は「結城友奈は勇者である 鷲尾須美の章」、「鷲尾須美は勇者である」について書いていきたいと思います。

 

では、あらすじから。

 

これは、3人の勇者の物語。

 

香川県大橋市にある小学校。神樹館。そこは、神樹信仰にも力を入れた由緒正しい学校である。

そこに通う勇者の御役目を与えられることになっている3人がいた。

 

物語は友奈達が讃州中学に入学する前の話!

 

 優等生である鷲尾須美はいつも通り挨拶をして教室に入る。すると、隣の席で寝息を立てる同級生がいた。乃木園子だ。

それを気にしつつも後にし、授業の始まる前のいわゆる朝の会を待つ。

教室に担任の先生の安芸先生が入ってくる。いよいよ始まる。

すると、先生より遅れて少女が入ってくる。三ノ輪銀だ。

そうして朝の会が始まる。日直の須美が号令をかけて1日が始まった。

 

この3人がこの物語の中心。つまり、勇者になる少女達。

 

 いつも通りの日常を過ごすと思いきや物語は大きく動く。樹海化である。友奈達の時とは違い樹海化警報はない。大橋の鈴が役目を知らせる。須美達にしてみれば、突然時間が止まったのである。

 このとき須美たちの日常は終わりを告げた。

事前に役目を知らされていた3人はいよいよ来たかと、意気込む。

友奈のときと同じく幻想的な樹海が広がる。

 そしてバーテックスから、神樹様、すなわち人類を守るため端末を携え祝詞を唱えて変身する。

 

友奈たちとは違い事前に役目について知らされていたため心構えの点でスムーズさが伺えます。

とはいえ、3人の信頼関係は非常に薄く連携がうまくいかない点も友奈たちとは違うといえますね。

 

 バーテックスを追い返すことに成功し、鎮花の儀が起きる。不器用ながら初戦を傷だらけになりながらも辛勝し、人間関係も変わっていく。

 

後日、教室に戻ってから銀が友人に囲まれているところを見ると人望の厚さが伺えますね。

 

 それから、小学生らしい日常を送りながらも、訓練や厳しい困難に立ち向かい友情を育む。

 そんな中、辛い出来事が起きる。

  三ノ輪銀が落命する。

 

堪え難い辛さ。見ていられませんでした。こんな事を言うと身も蓋もないですけれど、銀の落命には今後の物語を左右する重要な意味も込められていました。

 

 精神的支柱でもある銀を失った穴はとても大きい。しかし、それでもお役目は終わらない。

無慈悲なまでに当たり前のようにバーテックスは進行してくる。

 銀の葬儀の際、バーテックスが進行してきて樹海化が始まります。銀のたましいを受け継いだ須美と園子は奮闘する。

 さらに、銀の落命により勇者システムのアップデートが執り行われる旨が大赦の職員でもある安芸先生に伝えられる。「精霊」と「満開」の実装である。

 

そのときの戦い方はい痛々しくて見て入られませんでした。

 

 そして、ついに後に「大橋の戦い」と呼ばれる鷲尾須美の章では最後の戦いが訪れる。

結果は散々なものだった。

満開の影響で両脚の機能と記憶の一部を失う須美。

戦えなくなった須美の代わりに世界を救うために満開を繰り替えす園子。

被害は2人のみに留まらず現実世界にも影響が出て、死亡する人も出てしまった。

 それから、時は進み鷲尾須美は東郷美森になり、友奈と出会い、物語は一区切りする。

 

と、あらすじはこんな感じ。

思い返すだけで辛い気持ちになると言えます。

 

勇者システムについて。

この時代の勇者システムには精霊のバリアがついていません。そのため生傷が絶えないと言うのも友奈たちとの時代との大きな違いです。さらに、満開についても、恐らくこの時代にも構想段階では精霊と同様、存在していたはずですが銀の落命時には実装されておらず、銀の落命によって実装が実現したのです。つまり、銀の落命は友奈たちの時代の勇者をバーテックスの攻撃や天の神の呪いから守ったのです。

 

大赦について。

大赦の隠蔽体質は基本的には変わりません。須美たちにも、バーテックスが天の神の尖兵だとは知らされていないし、これだけの、須美たちという前例があったのにも関わらず友奈たちには知らされず、東郷の記憶の欠如についても利用したのです。再度、勇者として戦わせる事を想定して友奈の家の近くに引っ越しさせるなども含めて。

 

