京都見廻組 高橋安次郎 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

近江屋事件の刺客の一人とされる京都見廻組の高橋安次郎もまた謎が多い人物です。

 

 

年齢に関しては『京都見廻役人名簿』に慶応三年(1867)に二十六歳、『戊辰東軍戦死者霊名簿』に慶応四年(1868)に二十七歳で戦死とあることから、逆算して天保十三年(1842)生まれということになります。

 

 

見廻組には元治元年(1864)六月二十三日付で見廻組御雇として登用されています。この御雇というのは家の当主ではない、いわゆる部屋住みの者が見廻組に加入した際に与えられる身分だったようですが、高橋安次郎はというと『京都御用留』に「林右衛門惣領」とあり、高橋林右衛門なる人物の「惣領」つまり嫡子であったことがわかります。つまり二十三歳でまだ家督を譲られていなかったことになりますが、その父親である林右衛門の明細短冊を国立公文書館から取り寄せてみたところ、「子歳七十」とあります。子年とは「甲子」つまり、まさに元治元年のことで、既に七十歳であったことがわかります。

 

 

にも関わらず、未だに家督を譲られていなかったわけですが、親子の年齢差が50近いことを考えれば実子ではなく養子である可能性もありそうです。また、そのことから類推すると、隊士として当初こそ御雇であったものの、すぐに家督を譲られて正規の見廻組に昇格した可能性も十分ありそうです。

 

 

また、林右衛門の『明細短冊』によると林右衛門自身も聟養子であったようで、文化十年(1813)に家督を譲られて以来、足掛け50年、御台所組や御膳所組といった江戸城の食事に関する役目を勤め続けた人だったようです。特に文久三年(1863)以降は和宮様天璋院様御膳所組の組頭を務めていました。薩摩藩出身の天璋院篤姫と直接コンタクトを取れた可能性があったわけで、陰謀論や黒幕説のネタとしては面白そうです。ちなみに同じ和宮様天璋院様御膳所組からは他に所谷健三郎(同組頭)、小林喜代蔵・籾山操造(同小人/台所人)らが見廻組に編入されています。これは同組が元治元年で廃止されたことに関連するものと思われます。

 

 

さて高橋林右衛門の『明細短冊』ですが、残念ながら林右衛門自身の経歴しか書かれておらず、一番知りたかった家族構成に関しては養父が甚兵衛といったこと以外、まったく書かれていません。安次郎との関係がまったく判明しなかったのは残念です。なぜ七十歳になってもなお安次郎に家督を譲らなかったのでしょう。

 

 

ちなみに、川田瑞穂の『桂早之助略伝』では高橋安次郎のことを桑名藩士としており、ひょっとしたら林右衛門に実子がなく、見廻組に入隊させるために桑名藩士だった安次郎を養子にしたという可能性も考えられそうです。今井信郎が渡辺吉太郎のことを桑名藩士だと思い込んでいたのは、あるいは高橋安次郎のことと思い違いをしていた・・・とか。

 

 

「思い違い」で思い出しましたが、佐々木只三郎らと共に清河八郎暗殺を実行した一人である高久安次郎を、高橋安次郎と同一人物ではないかとする説がありますが、高久安次郎は元治元年版『大武鑑』で御天守番衆二番組にその名が記されており、別人であることは明らかです。

 

 

その高橋安次郎は鳥羽伏見の戦いで戦死しました。慶応四年(1868)一月五日のことです。『戊辰東軍戦死者霊名簿』に「伏見鳥羽淀橋にて戦死す。墓地は大阪市心眼寺にあり」と記されています。五日の戦いといえば、橋本の戦いのことであり、同地の戦いでは佐々木只三郎が腕の立つ者を選抜し、自ら率いて河川敷の藪の中で伏兵となりましたが、進軍して来た薩摩藩兵に察知され、川岸の土手からつるべ撃ちに銃弾を浴びせかけられ、多くの隊士が倒されました。おそらく高橋安次郎もその中の一人だったと思われます。享年二十七歳。

 

 

『桂早之助略伝』にある如く、その墓は大阪の心眼寺に建てられましたが、現在は消息不明となっています。心眼寺は先の大戦の大阪大空襲でお寺の施設や保管していた文書類などがすべて焼失してしまったそうで、あるいは高橋安次郎の墓もその際に破壊されてしまったのでしょうか。存在していた頃、その墓の表面には「宝樹院恩誉巍山孝道居士」の戒名が、裏面には「慶応四戊辰正月五日」と戦死した日が刻まれていたそうです。

 

 

ちなみに戒名の中にある「巍山」を日本語に直すと「高山」になるみたいです。あるいは出自のヒントになるかも知れませんね。

 

 

※.高橋安次郎(左)と桂早之助の墓(画像はお借りしました)