京都見廻組 海野弦蔵(4) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の戦いが発生し旧徳川幕府軍は薩摩・長州を中心とした新政府軍に敗れ、京都見廻組も佐々木只三郎をはじめとする隊士たちが次々と斃れていきました。そんな中、海野弦蔵は生き抜き生まれ故郷である江戸に帰還します。

 

 

江戸に敗走して来た彼らに、もはや京都見廻組という名はふさわしくなく、見廻組は狙撃隊へと改称されることになります。その一方で新政府軍に対して徹底抗戦を主張する隊士たちの離脱が相次ぎ、二月の江戸帰還時には400人近くいた隊士は、四月には200人程度にまで減っていました。

 

 

海野弦蔵(維新後に顕忠を名乗る)もこの間に見廻組を離れたものとみられ、『駿遠へ移住した徳川家臣団 第四編』(前田匡一郎)によれば狙撃隊を離脱した海野は彰義隊に参加し九番隊に属したといいます。ただ、見廻組で海野と同じ肝煎だった大塚霍之丞(かくのじょう)が頭取並の最高幹部であったのに対し、海野は同書以外に特に名前が残る史料もなく、名もなき一般隊士の一人であったものと思われます。本来ならば幹部に遇されてもおかしくなかったはずですが、このあたりの事情は謎というしかありません。

 

 

そして海野は悲劇の上野戦争をも生き延び、徳川家達を頼って静岡に移住して明治二年(1869)に同藩の沼津勤番組所属となります。ちなみに沼津勤番組に海野と同じく元彰義隊で、輪王寺宮の上野脱出を警護し、その後各地に潜伏したのち静岡にやって来たという渡辺愛四郎なる人物がおり、あるいは海野も同様の経緯であったのかも知れません。

 

 

翌明治三年(1870)に牧之原の開墾に従事しますが、3年後の明治六年(1973)に静岡を去り東京に戻ります。そして小石川区小日向武島町(こひなたたけじまちょう。現・文京区水道二丁目)に家を借りた海野は、どういうわけか数学者・石坂清長の門を叩くのです。その経緯についてはまったくの謎ですが、4年後の明治十年(1877)に石坂が出版した『代数学例題 巻上』に校訂担当者の一人として名を連ねています。あるいは以前から数学の才能があったのでしょうか。また同書下巻は「海野幸彰」なる人物が校訂を担当しており、改名したのかも知れません。

 

 

ちなみに石坂清長は原要義塾をいう私塾の校長であり、同塾は当時の本郷区元町二丁目(現・文京区本郷二丁目)にありました。維新後に藤田五郎と名を改めて警察官となっていた元新選組・斎藤一の家があった旧・本郷区真砂町(現・文京区本郷二丁目)とは一区画隔てているだけ、せいぜい200mほどしか離れていないというごく近所であったようです。無論、現実的にみればただの偶然だったのでしょうが、いろいろと想像してみたくなる話ではあります。

 

 

海野弦蔵の生涯でたどれるのはここまでです。残念ながら数学の道、教育の道で大成することはなかったようですが、「海野幸彰」が弦蔵のことであったなら、同姓同名の人物がどうやら富岡製糸場の経営に関わっていたらしい、というのが彼の後半生をたどる数少ない糸口ということになりましょうか。

 

 

 

※.『代数学例題巻 上』(明治十一年)巻末。 校訂者の一人に海野顕忠(弦蔵)の名がある。