元治元年(1864)四月二十六日のこと、備中浅尾藩主・蒔田相模守広孝(まいた さがみのかみ ひろたか)と旗本交代寄合席・松平因幡守康正(まつだいら いなばのかみ やすまさ)の二人が新たな任務に就くため江戸城に召し出されました。
京都見廻役
蒔田相模守
交代寄合
松平因幡守
右、芙蓉間替席において仰せ付けらる旨、老中列座、周防守これ申し渡す。
但し御留守中に付、御前へ召し出しこれ無し。
同日、周防守殿御渡す。
御目付へ
京都見廻役
席の儀は大御番頭次と心得らるべく候。
右の通り相達し候間、その意、得らるべく候事。
~『藤岡屋日記』
二人は、京都の警備体制を強化するために新たに創設される、京都見廻組のトップとなる見廻役への就任を命じられたのでした。京都見廻組は二人の見廻役の支配下にそれぞれ二百人ずつの隊士を置き、また見廻役の補佐的役目として与頭(くみがしら)を二名ずつ計四名、その与頭の下役として与頭勤方(くみがしらつとめかた)を与頭一人に二名ずつ(計八名)附属させ、その名のとおり市中見廻りなどの任務に当たる組織でした。
見廻役就任と同時に幕臣の中から見廻組への転任希望者を募りましたが、予想に反して人員はなかなか集まりませんでした。やむなく大名であった蒔田相模守が先に出立し、五月二十五日に京都に着任しています。当面の措置として蒔田相模守の家臣である浅尾藩士が見廻組の役目を代行する形になりました。
最高幹部である与頭には小林弥兵衛(開成所取締役)、間宮弥四郎(新御番組)、土屋助三郎(小普請組)、久保田金三郎(同)の四人が、同じく与頭勤方には、まず大沢源次郎(御天守番)、大野亀三郎(富士見御宝蔵番)、芳賀栄之助(同)の三人が五月十六日付で任じられましたが、蒔田相模守には同行出来ませんでした。
一方、江戸で幹部が選任された前日の十五日付で、将軍警護のため大坂に滞在していた高久半之助(御天守番。講武所剣術世話心得)と、佐々木と共に清河八郎暗殺に加わった速見又四郎(富士見御宝蔵番。講武所槍術世話心得)が与頭勤方に任じられ、早速京へ向かっています。
そうこうしているうちに、同年六月五日には史上名高い池田屋事件が勃発し、京都の警備体制に対する不安は一気に深刻化します。そんな中、六月十六日付で与頭勤方に任命されたのが、やはり大坂在勤中であった佐々木只三郎と坂本杢三郎(さかもと もくさぶろう)でした。長州勢が不穏な動きを見せるなか、二人は急ぎ上洛することになりました。
子六月十六日、大坂表にて仰せ付けらる。
(中略)
高五十俵
三人扶持
佐々木只三郎 寅三十四
下谷和泉橋通り山下寄り
(中略)
大坂御鉄炮方
高現米八十石
京住
坂本杢三郎 寅四十
~『京都見廻組役人名簿』
※.佐々木只三郎肖像画