鳥羽伏見の戦いは慶応四年(1868)一月三日、入京をめざす旧幕府軍の先鋒・見廻組と、それを阻止しようとする薩摩藩兵との間の「通せ」「通さぬ」の押し問答がきっかけとなって戦闘がはじまりました。
その最初の戦闘に関する文章の中でよく出てくるのが四ツ塚関門です。たとえば
『沢太郎左衛門手記』
慶応四戊辰年正月三日、東軍の使者大目付滝川播磨守、伏見鳥羽の関門を過ぎんと番兵に乞いしに(滝川播磨守の使者として四ツ塚関門に行きしは京都見廻組肝煎藤沼幸之丞、所谷健三郎両人なり)、京軍これを拒み、遂に戦争となり互いに死傷多く勝敗決せず。
『戊辰日記』(中根雪江)
未刻前四ツ塚に至るに、市橋下総守殿持ちの関門、菱垣結いまわし木戸を打ち、戎装、執銃の兵士これを守る。薩兵も将卒ともに多勢整屯す。
といった、当時の人々の手記。そしてそれらを元に書かれた現代の書籍にも、たとえば
『幕府歩兵隊 幕末を駆けぬけた兵士集団』(野口武彦)
旧幕側は「討薩の表」を持参した大目付滝川播磨守は見廻組四百人の護衛をつけて先頭に立ち、四ツ塚関門を通過しようと談判して拒まれた。相手はいつでも発砲できる用意があるのに、見廻組は小銃を持っていない。
『京都見廻組史録』(菊地明)
見廻組を先頭として鳥羽街道を京都に向けて進軍する。そして、下鳥羽から四ツ塚まで進んだところ、関門を守備する薩摩藩兵に進軍の停止を命じられた。
これらを読むと、四ツ塚関門は戦場となった鳥羽にあったかのように思われがちですが、実際は「京の七口」のひとつ東寺口にありました。つまり鳥羽街道の始点(終点)である九条通と千本通の交差点、おそらくは九条通の南側(現在の京都市南区四ツ塚町)であったと思われます。この四ツ塚関門を境にして千本通は鳥羽街道へと名を変えたのです。
※.四ツ塚関門跡(京都市南区四ツ塚町)付近。車が走っているのが九条通。
このあたりは当時の都人から「東寺の出はずれ」と呼ばれ、西国(大坂)へ行く用事でもないかぎり、めったに訪れない場所であったといいます。ちなみに実際の戦場となった鳥羽の小枝橋付近とは約3.5kmほど離れており、徒歩で約1時間かかるようです。
『京の七口:史跡探訪』(京都新聞社)
東寺四ツ塚町より南へ鳥羽村へ出、小枝橋から淀へかかり橋本を通り河州楠葉村へ出る。
※.明治二十五年仮製図を元に作成。この頃でも鳥羽街道の周辺は農地ばかりであったことがわかります。
そうなってくると、旧幕軍先鋒の見廻組は本当に四ツ塚関門まで進軍していたのかが疑問になってきます。沢太郎左衛門の手記などからみれば、四ツ塚関門まで行ったのはあくまで使者だった二人という風にも思えますが、『復古記』では「大勢早や上鳥羽の中ノ橋まで押し出したれば、椎原、山口等これを見て朝命を陳べ・・・」として、薩摩藩の椎原(小弥太)と山口(仲蔵)らが上鳥羽中ノ橋まで進出していた旧幕軍と交渉したとしています。上鳥羽村は上の地図で「鳥羽街道」の「羽」と「街」のあたりにある集落です。
また、困ったことに当の見廻組隊士古川甚之助も手記に「同日未の刻に至り鳥羽関門前に着す」とし、見廻組が「鳥羽関門」前まで到達していたとしています。これが四ツ塚関門のことでないとすれば小枝橋のあたりにもうひとつ関門があったことになりますが、わずか一里ほどの間に二つも関門を作るものかどうか。
さらに言えば、万が一見廻組が四ツ塚関門まで到達していたのだとすれば、なぜ一里近くも撤退したのでしょう。また敵を眼の前にして、そんなに引き下がれるものでしょうか。