勇者の選ばれ方について。

友奈たちの時代との違いは家柄も重視されていると言う事です。友奈たちの時代は四国中から勇者適正値の高い少女が選ばれていましたが、東郷が鷲尾家の養子になっている事や、園子が乃木家という大赦の中でもトップの家出身である事、銀の三ノ輪家も乃木家ほどではないにしろ家柄としては大赦の中で高い位置にある事からもわかります。

そもそも神樹館小学校も神樹信仰に厚い学校でもあり、この点からみても、大赦は勇者というものについても神聖さを保とうとしていることが伺えます。

 

園子について。

園子はとても大赦の中で地位の高い乃木家の人間です。一見天然で抜けている子に見えますが、ある意味ではそれは間違っていないとも言えますが、色々な事に気づくのが早く、ひらめきや直感もするどいです。様々な才能も合わせ持っていて、突飛な発想は周囲の人間を度々驚かせます。小説の方で描写されていますが、両親からもその本質を認められているようです。

園子はそのキャラから友達が決して多くなく須美や銀との出会いも園子の人生の中では大きな出来事であったと思います。

 

須美について。

東郷家に生まれた須美は鷲尾家の養子ですが、鷲尾家の両親にも愛されていた描写があり、アニメでは勇者部のメンバーの中で養子とはいえ、唯一家族との関係がうかがえます。性格としては護国思想に燃えるお堅い性格で、銀や園子のことを最初は不真面目にも見える言動から厳しい目でみていました。園子と同じく、その性格から友人は少なく銀や園子との出会いは大きな出来事だったように思えます。

 

銀について。

銀は男女ともに人望は厚く友人も多く、「勇者は気合と根性」このセリフは須美と銀の心の支えになる「たましい」でした。いや、です。トラブル体質でトラブルに巻き込まれることも多々ありますが、決して人のせいにもせず、ほっとくこともできない姿はまさに勇者です。家族との関係もとても深く愛し愛されていたところが随所に伺えますね。

アニメでは4話である「たましい」で落命してしまうシーンはこの作品屈指の名シーンで、とってもとっても辛いシーンです。守るべきものが多すぎた銀が死んでしまう。字面だけでみても心が震えます。日常シーンから始まる4話は前半こそ幸せが見えますが、後半になり遠足の帰りに訪れるバーテックスは、3体も同時に現れるという絶望的状況。天の神という存在が憎くて憎くて仕方ないというのが正直な感想です。精霊バリアがあれば…。とかどうにかして生きている未来はなかったのかを想像せざるを得ません。

「またね」このセリフは何度聞いても行かないで欲しいと心の中で叫ばずには入られません。

葬式のシーンではこの世界の倫理観が伺えます。神樹信仰が行き届いているこの世界ではお役目により落命することは一種の名誉であるということがわかります。大人たちが「英霊になられた」という風に言います。しかし、銀の弟は悲痛な叫びを響かせます。その言葉こそが本来人間が感じるべき感情なのです。

いくら、形式上名誉なことであろうと、子どもたちが死ぬことに対して正当化してはならないのです。銀は自分の判断でみんなを救うため戦い、最後まで帰ることを決意したまま落命しました、それは間違ってはいません。しかし、本来責任を持つべき大人が、そうでなくても他の全ての人がそれを正当化してはならないのです。そんなことが許されてはならないのです。

バーテックスを追い返し、睨んだまま死んでいった銀の後ろ姿は一生忘れないでしょう。

 

安芸先生について。

本作で勇者以外で重要なキャラクターである安芸先生。勇者のお目付け役でありながら、巫女の力を持ったキャラクターです。先生として3人をみていた安芸先生は勇者というお役目に貼り付ける大赦の人間としての立場と生徒を愛する先生としての立場の両方に挟まれたキャラクターです。その葛藤は勇者たちたとはまた違ったやるせなさがあったでしょう。戦えず、力になれず、死なせたくなく、世界を滅ぼすわけにもいかない。本当のことを知っていても話せない。責められるべきことも大赦の人間として多いでしょうが、責めきれない存在と言えるのもまた、確かです。本来、大人の誰もが感じるべき葛藤を抱えていたことは疑う余地もないと思います。

 

鷲尾須美の章について。

最初バラバラだった3人が力を合わせて困難に立ち向かう。本作の世界観を理解する上でも重要な章であったと言える。銀という大きな犠牲が友奈たちの時代に影響を与えた。友奈たちの時代への橋渡しとしても重要な展開であった。このようにあげられる物語としての「勇者であるシリーズ」での重要さも計り知れないと言えるでしょう。

 

では次回。