京都見廻組 渡辺吉太郎(7)その最期 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

慶応三年(1868)十二月九日、王政復古の大号令が発せられると京都の幕府勢力は大坂への移動を余儀なくされるのですが、小御所会議における辞官納地(徳川家の所領のほとんどを献上せよとする命令)の決定に続いて、江戸の薩摩藩邸を拠点とする浪士たちの暴挙に憤慨した新徴組などによる薩摩藩邸焼き討ち事件が発生すると、大坂の幕臣たちの間にも再び京に上って薩摩藩を排除しようとする機運が高まりました。

 

 

こうして旧幕府軍は討薩表を掲げて京をめざし、入京を阻もうとする薩摩・長州・土佐など新政府軍との間に戦闘が発生しました。鳥羽伏見の戦いです。京都見廻組の渡辺吉太郎はこの鳥羽伏見の戦いで戦死しました。その死について『戊辰東軍戦死者霊名簿』(御香宮神社)に以下の記述があります。

 

正月三日より五日に至る鳥羽淀橋本等に於いて負傷戦死。遺骨は大坂小山橋寺町心眼寺に葬る。

 見廻組肝煎 渡辺吉三郎 二十六歳

 

 

つまり慶応四年(1869)一月三日から五日の間に、鳥羽から淀を経て橋本に至る戦闘の中で負傷して戦死したというわけですが、同様の記述は『渋沢栄一伝記資料』の「戊辰東軍戦死者追悼碑」の中にもあり、こちらには

 

正月三日より六日に至る鳥羽街道並びに淀、橋本等にて

 

同(京都見廻組)内藤七三郎附属 見廻組肝煎

渡辺吉三郎(二十六)

 (一作 吉太郎、吉次郎)

 

 

とあり、やはり日時、場所ともはっきりしていないことがわかります。ちなみに「内藤七三郎」とは与頭の内藤七太郎のことと思われます。内藤七太郎は元御小姓組で、京都文武場で文学教授を務めた人物です。つまり、少なくとも鳥羽伏見の戦いにおいて渡辺吉太郎(吉三郎)は佐々木只三郎の配下ではなかったということになります。また「一作」は「またの名を」の意味のようです。

 

 

一方で、見廻組の同志であった古川甚之助は、その手記「鳥羽伏見の敗戦と江戸回顧」の中で具体的な日時と場所を示しています。

 

正月四日 地名 鳥羽街道

 

戦死 渡辺吉三郎

同  桂早之助

同  高橋安次郎

手負 唐沢六郎

同  斎藤弥三郎

同  田中東四郎

同  加藤惣七郎

同  池ヶ谷三之助

 

 

つまり、渡辺吉太郎は桂早之助、高橋安次郎と共に一月四日に鳥羽街道で討ち死にしたというのです。この四日の戦況に関しても以下のように書き残しています。

 

同四日辰の刻より両軍激戦前日の如し。唐沢六郎散弾に当たり頭部に重傷を負う。その他数名の負傷者あり。戦い数十合にして鳥羽街道の民家より発火し、進退自由ならざるをもって強引に淀城下に退く。尋て伏見方も同地に引き揚げたり。これより諸隊合併一致し、再進行を議る。同夜深更に及び会津藩士六、七名敵中に至り哨兵数人を斬り、その首級を刎ねて帰る。

 

 

負傷者の唐沢六郎については言及しているのに戦死した三人について述べていないことに疑問を感じないと言えば嘘になります。ただ、唐沢六郎に関しては古川と同じ鉄砲隊に属し、本隊からはぐれた後に二人で大坂に向かっている仲ので、特別に記したと考えられます。一方で渡辺吉太郎ら三人の戦死に関しては直接見聞きしたわけではなかったのかも知れません。

 

 

ちなみに、たとえば佐々木只三郎に関しては「正月六日 地名 八幡・橋本」の欄に「手負」として記されています。そのことなどから推測すると、渡辺吉太郎は四日の戦いで即死したのかも知れません。桂早之助、高橋安次郎と共に遺体として大坂まで運ばれ、心眼寺に葬られたということになります。

 

 

その心眼寺に建てられた墓には正面に「渡邉吉三郎之墓」、そして向かって左の側面には「慶応四辰年正月三日 城州鳥羽戦死」とあり、古川の手記と異なり戦死したのは三日だとしています。また、右側面には「城南会員有志者建之」とありますが、この城南会というのは、おそらく京都城南会というかつて存在した京都在住の元幕臣の御子孫たちの会のことと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

写真ではわかりにくいかも知れませんが、実際に見た印象だと隣に立つ桂早之助の墓と比べて新しい印象を受けました。刻まれた文字が桂早之助の墓ほど摩耗していなかったのです。あるいは大正六年(1917)に発表された『桂早之助略伝』の中で渡辺吉太郎の戒名はあるが墓がないことが記されているため、在京の有志によって新たに建てられたのかも知れません。

 

 

その『桂早之助略伝』によれば、当時は残っていた心眼寺の過去帳に

 

信光院天誉忠吏義順居士

渡邉吉三郎

正月五日徳川旗本見廻組肝入戦死

 

と記されていたそうです。どういうわけか、こちらには五日に戦死したことになっています。『桂早之助略伝』の方が誤っているのか、もしくは墓を建てた時に間違って刻字してしまったのか、今となっては確かめようもありませんが、古川甚之助の手記と合わせて考えれば、四日に瀕死の重傷を負って五日に息を引き取ったと考えるのが合理的でしょうか。ちなみに、その心眼寺の過去帳は大阪大空襲の際に焼失してしまったといいます。

 

 

さて、推論を含めて7回にわたって書いてきた渡辺吉太郎ですが、近江屋事件の刺客として考えると、動かしがたい事実がひとつあることに気づきます。上記の諸史料を見ると、元々肝煎であった渡辺吉太郎は、戦死した鳥羽伏見の戦いにおいても肝煎のままだったことがわかるのです。

 

 

近江屋事件に関与したとされる見廻組隊士のうち、何人かは事件後に昇格していたことを示す史料や証言が残されているのに対して、渡辺は昇格しなかったことになり、少なくとも「龍馬を斬った男」候補としてはいささか分が悪いことは否めません。