近藤勇狙撃事件(2) | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

近藤勇狙撃事件を思い浮かべながら、墨染付近を歩いてみました。まずは藤森神社の前を通過します。西村兼文の『新選組始末記』では御陵衛士はこの藤森神社の北と南に二手に分かれて近藤勇一行を待ち伏せたとあります。ただ、この付近で襲撃したとすれば「墨染」とする新選組側の証言と若干食い違うのかも知れません。

 

 

 

 

藤森神社の前を通って南に少し行くと墨染に入ります。下の写真の交差点、信号の先の道がちょっとずれているのがわかると思いますが、実はこの交差点の先の道は明治以降に作られたもので、墨染以北の伏見街道と合わせて大和街道と呼ばれています。そして旧伏見街道はここを右に曲がります。阿部十郎の言う「街道の屈曲して曲がるところ」ですね。

 

 

 

そして西へと向くとすぐ目の前に京阪墨染駅があり、その先に琵琶湖疏水の用水路があります。

 

 

 

踏切を越えると、なだらかな下り坂になります。東の桃山丘陵から西の鴨川に向かって少しずつ土地が傾斜しているんですね。

 

 

 

更に西へ進みます。下の写真、ゆるやかな下りであることがよくわかると思います。写真ではわかりづらいですが、「山藤」の看板の先の横長の看板の場所が墨染寺です。そしてその先の横断歩道までが伏見街道で、街道はここで今度は左に曲がり南進することになります。また、横断歩道の先の道は明治中期ぐらいまでは農道でした。ちなみに「近藤勇遭難の地」の石碑は写真奥の道が右にカーブしているあたりの少し手前に立っています。阿部十郎はこの屈曲部まで駆けつけたとは言っているものの、実際の襲撃場所がここだったとまでは言明していません。が、先の見えない屈曲部は狙撃するには絶好の場所であったことは間違いないと思われます。

 

 

 

墨染寺(下写真)。墨染寺は貞観十六年(874)創建と伝わる古寺です。また、戦いの神である毘沙門天を祀っているお寺でもあります。さては近藤勇、毘沙門天に拝礼するのを忘れたか。

 

 

 

 

ここ(下写真)を左に曲がります。

 

 

 

下の写真は曲がった先で振り向き、北を向いて撮影します。交差点の右側(東)に墨染寺があり、左側(西)は農道だったわけですが、実際に歩いてみて、もし待ち伏せするならここら辺かなあ、と思いました。この当りの空き家に隠れて待ち伏せておいて、近藤の馬が曲がって目の前まで来たところで狙撃するつもりだったのが、焦った富山弥兵衛(阿部の証言による)が、曲がりっ鼻で思わず撃ってしまったのかな、と。それに斬り込みをかけたあと、西の農道の方に逃げればあとは伏見の薩摩藩邸に駆け込むなり、竹田街道を突っ走って京まで逃げるなり出来ます。

 

 

 

そして300m弱歩くと橦木町(しゅもくちょう)遊郭の門前にたどり着きます(下写真)。ちなみに元々橦木町というのは通称だったそうで、元の町名は恵美酒町といったそうです。何とも粋な名前じゃありませんか。なんでも京で一番小さな遊郭だったそうですが、「寄ってこかな~。どうしようかな~」と悩んでいる隙に撃たれた・・・・・・という説はまだ誰も唱えていません。

 

 

 

という冗談はさておき、阿部十郎は「本街道墨染より三四町手前」で襲撃したと言っているのですが、実はこの橦木町までの間に北から桝屋町・北鑓屋町・南鑓屋町と3つの町を数えるのがいかにも京都です。そして橦木町遊郭は当時の人々なら誰でも知っていた忠臣蔵ゆかりの地です。しかし事件関連のどの証言・史料にもその名は出てきません。そのことからも、事件はここよりも北の屈曲部のすぐ南で起こったんじゃないかと僕は思います。

 

 

無論、もっと南で起こった可能性も否定出来ませんが、そうなると襲われた側の新選組・島田魁の「墨染辺」という証言が記憶違いということになってしまいます。近藤勇が瀕死の重傷を負うという重大事件、島田にとっては護衛のリーダー格でありながら近藤に重傷を負わせ、なお且つ敵はみすみす逃がしてしまうという失態を犯したわけで、その場所を間違えるかというと、むしろ絶対忘れられない場所・地名だったんじゃないかと僕は思うのです。

 

 

ちなみに、丹波橋通は橦木町から約800m南になります。そのことからも、阿部の証言は「丹波橋通から伏見街道を北上し、街道の屈曲したところまで駆けつけた」というのが本来言いたかったことで、言葉足らずだったんじゃないかと思うのですが、どうでしょう。

 

 

※.墨染付近略図。『新彫伏見鑑』(安永九年)を元に作成。